今月の
「magazine litteraire」に
ジョージ・スタイナー(George Steiner)に関する記事が出ていたが、もう何歳になるのか、雑誌には1929年の生まれとあるから、75、6歳にはなるだろうか。正直もはやスタイナーにはあまり興味はないが、一時耽読したこともあるから大雑把にまとめる。
言ってしまえば
エドマンド・ウィルソン(→
注あ行)に続く、文人評論家ということになるだろうが、ウィルソンが自分の感覚でもって八艘跳びの著作活動を行ったのに対して、スタイナーの趣旨は一貫していて非常に解かりやすい。
この人、オーストリア系のユダヤ人で(ということからも解かるが)、アウシュビッツに送られる直前、両親がどういうわけかスタイナーをアメリカに送り出し、その後戦争が始まって、両親はおっ死に、自分だけが生き残った。こういう原点を持つ著者である。
氏の
「言語と沈黙」は
「われわれは『あとに』来た」という一文から始まる。
ややこしいことを抜きにして、要点だけかいつまんで言えば、
「よく人文科学(ある種の教養と置き換えてもいいだろう)には人間性を向上させる役割があると言われるが、われわれは夕べにゲーテを読み人間の奥深さに涙を流し、朝(あした)にはアウシュビッツで何万もの人間を処分できる人間がいることを知っている。そういう「あとに」きてしまった。ではその「あとに」人文科学は何ができるのか」
とてつもなく乱暴にまとめてしまえばそういうことで、「言語と沈黙」を読んだ当時は、かなり衝撃だった。こういうのを読むと
「本を読まないから人間性がどうの」「本を読んで豊かな人間性をうんぬん」といったものがおよそ空疎な響きしか持たなくなる。
こういった趣旨をひとまとめにした氏の講演録が
「青髭の城にて」で、これは講演録だけあって、解かりやすい。ぶっちゃけ、読むべき著作は「言語と沈黙」「青髭の城にて」の二冊に尽きる。
ジョージ・スタイナーを語る上で避けては通れないのが、翻訳者の
由良君美(シロクマ注1)氏で、この人がいたからこそスタイナーが身近な存在となりえたので、スタイナーと氏をめぐる関係は
「メタフィクションと脱構築」に詳しい。
それにしてもスタイナーが今でも闊達なのに、スタイナーの
「もう一つの声」である由良氏があまりにも早い死を迎えたのが無念でならない。
しかし連日のアニメ話の次がジョージ・スタイナーとは。
注:由良君美(ゆらきみよし)。哲学出身の英文学者でも、ただの英文学者ではなく、「超」英文学者であったので、それぞれの分野に引きこもる学問を「インターたこつぼ」と呼び、当然の如く大多数の(アホな)学者からは憎まれたが、「由良ゼミ」を主催し、高山宏などの脱領域的知性を育てるなど、教育者としても優秀、またビブリオフィル(愛書家)としても知られ、氏によると愛書家の度合いは三段階あって、犯罪すれすれの書痴、次が書狼、最後が書豚だそうで、そして氏は書狼だったそうな。ちなみに同じく書狼の篠田一士とは犬猿の中だったそう。氏の著作を読むとそれがよくわかる。