文化史的なテクストとして読み始めた
『ロビンソン・クルーソー』だけれども、読んでいると、どうにも気になる箇所がある。それが銃。
とにかくお話の流れが、
「銃ありき」なんだよね。奴隷の状態から脱出するにも銃を使い、島に流れついてからも、とかく銃を携行する。
そのための火薬と弾丸も、なぜか他の物資に比べて大量に見つかって、そうしたご都合主義も気になるんだけど、一番首を傾げざるを得ないのは、銃を使うことに一切のためらいがないこと。
食料調達のための狩猟――ともいえないんだな。面白半分に殺してるというか、それが
「面白半分」という意識すら微塵も感じられない。
宮崎駿氏の児童文学解説DVDでも、やはり同様の趣旨が述べられていた。いや、そりゃ気になりますよ。
そこでふっと思い出したのは、映画
『ラスト・サムライ』。その宣伝でトム・クルーズがあるアメリカのトーク番組に出たときのこと。
竹刀だったか木刀だったか忘れたけれども、一時期剣道をやっていた人間から見ても、トム・クルーズの構えが実にサマになっていた。
ビックリしたのはその次で、その番組の司会者は、もう構えるどころか、竹刀を
「持つ」ことすらできない。持ち方が分からないんだね。
剣道の経験はいざ知らず、日本人であれば、誰しも刀の構え方は見たことあるだろうし、持って構えることはできるだろう。できて当たり前と思ってたけど、そうじゃないんだと。
その反対に、自分が銃を持って構えろ――と言われても、たぶんできないだろう。そういう文化圏に属してないから。
そのことを、
『ロビンソン~』を読んでいて思い出した次第。銃が身近だということを、まったく意識していない世界というかね。
(今の英文学研究は、帝国主義と植民地政策が中心になっているらしいけど、さもありなんという感じだった)