さて話は
『薔薇の名前』。といっても原作の方でなく、映画版。あの中で特筆すべきは、写本のあり方だという。
本を鉄の枠で装丁し、さらにそれが鎖で柱につながれているという――
「本がそれだけしかないわけですよ」という状況。
本がない世界での本の読み方というのが、すなわち
「記憶」。数少ない本を全部記憶したうえで、トマス・アクィナスがこう言ったということを議論する。
それもただの議論でないから、
「ドーパミン出まくり、全身アドレナリン」状態。本がない状態だからこそ、そうした読み方になったそうな。
日本の大学でも
「記憶術(必修Ⅰ)」なんて科目があってもいいだろうに――というところから、18世紀半ばから、普通の知識人が読める、いわゆる
「本を読む」という行為が定着する。
記憶術をマスターしたイエズス会は一方で軍隊でもあるから、ペルーやメキシコを滅ぼしたのは、実は宣教師の集団だったということになる。
その宣教師が日本に来て、
「狙いは石見です」、つまり銀山に向かい、石見から九州へ向かったと。
ここから話は
「出雲阿国(いずものおくに)」になる。阿国は歌舞伎の創始者と言われていて、その世界はまさにスペクタクル。市川猿之助のスーパー歌舞伎。
現存している阿国の絵を見ると、みな金色のクロスを下げて、金色の刀をはいている。だからといってクリスチャンであったわけはなく、澁澤龍彦的な言い方をすれば
「神聖娼婦」だったそうな。
出雲のお巫女さんとして布教して歩くときに、北九州でイエズス会と接触した可能性は非常に高いという。
イエズス会はイエズス会で、その北九州で日本で最初の活版印刷をはじめたそう。当地の唱歌というのか、昔の歌は、とても日本語とは思えない歌詞になっているらしいけれども、それはイエズス会の賛美歌の名残だからという。
カソリックの中でこうした方法論をとったイエズス会、話はここから
『ハリー・ポッター』になるのけれども、それはまた次回。