ヘンな作家・ヘンな人にのめりこみ、当然そんなヘンな人間の翻訳が日本語で出るはずもなく、しょうがないなと勉強していたら、いつのまにやら英・仏・伊・ラテンと、今度はドイツ語までやるはめになったのは、これ、いかなる必然か。
そのドイツ語も、参考書を紐解くたび
「ドイツ語は難しいですが」と枕詞のようになっているが、正直それほど難しいとも思えない。前にも紹介したが
「ラテン語はロシア遠征の如く」であって、あの
脱落者が続出する冬のロシアを行軍する厳しさに比べれば、なーに大したことはありません。それに語学が難しいというのもヘンな話であり、いきなり難しいところを目指すから大変なので、ごく普通にNHKのラジオ語学講座のテキストを半年分集め、文法をざっと流して、簡単な原書(児童文学など)を探し、翻訳書片手に2000ページ読めば、どんな言葉でもとりあえず分かるようになるのが、人間の使っている
「言葉」というものの有難さで、その先の翻訳をしたり文章を練ったり文体がどうだということになると、それはまた別の話になる。あとはその本人にことばを学び続けるだけの
「具体的な目標」と
「必要性」があるかどうかではないだろうか。ひっくり返せば、その二つが伴わなければ、語学というものは
別に無理してやることはないとも言える。
無理してやることはなくても、楽しむこともできるのが言葉であり、その楽しみ方のひとつに
「語源(etymology)」がある。今も
『匙はウサギの耳なりき―ドイツ語源学への招待』という本を読んでいるが、
Geist(ガイスト)というのが幽霊であることを知って、なるほど
ポルターガイストのもとはこれだとか、
die Arbeitが日本語の
「アルバイト」だとか、つまらないようなことだが、知っていて気持ちの上で損はしない。またこのオランダ語(Dutch)とドイツ語(Deutsch)が同じ西ゲルマン語族だと分かり、今読んでいる
「富めるが故の惑い」の参考にもなってくれる。地名や人名の読み方とか(「フェルメール」の原綴りは「Vermeer」)。
ちなみに、オランダには
Scheveningenという地名があり、これ読み方は
「スケベニンゲン」。800ページもある原書を読んでいて、気づいたところがそこかい。