どうした縁で彼の人に、と落語に出てくる文句をもじって言うと、
どうしたエンデ(Ende)彼の人に、ドイツの作家
ミヒャエル・エンデ(Michael Ende)にどっぷりはまり込む仕儀となった。しかし、もともとドイツ語で読もうとしていたのは
エーリッヒ・ケストナー(Erich Kaestner)であったのが、原書がとりよせられぬということからしぶしぶミヒャエル・エンデにしたわけで、そのエンデにしたって、こっちがドイツ語の勉強を始めなければ生涯手に取らなかったかも知れず、まこと縁(えん/えにし)とは面白い。言ってしまえば、エンデの
「はてしない物語(Die undendliche Geschichite)」はそういう話であった。
映画
「ネバーエンディングストーリー」もファンタジー活劇の良い映画だったと記憶しているが(もう一度見る気がしない)、原作の「はてしない物語」は感動の質がまるで違って、
映画の「ナウシカ」と、
マンガの「ナウシカ」ぐらい違う、と誰かが言っていたが、いやまったくその通り。別にこの言葉を聞いたからでもないだろうが、
「はてしない物語」は読中、
宮崎駿氏のマンガのイメージがだぶってしょうがなかった(作品が説教じみているところも含めて)。博学多識のインテリでもある氏のことだから、知ってはいるのだろう。それとも疾駆する奔放なイマジネーションの持ち主はああいうところに行き着くのか。
英語では
「Ulysses」、フランス語では
「Petit Nicolas」に
「Les Miserables」(あとは巌窟王こと「モンテクリスト伯」)に出会って、引き込まれた結果、英語・フランス語は比較的自由に読めるようになったわけだが、今度のドイツ語ではエンデに出会ったおかげで、ドイツ語は必ずモノになる自信というより確信ができた。ひっくり返せば、その種の入り込み方をしないと語学はモノにならないとも言えて、その意味ではイタリア語は実に雑な勉強の仕方をしたというのもあるが、
モラヴィア(Moravia)にも
カルヴィーノ(Calvino)にもピンとこなかったことを考えると、イタリア語が不自由なのも頷ける話である。だからといって恩師が手を出している
ダンテ(Dante)の
「神曲(Divina Comedia)」は読む気があんまり起こらない、というより、日本語で一度読んだがピンとこなかった。ま、当分はエンデ三昧だけれど。