『斎藤緑雨全集』を借り出して読み始めたが、これがむちゃくちゃオモシロイ。
森鴎外・幸田露伴・斎藤緑雨の座談
『三人冗語』(と七人でやっている
『雲中語』)は、三人が「わる口」「小説通」「ひいき」などと名前を出さずにやっているので、発言の内容から、これは鴎外じゃないか、いやこれは緑雨だ、と推測するのが楽しい。
爆笑モノの発言も多くて、こんなのがある。
第十八回に睾丸といふこと五つあり、握られたる、ぶらぶらしたる、さまざまなり。世にも金玉の名文といふは蓋しこれより出でたるものか。
こんな馬鹿な小説を読むのは何の事は無い行き倒れのあとをつけてあるくやうなものだ。
こんなものをも評するに至っては、ごくとごくとを合はせて極々御苦労の事なり。
当意即妙などといふことは聞いたが、巧妙速妙とはスコ妙スコ変な造語だ。
また
『雲中語』では
天保老人(軽妙な語り口から恐らく
饗庭篁村:あえばこうそんと思われる)が、最近の小説は狂人ばかり出てくるがこんどは病人ばかり出てくる、そのほか、見るも聞くもいやなものばかりを小説の材料とするのはどうしたものか、などなど、ありゃ、これはまったく現代のことではないかと思えてくる。日本ブンガクがどれも湿っぽく貧乏臭いのは今に始まったことではないらしい。
それと度々座談者たちが口にするのが
「漢字(漢語)の誤用」。
「こぢ付漢語むちやくちや漢語」が多くて困る、と誰もが言っていて、ルビがおかしい、使わなくても良いような難語を持ち出す、翻訳書は簡単な語法すら誤訳している、などなど、これも全く現代のことではないかと思えてくる。この100年、人間大して変わってないなぁ。