なぜ推理小説のトリックをバラしてはいけないのか?
「当たり前じゃん!」と言うかもしれないが、
「なにやってもOK」なのが小説なのに、どういうのか推理小説にはルールが多い。その最たるものが「トリック(trick)をバラさない」だろう。
「何度観ても泣ける映画」「何度観ても笑える映画」というのは、人それぞれ必ずあって、むしろ
「泣きたいから観る映画」というのもあるはず(というか、ある)。ところがこういったことが推理小説ではおこりにくい。別に、どっちが良いとか悪いとかでなく、なぜそういう違いが出てくるのだろうか。
例えば、みんな知っていて、しかし読んでいる人は少ない
シェイクスピア(Shakespeare)『ヴェニスの商人』なんかはどうなる。
「肉一ポンドを切り取っても良いが、しかし血は一滴も流してはならない」という件(くだり)は読む前から分かっているが、読んでみるとこれが案外オモシロイ。もっと言えば、ハッピー・エンドになるのを分かっていて、思ったとおりのハッピー・エンドでも、これが結構楽しめたりする。
つーことは、話の筋(story)とトリック(trick)というのはまるで別、ということになる。よくよく考えたら、推理小説だけだろう、登場人物とストーリー紹介が表紙についてるのは。
トリック(trick)には
「知覚を欺く」という意味もあるが、欺かれるとどうなるか。まず、びっくりする。ところが、推理小説の
「『あっ』という驚き」と、
「なんだよもー、驚かすなよなー」というのは全然違う。びっくりにも二つ言い方があって前者は
「wonder」、後者は
「shock」である。
このあたり、まだ調べていないのでなんとも言えないが、
「wonder(驚異)」というのは繰り返せないのではないか。
「shock」の方は、何度やられても同じ驚き方ができる、というより、同じ驚き方しかできない。だからこそ
「ジョーズ」的な
「じゃんじゃんじゃんじゃんじゃーん」ときて
「パクパクッ」と喰われる手法は、なんぼでもできる。違うのは、後ろから来るのがサメかサメじゃないかだろう。
ところが
「wonder(驚異)」というのは繰り返せないから、驚かせるための
「トリック(trick)」はどんどん新しいものを考えていかなければならない。手品(マジック)でも、トリックだけ考える役割の人がいて、マジシャンはその人からトリックを買う、つまりトリックも
「消費」するものと言える。
19世紀というのは、
デパート(グラン・マガザン)という
「消費」そのものをテーマにした建物ができた時代でもあった。今や、商品には値札がついていて、その金額でものを買う、なんてのは当たり前すぎてなんとも思わないが、デパートができるまでそんなシステムはどこにもなかったわけで、当時としては画期的な
「消費」システムだった。トリックを
「消費」し続ける手品・推理小説が19世紀に有卦(うけ)にいったのも、偶然ではない、という話。
ここまで書いてきて、トリックをなぜバラしてはいけないか、ということの答えがまるで出ていないことに気付く。考えるだけ考えて、この程度の謎が解けないのでは、どうもこっちに名探偵の素養はなさそうである。