ジョン・エルスナー『蒐集』には考えさせられた。
コレクション、つまり
「自分の好きなもの」は
「他人の好きなもの」ではない、どころか
「他人からすれば何の価値もない」ということを、嫌ってほど教えてくれる。
蒐集家(コレクター)の集めるものを見たりすると、誰しも
「何でこんなもんを集めるんだろ」と思うが、形あるものを集めるか/集めないかの違いであって(形はなくても、それに関する
知識・記憶はコレクションしているはず)、
「自分の好きなもの」というのは、全てそういう運命にある。だからこそ、
「自分の好きなこと」=「他人の好きなこと」という条件下でないと、
「自分の好きなもの」というより
「自分『だけ』が好きなもの」に意味はないという、なんとも書いていて悲しくなる話である。
好奇心(curieux)というものまで持ち出すとややこしくなるので、まあそれは置いとくとしても。
ちょっと例示がずれてしまうかもしれないが、嗜好品を考えてみると分かりやすいかもしれない。
①タバコ
②酒
③甘いもの
この三つが嗜好品としては王道だけれども(茶・コーヒーは涙を飲んで削った)、例えばこの三つのうち、自分の嗜好と照らし合わせてみると
「これは別になくなってもかまわないな」というのがあるはず。三つとも愉しむとすれば、これは相当の
通人(connoiseur)であって、またそれがわざわざ通人と呼ばれていることから考えても、そういう人は滅多にいなかったりする。
つまりA氏にとって
「これはなくてもいい」ものが、B氏にとって
「なくてはならない」ものになり、その反対に―――と、こういうことが延々と続く。寂しい話だなぁ。
ところが、人(他人)が蒐集(コレクション)したものを、わざわざ見に行く場所というのがあって、それが
美術館/博物館(Museum)であり、
デパートである。アチラでは各種ミュージアムを
「蒐集」と関連付けて論じるものが色々ある。
コレクションを提示するにしても、
「他人の好きなもの」、言い換えるならば
「見に行くだけの価値のあるもの」に工夫しなければ人は来ない、ということか。また
「見に行く(go out to see)」とはよく言ったもので、見えないものをわざわざ見に行くバカはいない。いやだろうなぁ、集めた美術品の文書データしかない美術館とかって。デパートだって、あれ、品物が目に見えるからこそみんな行くわけだろう。いかに商品が充実していようと、内容で勝負していると言われようと、商品目録しかないデパートなんて誰も行かない。目に見える(visible)ようにすることが、コレクションを伝播させていく唯一つの道ではないだろうか。
また、世界ではじめて、ただ一人だけ完璧なコレクションを作った人がいて、その人以後、完璧なコレクションというのは一つもない。世界中の動物の番(つがい)を集めて
箱舟を作った、
ノアである(旧約聖書・創世記)。もっともこの人の場合、自分が好きだから集めたのでなくて、神様に言われたからだけど。