(文学史的に大事とは分かってるんだけど、いまだに身近に感じられないフロベール。だったら放っておけばいいんだけど、ちょいちょい色んなところで出くわした結果、気になって素通りできない、といった雰囲気。ボヴァリー夫人も、芳川泰久さんによる新訳でチャレンジすることにした)
日本だと二葉亭四迷がドーンと言文一致を打ち出して、どうも大変なことをやったらしいという知識はあるんだけど、やたら名前を聞く『浮雲』は手に取ったことないなぁ、という。
二葉亭さんに似たような立ち位置として、フランス文学のギュスターヴ・フロベールが思い浮かぶ。文学史的に大事なのはわかるけど、愛読というと違うしなぁ、と。
それが最近、ジョイスさんが一部を焼き捨ててしまったという『若き日の芸術家の肖像』の草稿を読んでたら(ややこしいな)、編者の紹介文中に「エンマ」という名前が出てくる。
おお、こりゃーフロベールさんの『ボヴァリー夫人』のことだろう!と。夫人はたしかエンマ・ボヴァリーと言うんじゃなかったか。
トロント大学のヒュー・ケナー先生もフロベールからジョイスの系譜を『ストイックなコメディアンたち』で追ってらしたけど、自分の場合はジョイスからフロベールに遡った形。
実際、若き日の〜は、フロベールの『感情教育』が元ネタらしく、後年、フロベールさんの原文に目を通したら、非常に似た雰囲気を感じる。競馬のシーンとか出てくるし。
それで愛読することになればいいんだけど、ジョイスさんほど軽快な感じがしないのがのめり込まない原因なのかなー。ジョイスさんはいつでもどこかしらコミカルな要素を感じるけど、フロベールさんにはそれを感じない。
だからこそジョイスさんはコミカルにやったのかわからないんだけど。近年、芳川泰久さんが新潮文庫から新訳を出していて、これはっ!と思うところがあったからチョコチョコ読み進めてる次第。
それはいいんだけど、むかーし持ってたボヴァリー夫人の原文で「そんなのあったっけ?」という出だしだったので面食らった。フランス語がわからないなりに、結婚式のご馳走がなんか美味しそうだな、というのは覚えてたんだけど。
変な話、先に日本語に目を通しておけば、なんだか遠い親戚のおじさんくらいの感覚しかないフロベールさんも多少は身近になるかな、という狙いもあったりする。
そういえば、フロベールさんの文章をすごい、これは革新的だ!と激賞してた人に、プルーストさんがいると、くだんの芳川さんの訳者あとがきに教えられる。
サント・ブーヴに反論する、とかいう一文は有名で、実際、サント・ブーヴさんが作家本人の生活や行状から作品の評価を引き出すのは宜しくないと、口調自体はやんわりなんだけど、コテンパンにしていたのがプルーストさん。
たしかにその通りだなぁ、またそうした生活や行状から評価されなかったボードレールさんは大変に不憫であるなぁとも思ったけど、フロベールの話なんてあったっけ?と。
だからなんというか、フロベールさんは要所要所に顔を出す要石みたいなもんか。20世紀の経済学を追っていくと、ここぞ!というところにケインズが出てくるみたいに。
ケインズさんもケインズさんで、やたら持って回った言い方ばかりするので、書き物の方を愛読する形にならないのは申し訳ない。
「この人がいないと歴史がうまくまとまらない!」みたいな重要人物がいるんだろうと思う。何にしてもピコピコ系の四角四面な世界にくたびれもしたので、フロベールさんの生真面目な文章にチャレンジしてみたいと思います( ´ ▽ ` )ノ