(フランスの描き手には「絵力」に脱帽させられるけど、このフランソワ・シュイテンさんの『闇の国々』には参った。かけた時間と労力もすごいのだけど、かといつて「時間と労力をかけたら出来る」ものではないと思う。ズッシリしたオブジェのような造本も素晴らしい。小学館集英社プロダクションから出てたけど、残念なことにいまは在庫切れみたい。)
これまで興味なかった建築について多方面から攻めているけど、ラスキン先生のお話を聞いていて、「この人、『自分の理想の建物』を描いたりしなかったのかな」というのが頭をよぎる。
というのもラスキンさん、ゴシック建築をベタ褒めしながら、ラスキンさんと同時代、つまり19世紀の建築の風潮をこれでもかとやっつけている。
実際、19世紀は哲学の方面でもニーチェさんがハードコアなアプローチしてるし、キルケゴールさんはホントの信仰心はそんなものじゃないとパンクロッカーばりの戦い方。
実際、19世紀ヴィクトリア朝時代のキーワードはRespectableだったらしい。尊敬されうる、みたいな意味かなと思ったら、これ、「体裁だけ取り繕う」とか「お体裁屋」みたいなニュアンスが多分にあるんだって。
ラスキン先生は信仰心に篤いひとだから、そういう風潮はイヤでイヤで仕方なかったろうナー。
ラスキン先生の話は禅問答みたいでアレアレ?と思うこともあるけど、要は「体裁ばかり取り繕ってどうする、美しいものを作ろうと取り組む『心意気』を大事にしろ」と言ってるのだろう。
ニーチェさんも過激かつ極端なこと言ってるけど、それでも現代までちゃんと読者がいるわけだから、ラスキン先生の怒り方も、おんなじように心に訴える部分がある。たしかに、「仕事」ってなんだろね、みたいな。
それはそれとして、ラスキン先生は「理想の建築」をスケッチしてないのかな。建築は誰でも携われるもんじゃないから、こんな好きだったら紙の上で理想をまとめても良さそう。
実際、ラスキン先生のスケッチの力はズバ抜けてるので、画力的には図面を引くのも、図面からスケッチ起こすくらいはわけないだろう。実物を見て図面に起こせる人なんだから。
「自分だったらこう作る」というのは、これだけの教養と画力と知識ある人なんだから、考えてもおかしくなさそう。自分だけの夢の建築、みたいな。
それでつい、『闇の国々』を思い出したんだよね。メディア芸術祭でもその正確無比な描線を見て、「ダメだこりゃ、この手の絵では一生かないっこない」という愕然とした気分に。
シュイテンさんがあれだけカッチリ描ける人だからこそ、ペータースさんと組んで荒唐無稽な絵面を作れるのだろうし、緻密に描けるからこそ大ボラが生きる、みたいな。
その点、ラスキンさんはどうされてたんだろう。実力的にそんな理想の建築を描くことはお手の物だったろうけど、潔癖な人みたいだから、そんな無益なことをして何になる、と言われても、ま、そうだなと。
その辺りが良い感じでフックになって、建築にも興味が出てきたのでありがたいです。「キョーミないことの方が、むしろ発見ある」というのは案外こういうことかな。