「見た目で人を判断するな!」という言葉があるが、
衣食住という生活の三本柱を考えた場合、
「衣」、つまりその人が着ている服しか判断基準はありえない。それを以下見ていくことにしよう。
食べ物に関しては人間の生存に関わる基本欲求でもあるし、これは規制できない。建築は、まずそれ自体にとてつもない財力を必要とするし、住んでいる環境もよほど親しくならない限り、または、どれだけ親しい間柄であっても住んでいるところなんか知らない―――ということだってあり得る。
(こんな建築は個人では不可能)
その点
「衣」は、まず身につけてない人はいないし、服を着ていなければその時点でポリス沙汰である。ともに食卓を囲まず、家に赴くことがなくても、
「服」だけは必ず目にすることができる―――だからこそこの部分が、対人関係において強力な判断基準となる。
もちろん、こういう判断というのは、
強固な身分制度社会においては成立しづらい、というより、それこそ十八世紀以前の社会にあっては、
服=その人の身分であったわけで、ファッションがどうの見た目がどうのなんてことはハナから考えなくてよかった。
そういう身分制を突き崩す原動力となったのが、
「上流嗜好」と
「舶来品信仰」。要するに
外国のものは何でもありがたくて、
みんながとにかく金持ちになりたいという、
大阪万博の頃の日本のような状況。それこそが下から上へとプッシュして身分制を崩しことになる。
(万博当時の雰囲気を知るにはこれしかない傑作)
外国のものをありがたがるのは
「文化後進国」ならではの現象で、彼我を比べることができるようになった―――つまり
世界経済へ従属的な立場で参加したことを意味するという。日本と同じくイギリスも島国であり、17世紀はオランダこそが世界の中心であったというのは、碩学
サイモン・シャーマ氏の
『富めるが故の惑い』に詳しい。それが十九世紀になると、日本・中国・インドというアジアの文物が珍重される、その下地と考えればよい。
海外文化の模倣というと、響きはあまり良くないが、文化後進国にあってはそれを国内で模倣し生産することによって自国の生産力が高まる―――つまりは職人が育つ、ということでもある。技術もないのに優れた商品を作ることはできないから、これで高い工業力、つまりは他国と競争しても負けない商品ができる。まさに日本!という感じだけれども、これはイギリスのことで、要するに時代や文化的状況が揃えば、どこでも起きる現象だということになる。
そう考えると
「流行ばかり追いかけやがって」というのも是認できなくなる。言い方は悪いが
「上流気取り(スノッブ)」の
大衆が大きな市場となるので、そうでなくては市場が活性化しない。イギリスでは何度か
「贅沢禁止令」というのが布告されたそうだが、こういう考え方が十八世紀にもなると
「個人のモラルとしては正しいが、国策としては正しくない」という風に転換する。
それまでは金貨・銀貨という貴重な鉱物こそが
「お金」だったわけで、当然、そんなものが沢山あるはずはないから、商品を他国から輸入していると、その貴重なお金がどんどん流出してしまう。だから贅沢な輸入品は買うのを止めましょうというのだが、それでは国内消費は縮小してしまう。そんな風に国が貧乏してにっちもさっちも行かなくなった状況で、詐欺師が登場し
「これからのお金は『約束事』だけでやっていきましょう」という風にして、
株式と紙幣が誕生する。これならいくら使ってもなくなる心配はない、というわけだ。
あとは貨幣経済が加速し、十九世紀になると、もはや衣服だけで身分は区別できなくなってしまう―――どころか、平民から伊達男が出てきて、それを上流が真似する始末。こうなっては身分もクソもない。こうなってしまえば、流行というものは廃れて(上流がないんだから追いかける意味がない)、伝統的(トラッド)な服装へと移行する。
こういう服装と経済の流れを教えてくれたのは、やはり
川北稔(かわきたみのる)氏の
『洒落者たちのイギリス史』であり、それに目をつけたこっちの勘は正しかったということになる。それにしても、こんなに簡単に分かることが、どうしていわゆるビジネス書では分からないのだろうか。こんなにオモシロイのに、みすみす読者を逃がすのでは、もったいない話である。