服はほんらい他人の視線のためにある。
(鷲田清一 『人はなぜ服を着るのか』 p143)
つまり、服に対する関心は
「他人」に対する関心の度合いである―――というわけだ。もちろんこれは衣服にとどまらず、
「化粧」(一般的なメイキャップという意味だけでなく、爪を切る・髪を切る・入浴するなどを含めた概念)に代表される
「衛生」とも結びつく。哲学や現代思想には縁遠いが、その中で
鷲田清一(わしだきよかず)という人は、相当信頼できる書き手のようだ。
(自分の着る)服に全く興味がない、というのは、他人に全く興味がないことであり、(自分の着る)服にしか関心がない、というのは、他人にしか興味がないということで、これはどちらも恐ろしく嫌味なものであるから外すにしても、ではこれからの
「お洒落」というのはどういう方向を目指すべきか―――というところで、鷲田氏が言うのは
「ホスピタリティ」。人を
「歓待」する精神、これだ。
話の成り行きとしては当然、
ファッション・デザインの方向に話が進んで、だから氏の著作には
コム・デ・ギャルソンや
イッセー・ミヤケ、
山本耀司が出てくる。こっちはこの方面に恐ろしく無知だから、このブランド名を聞いた事はあっても、それがどんなものなのか全く知らない。ただ、鷲田氏の著作に引用される言葉を見る限り、山本耀司という人は相当オモシロそうで、この人に密着した映画(『都市とモードのビデオノート』)もあるという(が、入手は相当困難らしい)。
(あろうことか、このボックスセットでしか見られないとのこと)
そういったファッション・ブランドの話を読むにつけ、段々と分かってくることがある。こういったファッション・ブランドのやっている試みはオモシロイと思うし、なるほどとも思うのだが、どうしても忌避感があってそれがなぜかというに、こっちにとって服(や建築)は常に
「生活」であって欲しい―――というところに落ち着く。今まで
「服」というのはどこか座りの悪い概念だったが、これでピシっと一本の線でつながる。なんでも調べてみるもんだなぁ。