(つづき)それが最近になって、記憶の中で再現するもののイメージを、3DCGのように動かすことができるようになった。
以前は、そんなことやろうとしてもできないし、いくら思い出してみても平面画だったのに、今は3Dでぐるぐる廻る。ものを
「立体」としてとらえるとは、なるほどこういうことか!
ここまできてやっと、絵に
「質量感」が出はじめる。
いや、ヘタなんだけど、ヘタなりに、
「なんでホッペタのここに線がなければいけないか」というのが、
「描いてあるからなんとなく」じゃなくて、
「立体を構成するために必要なんだ」という理解に進む。
(ケンドー・コバヤシではありません。念のため)
おじさんの方が描きやすいというのは、嗜好の問題もあるだろうけど、立体として考えやすいからだと思う。顔にガシンガシン線の入ったヒロインなんていないものな。
おそらく、絵描きの人が言う
「マッス(Masse)」とは、そのことを指すんだろう。だから最近、色々とマンガを読んでも、その
「ある/なし」がすごく気になるようになってしまった。
どうやら、マンガとしての絵の完成度とは別に、その質量感のあるなしは判別できるらしい。だからこそひと目見ただけで、
「この人ウマイ!」というのが頭で考えなくても判断できる。
というより、絵のうまさは、頭(言葉)で考えるものじゃないんだ――というのが、最近の認識。絵のうまいヘタを言葉で言いあらわそうとしてもうまくできないのは当然で、それはそもそも言葉の領域じゃない、身体の領域なんだ――と。
自転車の乗り方みたいなもので、一度おぼえてしまえば忘れない――身体の記憶というのだろうか。ひとりの人間の身体の中で完結するものだから、人に伝えにくい。
以前は絵の話を聴いても、どこか
「もどかしい」ところがあったのは、そのせいなんだと思う。
まるっきり描けないところから出発して、四角形を描くのに四苦八苦しているところから、多少は右左がつくようになったので、それこそその
「身体の記憶」を、チャートしてみました。
こういうのって、ある程度段階が進んじゃうと忘れちゃうからね。あと一年もしたら、まるっきり違うこと言い出すかもしれないし。