人がいないな――というのが、作品の評価とは別のところで、
『Genius Party』にまず抱いた印象。
こういうオムニバス作品になると、そのことを強く感じる。やっぱり、人間がどれだけくだらない存在でも、人がいない空間をずっと見ていくのはツライなー。
モブシーンは描くのが大変だといっても、そこは描かなくちゃいけないんだと。そのことは痛切に感じる、というか、感じるように
「なった」と言うべきなのか。
あとは逆転の発想で、自分と自分にとって大事な人間がひとりふたりしかいなければ、結果誰もいない空間になってしまうけど、そういう存在が数百人単位でいればいいんじゃないかって。
数百人は難しくても、100人だったらいけるんじゃないか、その半分の50人だったらいけるんじゃないか――そういう風にすれば、人はいた上で、寂しくない画面作りができるんじゃないだろうか。
楽観っていえば楽観なんだけどね。いやだって、どっちが見たいかって言ったら、明らかに人のいる風景だもん。
『電脳コイル』にハマったのも、多分同じような理由なんだろうね。スタイリッシュというのか、そういう作品づくりが主流のところに、
「ヘンな人がヘンな顔するとおかしい」っていう世界がドーンと。
第一話でデンスケのこの顔で笑っちゃって、
「やられた!」と思ったから。こういう方法論は、まだ可能だったのかって。
あとは描いてるうちに
「案外いいもんなんじゃないか」という発見もあるから不思議。
近藤勝也氏に代表される、愛情を持って描いた絵柄を模写すると、
「ああ、この人はこういう部分を大事に思ってるんだー、なるほどなー、自分もそういう風に見らんないかなー」なんて。
「こんなものはなんだ!」というものついては、そもそも模写する気も起こらないし、模写したいぐらい心ひかれるのは、なぜなんだろう――と。
そうすると自然、注意して見るようになるから、なんとなくその対象に対して
「そう悪いもんじゃないかもな」という感覚が湧いたりする。
もっと上手くなれば、また違う風に
「見えて」もくるんだろうね。
「イヤだなぁ」って思いながら見てるよりは、結果、良かったんじゃないかなー。
(あとはもっと根源的なところで、イメージ[図像]を見るほうが楽しいという。これはずっと不思議なんだけどね。言葉でギチギチなものより、なんで絵のある方に関心が向くんだろう)