マンガとアニメーションと人文を、脱線(Digression)でつなぐブログ。
by ulyssesjoycean
カテゴリ
全体
駄文
高山宏講演『脳にいい人文学』
佐々木果、「コマ」を語る
グルンステン×高山宏
物語の中の動物
ヴィジュアリゼイション
詐欺の文化史
探偵する小説
美しい洋書たち
翻訳小説『サンタール』
翻訳小説『七人の男(抄)』
翻訳小説『不安な墓場』
シロクマの文学雑学コレクション
ネコログ
今日のなぐり書き
語学参考書
未分類
以前の記事
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
2005年 10月
2005年 09月
2005年 08月
2005年 07月
2005年 06月
2005年 05月
2005年 04月
ライフログ
フォロー中のブログ
幻戯書房NEWS
前田真宏のINUBOE
最新のコメント
>右往左往さん コメン..
by ulyssesjoycean at 12:21
度々すいません・・訂正で..
by 右往左往 at 11:17
早速お答えいただいて有難..
by 右往左往 at 11:13
>右往左往さん コメン..
by ulyssesjoycean at 12:53
どうも度々お邪魔してすみ..
by 右往左往 at 12:03
>右往左往さん コ..
by ulyssesjoycean at 16:55
どうもお久しぶりですお邪..
by 右往左往 at 00:03
>mimizoさん ..
by ulyssesjoycean at 23:41
こりはまんぞくさんではな..
by mimizo0603 at 16:33
>右往左往さん コメン..
by ulyssesjoycean at 10:46
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


カテゴリ:翻訳小説『サンタール』( 9 )

『サンタール』 訳者あとがき

訳者あとがき

 Ronald Firbank. “Santal” (Sun and Moon Classics.)の全訳相成ってまこと欣快にたえない。「超」英文学者の由良君美(ゆらきみよし)氏によるイギリス幻想小説のアンソロジーの一篇として訳出されたことはあったが、この選集も絶版になって久しく、図書館から取り寄せるのも一苦労なほどの希書となっている現在、愛読する書物なだけに、やはり「自分の手で日本語に」という想いがあったのは事実。それがこうして形になるのはやはり嬉しいものである。

 当然その次には「ファーバンクって誰?」ということになるが、英文学者でもないこちらがこの夭折した作家について知っていることは少ない。何しろ、この日本でファーバンクについて言及したのは、前述の由良君美、西脇順三郎、篠田一士(しのだはじめ)、柳瀬尚紀―――この四人しかいない。アチラだってそう状況は変わっていない。底本としたサン・アンド・ムーン・クラシックスにしてからが絶版となって久しく、ニュー・ダイレクションズ社から”Five Novels”、”3 More Novels”といった選集が出ているが、これも入手し難い状況で、いわゆる「幻の作家」という体裁になっている。

 言ってみれば西欧の中島敦ということになるだろう。夭折の短編作家、その伝奇的な内容から中島敦に例えるのが通例になっていて―――ということは残念ながら全くないが、ファーバンクの原文から伝わってくる印象はまさに中島敦で、そのことは文章についても言える。

 中島敦は漢文の豊かな素養を生かした雅文をものして、ファーバンクに漢文の素養があったかどうかは寡聞にして知らないが、日本人がもはや漢文を読めないのと同じく、ファーバンクの英文をすらすらと読めるものがいるかどうか、相当な英語力の人でも「これが英語か」と呻くほどの英文で―――マックス・ビアボーム(Max Beerbohm)と並び、「読めない作家」であるのは間違いない。そういえばこのビアボームも同時期に活躍した短編作家だった。

 同時期といったのはつまり、二十世紀初頭からの三十年ほど―――ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』とT.S.エリオット『荒地』の年―――一九二二年前後を「モダニズム」というが、まさにモダニズムのコスモポリタン的視点を備えた作家の一人、などといっても仕方がないから簡単に言うと、ひたすら旅行ばっかし。ファーバンクは英国の大学を中退して以降、アジア~アフリカを旅行して、各地のホテルでポストカードの裏に小説を綴り、それを英国の友人に宛てて送る―――これがこの作家の執筆風景だったようである。

 この『サンタール』もまさにその一つであって、舞台はアルジェリアのチュニス、イスラーム世界をオリエンタリズム(サイード)とは違った形で書く、西欧圏では初めての試みではないだろうか。

 現在イスラームへの理解が広まり(同様に無知も広がっているが)、モハメットはムハンマド、コーランはクルアーン、メッカはマッカと呼称するようになって久しく、各種関連文献も充実し、井筒俊彦氏の『コーラン』(岩波文庫)三巻本の圧倒的「読めなさ」が、中公クラシックスに『コーランⅠ・Ⅱ』として新訳され、これがびっくりするほどリーダブル。訳文もこなれていて(クルアーンはアラビア語でしかありえないので、正確には解説と言い換えるべきだが)、宗教の啓典を読んでいるとは思えないほど読みやすい。つまり、それだけ時代が変わったということなのだろう。その変化に従って、今回の翻訳も現在通用している表記・呼称を使用し、作中で引用されている『コーラン』も中公クラシックス版に依拠した。

 訳文については全精力を傾けた。無論、不明な点や不満がないわけではない。だからといって「原文の趣が出せたかどうかはなはだ不安で」とか、「原文の趣はもっと素晴らしくて」などと言い訳がましいことを言って責任転嫁をするつもりは毛頭ない。誤訳・無知その全て含めて、これが現在こちらの力量であり限界である。こういった翻訳の心構えについては大先達・柳瀬尚紀氏に多くを負い、氏の言う「彼・彼女」といった「代名詞の駆逐」も同時に実行させてもらった。別にこんな肩肘張ったことを言わなくても、「彼・彼女」を一度も使わない―――こういう縛りをかけた方が、かえって訳しやすくなるというのは発見であったし、そのことについて、多大な学恩を授けてくれた柳瀬氏に深く感謝したい。
 最後に参考文献をひとつ。あまりゴタゴタと紹介するのは好まないので、

『イスラーム世界事典』(明石書店)
『コーランⅠ・Ⅱ 中公クラシックス』(中央公論社)


 の二点だけを推しておく。どちらもまず「読み物」として優れた書物であるから、気楽な気持ちで手にとってもらえればよい(値段についても)。しかし、こういうのは知れば知っただけのことで、知らなければ知らないでも全く問題はない。やはり訳者としては「楽しんで」いただきたい。それが全てである。

d0026378_2103639.jpg

d0026378_20573783.jpg

[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-04-11 20:57 | 翻訳小説『サンタール』 | Comments(0)

『サンタール』 翻訳連載 最終回 第五章

第五章

 幾日も幾日も乗り行く後(鞍上(あんじょう)での無聊(ぶりょう)をなぐさめようと、脇道に逸れたことも、ほんの少しではあったにせよ、ないではなかったが)、望んでいた丘陵へと至った。まず気づいたのは、その斜面に生い茂るアロエと砂塵にまみれた潅木(かんぼく)が陽光を射返す姿であり、忽焉(こつえん)、肥沃にして見知った花々―――イトシャジンに紫のパンジー、溶けそうなほどに淡い色をしたランの数々があらわれた。ナツメヤシが峻厳(しゅんげん)な雰囲気をたたえた大木にその枝を絡ませていたが、その名前までは知らなかった。
 その後も乗り行き続けて、その場を後にし、快適などとはおよそ言えぬ地域に辿り着いた。見渡す限り石ばかりの、突兀峨峨(とつこつがが)たる風景、その切り立った崖の上空には鳥の群れが休みなく弧を描き続けている。顔を上げてタカが舞い上がるその姿を目で追い、ヴァイオレットのハゲタカが翺翔(こうしょう)し、中空に漂うのを見つめる。折々、向こう見ずなトキが眼前に舞い降り、咫尺(しせき)に至ったかと思うとたちまちにして飛び去った。荒涼としていくばかりであったが、鳥の群れをも後にして進んだ。憐憫(れんびん)の情無き太陽の下では生命の痕跡は全て消え失せ、日が中天に差し掛かると、その丘陵地帯にさす光芒(こうぼう)も刺すような痛みとなる。腰に下げた皮製の水筒は空になっており、時が経(た)つにつれて渇きは峻烈(しゅんれつ)なものとなった。「アッラーよ、汝の子シェリフに神のお慈悲を」と哀願した。そしてついに希望も消え去る時がきてしまった。それでもなお、勇気を振り絞り、歌おうとしたのである。歌ったのはアンタールの曲であり、その昔エジプトの女王へ捧げたものだという。その名をトゥルキアといい、ナイルの汀(みぎわ)、テーベに居を構えていたという。巡礼者がマッカへの道すがら歌う歌を口ずさみ―――この一日、碧空の下炎暑の中を躓きながら進んだ。この日は思い返すどの日よりも暑く、何時間もの間全く水無しでいた。夕刻が近づいてくる頃には、渓谷に至ったようであり、受け付けないというのではなかったにしても、一面岩ばかり。探せども探せども水はおろか、足跡も何も、捜し求める人物はどこにも見当たらなかった。栄光に満ちた月が照らす白い丘陵は終わり無きがごとく過ぎ去ってゆく。その丘で夢心地に誘われ、あの夢を思い出した。哀れや、この世は全て幻に過ぎないのか。時浅く差し込んでくる光の中で、もう一度、クルアーンを繙(ひもと)く。

 慈悲ぶかく慈愛あつき神の御名(みな)において、
 朝にかけて
 静まりゆく夜にかけて
 汝の主は、汝を見捨てたもうたわけではない。憎まれたのでもない。
 汝にとって、来世は現世よりもはるかによいものだ。
 主は、きっと汝の喜ぶものをお授けになる。


 悟りきった諦念が心を満たした。腰を下ろさず、その顔を燃えさかる東方に向けて、祈りを捧げた。「アッラーよ! 汝の子シェリフに神の御慈悲を」

[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-04-09 10:05 | 翻訳小説『サンタール』 | Comments(0)

『サンタール』 翻訳連載 第八回 第四章

第四章

 かくも美しい日の出は出立の朝以来はじめて目にするものであった。小さいながらもなかなかの駿馬(しゅんめ)にまたがり、すべてをご存知の方もこの馬を連れてきたことについてはお許し下さるはずと、碧空(へきくう)の下、生国(しょうごく)を後にして駆け去った。
 感情が波立ち、隠者(マラブー)がそのはじめである―――あの方は正しく教えてくれただろうか。歌いながら乗り行く。捜し求める聖賢がマトマータ山を越えたところにある丘陵に住んでいるという、はるか遠く東方にその容貌(かんばせ)を定めた。射返してくる硬い砂上すれすれに飛ぶツバメを追うのはえもいわれぬものであった。昼までにはエル・ウエドのオアシスに着くよう算段し、そこで光芒を避け馬とともに休もうということである。安寧な小川が流れる汀(みぎわ)の村まではまだまだであった。
 傾いたヤシの木が緑青の流れにかかり、そのたもとでウールを洗う女性(にょしょう)。その村を前にして向き直り、生まれ育った街に最後の別れを告げる。古びた壁面が、白の女王よろしく取り囲み―――シディ・ヨセフとヴェスール・ヴィアラールのモスクが、紫煙の中に剽悍(ひょうかん)な姿を見せる。アムーチャ叔母があの壁に囲繞(いじょう)されて「クスクスの準備かな、それとも鶏を絞めてるのかな」と思い返し、旅に立ち戻った。エル・ウエドのオアシスは予期していたより遥か遠くにあって、視界に入るまでが恐ろしく長いように感ぜられた。日が満ちて太陽がその厳しさを増し、その峻烈(しゅんれつ)な炎の下、砂が灼熱するその姿は一面に広がるケシの花を思わせた。オアシスに着く頃には昼を大分過ぎて、悦び勇んで飛び降りると、無事息災にここまで導いてくれた天に感謝を述べ、かくも悦ばしき地に至った。この炎暑の道行(みちゆき)の後でヤシの葉がそよめくたもとで小休止を取るなどというのはこたえられたものではない。そこここが水路(セグイア)によって区切られた様は今まで目にしたことのない美しさだった。安寧な気持ちで地に横臥(おうが)し、手巾(カーチフ)の索端(さくたん)をほどき、荷駄(にだ)にしていた中身がどうにもなっていないか点検する。クルアーンに、鉛のお守り、アンタールの歌曲集、石榴(ざくろ)が六つ、白檀(びゃくだん)がバラで数本、通ってきた寺院にあったのである。石榴(ざくろ)が割れて書物が汚れたりしたらと半ば不安ではあったが、これぞ慈愛あつきお方の賜物(たまもの)、そういうこともなかった。迂闊ではあったのだが、水があり野生のイチヂクが豊かに実っている、その近く、その後ありがたいことになるのであるが、井戸が粗朶(そだ)の咫尺(しせき)にあり、立ち上がってそこへ行った。ラヴェンダーやパンジーを思わせる青さであり、愛らしい鳥の囀りを思わせる調べをたてている。喉の渇きを存分に癒すともう一度地に横臥(おうが)して、即座に忘我の境地へと惑溺(わくでき)した。日暮れの時であり祈りの時でもあるマグリブが近づき、目を覚ますと、草を食む馬をおさえ、すぐさま鞍上(あんじょう)にのぼった。このオアシスからそう遠くないところにイン・サラーの街があり(イスラーム世界ではそのバラが美しいことを知らぬものはいない)、その外壁のそばで一夜を明かそうと考えたのである。そうしようとどうにか自分を納得させたにしても、ジャッカルが獲物を求めてオアシスまでやってくるのではないかと思うといてもたってもいられず、日没ともなればなおさらである。エンバルカの亭主が憫然(びんぜん)たる最後を迎えたときのことを思い起こし、その死因というのが飢(かつ)えた牝ライオンに襲われたというのだが、どうしてもこの考えが頭を離れない、どうしてあの黒人女性が野生動物の性別まで知りえたのか、それがもとで家族を失ったというのに。ライオンだったかどうかも怪しくて、なぜといって目撃者がいない。
 とにかく、人間よほど恐ろしくなると、十中八九の割合で、そんな細々とした部分には着目できなくなるのだろうと理窟をつけて、進んでいった。いや確かに、太陽が沈んでしまうと、最初の一夜を街の外壁で過ごすというのは少なくとも、うまい考えに思えた。
 イン・サラーの街に近づいてくると、その無扉門が暗くいかにも悄然(しょうぜん)とした姿で闇夜に大口を開いている。接近すると野犬が天井にそって駆けながら、間断なく吠え立てる、その咆哮が徹宵(てっしょう)する様を見て、イン・サラーの街であってもバラより犬の方が多いに違いないと思うようになった。寒気を感じるほどの日昇に驚嘆して目を覚まし、ただちに出立、碧空(へきくう)の下、東の穹天(きゅうてん)目指して駆け行く。
 昼となって立ち止まり、波立つ砂丘に生える森閑(しんかん)としたヤシの木のたもと、必死の思いで章(スーラ)を閲(けみ)すると、果たしてマグリブの時間となり、その顔を幾度となく跪拝(きはい)し地面に打ち付けると、その額に一日(いちじつ)の灼熱の名残が感じられた。その後しばらく乗り行くと、遥か彼方に丈の低い壁面と金で先端を覆った堂宇(ドーム)が見え、それがタデッカだった。
 ここに至っては街を形づくる壁もなく、今晩はここだと定めた。アッラーの光芒にて目を覚ますと、この街の中心たるモスク、アモール・アリを訪れることに決め、日の出から程なくして、碧空(へきくう)の下ララー・レハーナーの大門をくぐった。
 まだ早い時間ではあったが、既に乞丐(こつがい)が陣取っており(しかも一日中いる)、シェリフはモスクの入り口を見回して、馬を預けるに丁度いい人物を一人探す。一人の跛者(はしゃ)が土色のまぶたを枝垂(しだ)れさせ太陽の重みに耐えているようであったが、銅貨一枚の見返りに何でもやるという風に待ち構えていた。だがシェリフの施す分限(ぶん)を超えていたのは残念というほかない。それにもかかわらず結局は運命が命じるごとく、その跛者は馬の番をすることをムハンマドの愛によってということはつまりタダで請け負ったので、シェリフはモスクへと入ることができた。
 粛々(しゅくしゅく)と照り返すマットの上に踏み入ると、神聖なるミフラーブに感極まった様子で接近する。ピンクと孔雀色の真珠で飾られたその姿を見やるのは奇跡と言っても良いぐらいであった。「アッラーよ、どうか汝の子に慈悲と、この巡礼が実り多きものとなりますよう神の思し召しを」と嘆願した。
 辺りに目をやると、職人が機巧(きく)をこらしたすらりとした窓に、色ガラスに珠飾りを施してある、その長く連なった光が段々となって降り注いでくる。
 外に出て再び、すぐさま騎乗し、燦然(さんぜん)たる東方へと駆け出した。
 燃ゆるが如き日中をゴムの木とゴクラクチョウカの木立で過ごし、夕刻にはガルダイアなる、悪名高い街にたどり着いたが、ここはカディージャ・ベン・イッザという魔道女の出生の地である。近づいた側には、一夜を過ごすに足る場所などどこにもなく(割れた水差しの破片や汚猥(おわい)が地に打ち捨てられていたのである)、そこで街を通ることを余儀なくされた。馬に乗ったまま、娼婦がいる通りは、壁掛け絨毯で装(よそお)った夢路さながらであり、そのすぐ後に反対側へと出たが、夜明けを迎えつつ、応召する東方へと、碧空の下、再び駆けていった。
 日が経つにつれあたり一帯はますます荒涼として、街を目にすることも少なくなり、そして太陽ばかりがその勢いを増していった。ある日、銀のセンベルが形作る叢林で、小さな花卉(かき)だけが極限ともいえる光芒(こうぼう)に応えているのを認めた。とげのある、塵埃を思わせる白さの藪が海草よろしく繊細な葉振りをいたるところに繁華(はんが)させ、砂でできた漂礫(ひょうれき)が、王室の塚であるかのように盛り上がり、稜線(りょうせん)を為していた。ある時などガゼルが目に映ったかと思うと砂山に駆けていったのだが、叔父の家の壁にあったガゼルを思い出し―――「全然似てない!」とその寸評を下した。またある時など、とはいっても滅多にはなかったのであるが、遊牧民(ノマド)の羊飼いが、青い影がさすヤギの群れを追いやっていた、それがアッラーの恩寵なのか、それともシェリフの容貌(かんばせ)を目にしたからか、シェリフにボウル一杯のミルクを差し出したこともあった。
 遂にある日マトマータ山がはるか彼方に森閑とした姿で、陽炎の中に揺らめきながら現れたのである。
 馬から飛び降り、崇拝の気持ちに浮かされながら、天の多大なる鴻恩(こうおん)を讃えた。
 季節は初秋、キャラバンが稠密して、馬上で目にしたのだが、ラクダの長い隊列がナツメヤシの詰まった荷駄を両脇に積んでいる。ヴェールをした女性が黒の美服に身を包みラクダに乗ってキャラバンの先頭を進む。荒野で時を過ごすのにうってつけであり、シェリフは嬉しく思って挨拶を交わした。しかしながら、預言者の居場所を尋ねても誰一人としてそのことを知るものはいなかった。
 進み行くその日、両目がしっかと遠方の山麓を見据え、夕闇が青々としてくると開豁(かいかつ)な平原で一夜を過ごそうと立ち止まった。
 クルアーンを読むに足る明るさだったので(身の回りが一新されるとその意味合いも変わったように思えた)、眼前のマトマータ山を見やるその喜悦のせいで意識を集中させるなどとてもできないことであった。雲が靉繧(あいうん)し、燦爛(さんらん)たるモスクを思わせる雰囲気であり空に翺翔(こうしょう)するかのよう、捜し求める人物もこの威風堂々たる姿をはるか遠くで眺めているかと思うと、シェリフは欣快に耐えなかった。これより美しい日暮れがあろうなどとは想像できない。深甚(しんじん)たる平穏が全てを支配していた。静寂に嚥下(えんげ)されホタルが薄明(はくめい)の中を飛び交っている中で、丈の長いチフ草が半ば砂に埋もれている、その中に沈潜(ちんせん)した。心ここにあらずといった調子で上下する群れを追い、 両の目は、真後ろにあるたった一つの対象に惹きつけられた。動物の骸骨は以前目にしたことがあったが、人のそれは初めてであり、少し考えてから、両手で掬い上げた。完全な骸骨ではない、破損しているそれを験(けみ)すると、穏やかならぬ感情に掴まれた。照り返す夕焼けが漂白された冷ややかなその表面をかいなでるようにし、ウエド川の汀(みぎわ)にある玉砂利を思い出したが、支え上げてマスクのようにすると、その空ろな眼窩(がんか)越しに深まっていく夜空を眺めた。月は見えず、天の川の白い筋だけが星々を澄み切った空に投げかけて、たおやかなる光を発していた。星がひとつ、明滅しており、他のどれよりもこちらに近く現れてくる。この素晴らしい、かくも素晴らしい星は金星でしかありえなかった。
 奇妙ではあっても惹きつけられるものがあって、澄み切った星夜を骸骨の空(うつ)ろな眼窩越しに見上げ、朝になろうかというそのころになってようやく眠りについた。

[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-04-05 20:03 | 翻訳小説『サンタール』 | Comments(0)

『サンタール』 翻訳連載 第七回 第三章

第三章

 叔母がヤギを屠(ほふ)ったその直後、とうとう出て行く決心を固めた。ある日帰宅すると、叔母がキッチンにいるのが分かりその傍にマブルーカがナイフを握り締め、ムーア風のチェストに血を迸(ほとばし)らせながら、そのラムを横たえた。
 「カツレツだよね!」こんな風にアムーチャが言っている。
 「まあ、私に任せておきなさい」とマブルーカが返す、「脚はどうする?」
 シェリフは怒りに堪えかねて店へと引き下がった。
 熱いカスタードの匂いとハエが稠密(ちゅうみつ)し息苦しくてたまらなかった。みすぼらしい日除けのおかげで日光が入ってくることもなかったが、その向こうには可愛がっている白い雄鶏(その名をハビービという)がエサの粒を探し回っている。
 「次はお前の番だよ、きっとそうなんだ!」シェリフは内心叫びたい気持ちになって、街路へと飛び出した。
 正午であった。
 辺りに蔓延(はびこ)る花卉(かき)よろしく戸口の前で男どもがうだうだと気だるい様子で貝殻をかたどったカップを片手にあれこれと語っている。市場(スーク)の殷賑(いんしん)は消えていた。どんな影をも映しこむ白い壁面に沿って、シェリフは瞑想でもするかのように前進した。娼婦街では、半開きになった戸口の向こうに、ギンバイカの葉で髪飾りをした女がひとり恋人を待ちながらぽつねんと壁に寄り添っている。娼婦街に用はない、用があるのは人影も疎(まば)らなベン・シェムーンの庭園であって、それこそ今、己の魂が切望するものであった。幅広な階段が通りから伸びており、この時は随分と時間が長く感ぜられた。この美しい庭園で、森閑(しんかん)が心をつつみ従容(しょうよう)然とするのを体験したことが幾度もあった。(老残の黒人がひとり一日中そこに座ってマスクメロンと果物の砂糖漬けをブリキの小箱に入れて鬻(ひさ)いでいる)その大門をくぐると、シェリフは小径(こみち)を通り行くと丈の低い木々が寄り合って張り出すその道が街を見渡す場所へと導いた。眼前に広がる夏草を越えた向こうに天蓋と光塔(ミナレット)が地平線の彼方にその姿を強烈なまでに焙焼(ばいしょう)している。市場(スーク)の向こうにあるそれがシディ・ヨセフのモスクであり、そのすぐそばにヴェスール・ヴィアラールのモスクがあり、その五つの堂宇(ドーム)が真昼の太陽に照らされながら燃え立っている。タットゥイーネの方を向くと、隠者(マラブー)の墓が遮るものもなく、黄褐色の茫漠たる砂の何里と先に、峻別された姿であった。
 「ムハンマドよお願いです、僕も、きっと隠者(マラブー)になります!」シェリフはこう呟くと、その両手をぐっと握り締めた。
 だがそれにはまず、慈悲ぶかき者と目される預言者の祝福を冀(こいねが)うことこそ相応(ふさわ)しい。
 熱に浮かされたように顔を上げた。
 頭上のヤシが途方もない数の葉を枝垂(しだ)れさせる。どの庭園を見ても、葉が動く姿など、この日はどこにも見られなかった。
 そうだ、懸隔(けんかく)の地、あの丘陵の中から聖人を探し出し、その人の声を聴かなくては。
 湾曲する日向道を辿りながら逍遥して、ついに花開いたモチノキが聳(そび)えるそのたもとに大理石の水盤が水をたたえており、木々の枝葉を映しこんでいる。ハチドリが朗らかに大枝から大枝へと飛び移り気忙しく羽ばたくその音が喜びの旋律のように聞こえる。
 「会いに行くとしても―――どうやって?」シェリフは硬直して考え込む。早馬が平原で草を食んでいたにしても、それをいただくなどということはアッラーがお許しになるのだろうか。
 我を忘れて流浪する。
 花壇を通り過ぎると園丁がユリに水をやっている、その顔をハンカチで半分ほど覆ってその宿痾(しゅくあ)を隠す。
 そうだ……平原から馬を一頭捕まえてきたとしても(威力あるお方の)アッラーならば返す方法をも御存知のはず!
 人の声がして身を強張らせる。こじんまりした寺院のたもとに鎮座し、イブン・イブラヒームとほっそりしたチュニジアの少年がいるのを察知する。「このぐうたらの怠けもんが」と息を吐いたのが聞こえた。
少(すこ)しく気づかれぬまま、身体をぽんと草むらに投げ出す。そこここに木々の根が佶倔(きっくつ)しながら妙な形に盛り上がっている。真上を見ると、ヤシがその葉茎(ようけい)を煌(きらめ)かせながら、木々に石榴(ざくろ)がたわわに実っているのを見やった。この日は軽い食事すらとっておらず石榴(ざくろ)とくればまさしく願ったりかなったりである。手を伸ばし、ひとつもぎ取る。甘いその果実を頬張りながら、こうすると決めた進路について考えていた。何にせよ一度は叔父の家に戻って愛用するクルアーンと、愛唱しているアンタールの歌曲集を持ってこなければ。
 雄蜂が辺りをハーモニーで満たし、木の幹に寄りかかりながら観察するうち、出入りを見ながら自分を外から見ているようになって沈思した。古ぼけた石棺に群居しているようであり、その上に柔らかい藍色のヒルガオが巻きついてその一部を隠していた。
 かくなる世界を目にして耽想(たんそう)する恍惚感はこたえられたものではない。
 聞いた話では、絨毯で飾ったマッカのモスクの燦然(さんぜん)たる様は夏の夢どころの話ではないそうである。
 緑の葉が壁のようになり、そのたもとから折々、園丁が大バサミで剪定(せんてい)する音が聞こえ、その心地よさに魅了され、ただちに眠りへと誘(いざな)われた。
 眠るうちまたしても丘陵が見え進めば進むほど遠ざかっていく。
 そして目を開けた頃には太陽も木々の陰に消えてしまっていた。なんともいえぬ安らかさである。穏やかであって、番犬が数里先で慟哭しているのが聞こえた。不規則な風がおこり、いまや太陽も沈みきっており、命を感じさせぬヤシの緑が物悲しい気持ちにさせた。
 シェリフは横臥したまま辺りから集まってくる夜の甘い香気を吸い込んだ。すぐ隣の叢林(そうりん)から、黒い蝙蝠(こうもり)が一羽、薄明(はくめい)にきらめくサクラソウへと飛び去ってゆき、二羽目三羽目とその後に続いた。
 細かく震える声が静寂を破った。悲嘆の念につつまれ、ぴくりとも動こうとしない木々の只中から、この春の雪より白く、その色を強めてゆく、またはモルナーグ湖の汀に咲くユリと思(おぼ)しき、月が昇った。
 影につつまれた通りから黄昏の街へと至った。

[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-04-03 22:08 | 翻訳小説『サンタール』 | Comments(0)

『サンタール』 翻訳連載 第六回(第二章)

第二章 

砂と実りきって色づいた小麦が、一面、家の後ろに広がっており、毎朝(まいちょう)、日の出ともなれば出向いていき、日昇の祈りを捧げては、ようよう明るくなりゆく東天を眺めるのだった。
 まだ最後の星が中天に踏み止まっているころ、音を立てぬようにそっと抜け出すのは、間違って叔父に出くわし禽獣(きんじゅう)の世話をさせられないため。
 神の一日を始めるに当たって雄鶏と雌鳥の世話をするなどシェリフの性分からいって考えられないことであった。
 そこから少し離れた、砂の只中に、象牙の如き白さのレンガで積み上げられた寺院が建っており、望んでいたその参籠所(さんろうじょ)へと進路を定めた。
 今日はそこへ、半ば眠気の隷下(れいか)となりながらシェリフは足を向けた。まだそれほど明るくなってはいない。街門を出で、なんとも哀れな様子の子どもが、黒のショールにすっぽりと身を包み、羊の頭蓋を以って砂中で遊んでいる、その後まもなく広大な原野へと出た。羊と山羊の群れが放牧されており、青褪めた、灼熱する太陽が生む空虚が平原を満たし、岩石の傍(かたわら)に生い茂る日に焼けた草むらを博捜している、それに横目で眺めていると、日に焼けた四肢の少年が一人侘しくパイプで遊んでいる。そのパイプの音がしきりに後ろをついてくるのだった。
 祈り終えた頃には太陽の肝煎りで、赤銅色(しゃくどういろ)の弦月(げんげつ)が寺院の天蓋へ隠れて沈んでしまっていた。
 シェリフは中を覗き込んだ。
 奥折(おくか)まで差し込んだ陽光の中に墓石が見え、光に目が慣れてくると、向かいの壁面には妙締(みょうてい)ある狭間飾り(トレサリー)が見え、スファーより旅したる隠者(マラブー)が枝垂(しだ)れた姿で顕れた。その傍らには瀝青(れきせい)の土器があり、黒く塗りたくられたその中で、白檀(びゃくだん)の香木(こうぼく)が燃えていた。甘ったるい樹脂が芳(こう)ばしい香りを振りまいている。
 足元でうごめく影に気がついた様子で、隠者(マラブー)がこちらを向いた。
 「私に何か用かね」
 「なんでもないです」
 「ならば行きたまえ」
 「どうかぜひ、あなたのお供をさせて下さい」と思い切った。
 「それでどうする」
 「お供をしながら大地を経巡(へめぐ)って、寺院を廻りたいんです!」
「ほどなくして私は常世(とこよ)へ行ってしまうが」
「では―――それまでの間!」とシェリフは懇願した。
「何を見たい」
「ジェーマ・ジェーディドの聖なるモスクです」
隠者(マラブー)は半眼(はんがん)に閉じた眼(まなこ)を差し上げる。
「マッカに行きたいのだね」ヤシに落ちる雨垂(あまだ)れの如きやわらかなる唇吻(しんぷん)であった。
「それが望みです」
「私より適任の者がいるのだがな」と隠者(マラブー)は申し立てた。
「僕、知りません」
「遠くサハラを越えたところに一人いる」
「その方のお名前は?」
「聞いたところでは慈愛あふれるものと……」こうして年老いた男は平原を越えた丘陵に賢者が一人いて、ある者の話では預言者でもあるという。それを聞いてシェリフはあの夢を思い出した。
もしそうだとすると…… 無数の問いが自分の唇を突き動かした。
「その方の所まで行くなんて、できるのでしょうか?」
「よいかね、できないことなどないのだよ」
「でも見つけられるでしょうか」
「天のお導きがあれば、見(まみ)えるであろう」
こうして会話を閉じ、年老いた男は衣文(ハイク)のフードを引き卸してその目を覆った。
そして少年は再び街門へ至り、光塔(ミナレット)の頂上から、ムアッジンの響き渡る声が、祈りの時を告げる。

[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-04-03 12:26 | 翻訳小説『サンタール』 | Comments(0)

『サンタール』 翻訳連載 第五回

「アブドゥルハフィードの人間か」と、アムーチャは繰り返した。

 エンバルカは微笑(えまい)を見せて「へえ、人間だったの!」と声を上げ、店番をしていた子羊が嬉しそうに戻ってきたのを見ると、そちらへ歩み寄った。

 ヤミーナはきゃっきゃと喜ぶ。子羊と嬉しそうにふざけまわって操るのが、その祖母にしてみれば慙愧(ざんき)極まるものであったにしても、その背に乗りかかると、部屋中を勢いよく飛び跳ね回り、金切り声をあげて、屋上にいる母親と息も切れ切れのウルド・ナイルの二人を呼びつけた。

 「アウリーダや! ちょっと!」とマブルーカは娘を諌めるようにしたが、アウリーダは大きいだけの阿呆鱈眼(あほだらまなこ)をくりくりさせて、笑うばかり。
 「ケビールのグラスの小さいのがあったでしょ、あれ、今ちょうどいいんじゃない」とアムーチャは申し出て、壁に立てかけてあるワインの瓶を指し示す。
 「とっておきなんでしょう」とネージュマはありがたがって、耳にかざしたセルジェムの花を触り、結び目を直す。
 「ぜーんぜん!」と大きくかぶりを振って「残ってるだけ!」

 ハンカチーフダンスの唱道者であって、その右に並ぶものなど、そうざらにいるものではない。のたくりもがくその表情こそ―――記憶に値するものであった。

 マブルーカはせっせと扇をあおぐ。

 「この蒸し暑い天気に、走り回るだなんてねぇ」
 「そうかしら―――これだけ夏が暑ければやりたくもなるわよ」と、恬然(てんぜん)として言う。
 「ここらの田舎じゃ一番だからねぇ」
 「いやだこと田舎なんて。バッタは飛んでくるしブヨに食われるし」

 エンバルカはため息をついて「あんなことがあるまでは、あそこに住んでたんだからさ、ここんところ、戻りたいって何度思ったことか」顔に群がるハエを追い払いながらこう言った。

 「市場(バーザール)が懐かしい」とアウリーダが述べる。
 「これで気晴らしでもあればいいんだけど」

 「そうホントに」
 「退屈にもほどがあるっての!」
 「ここいらの男ときたら、厄介モンばっかりだし……」
 「ウチの人は違ったわよ」
 「じゃあ何してたの?」
 「仲睦(なかむつ)まじいラクダを見に、ずいぶん歩いて通ってたんだよ!」
 「それで?」
 だが何をしようとしていたのかは遂に知らされず、その上、いきった子羊が説を変じてヤミーナを床に振り落とした。
 「ちゃんとしなきゃダメでしょ」とマブルーカはくすくすっと笑う。
 「アッラーラ・イラーハー」とヤミーナは泣き出した。
 「ヴェールが破けちゃったじゃない」とアウリーダが嘆く。
 「ファーティマの御手(みて)にかけて、破れたヴェールなんかしてたら台無しじゃない」と咎める。
 「ボロボロのヴェールだなんて、破門もいいとこさ!」とアムーチャが頷く。

 罪の意識を感じながらエンバルカが向こうの足元に眼をやると、ストッキングに大穴が開いており、それで黒い肌が見えた……

 「預言者の御名において、泣くのはおよし、ほらさあ」とジャミーラは哀願した。部屋の隅に腰を下ろし、あれやこれやと起こってから、表情も険しくなった。夜、好んでアーケード街を逍遥するのだった。

 アムーチャは気分を変えようと出かけた。

 「アタシなんか一回だって市場(スーク)に足を踏み入れたことなんかなくってよ!」と言い切り、ランプに火をともす。お祭りごとがあった際に使用するもので、壁掛けになっている。そこに一揃いのガラス玉が、煌(きらめ)きながらぶら下がっており、その辺りを蝿が集まっては蠢動(しゅんどう)していた。

 「今手がけてる真っ白で豪華なショールがあるんだけど、金で仕上げてるのよ、それ」とジャミーラは高音(たかね)をあげて、またしても顔を忙しく動かす。
 「断らなかったんだ」
 「考えてるとこ」

 アウリーダはタイシャ色の爪をどうかした様子で気にする。「大事なことを決めるときはね、いつでも大衆浴場(ハンマーン)に行くことにしてんの!」」

 「大衆浴場(ハンマーン)だなんて、ぞっとしないねぇ」
 「私よく言うんだけど、お風呂場でなんにもつけてなのを見るって、悪くないもんよ、これが」

 マブルーカが礼儀正しく向き直り、「ここにいる方々は、そりゃたいしたもんでしょうよ」

 皆立ち上がって頭を下げる。

 「サフィーアっていう、最近アブー・ザザーと離縁したのがいるんだけど、その人なんか毎日大衆浴場(ハンマーン)に行くんですって!」
 「あの人雰囲気あるよねぇ」
 「けっこうイイ男と付き合ってるって話だよ」
 「黒い口髭がなけりゃさ、それになんと言っても足よ足」とアムーチャは溜息をつく。
 ネージュマはくっくっと笑いながら、「でも顎鬚は遠慮したいことよね」
 「それはそう」とアムーチャは息をつく。
 「フェッターっていうシディ・ベル・アッベスの女がいるんだけど、黒人でさ、それが言うのよ、お風呂みたいに入れる池があるんだけど、夏になるといっつも干上がっちゃってるんですって」
 「この間街で見かけたお、夜だったけど、随分辛そうでさ、水がなくなった切花って感じだったけど」とエンバルカ。
 「ウオノメの加減が良くないからよ、それ」
 「それこそアッラーの望みでしょ、間違いないって」シェリフは自説を述べたい誘惑に駆られた。
 「バッカじゃないの!」とジャミーラが返す、その手には淡い色の蛾が、ひらひらと飛ぶので良く知られているが、これがランプの周りを旋回していたのである。
 「愛しても愛しても
  私の心は離れ行く」

 朗々と歌う。

 「昨日だった」

 ここで沙汰やみとなった。

 「そういえば櫛をしてたっけ、それまで見たことなかったのに」とアウリーダは何食わぬ顔で言う。
 ネージュマはグラスを口元へ差し上げる。
 「いつだったっけかなぁ、それ」
 「妬んじゃってまぁ」とジャミーラは笑う。
 「それってカディーから?」とアムーチャが婀娜(あだ)な目つきで尋ねる。
 「違うの―――またあいつ、サラヒーン」
 「ライラックが咲く頃までに、結婚するって聞いたけど」
 「えぇ?」
 「もう身ふたつなんですって」
 「あら!」
 「あのお腹をいたら一週間で広まるでしょうよ」
 マブルーカが瞬(まばた)く。
 「ちょっと、店に誰かいるんじゃない」怨嗟の気持ちを込めて、一人ごちた。吝嗇そのものの商売で困窮するなどという風に運命付けられなかったことを思い返し、少し愉快になった。

 アムーチャは動きもしない。「マフムードでしょ、きっとそう」と返す。
「泥棒だったらどうするの」と、マブルーカは諭すような目つきになる。「きっと違うわ、だって泥棒の欲しいものがたんまりあるわけじゃないもの」
すると針を突くかの如き雌鶏の泣き声がして、アムーチャが憶測した、まさにその通りであった。
「あなた?」と声を上げるやいなや、亭主は息も絶え絶えの鶏を二羽つれて、部屋に入ってきた。
「サラーム(ただいま)」と返し、薄絹が解(ほつ)れたターバンに手をやると、そこにはジャスミンが絡まっているのだった。
「あなたも一杯どう」とアムーチャが訊く。
「お酒よ、ケビール」
「おいしいケビールだなんて―――これ以上のものはないんじゃない?」とアムーチャは莞爾(かんじ)する。
「あぁ」と、マフムードは額(ひたい)を拭う。「今日の市場(スーク)は暑いにもほどがあるな」
「また今夜もその禽獣(きんじゅう)を売りに出かけるわけ?」
マフムードは穏やかに唾を吐き、こう述べた。
「そんなことは言いっこなしだ!」
「その雌鶏の目つきから察するに、朝方には卵を産むんじゃない!」とアムーチャは自説を述べた。
「アッラーの思し召しがあらんことを!」
「この間は寝室のベッドに生んでさ、それ月が沈むころだったのよ。だから同じ頃合にさ」
「啓典にそう書いてあるのか?」とマフムードが詰問する。
「そんなわけないでしょ」とアムーチャが告白し、古ぼけた帳簿に目をやると子羊の上に載っているのが飲み込めた。

マブルーカは溜息をつく。

「昔は夫に従わなかったっていうんで、妻が離縁されたってのが随分あったんだけどねぇ」とごちる。
「私と別れるだなんて、そんな男がいたらお目にかかりたいものね!」とアムーチャが威嚇する。
「謀反人アフメッドの頃はもっと簡単に放逐(ほうちく)されたそうじゃないか」
「アフメッドの頃は、だろ」とマフムードは声を上げ、「亭主の手元に三日月刀(シミタール)がなかったんだな」
「それっていつ」とヤミーナは、好物の石榴(ざくろ)ケーキを頬張りながら、不思議がった。
「この子の教育上良くないでしょう!」とマブルーカが意見する。
「ちゃんと趣味の良し悪しは分かってるの」とアムーチャは申し立てる。
「あっそうだ、私もうお暇(いとま)しないと」と、立ち上がって言う。
「早くない?」
「ターリスがね、この先に住んでるんだけど、自分の子供が割礼をするからそのパーティをやるっていうの。そこで踊ることになってるから」
「でも、また後で立ち寄るから」とエンバルカ。
「どうせ夕飯(ゆうめし)どきだろう」とマブルーカは嘲るようにごちた。

 エンバルカは口元をスカーフで結び、もう口を利きたくないと言わんばかりであった。

「楽しい宴(うたげ)というわけだ、珍味佳肴(ちんみかこう)をケチったりはしてないだろうよ!」熟慮した上でこう言った。
「ねぇ覚えてる、この間の断食月(ラマダーン)にさクスクスを作ってあげたでしょ」
「あぁ」
「あれ、気に入った?」
「断食月(ラマダーン)の間でもさ、私ががんばってやったの気に入らなかった?」
「あぁ、断食月(ラマダーン)な、ミズガラシをこう束にしたやつは悪くなかった」
「それ私の親戚がね、アブデルハフィードのさ、サアーダにある自分の土地で見つけてきたんだって!」
「あぁ」とマフムードは心ここにあらずといった調子で答え、ジャミーラの方に目をやると、ケビールでほろ酔い加減になり、バックル・ダンスの嬌態(しな)をやってみせ、マブルーカの悪罵(あくば)などさらりと失念していた。

 入ってきたときと同じく、誰にも気づかれぬまま、シェリフは抜け出でた。店と一続きになっている倉庫が寝室で、そちらへと赴いた。ひとりはいいものだ。窓にはまっている細い格子の向こうには、青々としたモスクの天蓋(てんがい)が見え、懸隔(けんかく)なるがゆえに、闇にうつる巨大な卵のように思えた。

 読むには暗すぎるから、藁(わら)布団に横臥(おうが)しながら章(スーラ)を諳(そら)んじるばかりであった。
 
 柳細工の鳥カゴが吊り下げられており(胸とこすれるほどの距離で)その小さいカゴの中で四羽のボタンインコが喋々(ちょうちょう)しく囁きあっている。逃がしてやろうと何度思ったことか。羽ばたいてヤシの木々まで飛んでゆく、ベン・しぇムーンの庭園脇に生えているあれだ、こう想像するのは悪くないものであった。

 切れ切れのさざめきが、眼下に広がる街から聞こえ、想念と綯(な)い交ぜになりながら眠気を誘う。

 ようやっと眠りについた、その向こうでは蛇使いの太鼓とタンバリンが子守唄のように鳴り響いている。

[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-03-12 20:14 | 翻訳小説『サンタール』 | Comments(0)

『サンタール』 翻訳連載 第四回

アムーチャ叔母が居間に腰掛けているのが見え、その傍には寡婦のエンバルカ(出自はニグロである)とマブルーカもいた。

 「いいかい、断食月(ラマダーン)を前にしてこれが最後のクスクスだなんてさ、追い剥ぎもいいとこじゃないか。」

 これが怡怡(いい)たる様であるのは明白であり、シェリフが帰ってきても誰も気づかないことに、内心で呻いた。

 憤懣で渋面(じゅうめん)を作っている時の叔母が一番良かった、というのも叔父とは口を利かなくなるからで、そういうことが度々あったのである。一度、たった一言も声を発しないというのが四週間続いたことがあって、そうやって押し黙るのは、夫が自分の稼業を良くしようとはしないことに始まる。これは細君の不幸であって、棒手振りよろしく鶏の足を掴んで往来を売り歩くというのが旦那の商売とあっては、頷ける話である。

 「そうだよ、クスクスに使う手があるだけありがたいと思わなくちゃ!」寡婦のマブルーカは、ハエ払いの柄をさすりながらこう答えた。可哀想に、一羽のスズメが部屋中を飛びまわっている。
広いわりに天井の低い部屋で、格子窓から光が差し込んでくる、その向こうには街が見えた。壁に向かうと、あちらこちらにチョークで書き付けた絵が見える―――ガゼル、船舶、蓮の華、星―――その壁にムーア風のチェストを並べることで区切りを作り、そこが腰掛としてよく使われていた。

 「クスクスを作るにもね、まずお米だよ!」と、寡婦のエンバルカが溜め息まじりに自説を述べた。

 自分の旦那が持っていた乏しい財産を蕩尽して蓄音機を購入し、そのおかげで、今や必需品の全てを友人たちに負っていた。

 「そうだよ、クスクスひとつ作るのにさ、お米を入れてやらなきゃいけないんじゃないのかねぇ!」と、寡婦のマブルーカはひとりごちて、引き攣(つ)った嘲笑を見せる。

 暑苦しい上に高いからと、その顔をヴェールで覆わなくなって何年にもなる。

 「アタシが貧乏なのを知ってて、そんなヒドイことを言うんでしょう!」と、寡婦のエンバルカが激昂する。

 アムーチャは如才ない所を見せてこう言う、「聞いたんだけどもさ、アマール・ベン・サダックのヤツ、可愛いアイーシャを残してスファーに行っちまったそうじゃないか。」
 「本当、それ?」
 「ホントもホント。」とアムーチャは念を押し、ふっと辺りを見回すとシェリフがいるのに気づく。  「あら、いたの」と切り出すと、「まーたクルアーンとご一緒!」
 「私分かっちゃったけど、クルアーンってちょっとあれどうかしてない」と、マブルーカが吐露する。
 「クルアーンは女に用はないってんでしょ」と、アムーチャが右に倣う。
 「マッカで渡したり渡されたりさぁ、まるで郵便局じゃないの」
 「気づいたんだけど、マッカ生まれの男って鼻持ちならないのよ、いっつも」
 「ヴェールはしてるけど、よーく分かってるんだから」と、マブルーカはごちて、黒いショールをひらめかすと、その一面に蠅が蠢動(しゅんどう)していた。
 「良きキリスト教徒より悪しきムスリムってね! 昔の人もそう言ってるよ」
 「やめてよ―――キリスト教徒だなんて、もう!」と、マブルーカは身震いする。
 「あんなの、白くて弱っちいインコと同じじゃない」と、アムーチャ。
 「ムハンマドだって、どっちも同じようなもんだって分かってたんでしょうよ」そう言って振り向くと、孫娘のヤミーナが、今しがた遊んでいた屋上から。部屋に下りてきていた。
 「さ、キスしておくれな」と、アムーチャは冀(こいねが)う。

 とはいえ持参金を見越してのこと、ヤミーナの小さい顔を几帳面にヴェールで覆うように使嗾(しそう)し、シェリフには目も合わさせない。

 「おててをたたきましょ!」と、ごちた。
 「おててをなんだっていったの、ねぁ」
 「ジャミーラとネージュマがうえでおどってるからおかーさんとわたしでおててをたたいてあげてたの」
 マブルーカはやれやれといった風で、「ウチの娘も分かってないねぇ、ウルド・ナイルのあいつらとおててを叩くどこじゃないんだよ!」と申し立てる。
 「どういうこと?」と、アムーチャ。
 「ウチの人が死んじまったんだよ、もう商売はこれ以上無理ってことさ!」と寡婦が返した。

 アムーチャはその身を強張らせる。

 「あたしがアブドゥルハフィードの生まれだってことは、忘れられそうにない」

 シンと忌憚(きたん)が部屋中に横溢(おういつ)し、待ち望んでいた静寂の中でシェリフは活字を閲(けみ)した。

讃(たた)えあるクルアーンにかけて。
いや、彼らは、自分たちの中から一人の警告者が現れたことに驚いている。背信者どもは、「これは不思議なことだ
われわれが死んで塵土(じんど)になってしまったあとで、これは遠いお帰りというものだ」などと言う。
われらは、大地が彼らをどれだけ減らすかよく知っている。手元には帳簿があり、書きこまれている。
彼らは真理が現れたとき、嘘(うそ)だと言ったため、混乱のただ中に置かれる羽目となった。
 彼らは頭上の天を見て、われらがこれをどうして創造し飾ってみせたかを考えなかったのか。そこにはいささかの隙間(すきま)もないことを考えてみなかったのか。
 われらは、大地をうち広げ、そこに不動の山々をすえ、各種の美しい草木を育てた。
 これは、悔悟してみもとに帰るすべての僕(しもべ)がよく見て教訓を得るようにと思ってのことである。
 われらは、天から祝福の雨を降らし、これで幾多の庭園を設け、収穫のため穀物を育ててやった。

[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-03-06 19:59 | 翻訳小説『サンタール』 | Comments(0)

『サンタール』 翻訳連載 第二回

 シェリフは燦爛(さんらん)たる満足をおぼえて瞳を閉じた。すぐそばでは焚き染めた香が芳ばしい煙をあたりに撒いており、そのせいであろう、ほどなくして眠りに落ちた。眠るうち、丘陵を目指して自分が旅しているが、進めば進むほどその丘は遠ざかっていく、すぐさま、その光景は変じて、水が照り返す泉のそばに、年老いた男が座し、その姿は実に搢(しん)紳(しん)としたものだった。その容貌(かんばせ)には憂いがありありと見え、手に書物を携えている。その夢の中でシェリフは、男がこういったように思えた。
 
 我はシナイの山をいただく無辜の地に在りて
 無花果とオリイヴにその身を焦がす
 この人を識る 眉目好き肌(はだえ)のその人を
 卑賤のうちに身を窶(やつ)す 行い正しく信ずる者
 賜りしその恩寵 消えること無し

d0026378_17503856.jpg

(http://www.persia.co.jp/image/bpic15.jpg)

 目が覚めると随分と時が経ち、モスクは空(から)になっていた。真珠で飾られた説教台(ミンバル)が微光を発し、それで東天を見ると日が沈みかけているのが分かった。衣文(ハイク)で覆った姿は生命を感じさせず、漫遊する隠者(マラブー)は遁世(とんせい)の存在に見えて、その人物がどこかへ行ってしまってから、シェリフはあの夢が意味するところは何なのか、訊いておけばよかったと思った。

 外へ出ると随分涼しい。

 この一帯では、ヤシの木がその枝を綿羽のように黄金色の空に伸ばしている。親族の家はバブ・アズーン通りの角に在った。この街のどの通りより、乞丐(こつがい)が多い通りだ。蓋しシェリフは急いで家に帰ろうとは少しも望まなかった。モスクの中庭を散策していたい、その中央に葡萄が影を落とす噴水があり、それが炳乎(へいこ)とした音をたてている。端を縁取る青シダの瑞々(みずみず)しさは譬えようもない。四方から巡礼者がやってきてはこの水を味わっていくが、それというのも肺病の特効薬になると考えられていたからだった。しかし何といっても不可思議なのは黄金色のハトがたった一羽きりで尖塔(ミナレット)に住んでいるということ。折々、管理人が塔の扉を開け放しにしておくことがあるので、そういう時シェリフが登っていけずに困るということはまずなかった。都市(まち)中の屋上を見渡すのに丁度良く、その遥か向こうには砂漠が見えて、それも早朝、太陽が夜明け時の朝露の合間から隙(すき)漏(も)れてくる。寝そべりながら、雲がゆっくりと浮き上がってくるのを見ると、マッカについてあれやこれやと奇想が思いつくのだった。真昼から、地平線上に青々とした蜃気楼が立ち現れ、海を思わせるような幻想が呼び起こされるということも、ないではなかったのである。
d0026378_17515756.jpg

(http://www21.ocn.ne.jp/~newlife/x14.JPG)

訳注:聖地メッカは、発音に忠実にマッカとした
コーランも同様にクルアーンとする
[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-02-28 17:47 | 翻訳小説『サンタール』 | Comments(0)

『サンタール』 翻訳連載 第一回

『サンタール』

ロナルド・ファーバンク(Ronald Firbank)著 シロクマ訳

モスクに入ると東側に銀と茶の絨毯がかかっている、珍しくその銀と茶が織り込まれた絨毯の方に足を向けた。それがまさしく自分のものであるかのように見上げる。その場で尊きミフラーブを安寧な気持ちで注視して、長い長いガンダーラがその下流に至るまでを弥縫(びほう)する。ここでは己が存在にまつわる苦難も忘れ去ることができた、そう、孤児だったのである。父、ビスクリー・ベン・アイッサはモスクの扉にひまわりを彫琢(ちょうたく)している間に亡くなり、母もその後早くに身罷(みまか)った。叔父と叔母に養われて今も自分は生きてはいるが、二人とも狡(こす)からい商人で、何かにつけて使いをさせる。行けるときはいつでもジディ・ヨセフのモスクに足を向けた。真珠の青母(せいぼ)という広々とした天蓋を見つめては、豊饒なるアッラーの御許(みもと)へ往ければと、「アッラーよ、汝の子シェリフに神のお慈悲を」と、日々こうして冀(こいねが)うのだった。

 シェリフの頭は剽悍(ひょうかん)なるラクダの如くであって、犀弱にて恭順な瞳はその内に見据えているものがあった。どれほど長い時間クルアーンを想うことに費やしたか、五官を高揚させること大なるから、それを心から諳んじたのである。

 どういうのかしら、この日ばかりはクルアーンのことを考えられなかった。恐らく夏に触れて、倦怠が宿っていたからかもしれない。花模様の壁からはがれて垂れ下がる葡萄の葉が影を落とし、それが揺らめくのを見るのも心地よく、重々しげな簾(ジャルージ)を蝶の群れがひらめきながら通り過ぎてゆくのも感じ取れた。ある時などモスクを横切ってしまい屋根に並んでいる古びたランプに身を投げていくこともあったが、スーラの上に頭を垂れる老人たちの頭上をひらめくのを目にすることの方が多かった。

 尊きミフラーブのたもとで、シェリフはスファーより旅したる隠者(マラブー)を認め、その峭刻(しょうこく)とした容貌(かんばせ)は白いフードに半分ほど覆われ、礼拝用の敷物の上を引きずるように歩き、蕪雑な足はイブン・イブラヒームを思い出させた。その姿を目にして、シェリフは身震いする。チュニスから運ばれてきた積荷には少年たちが入っており、それを日々待ち望んでいるというのが市場(スーク)のいたるところで囁かれていたのだ。少なからぬ若者を売り買いして莫大な富を築いたというのが、もっぱらの噂。祈祷書を握り締めたまま、シェリフの眼前に立ったかと思うと、崇拝の内に我を失い擾乱(じょうらん)する人たちの方へ、引きずるようにして歩いていった。その人たちの裳(も)裾(すそ)がしゃりしゃりと衣擦れの音を立て、起臥のたび、真昼の静けさを蠱惑(こわく)する……
d0026378_12144015.jpg

(図版出典:東京ジャーミィ・トルコ文化センター
http://www.tokyocamii.org/photo/image/img020.jpg)
[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-02-26 12:09 | 翻訳小説『サンタール』 | Comments(2)