マンガとアニメーションと人文を、脱線(Digression)でつなぐブログ。
by ulyssesjoycean
カテゴリ
全体
駄文
高山宏講演『脳にいい人文学』
佐々木果、「コマ」を語る
グルンステン×高山宏
物語の中の動物
ヴィジュアリゼイション
詐欺の文化史
探偵する小説
美しい洋書たち
翻訳小説『サンタール』
翻訳小説『七人の男(抄)』
翻訳小説『不安な墓場』
シロクマの文学雑学コレクション
ネコログ
今日のなぐり書き
語学参考書
未分類
以前の記事
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
2005年 10月
2005年 09月
2005年 08月
2005年 07月
2005年 06月
2005年 05月
2005年 04月
ライフログ
フォロー中のブログ
幻戯書房NEWS
前田真宏のINUBOE
最新のコメント
>右往左往さん コメン..
by ulyssesjoycean at 12:21
度々すいません・・訂正で..
by 右往左往 at 11:17
早速お答えいただいて有難..
by 右往左往 at 11:13
>右往左往さん コメン..
by ulyssesjoycean at 12:53
どうも度々お邪魔してすみ..
by 右往左往 at 12:03
>右往左往さん コ..
by ulyssesjoycean at 16:55
どうもお久しぶりですお邪..
by 右往左往 at 00:03
>mimizoさん ..
by ulyssesjoycean at 23:41
こりはまんぞくさんではな..
by mimizo0603 at 16:33
>右往左往さん コメン..
by ulyssesjoycean at 10:46
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


カテゴリ:ヴィジュアリゼイション( 25 )

「見る」ものと「見られる」もの

200回記念のアクターズスタジオはすごかった。ゲストのダスティン・ホフマンが喋る喋る。ここ最近見た中では、最高におもしろいインタビューだった。
d0026378_19244088.jpg

 では、ダスティン・ホフマンの話芸がすばらしいから、この回はオモシロかったのかというと、それが実はそうではない。そのことに、宮崎駿氏が出演した『プロフェッショナル』(NHK)を見て気がついた。

 同番組をご覧になった方もいるかもしれないが、なんか全体的に暗かった。端的に言って、オモシロくない。「なんか宮崎さんて、気難しそうな人だな」――そんな印象ばかりが残る。
d0026378_1924561.jpg

 ところが、庵野秀明氏の語る「宮さん」は、めちゃめちゃオモシロイ。『ナウシカ』のDVDについているオーディオコメンタリーを聴くと、もうそこに「宮さん」がいるような、楽しいエピソードが次から次へと飛び出してくる。

 「大股ひらいて空飛ぶなんて、はしたなーい。うっしっし」なんて言いながらナウシカの絵を描いていたというのだから、とても同一人物とは思えない。
d0026378_19271034.jpg

 ここで、ハッと気がつく。そうか、『プロフェッショナル』がつまらなく見えたのは、「宮さん」自身がつまらないのではなくて、それを撮影している人がつまらないからなんだ――

 冒頭のアクターズスタジオ、そのインタビューがめちゃめちゃオモシロイのも、聞き手であるジェイムズ・リプトンがオモシロイ人物だからで、そうでなければゲストの魅力も十分には発揮されない。
d0026378_20143398.jpg

 じゃ、どうすりゃいいんだ――と言えば、やっぱり「調べる」しかないでしょうなぁ。前述のリプトン氏は、2週間かけて、インタビューする相手の出演作を全て(!)チェックするのだそうだけれど、やはりインタビューとか対談というものは、本来、そうあるべきだと思う。

 一文字ちがいだけれど、「対談」「怠惰」になっては、やっぱりイカンですよ。

*追記:前田真宏(まえだまひろ)監督のブログに、こんな記事がありました。
[PR]
by ulyssesjoycean | 2007-03-29 19:03 | ヴィジュアリゼイション | Comments(0)

ナウシカ ことば スタフォード

『ナウシカ』の核心部分、旧世界の英知の結晶である「墓所の主(ヌシ)」が、単なる「ことばのかたまり」だ――というのは、皮肉がきいていてオモシロイ。

 「はじめにことばがあった。ことばは神であった」――とは、有名な聖書のことばだけれど、結局、ことばよりスゴイ形の神様を思いつけないということなのだろう。
d0026378_19362710.jpg

 裏を返せば、ことばってのは神様なみにエライ存在だということになる。でも、それはちがうんじゃないでしょうか――と言ったのがバーバラ・スタフォード氏。

 かなり説明をぶっ飛ばしているけれど、バーバラ・スタフォード氏にこんなに入れあげるのは、要するに(ぜんぜん要するにじゃないけど)そういうことである。
d0026378_19395515.jpg

 このあたりを、神学・形而上学・哲学をごちゃまぜにして喋ったら、さぞオモシロイだろうと思う。骨子となる部分はものすごく簡単なことだから、そんなに「難解!」といった感じにはならないだろう。

 スタフォード氏の本も、ぱっと見、難解そうでいて、論旨は明確。「ことばが絵よりエライっていうのはおかしいんじゃないですか」――これはショックだったなぁ。ああ、こんな簡単なことだったのか――っていう。
d0026378_1958552.jpg

 そうしたら阿部謹也氏も、「文字や言葉なんていうのは、はっきり言って信用できないです」と言っていて、これは嬉しかった。イメージ・リーティングの重要性についても、ちゃんと述べてくれている。

 やはりこれからは、イメージをいかに大事にしていくかだろう。ことば一辺倒では、結局、せまいせまい分野にちぢこまるばかりで、先がない。だからこそ、遅々たる歩みであっても、絵の勉強を続けているわけだし。

 それにしても、自由にほいほいっと絵が描けるようになるのは、いつになることやら。
d0026378_20103568.jpg

[PR]
by ulyssesjoycean | 2007-02-04 19:34 | ヴィジュアリゼイション | Comments(4)

モノマネとパントマイムと

『細かすぎて伝わらないモノマネ』がなかなかオモシロイが、それにしてもこの「モノマネ」は、いったいいつから存在するのか―――と考えると、古代ギリシャに行き着く。

 古代ギリシャでは思考だったか劇の形式だったか、その辺は度忘れしたけれども三つの基本となる様式があって、それが「アナロギア(類推)」「パロディア(諧謔)」「ミメーシス(模倣)」である。その中の三つ目「ミメーシス(mimesis)」「模倣」ということだから、どうもこの辺りから「まねる」という行為が始まったようだ。

 そしてこの「ミメーシス(mimesis)」、字面を見れば分かるが「マイム(mime)」の語源である。フランス映画の傑作『天井桟敷の人々』に出てくるバチストは役者だったが、あれは「パントマイム(pantomime)」である。
d0026378_19572566.jpg

 「マイム」するとは何か―――と追っかけていくと、「身振り手振り」という意味に突き当たる。「panto」はギリシャ語で「全て」という意味だから、「パントマイム」「身振り手振りだけでございます」ということ。喋ったりはしない。バーバラ・スタフォードの言う「身体表現(ボディー・パフォーマンス)」に属するもの。

 16世紀ぐらいまで、世界は「マイム」していた―――「もの」「もの」のつながりがはっきり見える「類似」の世界だったそうで、それが17世紀ぐらいから「言葉」というものが支配的な位置を占めるようになり、「ものの名称(ことば)」「もの」の関係が見えづらくなった―――言い換えると、「ものの名前」は人間にとって便利で都合のいいものにしましょう、「ものの本質」「名前」は関係がなくても、その方が人間にとって便利ならそうしていきましょう―――というのが「表象(representation)」の、一番簡単な意味らしい。
d0026378_205820.jpg

 その例として一番分かりやすいのが辞書。、16世紀ぐらいまでの辞書は「テーマ別辞書」であって、「家族」の項目に「父」「母」「兄」「姉」「おじ」・・・・・・という風に言葉が並んでいる。ところがこれ、辞書のどこに、どんな項目があるか分かっていないとすこぶる使いづらい。
 
 それが17世紀になってエプライム・チェンバース(Ephraim Chambers)という人が、この世で始めて「アルファベット順」の辞書を作る。その方が便利だからそうしましょう―――という「表象」がここから始まるとのこと。ABC順になっている世界なんてどこにもないけれど、人間にとって便利だからそうする―――こういうことが今に至るまでずっと続いている。
d0026378_20123665.jpg

 「表象」というのは約束事として便利だけれど、「言葉」「もの」の関係が良く分からなくなってしまった―――そこで「絵(image)」が出てくる。「絵」だけは、「もの」との関係がダイレクトに分かる。その証拠に言葉の通じない人にでも、絵に描けば説明できる。

 夏目房之介氏の名著『マンガ世界戦略』(小学館)「ジョサイア」というマンガ家志望の青年が登場するが、日本語のできないジョサイア氏と英語があまり話せない夏目氏が「図解をまじえるとけっこう高度な内容が話せる」というエピソードがあり、絵の持っている「見ると分かる力」の実証例と言える。まあ、二人とも「絵が描ける」人だからというのもあるが。
d0026378_2022664.jpg

 「絵」「マイム」「身体表現」であって、身体表現というのは「言葉」を介さなくても分かる―――「モノマネ」は、その人の口調や顔つきといった「身体表現」に関わるものだから、たとえ元ネタという知識がなくても充分オモシロイのだろう。言葉の知識は孤立するが、身体の知識には「笑う」ことができる。
[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-05-22 19:52 | ヴィジュアリゼイション | Comments(2)

「手ごたえ」の消えた芸術

十八世紀から芸術は「手ざわり」を失った―――という核心部分に踏み込んだ『ボディ・クリティシズム』高山宏氏が「人文地獄にスタフォード菩薩」と呼ぶだけあって、オモシロさは格別である。翻訳し引用してみよう。
d0026378_18542360.jpg

Since the eighteenth century, one trend of Modernism has been to eliminate touch and other signs of manual construction. Painting, sculpture, and archtecture have been diverted away from their roots in body performance toward critical mental activity.

十八世紀以来というもの、近代化のひとつの流行(トレンド)が手ざわり(touch)や、その他の手に由来する(マニュアルな)造形から痕跡(サイン)を消去してしまっている。絵画、彫刻および建築はその根源であるところの身体表現(ボディー・パフォーマンス)から逸脱し、批評的な精神活動(メンタル・アクティヴィティー)へと向かってしまった。

(Stafford, M. Barbara. "Body Criticism". p131. MIT press. translated by Shirokuma.)
 要するに「全てを言葉で表現するようになってしまった」ということである。ここからスタフォード氏が十八番とする「言語中心主義(ロゴセントリシズム)批判」へとつながっていく。ちょうどこのすぐ後にこういうフレーズがある。
相反すること(パラドックス)のようであるが、言語から逃れたいという欲求それ自体が言語中心主義(ロゴセントリック)なのである

(同上 p132)
 言葉を使って「本質論」をやろうとするといつのまにか「抽象論」になってしまう―――とは言うが、それはつまり「言葉だけ」でやってるからだ、ということ。「言語が絵よりエライというのはオカシイ」というのが、スタフォード氏の主張であるが、これを端的に知りたい方には、高山宏氏の訳筆が冴える『グッド・ルッキング』(産業図書)を一読されたい。
d0026378_19131521.jpg

 閑話休題、なにゆえ「芸術から『手ざわり』が消えてはマズイ」のか―――これは「判断基準がなくなるから」ということに他ならない。これについてはサイモン[セイモア]・フィッシャー『からだの意識』という並ぶもののない名著があるのでぜひ一読されたいが、なんだか良く分からない芸術活動においては、書き手(描き手)の「手ごたえ」―――それこそが唯一、疑うことのできない「判断基準」なのである。言い換えれば、絵描きが「これはいい絵だぞ!」という風に確信できるのは、それを描いているときの「手ごたえ」「いい絵だ」と分かるからだという。
d0026378_1316638.jpg

 この説明は分かる人には「実感」として非常によく分かるのだが、それ以外の人間を切り捨ててしまう説明の仕方を是認は出来ないから、伊集院光氏の『球漫』という、一風変わったマンガ批評本を援用して説明してみよう。

 この中に収められている水島新二氏との対談で、「本当にいい絵が描ける時があって、そうするとこれはただのヒットじゃないから、ホームランだ!」となって、作者でも試合展開が読めないという話になり、聞き手の伊集院光氏は爆笑するのだが、これはなかなか示唆に富むエピソードである。
d0026378_131637100.jpg

 ハロルド作石氏も「絵はウソをつけないから」という風に、水島氏の考えを肯定するコメントをしているが、(絵を描くのが割と好きなはずなのに)伊集院氏はあまり納得していない様子なのが印象に残っている。要するにこの「書き手としての感覚」―――これは自分の「中」にある「身体感覚」なのであって、「外」に向かって「言葉」では説明できないから―――『マンガ夜話』いしかわじゅん氏が言う「絵の上手さ」がよく分からないということになる。当たり前の話で、「身体感覚」「手ごたえ」でしか分からないものを、「言葉」で説明しようとする、説明できると思うのが間違いなのだ。
d0026378_19554011.jpg

 「言葉で説明できないことなんてない」―――という風に思っている人は、「最初から言葉が絵よりエライ」という、プラトン以来の執念(しゅうね)き上下層序にとらわれているのであって、そういう人間をこそ、スタフォード氏は「言語中心主義」として批判しているのである。なかなか伝わっていかないんだけれどもね。

 それにしてもこっちが「言語(論理)」というものを見限って絵の勉強を始め、そこそこ右左が分かるようになり、さて次は何を勉強しようかと考えている頃になって初めて、「論理の大切さ」というものが巷間に流布しているのだから、まったくやれやれという気分になる。論理じゃ人は動かない―――というのも、論理を使いに使って蹉跌(さてつ)を経験した後に悟るしかないから、先は長そうだなぁ。
d0026378_1957310.jpg

(といったことを全て教えてくれたバーバラ・スタフォード先生。ありがとう! 一生ついていきます!! 会ったことはないけど)

 関連過去ログ

 『からだの意識=独創性』

 『ことばの繁栄とイメージの逆境』

 『編集されたイメージとマンガ批評』

 かなびん氏のコメント補足画像

ルクレツィア・ボルジアの肖像(バルトロメオ・ヴェネツィアーノ作)
d0026378_8525191.jpg

ティツィアーノ作
d0026378_8533953.jpg

[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-05-12 18:54 | ヴィジュアリゼイション | Comments(5)

からだの意識=独創的

創造者たちは、能動的に新しい着想を育てているとき以外は、気落ちしかつ衰弱した状態にあるのである

(セイモア・フィッシャー 『からだの意識』 p211)
 自分の身体について敏感なことと、独創的なものの見方というのは正比例の関係にある―――という身体感覚論を組み上げるセイモア[サイモン]・フィッシャー『からだの意識』(誠信書房)がとんでもなくオモシロイ。

 要するに、子どもの頃から自分の「身体」というものに(病気その他の理由から)直面せざるを得ない体験をしていると、まず「自分の身体から生じた感覚」というものが、「基準」として確固たる位置を獲得する。そうなってしまうと、社会や学校教育がいくら「平凡の強制」(柳田國男)をしたところで、まったく「自分自身のもの」である感覚を揺るがすことはできない。だからこそ独創的なものの見方をする―――というのは、今まで一度も聞いたことはないが、恐ろしく説得力のある考え方である。
d0026378_22404621.jpg

 こういう時に自分の体験を披瀝するのは無意味なことだが、やはりまず「身体」が反応して(全身が震える、涙を流す)、その後にはじめて「感動」がついてくるというのが順序としてあり、この逆ではない。

 しかし「個性的」だの「独創的」などというのは何か良いことになっているようだが、引っくり返せば誰とも考え方(というより感じ方)を共有できないわけであって、何か同じものを目にしても「みんな」と同じように感じられないという孤独感はその子どもにとっては想像を絶するものであったし、またそういうものの一例としてこんな話がある。
細田 高校生活をワイワイ楽しんでいるような奴らとは、本当に口をききたくなくて、何をされたわけでもないのに、無闇に憎んでました。直接的な居心地の悪さというか、自分と世の中のズレている感っていうのが、一番強かった時期です
――それがあるからものを作っているのでは。だって普通に誰とも分け隔てなくコミュニケーション出来てたら、それをやり続ければ生きて行けるから、ものを生み出すなんて面倒くさいことはしないですよ。

(細田守 『季刊エス』 13号 p53)
 これが冒頭に引用した部分にもつながっているわけで、福田恒存氏の『一匹と九十九匹と』という名編も、つまりは同じことを言っている。興味のある方は福田氏の全集(文芸春秋)で確認していただきたい。
d0026378_22375898.jpg

[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-03-31 22:07 | ヴィジュアリゼイション | Comments(0)

服を着る意味

服はほんらい他人の視線のためにある。

(鷲田清一 『人はなぜ服を着るのか』 p143)
 つまり、服に対する関心は「他人」に対する関心の度合いである―――というわけだ。もちろんこれは衣服にとどまらず、「化粧」(一般的なメイキャップという意味だけでなく、爪を切る・髪を切る・入浴するなどを含めた概念)に代表される「衛生」とも結びつく。哲学や現代思想には縁遠いが、その中で鷲田清一(わしだきよかず)という人は、相当信頼できる書き手のようだ。
d0026378_22342452.jpg

 (自分の着る)服に全く興味がない、というのは、他人に全く興味がないことであり、(自分の着る)服にしか関心がない、というのは、他人にしか興味がないということで、これはどちらも恐ろしく嫌味なものであるから外すにしても、ではこれからの「お洒落」というのはどういう方向を目指すべきか―――というところで、鷲田氏が言うのは「ホスピタリティ」。人を「歓待」する精神、これだ。
d0026378_22424558.jpg

 話の成り行きとしては当然、ファッション・デザインの方向に話が進んで、だから氏の著作にはコム・デ・ギャルソンイッセー・ミヤケ山本耀司が出てくる。こっちはこの方面に恐ろしく無知だから、このブランド名を聞いた事はあっても、それがどんなものなのか全く知らない。ただ、鷲田氏の著作に引用される言葉を見る限り、山本耀司という人は相当オモシロそうで、この人に密着した映画(『都市とモードのビデオノート』)もあるという(が、入手は相当困難らしい)。
d0026378_22494419.jpg

(あろうことか、このボックスセットでしか見られないとのこと)

 そういったファッション・ブランドの話を読むにつけ、段々と分かってくることがある。こういったファッション・ブランドのやっている試みはオモシロイと思うし、なるほどとも思うのだが、どうしても忌避感があってそれがなぜかというに、こっちにとって服(や建築)は常に「生活」であって欲しい―――というところに落ち着く。今まで「服」というのはどこか座りの悪い概念だったが、これでピシっと一本の線でつながる。なんでも調べてみるもんだなぁ。
[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-03-25 22:37 | ヴィジュアリゼイション | Comments(0)

『Qさま!!』と19世紀の『見世物』

『Qさま!!』がやけにオモシロイのはなぜなんだろうと考えたとき、要するに十九世紀以来の「見世物」の歴史につながるからだというのが分かる。「『見世物』だなんて失礼な」という方に、見世物がテレビになっていく過程を説明してみよう。

 現在、メディア(伝達媒体)というものを考えると三つある。誰でもわかるように、
テレビ(視覚)
ラジオ(聴覚)
新聞(活字)
 であるが、なぜこの三つの中で、テレビだけがかような殷賑(いんしん)を極めたのか―――いくら小難しい理窟をこねたところで何も説明できはしない。「見世物だから」というのが一番簡単で説得力がある。
d0026378_20381292.jpg

(fig. from
http://www.archomeproducts.com/electronics/Projection_TVs/Hitachi_50_in_CineForm_153_LCD_Projection_High_Definition_Television_05754784000.jpg)

 いきなり現在から十九世紀に飛ぶと分かりにくいので、まず二十世紀初頭を考えてみよう。今のようにテレビもなければラジオもない時代、それがフリードリヒ・キットラーが指摘するように、グラモフォン(蓄音機)フィルム(映画)が登場することによって、その全てが変わる。それまで、音や映像の記録手段は存在しないから、その全てを活字がまかなっていた。いわば言葉の専制時代(オートクラシー)。これが二大発明によってがたーんと変わり、言葉の占める割合が大きく減る(それまでは言葉100%なのだから当然なのだが)。
d0026378_19113152.jpg

 ではそれ以前の十九世紀はどうなのか。記録手段は活字媒体しかないから、それ以外のメディアは大したことなかったんだろう―――と思うと、さにあらず。オペラやコンサートは高価なため一般に開かれていなかったが、ヴィジュアル面、つまり「見世物」はこれでもかというほど流行っていた。よくよく考えれば、当時、識字率はそれほど高くない上に、本はべらぼうに高い。どう考えたって、見世物にいくしかないのだ。
d0026378_19245723.jpg

 そういう見世物の究極の形が「博覧会」。今では文化文化と喧(かまびす)しいが、要するに最初は見世物だったわけで、現代で「見世物」というと下等とかサブカルチャーなんてイメージがあるが、最初からそんなイメージがくっきりとあったわけではない。見世物からいつのまにやら分化した、演劇映画というと高尚な感じがするが、だからといって見世物の伝統が途絶えたわけではない。安くて、誰でも見ることができて、毎日やっている―――なーんだ、これ、テレビのことじゃないか。テレビという媒体に「見世物」は生きている―――というわけだ。

 むしろ「見世物」こそがテレビの正しい(?)あり方なわけで、それを考えると体を張った企画ばかりの『Qさま!!』『鉄腕ダッシュ』がオモシロイのも頷ける。トークバラエティといいながら、その実、全て「自分の話」である番組がオモシロイわけがない。そんなものは見世物ではないからだ。

 じゃあ体を張ってりゃいいのかというと、もちろんそうではない。「見世物としてのテレビ」を考えた場合、その一番すさまじい例はアンタッチャブルのDVD『できませんはいいません』(レンタル有り)ではないだろうか。知らない人は知らないが、知っている人間もそんなに多くはない深夜番組『ゲーム Wave』のスタッフが再集結して作りあげた「私物(!)爆破(!!)企画」は一見の価値有り。それにしてもヒドイことするよなぁ。
d0026378_1945044.jpg

[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-03-22 18:58 | ヴィジュアリゼイション | Comments(0)

19世紀と18世紀の違いを絵で見せる

19世紀を舞台とした森薫の傑作マンガ『エマ』、その唯一の欠点は舞台が19世紀ということだが、言語の違いでは説明するのに不便だから、絵画でその違いを見てみることにしよう。
d0026378_17234319.jpg

 まず18世紀は、ルソービュフォンによって啓蒙主義がおこり、要するに自然な美しさ/自然の美しさを賛美する時代で、長い戦乱が終わって政情も落ち着き、問題はあるにしても、明るい時代だということに間違いはない。だからこそ、その当時の小説はどれも文章が活き活きとしていたし、簡潔にしてスピード感のある文体で、つまり、読んでオモシロイ。それを象徴するのが、ヴィジェ・ルブラン(Vigee Lebrun)のこの絵ではないだろうか。
d0026378_17312614.jpg

(『ヴィジェ・ルブラン夫人とその娘』)

 19世紀に入るとこの笑顔が全て死ぬ。自然から反自然へ―――なんていうと聞こえはいいが、まあロクなものではない。コルセットによる身体改造だけでなく、病を感じさせるものこそが美というヒドイ話であって、だからこそ生命感に満ち溢れていた散文は全て死に絶え、もって回った言い方と単語が稠密(ちゅうみつ)する文章ばかり、つまり読んでもオモシロクない。というわけで、ジャン・アウグスト・ドミニック・アングル(Jean Auguste Dominique Ingres)の絵画をご紹介。
d0026378_17421395.jpg

 この絵は良い方だが、本当に病人そのものを「美」として描いたものや、かなりやつれた人間を「美」として描いたものがあって、その物憂げな暗さを堪能したい御仁は、アントワーヌ=ジャン・グロ(Antoine-Jean Gros)『クリスティーヌ・ボワイエの肖像』を博捜(はくそう)していただきたい。実を言うとそちらの図版を引用したかったのだが、どうやっても見つからず、なるべく近い雰囲気のを選ばせて貰ったが、やはり明るい絵が好きなだけに、どうしても陰鬱な絵画は選べなかった。

 こういった図版の数々を教えてくれた『美女の歴史 知の再発見双書』(創元社)はありがたい本であった。特にヴィジェ・ルブランという、ドンマイナーながらすばらしい画家の存在を教示してくれたのは、本当にありがたいことである。これに限らず『知の再発見双書』はなかなか優れたシリーズなので、興味のある方は手に取っていただきたい。
d0026378_1757413.jpg

[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-02-10 17:23 | ヴィジュアリゼイション | Comments(0)

ことばの繁栄とイメージの逆境

いかん!! 文章だけではいかんのだ!!(逆境ナイン風) 文章だけがみっちり詰まっているものは読む気が起こらない―――という教訓をジェレミー・ブラック『ヨーロッパの勃興』が教えてくれた。ということはつまり、この本は読む気になれなかったというわけですな。
d0026378_2122742.jpg
 
 ヨーロッパが一番動いた17世紀~18世紀をあますことなく網羅した歴史書―――らしいのだが、残念ながら「文章オンリー・アンド・活字みっちり」なおかげで、読めたものではない。文章が上手くないからだろう、ということは全くなくて、相当に分かりやすい語彙と構文、文章構成も悪くはない、つまり文章はヘタでない。

 文章が上手かろうと、着眼点が新しかろうと、内容がオモシロかろうと、それでは読む気になれないのだ。図版や文章のレイアウトに気を配れば、更に分かりやすく、文章の上手さがひきたち、内容がよりオモシロくなるのに―――つまり、もったいないのである。

 現代は、図版・レイアウト・余白のとり方など、過去に比べたら恐ろしく自由に出来るはずではないか。それなのに、なぜいまだ「ことばの支配(rule of the language)」が続いているのか―――「ことばの支配」が恐ろしく長かったからである。

 今や絵があるのが当たり前、写真が撮れるのが当たり前の時代だが、19世紀にカメラが発明されるまで、見たい絵を見るためには現地に行くほかなかった。だからこそ画家はこぞってイタリアへ旅したのだし、そのほかの職人たちもこぞって旅をした、というより、旅をしなければ「見られない」から行ったのである。
d0026378_21392340.jpg

d0026378_21403772.jpg

 要するに19世紀になるまで、絵(image)の歴史なんてものはなかったのである。絵(image)の歴史も、ことばの担当だったのである。21世紀だなんだといったところで、絵の歴史なぞ3世紀になったかならないか、ことばの歴史に比べてみれば無いも同然。だからこそ、コンピュータの時代になって、自由に図版をレイアウトできるようになっても、やらない―――というか、絵(image)を使うということそのものが、まず意識にのぼらない。

 バーバラ・スタフォード氏は、それに気づいたのだ。「ことばが上で絵が下」というのはおかしい、と。しかしながら、いかに氏が明晰な論理でもってそれを説いても、そんなことをする歴史の積み重ねがないから、ことばの歴史には敗北してしまう。
d0026378_21554028.jpg

(バーバラ・M・スタフォード氏)
d0026378_2205313.jpg

 とはいえ、彼我の地ではマサチューセッツ工科大学出版局(MIT press)により、多彩な図版とレイアウトの書物がどしどし世に送られている。なぜ文章だけではいかん!!のか、MITの本を手にとってみれば瞬時に分かることなのに―――それが悔しいわ(東方不敗)。もちろん、英語の本だなんだというのは問題にはならない。手に入れたときの嬉しさと美しさが、問題にならないぐらい、素晴らしい。
d0026378_2213538.jpg

d0026378_222130.jpg

[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-02-03 21:22 | ヴィジュアリゼイション | Comments(0)

「見えない」=「いない」世界

見たことのない者と、その世界を分かち合うのは難しいさ(アニメーション『蟲師』 第一巻)
 この世の「いる/いない」を分けるのは、「見える/見えない」だけが焦点であって、それが実在するかどうかというのはさしたる問題ではない、というのが視覚文化のキモである。
d0026378_2042068.jpg

 「見える」ことをテーマにして突き詰めていくと、ヨーロッパで発生した「博物学(natural history)」という分類に向かうけれども、当然その反対に「見えない」ことをテーマにした世界もあって、それが伝奇ものというジャンルに落ち着く。

 愛読してやまぬ『百鬼夜行抄』から諸星大二郎の作品群、新しいところでは『もっけ』『蟲師』など、これ全て「見えない」はずなのに「見える」、だからこそ「いない」はずなのに「いる」という話である。見えないものにとっては「いない」けれど、見えるものにとっては「いる」―――それを考えると、マンガというのは伝奇ものをやるのに最も適した媒体かもしれない。
d0026378_2047946.jpg

 分類大好きヨーロッパの方々も、19世紀にカメラが登場して「あちらの世界」に関心を持つようになる。コナン・ドイルルイス・キャロルが、カメラという最新機器を使用して「うそ心霊写真」作りに熱中するのは、この時代。何も二重露光のトリックまで使ってやるこたないよなぁ、と思うが、「見えない」ものは何が何でも「見える」ようにするというヨーロッパ人の執念。
d0026378_2103815.jpg

 なにもあちらだって最初からキリスト教だったわけではなく、土着の精霊文化のようなものは根強くあり、ケルト神話なぞその宝庫といった感じさえする(W.B.Yeatsの『Short Fiction』は傑作!)。ものの本によると、キリスト教の三位一体「父と子と精霊」というのも、実はそういう流れをくむものらしい。

 この三位一体(trinity)という概念はあちらの人でも説明に苦しむらしくて、スペインの宣教師がペルーの人々に説明しようとしてこう言ってしまったそうである。
三位一体と申して、三人の神があり、そして一人の神があり、それ故に合計四人である。 (吉田健一 『酒に呑まれた頭』 ちくま文庫 p21)
d0026378_21131529.jpg

[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-01-29 20:39 | ヴィジュアリゼイション | Comments(0)