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カテゴリ:詐欺の文化史( 22 )

こども=「知恵の実」以前

「七歳までは神のうち」―――ものごころがつく前の子どもは「エデンの園」、しかも「知恵の実」を食べる前のアダムとイヴに等しい―――簡単に言うと、「服(ファッション)」がいらない世界の住人ということ。しかし、これではなんだか分からないから順を追って説明していこう。

 キリスト教の説明では、神が最初の人間アダムを創(つく)り、その肋骨からイヴを創った。その二人が住んでいた楽園が「エデンの園」。ここでは二人とも働かなくていいし、食べ物もあった。それをサタンがそそのかして「知恵の実」を食べさせ、二人は知恵がつき、イチヂクの葉で局部を覆った。それを見た神はお怒りになって二人を追放し、男は労働と、女は陣痛という重荷を背負わなければいけなくなった―――これが有名な「楽園追放」のエピソードである。
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(fig. from
http://www.kitanet.ne.jp/~yeomam/04.jpg)

 このエピソード自体は非常に有名で別になんでもない話だが、この二人が身につけた「イチヂクの葉」―――これが人類最初の「服」だ、というのはルドルフスキー『みっともない人体』に教えられるまで気がつかなかった。
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(fig. from
http://www.home-takumi.com/nikki/syuukaku.jpg)

 ここから少し話は飛んで、「詐欺」について考えてみる。詐欺師に騙される人間(カモ)の特徴として「服装とそれを着ている人間をイコールだと思う」というのがある。つまり身なりが立派な人間は、人間としても立派だと思い込んでいる―――そういう人は詐欺師の「立派な身なり」にコロっと引っかかる。なるほど、頷ける話だ。

 その反対にいくら詐欺師ががんばっても引っかからないのが「子ども」である。子どもというのは詐欺師の天敵であり、立派な身なりにも決して騙されてくれない。子どもにとって「服(ファッション)」などというのは、全く眼中にない。

 ここでハタと気がつく。服が眼中にない―――つまり「服というのはあってもなくても一緒」―――そうか、子どもは知恵の実を食べる以前の存在なのだ。今まで「子ども」「詐欺」を結びつけるピースが埋まらず悩んでいたが、「神である子ども」「服」なんてものに関心がない、だからこそ、詐欺師が持つ最大の武器「見かけの立派さ」に、ことごとく打ち勝ってしまう。ようやっと合点がいった。
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by ulyssesjoycean | 2006-03-30 17:57 | 詐欺の文化史 | Comments(1)

『お洒落』と『信用』のリアルな話

「見た目で人を判断するな!」という言葉があるが、衣食住という生活の三本柱を考えた場合、「衣」、つまりその人が着ている服しか判断基準はありえない。それを以下見ていくことにしよう。

 食べ物に関しては人間の生存に関わる基本欲求でもあるし、これは規制できない。建築は、まずそれ自体にとてつもない財力を必要とするし、住んでいる環境もよほど親しくならない限り、または、どれだけ親しい間柄であっても住んでいるところなんか知らない―――ということだってあり得る。
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(こんな建築は個人では不可能)

 その点「衣」は、まず身につけてない人はいないし、服を着ていなければその時点でポリス沙汰である。ともに食卓を囲まず、家に赴くことがなくても、「服」だけは必ず目にすることができる―――だからこそこの部分が、対人関係において強力な判断基準となる。

 もちろん、こういう判断というのは、強固な身分制度社会においては成立しづらい、というより、それこそ十八世紀以前の社会にあっては、服=その人の身分であったわけで、ファッションがどうの見た目がどうのなんてことはハナから考えなくてよかった。

 そういう身分制を突き崩す原動力となったのが、「上流嗜好」「舶来品信仰」。要するに外国のものは何でもありがたくてみんながとにかく金持ちになりたいという、大阪万博の頃の日本のような状況。それこそが下から上へとプッシュして身分制を崩しことになる。
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(万博当時の雰囲気を知るにはこれしかない傑作)

 外国のものをありがたがるのは「文化後進国」ならではの現象で、彼我を比べることができるようになった―――つまり世界経済へ従属的な立場で参加したことを意味するという。日本と同じくイギリスも島国であり、17世紀はオランダこそが世界の中心であったというのは、碩学サイモン・シャーマ氏の『富めるが故の惑い』に詳しい。それが十九世紀になると、日本・中国・インドというアジアの文物が珍重される、その下地と考えればよい。
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 海外文化の模倣というと、響きはあまり良くないが、文化後進国にあってはそれを国内で模倣し生産することによって自国の生産力が高まる―――つまりは職人が育つ、ということでもある。技術もないのに優れた商品を作ることはできないから、これで高い工業力、つまりは他国と競争しても負けない商品ができる。まさに日本!という感じだけれども、これはイギリスのことで、要するに時代や文化的状況が揃えば、どこでも起きる現象だということになる。

 そう考えると「流行ばかり追いかけやがって」というのも是認できなくなる。言い方は悪いが「上流気取り(スノッブ)」大衆が大きな市場となるので、そうでなくては市場が活性化しない。イギリスでは何度か「贅沢禁止令」というのが布告されたそうだが、こういう考え方が十八世紀にもなると「個人のモラルとしては正しいが、国策としては正しくない」という風に転換する。

 それまでは金貨・銀貨という貴重な鉱物こそが「お金」だったわけで、当然、そんなものが沢山あるはずはないから、商品を他国から輸入していると、その貴重なお金がどんどん流出してしまう。だから贅沢な輸入品は買うのを止めましょうというのだが、それでは国内消費は縮小してしまう。そんな風に国が貧乏してにっちもさっちも行かなくなった状況で、詐欺師が登場し「これからのお金は『約束事』だけでやっていきましょう」という風にして、株式と紙幣が誕生する。これならいくら使ってもなくなる心配はない、というわけだ。
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 あとは貨幣経済が加速し、十九世紀になると、もはや衣服だけで身分は区別できなくなってしまう―――どころか、平民から伊達男が出てきて、それを上流が真似する始末。こうなっては身分もクソもない。こうなってしまえば、流行というものは廃れて(上流がないんだから追いかける意味がない)、伝統的(トラッド)な服装へと移行する。

 こういう服装と経済の流れを教えてくれたのは、やはり川北稔(かわきたみのる)氏の『洒落者たちのイギリス史』であり、それに目をつけたこっちの勘は正しかったということになる。それにしても、こんなに簡単に分かることが、どうしていわゆるビジネス書では分からないのだろうか。こんなにオモシロイのに、みすみす読者を逃がすのでは、もったいない話である。
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by ulyssesjoycean | 2006-03-12 21:47 | 詐欺の文化史 | Comments(0)

詐欺師たるものお洒落は必須

ツマラナイ経済書を読まずに経済を知るにはどうすればいいか、というので「詐欺」をテーマに調べ始めたが、やはり同好の士はいるもので、様々なテーマから経済に切り込んでいる方々が見つかった。
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 アナール学派というアレな歴史学の流派(?)があり、その中の一人フェルナン・ブローデル(Fernand Braudel)氏が歴史と経済の関わりを、エネルギーの流入という観点からといってもまだ読んでいないので何も知らないが、どうもそういうことをやっているらしい。版元が藤原書店で、同士がリュシアン・フェーブルとくれば、内容はお墨付き。

 そして気になるもう一人が川北稔(かわきたみのる)氏であり、世界と砂糖の関わりや、翻訳している著作にも筋が通っていて、これは信用できそうである。『洒落者のイギリス史』(平凡社ライブラリー)という著作もあり、詐欺とお洒落は密接なかかわりがあって、最近ポリス沙汰になった株屋のあの方が詐欺師として失敗してしまったのは、要するに服装の趣味が問題だったということになる。
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 しかし「お洒落」とはそもそもなんなのだろうか。しないといけないからしている人もいるぐらいで、そういう人たちは面倒くさくなればお洒落というよりは見た目を気にしなくなって、休日にショッピングセンターにいけばそういう人たちがゴロゴロいる。かといって高価なものだけがお洒落であるというのも恐ろしく嫌味なもので、見た目を気にしないのも高価なものだけがお洒落なのも何かが欠けている点で同じだということに気づくが、ではお洒落とはなんなのか。
 一般にお洒落といふのが主に身なりのことを指すのはそれが一番目に付き易いからであると思はれてそのことを念頭に置いた上で身なりを構はないでもゐられる。併しそれにも限度があり、これが極端になればやはり他人との問題が生じてこの自分と他人の関係は身なりやお洒落のことに止まらない。そのことを律するのに自分も人間である点で他人と変らないこと、従つて自分を他人と見立てて過たないということがあって洒落ものは先ず鏡に向かって礼節を守る。

(吉田健一 『交遊録』 吉田健一終生 3巻 p198)
 たしかにこの通りだと思うが、お洒落をすることの「効果」についてはここに書かれていない。詐欺師にとってはお洒落よりも、お洒落をすることの「効果」の方が大事なので、それがどういうことなのか分かれば「信用」が理解でき、結局は「経済」のことを知ることにもなる。しかしそういう奇特なことをやっている人は殆どいなくて、だからこそ川北氏の著作がその手がかりになればいいと思うばかり。『スーツの神話学』はいまひとつだったからなぁ。
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by ulyssesjoycean | 2006-03-08 21:06 | 詐欺の文化史 | Comments(1)

お金が消える日

紙幣はなくなる。お金の歴史というものを考えれば、そうなるしかない。お金というのは使えば使うほど、お金「そのもの」には価値がなくなっていくからだ。

 なるほど、お金で買った「モノ」には価値がある、しかし、それを買うのに使ったお金「そのもの」には価値がない―――「紙幣」なんてただの「紙」でしかないからだ。だから「紙幣」で買う「モノ」がない状態になれば、嫌でもそのことに気づく。戦争中のエピソードでこんなのがある。紹介しよう。
 一皿二円だった。当時としては安くなかったが、金があっても買うものがない時代だったから、二十円や三十円はいつもじゃらじゃらしているのではなくて、財布の中に十円札で腐っていた。

(吉田健一 『三文紳士』 p81)
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 こういう極限状態になると、今までやってきていた貨幣制度というものが、まったくの「約束事」であったのに気づく。約束事が意味をなくすと、当然「物々交換」という制度に戻らざるを得ないから、戦争になると着物や美術品がお金の替わりとして循環する。

 話が見えにくくなってきたので、まず物々交換がなぜ貨幣制度へと移行していったか、このあたり、マニュエル・デ・ランダ『非直線の千年史』が詳しく教えてくれるので、それを参考にかいつまんで説明してみよう。
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 物々交換というのは、人と人が直接会わなければ成立しない。その上、両人の欲しいものが完全に一致するなどというのはまず滅多にないことで、しかし欲しいものはある。ではどうすればいいか。

 直接会うのでは面倒だから、誰もが欲しいものをお金として使うようになる。塩や貝殻、サンゴに象牙がお金になるが、今となってはちょっと分かりにくい。もっと分かりやすく刑務所のタバコを考えればいいだろう。要するにみんなが望むものであればそれがお金になるのである。

 ところが以前説明した通り、お金の原材料が枯渇―――つまり国が貧乏すれば、貨幣も少なくなってくる。そこでお金を「紙幣」にし、国が補償(保証)するから「一万円札」=「一万円の価値」という「約束」だけでやっていきましょう、というのが近代貨幣経済の始まり。
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 要するに大事なのは「約束」なので、これを突き詰めて考えれば、「約束」さえあれば形のあるお金はいらない―――という結論が出る。クレジット(信用)とはよく言ったもので、クレジットカードさえあれば、別に現金を使わなくても買い物ができる。あとはこれを推し進めて、クレジットカードというシステム、つまり「約束」をお金にすればいい。約束だけで動いていると考えれば、だって似たり寄ったりではないか。

 ただ、こういう約束事だけを先に進めていくと、それを約束事と知らずに使っている人間と、その約束事のアナに気づく人間が出てくる。前者がカモであり、後者が詐欺師となる。株式投資とネット市場が整備された現代はまさしく詐欺師向きの時代、それに堀江氏は気づいたんだろう。気づいたまではよかったんだがなぁ、その後がよくなかった(笑)。詐欺師のアキレス腱は「自己顕示欲」だと、詐欺研究の先達・種村季弘(たねむらすえひろ)氏も言っているように、まさに「自己顕示欲」が災い(幸い)して全て御破算となった。

 それにしてもこういうお金の話、誰もしてくれないのはなぜなんだろうか。儲け話とご自身の経営方針はけっこうだが、ちゃんと「お金とは何か」を話した方が、どれだけオモシロイか分からない。
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by ulyssesjoycean | 2006-03-07 10:39 | 詐欺の文化史 | Comments(0)

「子ども」で見る『モモ』と『百鬼夜行抄』

ミヒャエル・エンデの作品『モモ』で、主人公の少女モモが、何もせずに時間貯蓄銀行を打ち負かすが、これは「こどもVS詐欺師」の典型と見えてオモシロイ。
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 時間貯蓄銀行の社員・灰色の男たちが、人をそそのかして時間を盗む詐欺師だとすれば、主人公のモモは、まさに「まれびと」、ようするに「神様の領域」にいる。人間側の理窟が「神様の領域」にいる子どもに勝てるはずはなくて、だからモモは何にもしていないのに勝利してしまう。

 本田和子『異文化としての子ども』を読んではじめて、「七歳までは神のうち」ということばを教わった。こっちは民俗学など何も知らぬから「へぇ~」という感じ。今市子氏の傑作『百鬼夜行抄』(朝日ソノラマ)で、主人公・律(りつ)が幼少の砌(みぎり)、女の子の格好をしていたというのも、なるほどそういうことかと合点がいく。
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 「子どもは神様」というのはいいとしても、それがどうして「詐欺師に勝つ(詐欺に引っかからない)」のか、その二つを結ぶ何かが埋まらない。「子ども」と同時に「道化(fool)」も調べ始め、高山宏の手による『道化と錫杖(しゃくじょう)』『愚者の知恵』なども読んでみたが、山口昌男臭が芬々としていて、どーにもツライ。やはり調べるべきは子どもの方か。
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by ulyssesjoycean | 2006-03-01 18:23 | 詐欺の文化史 | Comments(2)

「トリック」が通じない「こども」

推理小説家とマジシャンと詐欺師の天敵、それが「こども」。とにかく「こども」にはトリックが一切通用しない。ではなぜ、こどもにはトリックが通用しないのか、そのヒントを歴史学者・阿部謹也氏が教えてくれた。
 与えられた意味を受け入れることはなかなかできない。でも、意味を発見したりつくったりすることはできるんですよ。自分で意味をつくるのは子どもなんですね

(阿部謹也 『世界 子どもの歴史』 p69)
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 さあこれはどういうことだろうか。これは氏が開いたゼミをまとめたものなので、引用した部分について掘り下げた考察はない。しかし、これが詐欺とトリック、つまり「騙し」の根本につながる記述であるのは間違いなさそう。

 こども研究に先鞭をつけたフィリップ・アリエス氏の著作を読むと分かるのだが、この人のやっていることは「こどもの歴史」であって、「こどもとは何か」ということではない。歴史もオモシロイが、こっちの関心は「こどもはなぜトリックに引っかからないか」ということであって、それには「こどもとは何か」が分からないと話にならないのだ。
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 恐らくその鍵は、表紙にもなっている「遊び」。阿部氏も、「遊びには聖なるものがある」と発言していて、詐欺に騙されない存在=聖者・道化も聖なる存在であるから、ここが理解できると、詐欺への突破口が開けるのではないだろうか。俗世にまみれていない超俗の存在(earth-detached)、それをまず勉強しなくてはなるまい。
 
 あとはこどもの教育を発見した、ルソーだろうか。こどもについて調べると、何を読んでもルソーに行き着くので、やはりこれも調べた方が良さそうだ。もしくは調べたことにした方が良さそうだ。
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(ジャン・ジャック・ルソー)
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by ulyssesjoycean | 2006-02-25 14:46 | 詐欺の文化史 | Comments(0)

「紙」がなぜ「お金」になるのか

お金が必要になるのはどんな時か―――お金がない時である。「そんなの当たり前!」と言うなかれ、お金がなかったからこそ、紙幣は誕生した。

 千円札・五千円札・一万円札、大切なお金であるが、実のところただの紙でしかない。どうしてこんな紙に価値が生まれるのか。それを紙幣が生まれた歴史とあわせて見ていくことにしよう。
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(イギリスの10ポンド紙幣)

 要するに国家が貧乏していた。逆さにふっても金や銀はこれ以上採れない。そこで今ある金(きん)を担保にして、紙幣を発行する(これを国が法律で認めるようにする)。気に入らなければいつでも金と交換(兌換/だかん)できますよ、というわけだ。こうすれば、ただの「紙」「お金」の意味が宿る。しかも「紙」だから、原材料の心配をせずにどんどん発行できる。
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 ここで問題が発生する。紙幣は金と違って流通しやすく、人から人へと渡っていくスピードは桁外れだから、そのうち紙幣の価値が下がり、インフレになって紙幣は流通しなくなる。なんせもとは紙だから、それ自体に「価値」があるわけではない。どうしたらいいか。

 紙幣を「お金」として維持させるためには、紙幣を「使」わなければいけない。「出資/投資」―――平たく言えば「モノを買って」はじめて、紙幣は金と同じ意味を持つ。使わなければ、紙幣に意味はないのだ。ということは、「紙=お金」というシステムを維持するためには、常に経済と市場を拡大していかなければいけない。つまり「買い続け」なければいけない。

 しかしこれも最終的には、紙幣で買う「モノ」がなくなれば終わり。モノがなくなったら、紙幣の価値は下がり続ける。ところが人間の「欲求」は無限なので、それを満たす「モノ」も無限にある―――だからこそ貨幣経済はいまだに続いている。
 
 知った風なことを述べたが、これ全て『金と魔術』(法政大学出版局)に教わった。中世に流行った錬金術は、詐欺師が発明した経済と金融に受け継がれていることを、ゲーテ『ファウスト』を使いながら論証していくという名著である。日本語が日本語になっていない経済書なぞ読むより、はるかに勉強になる。やはり「詐欺」こそが、「経済」を読み解くためのキーワードなのだ。
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by ulyssesjoycean | 2006-02-21 10:03 | 詐欺の文化史 | Comments(2)

マジシャン=推理小説=詐欺師

マジシャンにとっての三大原則―――これが推理小説の原則とまったく同じ。これから行うことを説明しない、同じマジックを繰り返さない、種明かしをしない、マジックには探偵がいないだけであって、やっていることは推理小説と一緒だという、こっちのカンは当たっていたようだ。
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 『ゾウを消せ!』は読み物としても優れた本だったが、そういう読み物的な部分の中にマジシャンの矜持(きょうじ)が仄見えて、ニクイ。紹介してみよう。
1:観客が自ら騙されるように仕向ける
2:小さい嘘を積み重ねて、錯覚の落とし穴を掘り下げる
3:マジシャンは嘘をつかないし、道義に反することはしない
4:口にして良いことと、口にしてはならないことがある
5:マジシャンの天敵はこどもである
6:マジシャンは決まったことしかできない
 「決まったこと」とは何だろうというと、これは10の技。これの複合でマジシャンはやっていくというのである。
1:出現
2:消失
3:転移
4:変化
5:浮遊
6:再生
7:生物
8:透過
9:幽霊
 細かくなるからひとつひとつを説明はしないが、言われてみるとそうだという気がする。ものを消したり、生き物のように見せたり、すりぬけたり、幽霊のような効果が出せるのがマジシャンだというわけだ。

 しかし、こっちからすれば10番目の技が一番オモシロイし、興味をそそられる。
10:詐欺
 これだ。説明では「読心術師や超能力者のまねごとができる」となっているが、これはまさしく「詐欺師」のことであって、修練を積んだマジシャンはいつでも詐欺師になれるという。

 いつでも詐欺師になれるのに、なぜならないのか―――という疑問に答えてくれるのが、インチキ霊能力者をぶっ潰していくランディ爺さんの挿話、というより爽話だろう。岡田斗司夫『東大オタク学講義』に入っているのでぜひ読んで欲しい。ユリ・ゲラーがスプーン曲げをやった会場で、まったく同じことをしてみせ、更にその全公演についていく(笑)。大問題になったらしいけれども、そりゃそうでしょう(笑)。
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 なぜそうまでして詐欺師を叩かねばならないのか―――マジシャンはアーティスト(artist)だからだ、というのがその理由のようだ。

 日本はともかく、ヨーロッパやアメリカ、つまりショウビジネス(エンターテイメント)が高い評価を受ける国々では、マジシャンというのは相当に社会的地位のある存在だそうで、厳しい修練を積んで観客を喜ばせるマジシャンからすれば、あんな三文トリックで超能力などとほざく詐欺師は許せない―――と、どうもそういうことらしい。

 社会的地位が高いということは、要するに憧れの職業でもあるわけで、若き日のオーソン・ウェルズなぞ、マジシャンに弟子入り志願している。気難しいことで有名なウェルズだが、『第三の男』では出不精のウェルズを引っ張り出すのにプロのマジシャンを呼んできて、撮影が終わったらトリックを教えますから―――そうでもしないと出てこない(笑)。今となっては笑い話だが、当時のスタッフは随分苦労したらしい。

 映画化されて話題になっているチャールズ・ディケンズもアマチュア・マジシャンだったそうで、19世紀は推理小説家でなくとも、みんなをびっくりさせることに命懸けの時代だったのだろう。それにしても、あんな気鬱な話ばかり書いていたディケンズが、家でマジックの練習を必死こいてやってるとは―――その姿を想像すると、少し可笑しい。
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by ulyssesjoycean | 2006-02-19 16:29 | 詐欺の文化史 | Comments(0)

人間の記憶 『攻殻』時代の記憶

記憶力が良い人と悪い人―――という言い方は正しくない。記憶する能力自体にさほど違いはない。記憶する方法が違うのである。その方法、「記憶術」を、歴史と絡めて述べてみることにしよう。

 「あれっ!? 今何しようとしていたんだっけ」

 こういう経験は誰にでもあるだろう。こういう時はその場で考えるのではいけない。それまでにやっていた行動を、思考も含めてもう一度繰り返す。玄関から入ってきて、靴を脱いで、バッグを置き、手を洗って―――という風に繰り返すと、間違いなく思い出せるようになるとは言えないのがツライが、けっこうな確率で思い出すことができる。

 そう、「記憶術」とは「覚える」ための方法論ではなく、「思い出す」ための方法論なのだ。そのヒントは上にもあるが、「場」である。記憶したいものと、場所を結合する―――これだ。
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 例えば、本の一節を覚えるには、その文章だけを覚えようとするのではなく、ページとその文章の位置関係を覚える。右のページだったか、左のページだったか、右だったらそのページの何行目あたりに書いてあったか、これを丸ごと覚えるようにすると、思い出すのが比較的簡単になる。

 思い入れや思い出も、「場」「形」が重要な要素になっていて、こんなエピソードがある。
 「失はれたときを求めて」はプルウストの名前を聞いてから大分たつて当時は十六冊本だつた普及版を手に入れたが、これも焼いてしまつて今はない。その後に十五冊本が出てそれから現在ではプレイアド版で三冊かになつてゐる事は知つ手ゐてもこれを買つてもう一度読んでみる気が今の所しないのは最初の版に対する愛着でもあり、又それだけその版と付き合つたからだらうかとも思ふ。(中略)
 この十六冊の普及版は誤植だらけのひどい本だったがそれでももう一度その古本でも手に入れたいものだと思ふことがある。

(吉田健一 吉田健一集成 第三巻 p25)
 
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 内容は同じなんだけれども、自分が親しんだときの「形」と違うからピンとこない、なんてことは良くある。ひっくり返せば、「形」「場」が変わってしまえば、「記憶」というのは失われるともいえる。

 だからこそ、新しいテクノロジーが出現すると「記憶」が問題になるので、カメラが出現したときも「記憶」が問題になり、そして現在ではコンピュータが問題になっているわけだ。「忘れない」コンピュータと「忘れる」人間はどうなるのか、というわけである。ようやく読了した『Digital Dialectics』(MIT press)にもこんな一節があった。
 本の新しい形が、読むという慣習にドラマティックな変化をもたらすことになるだろうとしても、だからといって、みんながみんな喜びいさんで新しいフォームに移行するかというのは、はなはだ疑問に思える。それはそうとしても、スクリーン上で今までどおりの本を読み、ハイパーテクスト機能を持ったアプリケーションを体験し、新媒体(ニューメディア)のポテンシャルを書き手(author)と等しく読者(reader)の方にも拡大することになるだろう。結局のところ、新しく立ちあらわれてくる記憶文化(メモリーカルチャー)は、独自の法則(ルール)と独自の書物を生み出す。旧媒体(オールドメディア)が持っていた限界を新媒体(ニューメディア)によって乗り越えることが、われわれに課された使命ではないだろうか―――それもテクノロジーによってではなく、挑戦するのは概念部分(コンセプト)である。メッセージなメディアは、記憶(メモリー)をも連れてくる。

(Florian Brody. The Medium is the Memory from ”The Digital Dialectics”. P148. MIT press. Translated by Shirokuma.)
 
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 『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』、つまり第一シリーズの最終回には、まさにこの問題が出てくる。素子(もとこ)とアオイ君の「どうかしてる」会話も、コンピュータ時代の記憶のあり方と考えるとオモシロイ。というより、あれはコンピュータの「ボケ」であり、それに「人間」の荒巻課長がツッコミを入れる―――「ボケ・ツッコミ」の構造。興味のある方は確認されたし。
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by ulyssesjoycean | 2006-02-15 16:50 | 詐欺の文化史 | Comments(0)

推理小説と密室トリックの起源

推理小説には欠かせない「密室トリック」。この「鍵をかけられた密室」という概念が生まれたのは、イギリスの18世紀に旅(行)ができるようになったことと関係している。

 災難(trouble)の語源は旅(travel)だそうで、つまり旅をするというのは、即座に死を意味したわけである。それが清教徒革命(1649)によって政情が安定し、大手を振って旅ができるようになった。

 今までの反動もあって旅行が大いに流行り、イギリスの金持ち子弟が勉強の総仕上げとしてグランドツアーに出る。小説の分野ではロビンソン・クルーソーなどが大流行、というのは以前説明した通りだが、これは全て「男の社会」での話である。
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 「男の社会」、つまり昨今のフェミニズム批評が槍玉に挙げる「ホモ・ソーシャル(homo social)」という世界であって、女性は文化に一切参加できない。愛読してやまぬ『トム・ジョウンズ』など、主人公のトムはほいほいどこへでも出かけていくのに、ヒロインのソファイア(Sophia)は鍵のかけられた部屋で、メイドと二人じっとしているしかないのがいつも気になっていた。しかも鍵をかけるのは実の親である。
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 それでもまだ18世紀は色々と融通のきいた時代だったようだが、それが19世紀になると言うのもはばかられるような偽善が横溢(おういつ)する。森薫氏の名著『エマ』にも、若干のダークサイドが出てくるが、あんなものではない。知りたい向きには吉田健一『ヨオロッパの人間』をおすすめする(文体に慣れるまでが大変だが)。要するに「女を閉じ込めておく部屋」というのが、密室の起源なわけだ。
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 英国の小説家ジョン・ファウルズ(John Fowles)『コレクター』という作品も、映画化もされたので御存知の方も多いと思うが、あれも結局は「密室に閉じ込めた女性を男性が観る」というアブナイ作品で、それを考えるとヴィクトリア朝が生んだ病理の直系と言える。

 要するにヴィクトリア朝というのは「密室の中で何が起こっているのか知りたい」社会だった。だからこそ探偵というものが登場して、密室の中で死んだ人間を調べるし、そのトリックもつまびらかにする。でもやってることは『コレクター』の主人公と何が違うのか。探偵(detective)の語源は「隠されたものを明らかにする」だが、実は「部屋の屋根をはがす」でもあるという、つくづくヴィクトリアンな存在だったのだと、合点がいく。オモシロイと言われる推理小説だが、アブナイ世界から生まれてきたものなのだ。
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by ulyssesjoycean | 2006-02-06 17:58 | 詐欺の文化史 | Comments(0)