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カテゴリ:探偵する小説( 24 )

『探偵は外が嫌い』 パート1

どうしてシャーロック・ホームズは外に出ないのか、ずっと不思議だった。今回読んだ『さかしま』の主人公デ・ゼッサントも、外に出ないどころか、延々と室内装飾の話が続く。
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 18世紀にはあんなに「歩くの大好き」、それこそ『トトロ』のテーマソングな人たちだったのに、どうして19世紀になると、みんな外に出ないんだろう。もしかするとこれは、「出ない」んじゃなく、「出られない」んじゃないだろうか。
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 そしたら『さかしま』の英訳にこういう一節があって、思わず膝を打った。
It was a fact that he suffered actual pain at the sight of certain physiognomies.

(J.K. Huysmans. "Against Nature" p39)
 要するに、外を出歩くと「ある種のフィジオノミーが目に入って、それが苦痛だ」というわけ。
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 「フィジオノミー」とは、ラファーターが創案した、人の顔を見てその人の性格を言い当てるという、擬似科学。

 これがもう、ヨーロッパで大ベストセラーになって、最終的にはナチスにたどり着くらしいんだけど、19世紀の人たちが外に出ないのは、なるほど、素顔で外を歩いてると、「顔を読まれて」しまうからなのか。
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 そうなると、探偵たちがそろいも揃って昼夜逆転生活、外に行くのはなぜか「夜」を選ぶという理由もはっきりしてくる――んだけど、それはまた次回に!
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(『モルグ街の殺人』、あの探偵オーギュスト・デュパンなんか、わざわざ部屋に厚いカーテンひいて、真っ暗にしてるんだもの)
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by ulyssesjoycean | 2007-10-24 18:14 | 探偵する小説 | Comments(0)

シュールレアリスムと推理小説

1920年代からシュールレアリスムがはやるが、これは要するに「見えるものがリアルではない!」という宣言である。
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(ルネ・マグリット 『人間の条件』)

 18世紀以来、「見えるものが分かるもの」という価値観が席巻し、「見えないものは」なんとしてでも「見える」ようにして理解しようとしてきた――その際たるものが解剖と推理小説であろう。
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(レンブラント 『トゥルプ博士の解剖学講義』)

 ポーからドイルへと、とにかく「見えるものを積み重ねていけばリアルにたどり着く!」という思想が、推理小説の命脈をたもっていたわけだ。それが1920年代を迎え、シュールレアリスムが登場したことにより、「見えるものがリアルなわけではない」ということに気づいてしまう。その辺で若きアガサ・クリスティーが登場、ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』が出る。

 そこで「見えないものがリアルだ」という風に、パラダイムの転換をはかったことが、ロザリンド・ウィリアムズ『地下世界』(平凡社)に縷説(るせつ)されている。びっくりするぐらいオモシロイので、これはどうしたことだろうと思って調べると、原書の版元はやはりMIT出版局であった。おそるべし、MIT。
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(ブッ飛ぶほどかっこいいブックデザインが目白押しのMIT出版局。由良君美氏の言う「脱領域」を実践しつづける最高にスリリングな版元である。ここの本にハマると、ほかの洋書を買わなくなるからコワイ)
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by ulyssesjoycean | 2006-11-18 17:50 | 探偵する小説 | Comments(0)

『金枝篇』 ヴァン・ダイン 『地下世界』

福田恆存(ふくだつねあり)氏のちらりとした一言がきっかけで光明が見えた推理小説の勉強。卓抜な年表『情報の歴史』で19世紀から20世紀初頭までをみっちり調べるのはいささか骨が折れる作業だったが、そのおかげで、次に読むべきものが定まった。

 まず第一にフレイザーの『金枝篇』。いわゆる人類学の出発点として有名な書物だが、ユング・フロイトの無意識とフレイザーの仕事には共通する思想があるらしい――これはどうしても読まなくてはいけない。
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 あとはヴァン・ダインの『僧正殺人事件』。推理小説といえば必ず名前が出てくるほど有名な作品だけれども、名のみ知るばかりで読んでいなかった。この作品が契機となって、いわゆる推理小説というものに区切りがついたとのこと。
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 こういう人類学~心理学といった流れを一冊にまとめあげたのがロザリンド・ウィリアムズの『地下世界』だと、高山宏氏の『奇想天外英文学講義』に教えてもらった。原書で読まねばならないかと思っていたら、なんと邦訳がある! 版元は平凡社だから、これもまた高山宏さんの差配によるものなのだろうか。
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(高山宏氏の著作ではもっとも好きな一冊。語り下ろしなだけに読みやすいし、タカヤマ学のエッセンスが凝縮されていて、なにより安いのがすばらしい)
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by ulyssesjoycean | 2006-11-16 18:42 | 探偵する小説 | Comments(0)

推理小説と福田恆存

推理小説から観相学、観相学からベンヤミン、そしてライプニッツの魔術思想というところまでは、その「つながり」が理解できた。しかし、推理小説がオカルトになだれ込んでいくのと、フロイトの精神分析が発展していくのが、まったくの同時期なのはなぜなのだろう――このヒントを福田恆存(ふくだつねあり)氏が教えてくれた。
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 この現実では勝てつこないとおもつた人間だけが、超自然といふことを想ひ付く。この相対の世界では物事は決着しないと考へた人間だけが、絶対者にすがりつく。世にあるものはなにもかもうそであり信頼できないとすれば、人間はこの世にないものしか信頼できなくなる。妙ないひかたをすれば、強い猜疑心にとつては、存在しないものだけが、その内兜を見すかしえぬ唯一のものなのであります。

(福田恆存 日本を思ふ 文春文庫 p75)

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(いまや『日本を思ふ』も、この『私の国語教室』も絶版となっている。もったいない)

 キリスト教についての文脈だけれども、これはそのまま「オカルト」「精神分析」にも「つなげ」られないだろうか。ただし、まだほんの手がかりといった段階なので、松岡正剛(まつおかせいごう)氏の『情報の歴史』を参照しながら、考えを進めていきたいと思う。

 それにしても、まさか福田恆存氏から推理小説への示唆を受けるとは思わなかったなぁ。
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by ulyssesjoycean | 2006-11-13 17:28 | 探偵する小説 | Comments(0)

ポーに戻れ!

トリックを云々するばかりの推理小説論ではいまひとつオモシロクない――というところから、こっちの『探偵する小説』はついにライプニッツにまで行き着いてしまったが、ここまで来たら、むしろいったん「戻る」ことが肝心である。

 だからといってシャーロック・ホームズ全集をもう一度読むというのでは意味を成さないから、やはり戻るべきはエドガー・アラン・ポーになる。うまい具合にポーの全集が第四巻だけ見つかったのだが、ポーの七面倒な英語が七面倒な日本語に変わっただけの話で、あの濃密な文章を読むのは翻訳といえどもいささかシンドイ。
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(こっちが所有するのは創元推理文庫版)

 ところが、巻末に付された江戸川乱歩氏の卓抜なポー批評を読むと、どうもポーという作家には子供っぽい側面があったのでは――という気がしてくる。ディケンズの小説の冒頭を読んだだけで、結末とトリックを見破ってしまうのはさすがだが、それを嬉々として雑誌に載せるというあたり子供っぽいと言えば言えるかもしれない。子供っぽいというより、「お茶目」ですな。

 その証拠に、以前ご紹介した『×だらけの社説』などという純然たる戯文もものしているし、それ以外にもユーモラスな短編があるとのこと。とすると、ポーの用いる七面倒な文体は、そもそもパロディなのではないだろうか。高山宏氏によれば、『アッシャー家の崩壊』に描かれる執拗な描写は、「そんなに描写ばかりしてどうなる」という意味の皮肉だという。
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 ポーの生きた十九世紀という時代そのものが上っ面はクソマジメだが、内実はとんでもないという、ふざけた時代であって、それをポーのような慧眼と茶目っ気の持ち主ならば茶化してみたくなるのも当然であろう。英語で読むと実感としてよく分かるのだが、十九世紀の文章はどれも「いいかげんにしろ」と言いたくなる様なもって廻った文体ばかりで、それをポーはさらにもって廻った文体にすることでパロディ化した。

 となると、ポーの作品もすべて読まなくてはいけなくなる。ところがその全集自体が入手しづらいとなるとお手上げで、ま、ひねくれもののポーからすれば内心ほくそ笑んでいるかもしれないが。
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(十九世紀の良質な部分だけを抜き出した森薫氏の傑作『エマ』。番外編を残してめでたく完結したが、ここまで「品」を感じさせるマンガというのはそうあるものではない。上流階級を描いているからという意味ではもちろんないのだが――などと、わざわざ断らなければいけないあたり、実に馬鹿らしい時代になったものだという気がする)
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by ulyssesjoycean | 2006-08-05 20:14 | 探偵する小説 | Comments(0)

推理小説からライプニッツへ 2

推理小説と哲学者ライプニッツという、一見ありそうにない「つながり」が、順を追って調べていくと間違いなくつながっている。
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(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ)

 まずシャーロック・ホームズとバルザックは、観相学(フィジオノミー)でつながり、バルザックの観相学は、ベンヤミンが言うところの遊歩者(フラヌール)とつながり、「見る人が見ればわかる」という遊歩者の自信は、魔術思想につながる。そしてその魔術思想のおおもとが17世紀の哲学者ライプニッツなのである。
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 魔術というと、現在ではいかがわしいものの代表になってしまったようだが、近代科学と魔術がその袂をわかったのは、そう昔のことではない。ましてや現代の科学信仰で、当時の魔術をいかがわしいものだと推し量ってはいけない。

 まず基本として魔術とは、バラバラなものを統一する思想である。宇宙(マクロコスモス)と人体(ミクロコスモス)は照応関係にある。そして人間の顔にはキャラクター(記号)があるから、それを読み取ればすべてはわかる――という考え方がその根本にある。ライプニッツがまさにそのことを言っている部分がある。引用しよう。
私はこれまでいつも言ってきたのですが、現在は未来をはらみ、事物はたがいにどれほど遠ざかっていても、そのあいだには完全な結びつきがあるから、十分に先見の明のある人は一方のうちに他方を読みとることができます。

(ライプニッツ 『モナドロジー』 必然性と偶然性 p224)

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 これを見ると、ホームズの言っていることとまるっきり同じだというのがわかる。さらにライプニッツは数学者でもあり論理学も極めた人だから、推理小説的な操作法もちらりとのぞかせていて、こうある。
たとえば同じ現象に関して、AとLという二つの属性があるとしよう。またAについて可能な原因がb、cと二つあり、Lについて可能な原因がm、nと二つあるとしよう。さて原因bが原因mとも原因nともいっしょには現われることがないとわかった場合、Aの原因はかならずcにちがいない。またmはnと両立しえないとわかればnがLの原因だということになるであろう。

(同上 学問的精神について p187)
 ホームズの操作法・推理法は、「アブダクション」という「~かもしれない」の考え方であるが、その根底には「万物はつながっていて、ひとつである」という思想が流れている。それこそがまさにライプニッツ。

 ライプニッツが生を受けた17世紀のドイツというのは、中公クラシックスの冒頭に付された下村寅太郎氏の卓抜な序文にもある通り、厭離穢土(おんりえど)――つまり生き地獄である。
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 最大にして最悪の宗教戦争であるドイツ三十年戦争が終わり、ドイツの人口は三分の一になったとも五分の一になったとも言われている。諸国は分離し国土は荒廃――そのバラバラになってしまった世界を繋ぎ止めたいという想いがライプニッツにはあるはず。魔術思想とは言ったが、この人は同時に外交官でもあり、バラバラな世界を条約のネットワークで「つなぐ」ということにも腐心している。
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(ライプニッツ・アナロジー・ヴィジュアルで「ちがいの中の同じ」を探る傑作)

 世界が分離・拡散を強めるなかで、それとは相反する「つなぐ」思想――世界はひとつであってほしいという願いが魔術思想になり、それが十九世紀という時代にラファーターの観相学として復活する。その背景は17世紀と同じだ。外形と内面は同じであってほしいという信仰、そしてそれを色濃く受け継いだのが推理小説というわけである。ホームズの作者コナン・ドイルがその晩年オカルティズムに走ったことは、むしろ当然だったといえるだろう。
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(コナン・ドイル)
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by ulyssesjoycean | 2006-08-03 15:58 | 探偵する小説 | Comments(0)

推理小説からライプニッツへ

推理小説の源流はなにか――ということを突き詰めて考えていくと、最終的には17世紀の哲学者ライプニッツにたどり着くという、とんでもない結論が出た。冗談でもホラでもなく、これは本当のことである。
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(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ)

 ではなにが「とんでもない」のかというと、ライプニッツがただの哲学者ではないから、調べようとするとドエライことになる。確かに哲学者ではあるのだが、同時に数学者でもあり、さらには三十年戦争で荒廃しきったヨーロッパを駆け抜けた外交官でもあり、アカデミーを作ろうと奔走し、諸外国の知識人と文通し、さらには薔薇十字団という魔術結社ともつながりがあるという――とてつもない博学博識の徒なのである。
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 しかし推理小説のことを調べ始めて、その源流であるライプニッツを調べないというわけにはいかない。では――というので手始めに読んだのが『モナドロジー』(中公クラシックス)だが、これがおそろしく爽快な書物で、哲学系の本にしては(と言わざるを得ないあたりが苦しいけれども)、非常に「明るい」。尊敬するスタフォード氏の「明るさ」は、なるほどライプニッツゆずりか――と合点がいった。
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 ただ惜しむらくは、これはもう日本の哲学における「病弊」と読んで差し支えないと思うが、翻訳があまり良くない(割りに良い方ではあるのだが)。フランス・ドイツ産のいわゆる「思想・哲学」系書物は、実は、原書で読むと相当わかりやすい。

 逆に言えば、わかりやすいものを翻厄者(!)がわざわざ意味不明な日本語に仕立てているわけで、「われわれがわれわれの身体にわれわれの存在を現前せしめる」なんていう訳文を見ると泣きたいような心境になる。たしかにフランス語では再帰代名詞というものをよく使うが、
Nous nous asseyons ici
 というのを「わたしたちはわたしたちをここに座らせる」などと訳したのでは話にならない――はずなのに、それがなぜか通用しているのが思想・哲学系の翻訳というものではないだろうか。だからこそ、こっちは英仏独伊羅を独学で身につけたのだけれども、そうまでしないと読めないなどというのは、どう考えてもオカシイよなぁ。
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(ジャック・ルイ・ダヴィッド『ソクラテスの死』 

ヒドイ翻訳書をつかまされたときは、左側の弟子みたいな感じになります)
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by ulyssesjoycean | 2006-07-27 16:02 | 探偵する小説 | Comments(2)

医者と密室トリック 

私室の成立が遊歩者(フラヌール)を生み、その遊歩者から生まれてきたのが探偵だ――というところまで話はつながった。推理小説の原型であるポオの『モルグ街の殺人』が、いみじくも「密室殺人」を扱っているのは、実はそういうわけなのだ。
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 「私室の成立」というのはイコール「密室の誕生」でもあって、要するに「人が入ってこない空間」である。防犯意識の薄い日本でさえ、まったく見ず知らずに人を家に入れたりはしないだろう。ましてやヨーロッパは「鍵文化」であって、密室の閉鎖性は桁違いである。

 そんな中、ただひとつ「密室」に入っていける職業があった。「医者」である。
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 18世紀までの医者とは同時に「床屋」でもあって、雑学好きならば、床屋の看板が「赤・青」のらせんなのは、あれは静脈と動脈をあらわしているんだよ――つまり床屋は医者だったのだ、と教えてくれるだろう。こちらが愛読するフィールディングの『トム・ジョーンズ』にも、おっちょこちょいな医者であり床屋としてパートリッジという人物が登場する。

 ただし十八世紀当時においては、医者の役目というのは「瀉血(しゃけつ)」――つまり余分な血を抜くことが治療行為であったわけで、古くからの「ヒューマー(体液)」説を根強く信奉していたことからも、それほど進歩的な職業でなかったことが分かる。
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 これが十九世紀になると臨床医学と解剖学が合わさったことにより、飛躍的にその立場が上昇――特殊な知識を有し、患者の秘密を守り、博愛の精神を持つ「医者」という職業が誕生した。「身体を治す」だけでなく、倫理・労働の領域まで介入する権利を得て、予防医学・衛生学に着手する。

 こうなってはじめて、医者というのは「私室(密室)」に入る権利を有するに至った。ブルジョワ階級の家庭生活に深く入り込んで、なくてはならない存在になる。シャーロック・ホームズを書いたコナン・ドイルが医者だったのは象徴的で、登場人物にワトソンという医者を登場させている。
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 シャーロック・ホームズとは、パリの街路(パサージュ)から生まれた遊歩者(フラヌール)であると同時に、科学知識を有する特権階級としての「医者」が、その造形に大きく寄与している。ただしホームズは、フラヌールの伝統である「観察者」は受け継いだが、外はめったに出歩かず、「室内」にこもり、もっぱら「蒐集家(コレクター)」として過ごした。
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 そのかわり、ホームズはよく「窓」を眺めた。十九世紀当時の絵画には、「窓」というのがモチーフとして頻繁に現われる。「観察者」を極めれば、群衆を高みから見下ろす――神にも等しい存在になるという、そのあらわれではないだろうか。バルザックに、こんなセリフがある。
人生というものを、連中が見ているよりももっと高いところから見てみよう。

(バルザック 『人間喜劇』 金融小説名篇集 ゴプセック p21)

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(ギュスターヴ・カイユボット『窓辺の青年』)

 魔術思想に根を持つ観相学も、行き着く先は「神の視点」――それが最後はヒトラーに帰着するのだから、皮肉な話である。先が見通せぬ末世(fin de siecle)になると、人が安易なオカルトに走ってしまうのは、今も昔も変わりないようで、それもまた皮肉な話である。

 やはりE・M・フォースターのように「私は科学の進歩も信じない。神の存在も信じない。ならばお前は何を信じるのだがと問われたら、人と人とのつながりだと答えたい」――敬愛する喫茶店のマスター「さっきの言葉いいね」と言ってくれたから、これだけは間違いないようである。
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by ulyssesjoycean | 2006-07-23 18:00 | 探偵する小説 | Comments(0)

インテリア 推理小説 ベンヤミン

「外」があるためには、まず「内」がなければならない。内、英語でいえば「インテリア」、つまり「室内」が成立してこそはじめて「街路(パサージュ)」が生まれ、そこを遊歩(フラヌール)することも可能となる。
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 ではその「室内(インテリア)」が生まれたのはいつからか、これをまたベンヤミンが簡潔にまとめている。こうだ。
私人の生活の場はここ[ルイ=フィリップの治世]で初めて労働の場所と切り離され、生活はまず室内で為されるようになる。帳場はその補完物にすぎない。帳場に座って世の動きを考える私人は、室内に溢れるさまざまな幻想に安らぎを求める。この要求は、彼が事業上の考慮を社会的な考慮にまで広げることなど考えていないだけに、ますます切実なものになる。そして、自己の私的な環境を作り上げるに際しては、彼はこのどちらの考慮をも排除するために、幻想に満ちた室内が出来上がってくる。私人にとってはこれが宇宙なのであって、彼はそこに異郷と過去を蒐集する。彼のサロンは、世界劇場の桟敷席なのである。

(ヴァルター・ベンヤミン 『パサージュ論』 第一巻 「パリの原風景」 p17)

 ルイ・フィリップの治世とはつまり1830~1848年の間だが、ここにおいて仕事場とは別に「私室」が成立し、そこに「ものを集める」ということをやり始める。つまり「蒐集家(コレクター)」の誕生というわけで、バルザックが『従兄ポンス』というコレクター小説を書いたのは象徴的だ。
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 しかし、部屋にいてひとりでに物や情報が集まってくるわけではない。つまり「外」に出る必要がある。
彼は群衆の中に避難場所を求める。群衆の観相学への初期の寄与はすでにエンゲルスとポーによってなされているが、群衆とは、ヴェールであって、それを通して見ると、遊歩者の目には見慣れた都市が幻像(ファンタスマゴリー)と映ずる。群衆の中で都市はあるときは風景となり、またあるときは居間になる。その双方をやがて百貨店が作り出す。百貨店はぶらぶら歩きさえ商品の売り上げに利用する。百貨店は遊歩者が最後に行き着くところである。

(同上 p20)
 人口が都市に集中し始め、群集が生まれ、百貨店(グラン・マガザン/デパート)が登場する。デパートの強みは、それまでの小売りと違って、値引き交渉をはぶいて薄利多売をやったことにあるが、それだって人口が増えたからこそ可能になったわけである。

 そして、ありとあらゆる商品(もの)がひとつの建築物におさまるデパートは、蒐集家が住む私室の拡大版といえる。つまり巨大なコレクションだ。
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(ギュスターヴ・カイユボット『雨のパリ』)

 こういうものが生まれてきたのが十九世紀のパリである。だからこそエドガー・アラン・ポオは、アメリカ人でありながらその推理小説の舞台をパリに設定した。探偵オーギュスト・デュパンが友人(主人公)の考えをすべて読みぬくのは、「パサージュを歩いている」、その最中だったということを思い出そう。

 逆に言えば、「遊歩者(フラヌール)」が職業として成立するのは、探偵だけだったのだ。
 遊歩者の姿の中には探偵の姿があらかじめ形成されている。遊歩者にとってはその自らの行動スタイルが社会的に正当化されることが重要とならざるをえなかった。自分の無関心な様子をうわべだけのものに見せるのが彼にはきわめて好都合なことであった。実際、そうした無関心さの背後には、何も気づかずにいる犯罪者から目を離さない監視者の張り詰めた注意力が隠されている。

(同上 第三巻 「都市の遊歩者」 p123)
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(十九世紀の画家ジェイムズ・ティソの描く「婦人部屋(ダーメンツィマー)」)
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by ulyssesjoycean | 2006-07-16 11:09 | 探偵する小説 | Comments(0)

フラヌール 推理小説 ベンヤミン

推理小説の原型(アーキタイプ)である、エドガー・アラン・ポオ『モルグ街の殺人』。そこに登場する探偵はオーギュスト・デュパン、名前からも分かるとおり、フランス人である。ここでふっと疑問が生ずる。

 作者のポオはアメリカ人なのに、なぜわざわざ小説の舞台をパリに置いたのか。アメリカやイギリスではいけなかったのだろうか?
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 いや、これは絶対にパリでなければならない。

 なぜというに、探偵とは遊歩者(フラヌール)から生まれてきたものであり、遊歩者とはパリの街路(パサージュ)から生まれてきたものだからである。

 これを教えてくれるのが、その名もズバリ、ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』。ベンヤミンの文章はクセのある難文だが、重要な部分なので引用する。
 遊歩者は、市場の斥候といった風だ。斥候と言うのであれば、遊歩者は同時に群衆を探査する者でもある。群衆は、打ち解けて入り込んで来る人に一種の陶酔を生じさせるが、この陶酔には大変特殊な思い込みが伴うため、その人は、通行人が群衆に混じって押し流されるのを見て、その外観に基づいて、その通行人を類別し、心の襞のすべてに至るまで正体を見分けたと自惚れることになる。

(ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』 第一巻 「パリの原風景」 p47)

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 これはまさしくバルザックが言うところの「観察家」
 服装だけからでも観察家は次のように思ったに相違ない。「この男はおぞましい奴なのだ。飲み、打つ、その他悪いことはする。だが飲んだくれではない。ペテン師でもない。盗人でもなく、人殺しでもない」

(バルザック 『人間喜劇』 娼婦の栄光と悲惨 p159)

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 ここにある「観察家」「遊歩者」と入れ替えればよい。「見る人が見れば分かる」というのは、観相学に貫かれた強烈な自信であるが、これはなにもバルザックに限ったことではなく、十九世紀当時には観察家=遊歩者という名目で、こんな人間が相当数存在していた。

 ではなぜ、このような「遊歩者(フラヌール)」が登場してきたのか。これには「室内」の成立というものが深く関係しているが、それはまた次回に。
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by ulyssesjoycean | 2006-07-15 11:33 | 探偵する小説 | Comments(0)