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カテゴリ:翻訳小説『不安な墓場』( 10 )

翻訳小説『不安な墓場』 第十一回

 女性について酷いことばかり言ってきたが、バイロンと共に、男よりよほどマシなものだということは肯(がえん)ぜざるを得ない。意を尽くし、己ひとりのことばかり考えるということもなく、その感情面においては忠実そのもの。その長い信管(ヒューズ)におさまった残酷さが、虚偽と復讐とに火を点けるとき、男の悪辣さが火を噴く。

 恭順を装わない女は決して男を幸福にすることはできず自分自身を幸福にすることも決してない。婦人参政権を求める女で幸福だったものがいようはずがない。男女の完璧に結びついた様というのは強弓に似ている。弦が弓を曲げるのか、それとも弓が弦を引き絞るのか。とはいえ男の弓と女の弦とが互いに調和してこそ矢がおさまるというもの。弦を外せば、弓はだらんとなる。弦はしだらなく音を立てる。

 女なんかという男では不完全である。清教徒(ピューリタン)が不完全だというのはその点で、己が半身を締め出すというのは不安だからでもあり内心深いところで己を潔癖のもとに監禁するとなれば、粗野に振舞うだけの気概を持った女を見つけるのは甚だ難しくなって、それで気分が楽になるということもない。

 サッバ・ドゥッカ、サッバ・アナッタ、サッバ・アニッカ

 川の流れに石がひとつ、木片がそれに引っかかる。枯れ葉、丸太、かたまった枝が泥と一緒に集まる。そこに草が生え、ほどなくして鳥が巣を作り子を養いその周囲に水草が萌えいずる。川面(かわも)が荒れて地上は洗い流される。鳥は立ち、花々は萎び、枝は流され下流へと下る。浮島の痕跡はなく、ただひとつ、石だけが水中に沈む――これが私たちのパーソナリティー。

 もし(キリスト教徒が、仏教徒が、神秘論者が、ヨガの行者が、プラトン主義者が信じるように)私たちの人生が虚栄であり、この世界は非有(ひゆう)であり、パーソナリティーが非―在で、五官は嘘つきで、その知覚も理性さえも想像も間違いだとしたら。いつもいつも肉体(フレッシュ)からこの手の推理が導かれるとは悲しいことというほかない。もし人生における使命というのが霊的(スピリット)に展開させることだとすると、この御しがたい身体を与えられたのはなぜか、何千年もかけて改善できぬというのではおかしいではないか。肉体(フレッシュ)から生ずる欲(ラスト)ひとつ、幻想のたったひとつも、男にもある乳首というものさえどうにもならない。新生児さえもが感覚から生ずる貪欲と自分が中心にいないと気がすまぬというので激怒する。

 三つの間違いが、共に在りすべての活動を悪感化する。怠惰、虚栄心、臆病。もしあるものがあまりに怠惰で考えることもできず、虚栄心のお蔭で物事をなすにも酷い有様で、あまりに臆病でそれを認めることもできないから、英知を手にするなぞおよそ無理な話。習慣でやっている考え方を手放してこそ考えることも芽生えるというもので、ひと続きとなった思考の論理に火が点く、これこそ追い求める価値のあるものだ。節度ある人間というのはオリジナルな理想を追ってロンドンのハトが飛ぶその先まで求めるなんてことはまず滅多にない。

 自得するという精神の怠惰が、我が国民の病。

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by ulyssesjoycean | 2006-08-14 14:28 | 翻訳小説『不安な墓場』 | Comments(0)

翻訳小説『不安な墓場』 第九回

 四十――快楽主義へのほの暗い記念日――仏陀、ムハンマド、孟子、聖イグナティウスについて真実を深めた人々にとっては、その人生のターニングポイント。
 幸福の秘訣(というのはつまり成功の秘訣)は存在していることと調和し、常に冷静、常に明晰、常に「万物に加わることを白痴以上に意識しない」ようにし、人生におけるそれぞれの波をもって自分たちを海岸まで押し運ぶようにさせる。

 ではアートにおける秘訣とは? あまりに多くの地獄(インフェルノ)とほんのわずかの天国(パライソ)がありヨーロピアン・アートにおける地獄(インフェルノ)の数々の方が私たちの気性としては真なのだと思う。悪魔崇拝(サタニズム)、戦争であるとか受難を生き抜いた人々だけが天国(パライソ)を好む。その意味では宗教もアートに連なるものであり、愛に連なるものであって、失楽園の後をなんだかなぁという感じで得楽園がついていく。

二人の近代の道学者(タオイスト)

「こういったクリエイティヴな静寂というものを有する男に私はいまだかつて出会ったことがない。太陽の光のごとくその男から拡散する。その顔は昼と夜、空と海と大気を知った男のもの。こういった草々について話さなかった。物語るにも表現のしようがないのだ……」
 「パウル・クレーの窓を通りからよく眺めたものだったが、ひょろんとした青白い顔は、大きな卵のようで、見開いた両目を窓にべたっと押し付けていた」――J・アドラー。

 今まで経験してきたことで拘るのは、クールさと思考を緩やかに盛り上げていくことだけだ。もし僕が影響をもたらして君にできるようにさせるなら少々手伝ってもらおうか(ジュ・トレ・ランデュ・アン・プ・ドゥ・セルヴィス)。ぜーんぶだ(ジュ・ティアン・テルマン)――そうすればぼくのやり方が分かるだろうさ(シ・テュ・サヴェ・コム・ジィ・ティアン)。このアドバイスを僕の永遠なる、そしてこの厳粛な遺産を君に送ろう――ウォルター・シッカート(ニーナ・ハムネットへ)。

 「休息にある至人の精神は万物をうつす鏡であり、万物の反射鏡である」――荘子。

 何がしかを生み出す(プロデュースする)かどうかはさておき、この熟考というのが芸術家にとっての刻印である。これがゼラチンとなって、女王蜂のゼリーとなって、根を肥やす堆肥となる。晴朗さの暴力によって、暴力的な人間というのはたった一人のこの男の前に屈する。

「黄帝でさえ疑うようなことを、どうしてこの孔丘が知れようか」

 パリヌルスが言う。岩に生(む)すコケとなっても大統領のカーネーションとなるよりはマシだ。物事の始まりを避けることによってのみ、その終わりから抜け出ることが可能となる。しかるがゆえに、いかなる友情も意志と意志がぶつかりあってこじれることで幕を閉じ、そしていかなる色恋沙汰も必ず結婚というものに到達し、それで変化を余儀なくされ、もしくは辞退して、萎(しな)びる。

 長続きする友情というのは、友人同士が互いに相手の品格を尊重しそれで得をしようなんて思わないことにある。だからこそ権力を欲する男に友人ができるなんてことはありえない。肉切り包丁を持った少年の如し。花々にためしたあとは、棒っきれにためし、家具にためし、ついには石に振り下ろして壊してしまう。

 悲観的(ペシミスティック)な宗教があってはじめて個人(パーソナル)の神というものがありうる。その個人の神というのが期待はずれの神様。それでヨブ、オマル・カイヤーム、エウリピデス、パラダス、ヴォルテールにハウスマン教授は痛責(つうせき)するのだろう。仏教、道教、無為主義にスピノザの神においては失望するところがない、というのもそもそも待望するものがない。どぎつい情熱が子午線をすぎるまでは落ち着きを獲得するなんてことは誰もできはしない。肉体の意志に逆らって高潔さを保持する確かな方法なんてありはしない。老子は成功した。しかし八十歳で司書だったのだ。それゆえ書物と書物を学ぶことを口を極めてののしり、たった一冊だけ、もっとも短い福音書よりもさらに短い――空(くう)の万華鏡を残した。

 行動(アクション)とは西欧の宗教では真なる終わりであり、沈思が東洋のそれに当たる。だからこそ西洋は仏教(や道教やヨーガ)を必要とし東洋は共産主義(や儒弱に流れぬ理想としてのキリスト教)を求めた――これはどちらも上手くいっているようである。正反対なものの魅力を受け、私たちは老子をバガヴァッド・ギーターを訳し、あちらは共産主義者のマニフェストを学ぶ。

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by ulyssesjoycean | 2006-08-06 15:09 | 翻訳小説『不安な墓場』 | Comments(0)

翻訳小説『不安な墓場』 第八回

 イエスは癇癪持ちの男だ。裸となったイチヂクの木に投げつける呪詛は恨みそのもの、パリサイ人にとった態度はパラノイア的な激怒。国際連盟を作った男たちの中に出てきたヒトラーだという調子。こういったたとえ話というのはみな全て「泣きわめき歯軋りすることになるだろう」――たいした口調の救い主だね! この手の、人に対して暴力的に出る事件の数々、それに婚礼衣装もなければ高利貸しを讃えるといったこともない。たとえ話で才能ある人々のことを言うというのは、要するに傲慢さと不機嫌が暴発したというだけの話だろう。とはいっても、神秘と倫理をわきまえた変革者として目覚めた天才であるイエスは、それと同時に正真正銘のユダヤ人である。旧約、律法、預言者に基づくユダヤ的な枠組みと離別することは望んでおらず、その中身の倫理をいや増そうとした。その結果パリサイ人の不寛容をまねて罵った(「毒蛇の生みしもの」)、それでいて父なる神の復讐者としてその役割をたもちその任を仰せつかったのであると主張した。

 福音書を再読してみてのイエス・キリストの印象。神の子であると本人は思ったようで、それで自らの両親を毛嫌いする、しゃっちょこばった、志あるいかめしい青年であった(十二歳から二十九歳までの間、どこで、何をしていたんだろう)。パリサイ人と家族、郷里と姦淫については特別はげしい憎悪を抱いて、それだと理屈が通らなくなるのではないかな(ベン・パンデーレ)。ぞっとするユーモア感覚の持ち主だった。行き過ぎではないかと思うほど、自分を信じる人間(「汝はペテロである」)に深い謝意を示し、年長のいとこであるヨハネには極端なほどの親密さで、人格形成に大いに影響されたとしても、そこまでの禁欲家ではなかった。ワインを好みブドウとイチヂクには目がなかった。いとこよりはよほど文明に親しんでいて、確かにその最期には深い影響を受けて、何が己のものであるかということに気をつけろと、言えるものなら言っただろう。ヨハネの死と救世主であるとの天啓がカイサリアのピリポで下り、それで全てが変わってしまったのである。堪え性のない、短気な皮肉屋であるこの男は、まことの信仰を快復する者であり、崇高なる信念によって目覚めたが悲しむべきことにそれに裏切られてしまった。その神性を信じることは私にはできないが、その偉大さ、威厳、運命をつかむ直感に感動しないわけにはいかず、世間知と崇高なヴィジョンとが組み合わさって、それ以外に世界が救済されうる道はない。その信仰こそが終わりまで支えてきたものであったけれども、そこで迷いが生じた。洗礼者ヨハネとの間に密約でもあったのでは? 私が思うところ、洗礼者ヨハネが山ほど手がかりを握っている。奇跡について私の判断は保留しておこう。だが山上の説教となれば話は違ってくる。まばゆいばかりの愛情を込めて掌(たなごころ)で遊ぶ契約の数々は人間の恐怖を手玉にとって、すさまじい怒りを爆発させる。仏陀とはえらい違いだ!

 仏陀は、哲人王ではあったのだが東洋に傾きすぎている。壮年まで生き抜くその勇気は、年を取り行く門弟たちの中にあって、その一本調子な教えを教育として授けた。それはそれとしても、私たちにはそのお題目を受け入れるなんてことはできない話である。西欧の耳には心地よく響かないんだな。中国の英知だけは西洋と相性が良くて、中国人というのは常に地に足が着いているからね。それに「道(タオ)」――言葉なし、救世主なし、疑念なし、神なし、来世なしの宗教であるけれども、その真実は水で満たされたひづめの跡にあるという――これ以上何を尋ねることがあろうか。

 「休息、安寧、静止、不動――これらこそ万物が有する段階であり、ゆるぎない道の完全性である」――荘子。

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by ulyssesjoycean | 2006-08-02 17:07 | 翻訳小説『不安な墓場』 | Comments(0)

翻訳小説『不安な墓場』 第七回

 夜、私は閉所恐怖症のような心持ちになるときがある。自分自身であるというパーソナリティーで窒息しそうになり、この世に在るということで喉が締め上げられる。この間というもの、全世界(ユニバース)が監獄のように思え、そこで私は自分自身の感覚によって鎖につながれ、自分自身であることによって盲(めしい)となる。

 転覆したボート、その船体内部に釘付けになっていると考えればいい、深く潜って脱出するのはまだ怖いという心境。こういったとき、出口があるのは間違いないにしても、パーソナリティーだけを脱ぎ捨ててこそそれは可能なものとなる。

 たった一度愛するという、その一度のために万障繰り合わせているのが私たちというものだ。それでなくて恋に落ちることがありそうに思えるのは――九月上旬のある日ということになるだろう、六時間ほど短いにしても、六月であるかのように思える暑い日。一番最初の色恋沙汰がどうだったかで己がじしの人生のありようというものは決まってくる。

 結婚においては二つの恐れというものが入れ替わる、孤独か束縛か。孤独への恐怖というのは束縛のそれより厳しいものがあるから、私たちは結婚する。縛られることを恐れる人間が一人いれば、四人は解き放たれることに恐怖している。とはいうものの自由を愛するというのは気高い精神であり結婚生活を営む大半の人もそれを切に望んではいる――神経症のように依存関係にあるというのでなければの話だが――しかし時すでに遅し。牡牛は野牛にはなれず家禽は隼にはなれない。

 孤独を恐れるというのは、弱さから生じたものだから、克服しうるものである。人間というのは自由になることを望むもので、自由になるとは即ち孤独になるということ、しかしながら束縛への恐れというものは、真なる危険に対する危惧であって、年若く美しい男女が想像上の危険から結婚へと避難するのを見ると、痛ましい心持がしてならないけれども、その友人たちにしてみれば悲しむべき損失であり、二人にとっては手痛い挑戦である。初恋こそ何にも増して価値のあるものではあるが、えてしてその二番目が最高の結婚になるから、自由への切なる要求が費(つい)えたときはじめて結婚すべきだろうと思う。男なら自分が落ち着く性質(たち)なのかどうか知った上でないといけない。別れ話の何が悲惨かといって、若くして結婚したカップルが七年の幸福を楽しんだのち、溜め込んでいた情熱が燃え上がって寄りかかりたくないという独立の気持ちが爆発し――なぜなのかは分からぬまま、まだ互いを愛しているとしても、互いを破壊しつくすなんてことになってしまう。

 ひとつの色恋沙汰が終わりとなって、残されたものの虚栄心にとってはこれ以上ない痛手となる。だから、色恋の始まりにこう考えてみるのもあながち無駄ではないことで、満足するという源の最大なるものは同時に虚栄心にも当てはまるのだということ。互いに惹かれあうその第一の兆候は現在に生きることにほとほとうんざりした人間を誘引しかねない。

 茶色のナッツをこつこつと割って、斑点が浮かぶ黄と緑の花鋼で飾られた茶色のスズカケを眺めながら、焚き火の傍で老子を読む。これぞ十月の英知。秋の至福。秋分に研究する宗教。

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by ulyssesjoycean | 2006-07-29 19:55 | 翻訳小説『不安な墓場』 | Comments(0)

翻訳小説『不安な墓場』 第六回

 先祖、我が古(いにし)えの化身、いつものパリヌルスよ(パリヌルス・ウルガーリス)、ヴェネツィアの赤海老、伊勢海老、ロブスター、泡を立てるモーリタニアの海棚で食いつないだのか、それとも波立つ――テネリフェの南方、シシリー島の北方――収縮し膨張する波。罪を恐れより我が身を解放したまえ、罪と恐れより我が身を開放したまえ、轟く海より出でしまだら模様の掃除屋であるぞ!

 以前の化身はというと、メロンであり、ロブスターであり、キツネザルであり、一本のワインであり、アリティッポス。

 生きていた期間。ローマはアウグストの治世、一六六〇年から一七七〇年までのパリ・ロンドン、そして最後は一七七〇年から一八五〇年。

 最初に出来た友人たち、ホラティウスに、ティブルスに、ペトロニウスに、ウェルギリウス。その次、ロチェスターに、コングリーヴに、ラ・フォンテーヌに、ラ・ブリュイエールに、ラ・ロシュフコーに、サン・テヴルモンに、ドライデンに、ハリファックスに、ポープに、スウィフトに、ラシーヌに、ヒュームに、ヴォルテール。最後の化身を取ったときはウォルポールとギボンに親しみ、バイロンに、フォックスに、ベックフォードに、それとスタンダールに、テニソンに、ボードレールに、ネルヴァルに、そしてフロベール。オランダ館(ホランド・ハウス)で午後、マグニーで晩餐。

 フルーツがいくらもあって食欲より深い感情を私の中に呼び起こす。麝香の香りがする黄金のオーブさながらのシュガーメロンやグリーンとブラウンの海草が虎目模様になっているカンタループメロン、ウロコの如きパイナップルの皮やイチヂクの肌理(きめ)それにツバキモモ、オレンジを飾りレモンが木々に実りそれとも死んだ振りをしたようにしてとぐろを巻く年老いた無毒ヘビ、私はそれらと一体になって、サトウキビとともに熟し、バナナは花を咲かせ、私は自らを接木する――マンネングサやコウヤマキ、陽光をこよなく愛するノーフォーク島のマツ、しなる竹に、かがまるイナゴマメと、朽ちたコルクガシとニレ。百回目にして私は驚きとをこめてこう言った、ニレの枝葉というのはブドウの木が垂れ下がっている姿にそっくりではないか! 「やもめのニレとスズカケをからませる(エウィンケト・ウルモス・プラタナス・コエレブス)」。やもめのスズカケがニレの木々を追い立てる……

 英知こそ私が求めるものであり、意志を鍛錬するためではない。「意志とは屈強な盲目の男が目が見えるびっこを背負っていること」――ショーペンハウアー。

 私にとって人生で成功するというのは生き残ることにある。円熟の老年とは、自然の秘密を掴んだ人間に与えられる贈り物だと信じている。早死にも気違いになるのも嫌だ。存在の真なる様式(パターン)とはゲーテの如き長い一生をかけて学ばれるべきものだろう――理性的な生活はときおり感情の暴発によって妨げられ、精神分析で言う置き換え、情熱、愚行の数々。若い頃の理性的な生活というのは本質的に足りることがない。感情的な生活というのは、わずかな期間をのぞけば、あとは耐え難いものとなる。

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by ulyssesjoycean | 2006-07-25 18:54 | 翻訳小説『不安な墓場』 | Comments(0)

翻訳小説『不安な墓場』 第五回

 ムハンマドを信じるものたちはその点違うよ! 他のどの宗教とも違って驚いてしまうのは、改心者をまだ引き入れているところ。教義が外向きだからで――狂的になればなるほど、他人を殺すということから自らを解き放つ。威厳のある儀式と性分に合った結婚のコードは持っているし罪の感覚はないように思える。

 こっちの宗教では信者はみな日没と共に仕事を終えて「一日の憂さを晴らし(プール・シャッセ・ラ・ホント・デュ・ジュール)」に集まって一杯やる。このことはこの世で最初の日暮れを想起させてそのとき人はこう考えたに違いない、近づきつつある夜が永遠を証明してノアの贈り物であるワインを讃えて大洪水後の素晴らしい新世界が生む底知れない退屈の慰めとする。それゆえ我が「日が没したら」の者たちが信者たち全てと、それを分かっていたかどうかはともかく、この聖なるノスタルジアの刻(とき)と夕闇の懸念を聖なるものとした。小さきものはこれ貧しき産物である(ブレーウィス・ヒック・エスト・フルクトゥス・ホムリス)。こっちの宗教に唯一無二の教義なんてものはない。愛であり詩であり疑いが全て。

 生命とは聖なるものではあって、それ以外に私たちが所有するものはなく、あとは死、みなの共有物であり、狐疑の源泉。季節の移り変わりは七幕からなる一代記と、生きとし生けるものとの連鎖、素晴らしき理性、そして聖なる本能より出でし動因を言祝ぐ。

 いやいや、うらぶれた滑走路と丘陵のガソリンスタンドにありしフロイトとフレイザーの図像(イメージ)にかかる花冠を見よ。ウォバッシュ川からハンバー川まで少女たちは今まさに枯れ行かんとするアドニスの庭園を流れの彼方へと送り出す。聖なるルンバとブギウギを供に自我(イド)がありとあらゆる格納庫の中で尊ばれているところへ、女祭司が祈祷書の長い章句を吟唱する、これこそまさに好むもの。自慢するにもほどがあるポルノ族(ポルノクラッツ)の系譜図と挿話に、ヴードゥーの呪文、マルドロールの歌とフィネガンズ・ウェイクのもにゃもにゃ言葉の大海。接吻の数々に恍惚となって川の神々が帰還するのは、赤の山高帽をかぶった牧羊神パンとプリアポスが人間の理性に、人間の理性は神の愛に、「天空のヴィーナス(カエレスティス・ウェヌス)」に、そして神の愛は惑星の旋転へと身をゆだね、その周囲を上天(アイテル)の恬淡とした塵芥が朗らかに取り巻いている。

 「理想的な、快活として風靡なる多神教の生活というのはみじめなものでも病めるものでもない。そうなのだ、その自然な終焉というものはポンペイの町やヘラクラネウムの町が我々の眼前に鮮やかなまでにもたらした生活に属するもの――生活それ自体に恐怖や不幸といった思考を導き出すものでは決してないのであり、あらゆる点で五感や悟性を喜ばすものでさえもある。五感と悟性に訴えるものが非常な激しさであり軽減などというのは考えられないから、我々の一面を過剰なまでに刺激し、結果、疲弊したあげく我々に背理するということになる。終わりが我々に残すものは、閉じ込められ、鬱屈した感覚と、すべてを変え、雲に嵐、そして放縦と安息を渇望する心である」――マシュー・アーノルド

 この論法は多神教に対して用いられることがしばしある。ポンペイとヘラクラネウムが異郷精神ではもっとも良いものであるというのはこれ以上ない真実であり、そうするとブラックプールとジュアン・レ・パンはキリスト教圏では最高ということになる。理性に基づく生活というのはいかなるときであっても折々の暴力と非合理から生じる衝突によってバランスを取ろうとするので、これで本能から生ずる動因を満足させるしかない。過去においてはこの喜悦は神秘宗教によってもたらされていたが、これはなんとも野卑な地母神への狂熱であったり、どうかするとエレウシスとオルフェウス教の秘儀がもっと霊的だったりする。アポロが治める地、ディオニソスが供となる。

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by ulyssesjoycean | 2006-07-21 19:49 | 翻訳小説『不安な墓場』 | Comments(0)

翻訳小説『不安な墓場』 第四回

 罪と後悔が、空き缶よろしく堆積してしまったことを熟慮してみるに、生涯を通じて運び続けたそれは、ほんの些細な行動が糧となっているだけでなく、むしろ無邪気な快楽こそがその最大のものであって、生物として生きとし生けるものの中で人間より無能かつその組成がいびつなものはないと感じる。なにゆえ七十年もの生涯をかけて得たものが、自分自身という存在であるだけで、ここまで手酷く毒することしか出来なかったのだろうか。なにゆえ良心というものを、ネズミの屍のように井戸に投げ捨てて腐敗させるということになってしまったのか。自分たちの中から自己というものを結果として除去することになったそのことに、答えなんてない。キリスト教や仏教といった宗教は絶望的なまでに間違った策略であり、人間が人間たろうとした間違いである。問題から逃げ出し、罪から逃避するというので迎え入れられたが、私たちの運命から解放してくれるなどというのはできるはずがない。犬の修道院だとか、隠者をやってる猫だの、菜食主義の虎なんてものをどう考えろっていうんだ。自らの翼をちぎる鳥や後悔の念に涙する牛なんてのはどうだ。自分自身に目を開くというのは生まれながら備わっているのは間違いないにしても、そこには致命的な欠陥があって、それで罪深さを感じることが甚だしいのは、自分はまさに人間なのだという自信があって、本当に上手く言っているときに情をかけてもらう、そんなときである。ということはキリスト教が真実だからだろうか。敗残者に対するプロパガンダの効果が深くしみ込んでいるからだろうか。エゴが鼻持ちならぬ臭気を発し始めたのはいつからか。キリスト教徒として育てられた挙句その信仰を失くしてしまっている私たちは、贖罪を信じてはいないものの罪の感覚だけはまだ持っているというわけだ。私たちの思考を毒し行動において私たちを麻痺させる。

 共産主義は原罪を帳消しにしてくれる新しい宗教、ではあるのだが、非の打ち所がないとか幸せであるというまことの共産主義者に会うというのは滅多にあることではない。それにだ、原罪だなんて馬鹿も大概にしろよ! エデン追放なんてのは執念(しゅうね)き女々しい恨みつらみのひとつだろう。人間の堕落というものが、聖書には詳述されているけれども、それだけ神の堕落に近づいたってことじゃないか。

 私が何を信じているかというのを鑑みるに、何を信じていないかを以って話を進めていくしかないようで、そうすると自分は少数派(マイノリティ)に属するのかと思うが――数千人単位で私と似たものがいるというのも承知している。進歩を信じていない自由主義(リベラル)、同-胞を忌み嫌う民主主義、キリスト教のモラルに生きる多神教徒、ほどをわきまえた知性を見出しえぬ知識人――足りることを知らぬ唯物主義、こねくりまわせばどうにでもなる点、みんな共通している。

 しかしキリスト教へと回帰するのはありえないし、真実をのたまう立派な建物に住むといったってそもそもの土台が間違っているんじゃないだろうか。矛盾が出てくる。これだから教会の記録というのは滅茶苦茶で、「平和ではなく剣を取れ」なんて言っている――迫害であり貪欲であり偽善であり反動だ。こういったものが生来備わったものとして、嫉妬深く俗臭芬々たる独善的(ドグマティック)な身体に受け継がれている。こういったことをなすのに力(りき)が入るのは、こういった教会というものが宗教上の訴えを取り違えるのが常になっているからである。

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by ulyssesjoycean | 2006-07-17 17:40 | 翻訳小説『不安な墓場』 | Comments(0)

翻訳小説『不安な墓場』 第三回

 愛情と不安

 愛するものの忠言
 「六幕目はユピテルに属するものであり、ここにおいて我々は自らの時を察知して、ものの分別がつくようになり、そして悟性の完成へと向かうのである。最後の、七幕目はサトゥルヌスのものであって、ここにおいて我々の日々は悲しく曇るのであり、これによって嘆き慈しむ経験と、失ったものがもはや取り返しがつかぬということを以って、感情と情動とが過ぎ去り行くむなしいものであり、後に残るのは悲しみだけだと悟る」―――サー・ウォルター・ローリー

 恋人が与える苦痛の右に並ぶものはない。この手の組み合わせを考えに入れている人間ならばすべて明らかなはず。この痛みを避けることが英知の始まりであって、自らの人生の残りを汚すにはあまりあるほど強烈だからである。ごく少数のシンプルなルールに従うことで最小限にすることも出来て、そのルールというのがキリスト教の結婚に近く、不信心なものにすら、事実上(デ・ファクト)の名分を授けてくれる。私たちが愛する誰かを傷つけ始めたとき、生れ落ちたときよりついてきた罪(ギルト)というものが耐え難いものになったということで、その私たちが愛する人はみな、執拗にそして間断なく私たちの一部へと育ち続け、それでその人たちの中にある己自身を憎み、そして自らを、その人たちと共に痛めつける。

 愛するという行為の対象は愛そのものから放たれている。いくつかあまり有難くない色恋沙汰を通過した上で獲得する、もしくは今わの際に喉をゼイゼイと息切れするようなことがなければ、これは有難いものだったということになるか。

 二人の人間が臥所を共にして間然するところなしなどというのは人生にそうあることではなく、実際にありそうなことではないにしても、電話が鳴ればそれきりである。この手の情熱が目一杯に維持されうるのは有難くないこと(嫉妬、諍い、断念)が色々とあった挙句それを折り混ぜるとか、さらにその上を行って人工物(アルコールだの手品手妻)によってだったりする。この楽園から脱出して生き延びうる人間がいるとは思えないし、それだけのために存在している者などというのは遠からぬうちに消え失せる。自分たちはふしだらだというのを知っていて悪徳に金を出す。快楽に金を出して自分たちが消え行くものだというのを悟っても、いささか遅きに失している。

 「快楽というのはそれなしではいられない人間の全身を捕らえて離さない、その上、生活上いかな役職にあろうと閑暇を与えることはないというのも、今現在の浮かれ気分に冷や水をかけることになるからである。快楽人士たちを観察すると間違いなく分かるのはある種の自己満足と厳格さというものが悉く欠如しているということであり、だらしない上に人目をはばからぬ生活と習慣がその原因である。しかしだ、快楽人間に君の持っている秘密の願望や気づかい、悲しみの数々を言ってみたまえ、それこそデリカシーを放擲して欲望のおもむくままに自らの情熱をむき出しにするというのがよく分かるだろう」―――サー・リチャード・スティール

 自分のことしか考えぬその平安の仮面の裏には苦々しさと退屈があるだけだ。苦しみぬいた挙句くだらない上に中身のない人間になってしまった、私もその一人である。毎晩夢を見ると傷口からかさぶたを引き剥がしている自分がいる。毎日毎日、空虚で、習慣に囚われてしまった自分は、再-生に手を貸すのである。

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by ulyssesjoycean | 2006-07-12 16:33 | 翻訳小説『不安な墓場』 | Comments(0)

翻訳小説『不安な墓場』 第二回

 感じることといえば、これらの芸術作品にははちきれんばかりの情動が古典的な意味での形式と両立しているということ。

 いかにして書かれたのか、そこに目を見張れ。多くのものが短く凝縮されており、思慮と熟慮をはらむ性分の成果が、散文にしろ韻文にしろ途轍もない形式の美しさと無駄のないフレーズの構成になっている。このリストには小説、戯曲、自伝の類は入っていないしその詩も生命への研鑽を積んだものである。不純物を取り除き光のきらめきを結晶させた芸術であるというので最も高い評価を得て選ばれたのである。この作品の書き手たちは皆、「メランコリックな心情を暗い喜びとまで感じ(ジュスコ・ソンブル・プレジール・ダン・クール・メランコリック)」それを楽しんだというのが共通している。完全無欠なる感性と人間の持つ尊厳への信頼、死すべきものとしての私たちの悲運を悟り、奈落にも程近いそれを組み合わせる。

 演繹すればこうなる、編纂者はこのモデルを見据えて筆を取るべし、と。名作が生まれるにはその状況がいかに好ましからざるものだとしても、聖十二作と同等のものをやり遂げようという志を持つことぐらいはできる。俗人は高みへ参れ、パリヌルスよ、過ぎたるは及ばざるが如し、だよ!

 以下に続くはこの一年を思い返して浮かんでくる疑問の数々、三拍子か四拍子で巡ることばのサイクル。芸術、恋愛、自然に宗教。

 艤装解除の実験を試み、井戸の奔流をふさぐ障害物を探す、それゆえパリヌルスの名はフラストレーションの原型となりつつある。

 年をとるにつれて発見するのは、心奪われるほどの興味や心を捕らえて離さぬことを、持ち上げた挙句に放り投げてしまっていて、感じられるのは食欲だとか情熱というものが自分たちの中から一掃されてしまっており、最後の最後に私たちが自分の人生というものがこれ以上先はないというところまで気付いて岩場の水溜りよろしくしぶきと漂流物の波に飲まれてあとには何もないということになる。己自身の名残りなどなく澱だけがその流れに沈殿する。竜涎香(りゅうぜんこう)ぐらいのものだろう、使い道が分かっていて価値のあるものなんて。

 「また干上がったの?」とカニが岩溜(いわだま)りに言う。「お前もそうなるさ」と岩溜りが返す、「日に二度はこの底抜けな海を満足させてやらなくちゃな」

 年を取るにつれ、まったく、人間の人生なんていうのは大概何の価値もないのだということを発見してしまうが、唯一の例外は精神を豊かにし解放してやろうと奉仕するその間ぐらいのものだ。若い頃には魅力的だった生き物としての愛らしさがどうあっても、それが腐敗しきった存在というテクストに出てくるキャラクターを修正せんと私たちを導かないとしたら、人物たちが成熟したということを示すものだとしても、その時間は無駄になってしまった。三十五歳を超えた人間で教えてくれるものを持たぬ人間に会う価値などありはしない―――己が向き合うたった一冊の本より学ぶことが少ないんではね。
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by ulyssesjoycean | 2006-07-08 20:21 | 翻訳小説『不安な墓場』 | Comments(2)

翻訳小説『不安な墓場』 第一回

『不安な墓場』 パリヌルス(シリル・コナリー)著 

第一章

舵長を見よ(エッケ・グベルナトール)

読めば読むほどにはっきりしてくるのは、文士にとって真実必要なのは一つの傑作を生み出すことでありそれ以外の仕事は別にどうということはない。このことがいかにはっきりしていようと、受け入れる文士がいるのかどうか、どうかすると結論を出しかかって、乗り出してしまった玉虫色の凡作のやりかけ仕事を脇に追いやるかもしれない。文士というのは常々、次作こそ自らの最高傑作だと願っていて、それで今現在の自分の生き方というものが、何か新しいものを作り出すのを妨げているとは、認めようとしない。
 ジャーナリズム、報道、プロパガンダ、映画に作品を提供するといった脱線はこれ全て、壮大なものだったところで、失望感に至るのが定めというもの。こういったものに全力を尽くすなぞ馬鹿げた話もあったもので、良いアイディアも悪いそれと等しく忘却されると毒づく。この手の仕事は長続きしないというのが性質として備わっているのであり、決して安請け合いすべきものではない。完全性への襲撃でもなんでもない余計仕事に夢中になる文士連は自分自身への盲従者となって、自―惚者が戦争協力だとでもいうのでこの手の活動をよしとばかりに打ち切らなければ、じゃがいもの皮でもむいていろ。

 「最も強いものが危機に瀕している(レ・プリュ・フォール・ジィ・オン・ペリ)。芸術というのは光であり(ラール・エ・タン・リュクス)、それにはまっさらで冷静そのものの手さばきが必要になる(イル・ヴュー・デ・マン・ブランシュ・エ・コーム)。なんだかんだと譲歩するうちに(オン・フェ・ダ・ボール・ユヌ・プティト・コンセッシオン)、二度目が(ピュス・デュ)、いつか二十度目になる(ピュス・ヴァン)。道義心にかこつけ長きに渡って自らの目をくらます(オン・ジルジョネ・シュール・サ・モラリテ・パンダン・ロンタン)。完璧なまでにやり遂げなければ(ピュス・オン・ザン・フェ・コンプレットマン)、あとは馬鹿になる道しか残っていない(エ・ピュス・オン・ドゥヴァン・タンベシーユ)。」――フロベール

 詩人は戦時下の詩について論じたてる。ジャッカルが干上がった井戸のたもとで不平をこぼす。

 ルノアールがいかに描くべきかをどれだけ多くの書物に著したか。

 最高の本を形にするためには、数百年はもつスーツを仕立てるように、感じ、考え、そして書くことが必要だ。この三つのいとなみを一つにしなければならない。「よく書くというのは(ビヤン・エクリール・セ・タ・ラ・フォア)、よく感じ、よく考え、よく言うのを同時に行うことである(ビアン・サンティル、ビアン・パンセル・エ・ビアン・ディール)。」――ビュフォン

 読む時間が全くなくて、精根尽き果てたと感じていて、安普請で作ったものもないとくれば、何が恒久かなどと考えることはできない。ありもしないものをひとつに組み合わせるなんてことはできない。

 傑作とはなんであろうか。いくつか名前を挙げさせてもらおう。ホラティウスのodesとepistles、ウェルギリウスの詩選と農耕詩、ヴィヨンの遺言集(テスタマン)、モンテーニュの随想録(エセー)、ラ・フォンテーヌの寓話、ラ・ロシュフコーとラ・ブリュイエールの箴言集、ボードレールの悪の華とintimate journals、ポープとレオパルディの詩作品、ランボーのイリュミナシオン、そしてバイロンのドン・ジュアン。
 この手のカタログはその作成者を明らかにする。これら十二人の文士に共通の思想とは何か。生命と自然への愛であり、進歩思想を信じてはいないということ。軽蔑の念と入り混じった人間性への関心。これらみな批評家より呼ばれしパリヌルスなり。「俗人!」 とはいえこれらは全て言ってのけた人間よりはもう少し大人だしロマンチックなところは少ない(*)。これらの傑作は(そこから一歩劣るけれどもその頂点にあるのが殆どだが)、どうありたいか、もしくは内心告白するのが不安な自己を反映する。ランボーやボードレールにならずして悪の華や地獄の季節を書き上げたかったというのは、内心の苦しみや病気に困窮といったものをしりぞけたいとのこと。

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by ulyssesjoycean | 2006-07-04 11:35 | 翻訳小説『不安な墓場』 | Comments(0)