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『サンタール』 翻訳連載 第二回

 シェリフは燦爛(さんらん)たる満足をおぼえて瞳を閉じた。すぐそばでは焚き染めた香が芳ばしい煙をあたりに撒いており、そのせいであろう、ほどなくして眠りに落ちた。眠るうち、丘陵を目指して自分が旅しているが、進めば進むほどその丘は遠ざかっていく、すぐさま、その光景は変じて、水が照り返す泉のそばに、年老いた男が座し、その姿は実に搢(しん)紳(しん)としたものだった。その容貌(かんばせ)には憂いがありありと見え、手に書物を携えている。その夢の中でシェリフは、男がこういったように思えた。
 
 我はシナイの山をいただく無辜の地に在りて
 無花果とオリイヴにその身を焦がす
 この人を識る 眉目好き肌(はだえ)のその人を
 卑賤のうちに身を窶(やつ)す 行い正しく信ずる者
 賜りしその恩寵 消えること無し

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(http://www.persia.co.jp/image/bpic15.jpg)

 目が覚めると随分と時が経ち、モスクは空(から)になっていた。真珠で飾られた説教台(ミンバル)が微光を発し、それで東天を見ると日が沈みかけているのが分かった。衣文(ハイク)で覆った姿は生命を感じさせず、漫遊する隠者(マラブー)は遁世(とんせい)の存在に見えて、その人物がどこかへ行ってしまってから、シェリフはあの夢が意味するところは何なのか、訊いておけばよかったと思った。

 外へ出ると随分涼しい。

 この一帯では、ヤシの木がその枝を綿羽のように黄金色の空に伸ばしている。親族の家はバブ・アズーン通りの角に在った。この街のどの通りより、乞丐(こつがい)が多い通りだ。蓋しシェリフは急いで家に帰ろうとは少しも望まなかった。モスクの中庭を散策していたい、その中央に葡萄が影を落とす噴水があり、それが炳乎(へいこ)とした音をたてている。端を縁取る青シダの瑞々(みずみず)しさは譬えようもない。四方から巡礼者がやってきてはこの水を味わっていくが、それというのも肺病の特効薬になると考えられていたからだった。しかし何といっても不可思議なのは黄金色のハトがたった一羽きりで尖塔(ミナレット)に住んでいるということ。折々、管理人が塔の扉を開け放しにしておくことがあるので、そういう時シェリフが登っていけずに困るということはまずなかった。都市(まち)中の屋上を見渡すのに丁度良く、その遥か向こうには砂漠が見えて、それも早朝、太陽が夜明け時の朝露の合間から隙(すき)漏(も)れてくる。寝そべりながら、雲がゆっくりと浮き上がってくるのを見ると、マッカについてあれやこれやと奇想が思いつくのだった。真昼から、地平線上に青々とした蜃気楼が立ち現れ、海を思わせるような幻想が呼び起こされるということも、ないではなかったのである。
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(http://www21.ocn.ne.jp/~newlife/x14.JPG)

訳注:聖地メッカは、発音に忠実にマッカとした
コーランも同様にクルアーンとする
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by ulyssesjoycean | 2006-02-28 17:47 | 翻訳小説『サンタール』 | Comments(0)

見る 欲する 信じる

神様がしょっちゅう姿をあらわしたら、宗教的信念=信仰心はどうなってしまうのか―――というオモシロイ仮説を『心の発生と進化』(新曜社)という生物学書が試みている。
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 見る・欲する・信じるのうち、「見る」「欲する」は科学の領域で研究されることになったが、「信じる」つまり「信念」はなかなか科学の領域にはならない。それを上記の仮説を通して見てみようというのである。

 知覚的に確証される―――つまり「見たり」「聞いたり」すると宗教的信念は消えてしまう。知覚として確かめられない「物語」=「神話」になってはじめて、宗教的信念が生まれる。つまり絵や音では信仰心は高められない。宗教というのは本質的に「ことばオンリー」なのだ。偶像崇拝をしてはいけない、ということも、「はじめにことばがあった」というのも、すべてこういうことである。

 偶像(idol)崇拝というと分かりにくいが、要するに「尊いものは絵で書くな」ということである。イスラームでは絵そのものを描いてはいけないから、カリグラフィー(書字法)が発達し、アラベスク(唐草模様)が主流となる。
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(http://ns.islamcenter.or.jp/J_new_homepage/aayat07.jpg)

 キリスト教徒でもないのに聖書は随分読んだが、やはり心底美しいと思うのはイスラーム建築であり、恐らくその美に目を啓(ひら)かれたのが西欧の中島敦ロナルド・ファーバンクであろう。こっちと同じく礼拝の時間を知らせるAzaanを、ファーバンクは美しいと感じたのだろうか。
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by ulyssesjoycean | 2006-02-27 17:20 | 駄文 | Comments(0)

『サンタール』 翻訳連載 第一回

『サンタール』

ロナルド・ファーバンク(Ronald Firbank)著 シロクマ訳

モスクに入ると東側に銀と茶の絨毯がかかっている、珍しくその銀と茶が織り込まれた絨毯の方に足を向けた。それがまさしく自分のものであるかのように見上げる。その場で尊きミフラーブを安寧な気持ちで注視して、長い長いガンダーラがその下流に至るまでを弥縫(びほう)する。ここでは己が存在にまつわる苦難も忘れ去ることができた、そう、孤児だったのである。父、ビスクリー・ベン・アイッサはモスクの扉にひまわりを彫琢(ちょうたく)している間に亡くなり、母もその後早くに身罷(みまか)った。叔父と叔母に養われて今も自分は生きてはいるが、二人とも狡(こす)からい商人で、何かにつけて使いをさせる。行けるときはいつでもジディ・ヨセフのモスクに足を向けた。真珠の青母(せいぼ)という広々とした天蓋を見つめては、豊饒なるアッラーの御許(みもと)へ往ければと、「アッラーよ、汝の子シェリフに神のお慈悲を」と、日々こうして冀(こいねが)うのだった。

 シェリフの頭は剽悍(ひょうかん)なるラクダの如くであって、犀弱にて恭順な瞳はその内に見据えているものがあった。どれほど長い時間クルアーンを想うことに費やしたか、五官を高揚させること大なるから、それを心から諳んじたのである。

 どういうのかしら、この日ばかりはクルアーンのことを考えられなかった。恐らく夏に触れて、倦怠が宿っていたからかもしれない。花模様の壁からはがれて垂れ下がる葡萄の葉が影を落とし、それが揺らめくのを見るのも心地よく、重々しげな簾(ジャルージ)を蝶の群れがひらめきながら通り過ぎてゆくのも感じ取れた。ある時などモスクを横切ってしまい屋根に並んでいる古びたランプに身を投げていくこともあったが、スーラの上に頭を垂れる老人たちの頭上をひらめくのを目にすることの方が多かった。

 尊きミフラーブのたもとで、シェリフはスファーより旅したる隠者(マラブー)を認め、その峭刻(しょうこく)とした容貌(かんばせ)は白いフードに半分ほど覆われ、礼拝用の敷物の上を引きずるように歩き、蕪雑な足はイブン・イブラヒームを思い出させた。その姿を目にして、シェリフは身震いする。チュニスから運ばれてきた積荷には少年たちが入っており、それを日々待ち望んでいるというのが市場(スーク)のいたるところで囁かれていたのだ。少なからぬ若者を売り買いして莫大な富を築いたというのが、もっぱらの噂。祈祷書を握り締めたまま、シェリフの眼前に立ったかと思うと、崇拝の内に我を失い擾乱(じょうらん)する人たちの方へ、引きずるようにして歩いていった。その人たちの裳(も)裾(すそ)がしゃりしゃりと衣擦れの音を立て、起臥のたび、真昼の静けさを蠱惑(こわく)する……
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(図版出典:東京ジャーミィ・トルコ文化センター
http://www.tokyocamii.org/photo/image/img020.jpg)
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by ulyssesjoycean | 2006-02-26 12:09 | 翻訳小説『サンタール』 | Comments(2)

「トリック」が通じない「こども」

推理小説家とマジシャンと詐欺師の天敵、それが「こども」。とにかく「こども」にはトリックが一切通用しない。ではなぜ、こどもにはトリックが通用しないのか、そのヒントを歴史学者・阿部謹也氏が教えてくれた。
 与えられた意味を受け入れることはなかなかできない。でも、意味を発見したりつくったりすることはできるんですよ。自分で意味をつくるのは子どもなんですね

(阿部謹也 『世界 子どもの歴史』 p69)
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 さあこれはどういうことだろうか。これは氏が開いたゼミをまとめたものなので、引用した部分について掘り下げた考察はない。しかし、これが詐欺とトリック、つまり「騙し」の根本につながる記述であるのは間違いなさそう。

 こども研究に先鞭をつけたフィリップ・アリエス氏の著作を読むと分かるのだが、この人のやっていることは「こどもの歴史」であって、「こどもとは何か」ということではない。歴史もオモシロイが、こっちの関心は「こどもはなぜトリックに引っかからないか」ということであって、それには「こどもとは何か」が分からないと話にならないのだ。
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 恐らくその鍵は、表紙にもなっている「遊び」。阿部氏も、「遊びには聖なるものがある」と発言していて、詐欺に騙されない存在=聖者・道化も聖なる存在であるから、ここが理解できると、詐欺への突破口が開けるのではないだろうか。俗世にまみれていない超俗の存在(earth-detached)、それをまず勉強しなくてはなるまい。
 
 あとはこどもの教育を発見した、ルソーだろうか。こどもについて調べると、何を読んでもルソーに行き着くので、やはりこれも調べた方が良さそうだ。もしくは調べたことにした方が良さそうだ。
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(ジャン・ジャック・ルソー)
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by ulyssesjoycean | 2006-02-25 14:46 | 詐欺の文化史 | Comments(0)

日本の美術史に未来はあるか

日本の美術史にはつくづく愛想が尽きた。平生から批判しないよう努めているが、『絵画の準備を!』、これには呆れた。
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 美術(art)は技術(ars)から派生したもの、だからこそ美術を科学で読み解き、または市場経済から読み解き、歴史から読み解こう、「見た人の印象を陳腐な現代思想でコーティングして垂れ流すのは止めましょう」―――というのが当然のはずなのに、「見た人の印象を陳腐な現代思想でコーティングして垂れ流す」、まさにそのことが平然と行われていて、あいた口がふさがらない。

 このページで再三にわたって紹介している、スヴェトラーナ・アルパース(Svetlana Alpers)サイモン・シャーマ(Simon Schama)マーティン・ケンプ(Martin Kemp)マイケル・バクサンドール(Michael Baxandall)、日本で言えば尾崎彰宏(おざきあきひろ)氏の名前が文献一覧にひとつもないときては、怒髪天をついた。
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 同時期に読んだ『オランダ絵画のイコノロジー』では、上記シャーマの傑作『Embarrassment of Riches(富めるが故の惑い)』を、『富裕なる者たちの困惑』といった書名に訳していて、唖然とする。
マンガ研究者が手塚治虫をテヅカオサムシと読むようなもの
 基礎中の基礎書である『富めるが故の惑い』すら知らない―――『富裕なる者たちの困惑』なんて書名では語感もなにもあったものでない上に、シャーマ氏が使った英語「Riches」「富裕なる者たち」という意味ではない。「富裕なる者たち=金持ち」という意味で使うならば、「The Riches」とすべきで、あえてそうしなかったのがシャーマ氏の意図。そんなレベルの英語も読めていない。英語というか、シャーマ氏の名著を読めばその意図も分かろうはずなのに―――要するに話にならない。
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 何かのあとがきで高山宏氏が、美術史の方々に「一体なにやってるの!?」と発言していたが、挑発的な言辞はともかく、本当にそう思う。こういう族(うから)が学問の世界を私領化して、阿部謹也・高山宏・柳瀬尚紀などなど、本当に画期的な仕事をしている学者を完全に黙殺する―――「御商売繁盛、おめでとう!」(由良君美)。まったく、やりきれない。
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(そういう視野狭窄の学問に対していらだちを吐露し続けた由良君美(ゆらきみよし)氏。すばらしく優秀な方だったが、早くに亡くなってしまった。Good men die young.)
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by ulyssesjoycean | 2006-02-24 13:15 | 駄文 | Comments(0)

いつから夜は明るくなったか

夜がどれだけ暗かったか―――これだけ明るい現代に暮らしていると、それはなかなか分からない。では、というので教えてくれるのがシヴェルブシュ『闇をひらく光』(法政大学出版局)
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 こういう「当たり前」を切り崩していくのが文化史(KulturGeschichite/クルトゥールゲシヒテ)というものらしいが、その代表選手であるシヴェルブシュの著書は、どれも体裁よくまとまっているにしても、それ以上の印象もなくて、闇を啓(ひら)く―――ということで言えば、マイケル・バクサンドール(Michael Baxandall)『陰影と啓蒙』の方が、泣きたくなるようなバクサンドール氏の英文はともかくとしても、手ごたえのある書物だった。
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 昔の闇、それがどれだけ暗いものだったかを端的に教えてくれるのが、ジョルジュ・ドゥ・ラ・トゥール(Georges De La Tour)の絵画だろう。
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(『聖ヨセフの夢』)

 こっちが愛読している『知の再発見双書』シリーズにも、一冊入っている。シヴェルブシュさんには悪いが、こっちを読んだ方が闇と光の勉強になりそうだ。
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by ulyssesjoycean | 2006-02-23 20:23 | 駄文 | Comments(0)

「紙」がなぜ「お金」になるのか

お金が必要になるのはどんな時か―――お金がない時である。「そんなの当たり前!」と言うなかれ、お金がなかったからこそ、紙幣は誕生した。

 千円札・五千円札・一万円札、大切なお金であるが、実のところただの紙でしかない。どうしてこんな紙に価値が生まれるのか。それを紙幣が生まれた歴史とあわせて見ていくことにしよう。
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(イギリスの10ポンド紙幣)

 要するに国家が貧乏していた。逆さにふっても金や銀はこれ以上採れない。そこで今ある金(きん)を担保にして、紙幣を発行する(これを国が法律で認めるようにする)。気に入らなければいつでも金と交換(兌換/だかん)できますよ、というわけだ。こうすれば、ただの「紙」「お金」の意味が宿る。しかも「紙」だから、原材料の心配をせずにどんどん発行できる。
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 ここで問題が発生する。紙幣は金と違って流通しやすく、人から人へと渡っていくスピードは桁外れだから、そのうち紙幣の価値が下がり、インフレになって紙幣は流通しなくなる。なんせもとは紙だから、それ自体に「価値」があるわけではない。どうしたらいいか。

 紙幣を「お金」として維持させるためには、紙幣を「使」わなければいけない。「出資/投資」―――平たく言えば「モノを買って」はじめて、紙幣は金と同じ意味を持つ。使わなければ、紙幣に意味はないのだ。ということは、「紙=お金」というシステムを維持するためには、常に経済と市場を拡大していかなければいけない。つまり「買い続け」なければいけない。

 しかしこれも最終的には、紙幣で買う「モノ」がなくなれば終わり。モノがなくなったら、紙幣の価値は下がり続ける。ところが人間の「欲求」は無限なので、それを満たす「モノ」も無限にある―――だからこそ貨幣経済はいまだに続いている。
 
 知った風なことを述べたが、これ全て『金と魔術』(法政大学出版局)に教わった。中世に流行った錬金術は、詐欺師が発明した経済と金融に受け継がれていることを、ゲーテ『ファウスト』を使いながら論証していくという名著である。日本語が日本語になっていない経済書なぞ読むより、はるかに勉強になる。やはり「詐欺」こそが、「経済」を読み解くためのキーワードなのだ。
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by ulyssesjoycean | 2006-02-21 10:03 | 詐欺の文化史 | Comments(2)

こども=聖者=道化

詐欺に唯一引っかからない存在―――それが「こども」。詐欺というのは人が作り出したシステム、その約束事の隙間を見つけて騙すから、そのシステムに属していない存在は騙しようがないのだ。
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 マジシャンにとってこどもが天敵なのも、そういうことである。ショーの演出として、こどもを舞台に上げようものなら、何せ理窟で動いているわけではないので、通って欲しくないところを通り、机の下を覗いたりと、トリックが成立しなくなってしまう。

 実を言うと、詐欺に引っかからないのはこどもだけではない。聖者と愚者―――愚者は道化(fool)と言い換えても良いが、現代にあっては聖者にも愚者にもお目にかかることはできなくて、つまりそういう超俗の存在を調べるのも一苦労ということになる。道化学といえば文化人類学者の山口昌男(やまぐちまさお)氏がすぐに思い浮かぶが、この人のことをどうにも好きになれず今後も好感を持つことはなさそうなので、知らぬわけではないが道化については放っておくことにする。

 聖者(hermit)を感じさせるのは、イスラームの美を描いたロナルド・ファーバンク(Ronald Firbank)の傑作掌編『サンタール』あるのみといった感じで、目ぼしいものは見当たらない。やはり「こども」を調べるのが一番手っ取り早いようだ。
 he prostrated his face repeatedly to the ground whose touch as it met his brow was warm yet with the heat of the day.

 [夕刻の礼拝の時間が近づいたので]何度も何度もその額を地面に打ち付けると、その一日の灼熱の名残りが眉間に暖かく感じられる。

(Ronald Firbank. "Santal". p40. translated by Shirokuma.)

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 上記『サンタール』の原書は入手が相当困難になっている上に、また由良君美(ゆらきみよし)氏が訳した『イギリス幻想文学』も手に入れにくい現在、下記のページをごらんになれば、ファーバンクが描こうとしたその世界の一端が知れるかと思う。キリスト教のごてごてとした建築とは全く違う美しさで、できることなら直接足を運んでもらいたい。礼拝の時間を伝えるアザーン(Azaan)の朗唱は、全身が震えるぐらい素晴らしい(これも直接聴かないと良さが分かりにくい)。別にイスラーム教徒(ムスリム)でなくても入れてくれるし、大体こっちだってイスラム教徒ではない。

 東京ジャーミィ・トルコ文化センター

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(図版出典:東京ジャーミィ・トルコ文化センター
http://www.tokyocamii.org/photo/image/img020.jpg)
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by ulyssesjoycean | 2006-02-20 13:28 | 駄文 | Comments(0)

マジシャン=推理小説=詐欺師

マジシャンにとっての三大原則―――これが推理小説の原則とまったく同じ。これから行うことを説明しない、同じマジックを繰り返さない、種明かしをしない、マジックには探偵がいないだけであって、やっていることは推理小説と一緒だという、こっちのカンは当たっていたようだ。
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 『ゾウを消せ!』は読み物としても優れた本だったが、そういう読み物的な部分の中にマジシャンの矜持(きょうじ)が仄見えて、ニクイ。紹介してみよう。
1:観客が自ら騙されるように仕向ける
2:小さい嘘を積み重ねて、錯覚の落とし穴を掘り下げる
3:マジシャンは嘘をつかないし、道義に反することはしない
4:口にして良いことと、口にしてはならないことがある
5:マジシャンの天敵はこどもである
6:マジシャンは決まったことしかできない
 「決まったこと」とは何だろうというと、これは10の技。これの複合でマジシャンはやっていくというのである。
1:出現
2:消失
3:転移
4:変化
5:浮遊
6:再生
7:生物
8:透過
9:幽霊
 細かくなるからひとつひとつを説明はしないが、言われてみるとそうだという気がする。ものを消したり、生き物のように見せたり、すりぬけたり、幽霊のような効果が出せるのがマジシャンだというわけだ。

 しかし、こっちからすれば10番目の技が一番オモシロイし、興味をそそられる。
10:詐欺
 これだ。説明では「読心術師や超能力者のまねごとができる」となっているが、これはまさしく「詐欺師」のことであって、修練を積んだマジシャンはいつでも詐欺師になれるという。

 いつでも詐欺師になれるのに、なぜならないのか―――という疑問に答えてくれるのが、インチキ霊能力者をぶっ潰していくランディ爺さんの挿話、というより爽話だろう。岡田斗司夫『東大オタク学講義』に入っているのでぜひ読んで欲しい。ユリ・ゲラーがスプーン曲げをやった会場で、まったく同じことをしてみせ、更にその全公演についていく(笑)。大問題になったらしいけれども、そりゃそうでしょう(笑)。
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 なぜそうまでして詐欺師を叩かねばならないのか―――マジシャンはアーティスト(artist)だからだ、というのがその理由のようだ。

 日本はともかく、ヨーロッパやアメリカ、つまりショウビジネス(エンターテイメント)が高い評価を受ける国々では、マジシャンというのは相当に社会的地位のある存在だそうで、厳しい修練を積んで観客を喜ばせるマジシャンからすれば、あんな三文トリックで超能力などとほざく詐欺師は許せない―――と、どうもそういうことらしい。

 社会的地位が高いということは、要するに憧れの職業でもあるわけで、若き日のオーソン・ウェルズなぞ、マジシャンに弟子入り志願している。気難しいことで有名なウェルズだが、『第三の男』では出不精のウェルズを引っ張り出すのにプロのマジシャンを呼んできて、撮影が終わったらトリックを教えますから―――そうでもしないと出てこない(笑)。今となっては笑い話だが、当時のスタッフは随分苦労したらしい。

 映画化されて話題になっているチャールズ・ディケンズもアマチュア・マジシャンだったそうで、19世紀は推理小説家でなくとも、みんなをびっくりさせることに命懸けの時代だったのだろう。それにしても、あんな気鬱な話ばかり書いていたディケンズが、家でマジックの練習を必死こいてやってるとは―――その姿を想像すると、少し可笑しい。
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by ulyssesjoycean | 2006-02-19 16:29 | 詐欺の文化史 | Comments(0)

『悪魔』が知っている

永井豪の傑作『デビルマン』を、学術的な論証と多彩な図版でやるとこうなる―――というのが、ルーサー・リンク『悪魔』という名著。結論はまさにデビルマン、その部分を引用してみよう。
 昔から固定した図像表現(イコノグラフィー)がないのがかえって好都合なのである。仮にそれがサッチャー首相であろうとカタリ派であろうと、悪魔はいつもあなたの「敵の顔」をしていることになる。顔なき悪魔のお蔭で、敵対されていることの意味を考えるのを回避し、自動的に神を自分の味方とすることができる。悪魔はしばしば単に「他者(ジ・アザー)」である。

(ルーサー・リンク著 高山宏訳 『悪魔』 p300)
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 「悪魔=人間」というわけで、これはまさしく『デビルマン』だろう。ところがこっちの知っている悪魔で、もっとも印象的なのが、阿部謹也(あべきんや)氏が『世間への旅』で紹介した悪魔の話である。
 若い騎士が師匠とともに街を訪れる。師匠がこう言う。これから悪魔がお前のところにやってくるだろうが、私が描いたこの円から決して出てはいけない。悪魔に質問してもいいが、悪魔が質問したことに答えてはならないぞ、というわけで、師匠は用事で出かけた。すると果たして悪魔がやってきて、若い騎士に色々と質問をする。騎士は答えない。悪魔に質問する。悪魔が答える。悪魔が質問する。騎士は答えない。

 こういったやり取りの後、騎士が最後に「別に悪いことをしたり、人間に悪いことをさせたりするわけではないのに、なぜあなたは『悪魔』と呼ばれるのか」と質問した。すると悪魔が「悪いことをするから『悪魔』なのではない、この世の悪を全て知っているから『悪魔』と呼ばれるのだ」と答えた。

 では試しにやってみろと騎士がいうと、「あなたが友を裏切り、盗みを働いたのはあの町のあの場所のあの時だ」と、悪魔はこともなげに答えて見せた。
 今まで読んだ中で、最も恐ろしいと感じたのは、上記の『悪魔』である。悪事を働くからでも、悪事を働かせるからでもない。この世の悪事を全て知っている存在―――それが『悪魔』だ、というのは最も適切な『悪魔』の解釈ではないだろうか。

 引用という形にしたが、上記の文は記憶をもとに再現したもので、正確な内容をお読みになりたい方は、阿部謹也『世間への旅』にあたっていただきたい。
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by ulyssesjoycean | 2006-02-18 15:36 | 駄文 | Comments(0)