マンガとアニメーションと人文を、脱線(Digression)でつなぐブログ。
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<   2006年 03月 ( 27 )   > この月の画像一覧

からだの意識=独創的

創造者たちは、能動的に新しい着想を育てているとき以外は、気落ちしかつ衰弱した状態にあるのである

(セイモア・フィッシャー 『からだの意識』 p211)
 自分の身体について敏感なことと、独創的なものの見方というのは正比例の関係にある―――という身体感覚論を組み上げるセイモア[サイモン]・フィッシャー『からだの意識』(誠信書房)がとんでもなくオモシロイ。

 要するに、子どもの頃から自分の「身体」というものに(病気その他の理由から)直面せざるを得ない体験をしていると、まず「自分の身体から生じた感覚」というものが、「基準」として確固たる位置を獲得する。そうなってしまうと、社会や学校教育がいくら「平凡の強制」(柳田國男)をしたところで、まったく「自分自身のもの」である感覚を揺るがすことはできない。だからこそ独創的なものの見方をする―――というのは、今まで一度も聞いたことはないが、恐ろしく説得力のある考え方である。
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 こういう時に自分の体験を披瀝するのは無意味なことだが、やはりまず「身体」が反応して(全身が震える、涙を流す)、その後にはじめて「感動」がついてくるというのが順序としてあり、この逆ではない。

 しかし「個性的」だの「独創的」などというのは何か良いことになっているようだが、引っくり返せば誰とも考え方(というより感じ方)を共有できないわけであって、何か同じものを目にしても「みんな」と同じように感じられないという孤独感はその子どもにとっては想像を絶するものであったし、またそういうものの一例としてこんな話がある。
細田 高校生活をワイワイ楽しんでいるような奴らとは、本当に口をききたくなくて、何をされたわけでもないのに、無闇に憎んでました。直接的な居心地の悪さというか、自分と世の中のズレている感っていうのが、一番強かった時期です
――それがあるからものを作っているのでは。だって普通に誰とも分け隔てなくコミュニケーション出来てたら、それをやり続ければ生きて行けるから、ものを生み出すなんて面倒くさいことはしないですよ。

(細田守 『季刊エス』 13号 p53)
 これが冒頭に引用した部分にもつながっているわけで、福田恒存氏の『一匹と九十九匹と』という名編も、つまりは同じことを言っている。興味のある方は福田氏の全集(文芸春秋)で確認していただきたい。
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by ulyssesjoycean | 2006-03-31 22:07 | ヴィジュアリゼイション | Comments(0)

こども=「知恵の実」以前

「七歳までは神のうち」―――ものごころがつく前の子どもは「エデンの園」、しかも「知恵の実」を食べる前のアダムとイヴに等しい―――簡単に言うと、「服(ファッション)」がいらない世界の住人ということ。しかし、これではなんだか分からないから順を追って説明していこう。

 キリスト教の説明では、神が最初の人間アダムを創(つく)り、その肋骨からイヴを創った。その二人が住んでいた楽園が「エデンの園」。ここでは二人とも働かなくていいし、食べ物もあった。それをサタンがそそのかして「知恵の実」を食べさせ、二人は知恵がつき、イチヂクの葉で局部を覆った。それを見た神はお怒りになって二人を追放し、男は労働と、女は陣痛という重荷を背負わなければいけなくなった―――これが有名な「楽園追放」のエピソードである。
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(fig. from
http://www.kitanet.ne.jp/~yeomam/04.jpg)

 このエピソード自体は非常に有名で別になんでもない話だが、この二人が身につけた「イチヂクの葉」―――これが人類最初の「服」だ、というのはルドルフスキー『みっともない人体』に教えられるまで気がつかなかった。
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(fig. from
http://www.home-takumi.com/nikki/syuukaku.jpg)

 ここから少し話は飛んで、「詐欺」について考えてみる。詐欺師に騙される人間(カモ)の特徴として「服装とそれを着ている人間をイコールだと思う」というのがある。つまり身なりが立派な人間は、人間としても立派だと思い込んでいる―――そういう人は詐欺師の「立派な身なり」にコロっと引っかかる。なるほど、頷ける話だ。

 その反対にいくら詐欺師ががんばっても引っかからないのが「子ども」である。子どもというのは詐欺師の天敵であり、立派な身なりにも決して騙されてくれない。子どもにとって「服(ファッション)」などというのは、全く眼中にない。

 ここでハタと気がつく。服が眼中にない―――つまり「服というのはあってもなくても一緒」―――そうか、子どもは知恵の実を食べる以前の存在なのだ。今まで「子ども」「詐欺」を結びつけるピースが埋まらず悩んでいたが、「神である子ども」「服」なんてものに関心がない、だからこそ、詐欺師が持つ最大の武器「見かけの立派さ」に、ことごとく打ち勝ってしまう。ようやっと合点がいった。
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by ulyssesjoycean | 2006-03-30 17:57 | 詐欺の文化史 | Comments(1)

「好き嫌い」=「なんにもない」

「好き嫌い」を言うことは、実は「何も言っていない」ことだ―――ということを、大田垣晴子氏のマンガから「逆説」として学ばせてもらった。この方も夏目漱石を代表とする「成績は良いけれど・・・」の族(うから)だったようである。
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 考えなくて良いところに頭を使い、考えるべきところに頭を使わない―――これが「成績は良いけれど、頭は良くない人」の原型ではなかろうか。

 真に考えるべきこと―――などというと禅や哲学めいてきて厄介だから、こう言い換えてみよう。頭を使って考えた方が「オモシロイこと」と。

 そして「考えなくても良いところに頭を使う」人たちの特徴(というよりも特技)として、考えるべきところに「好き嫌い」で安易に判断を下す、というのがある。その際たるものが「人間好き好きだから」「人それぞれだから」というもの。

 「好き嫌い」で判断する以上、自分も人から「嫌い」と言われる覚悟があるはず。「好き嫌い」を判断基準にするのならば、自分も「好き嫌い」で判断されていい―――これが最低限の理窟のはずだが、自分が言うのはいいが人に言われるのは嫌なので、先に「人それぞれ」といって予防線をはっておき、あなたは「嫌い」と言うかも知れないけれど、そんなのは最初から分かっていますよ、だからわざわざ「嫌い」なんて言わないで下さいね―――というのは、
いやらしい人種だ。消えてなくなればいいと思う。(福田 恆存)
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 それでは「好き嫌い」での判断には何があるか。実は何もないのである。「好き嫌い」での判断には「好き嫌い」という反応しか返ってこない。当たり前の話である。「好き嫌い」と言った瞬間、その先には何もなくなる。「好き嫌い」という情動は誰にでもあるものだが、何もそれで他人の文物を判断し、それでいて自分への評価は「人それぞれ」といって逃げる―――なんだかケチくさくていけない。心に光がない。

 以前から分からなかったこの「好き嫌い」について、こういったことを考え付かせてくれた大田垣晴子氏には、大いに(そしてちょっと皮肉もこめつつ)感謝したい。多少皮肉を言ったとしても「人それぞれ」を標榜なさっている大田垣氏であるから、寛大な気持ちで許してくださるだろう。いや、逆か。
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by ulyssesjoycean | 2006-03-29 16:04 | Comments(0)

『はじめの一歩』とアナトミー(解剖学)

傑作『はじめの一歩』は、後半になるにつれ、解剖学的な描写が増えてくる。鷹村さんの「網膜剥離疑惑」、宮田のカウンターを指導するシーンなど、筋肉繊維が実に丁寧に描いてある。
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 考えてみればこれも当然、レオナルド・ダ・ヴィンチが正確な人体を描くために解剖学の知識を有していたというのは有名な話。ボクシングという人体と人体がぶつかり合う勝負を描こうと思ったら、解剖学を勉強せざるを得ないはず。
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 そうすると、一歩が日本チャンピオンになってはじめての防衛線、その相手が「医者(のタマゴ)」というのは、なるほど、これでつながる。こういう解剖学と啓蒙を扱ったスタフォード氏の『ボディ・クリティシズム』、早いトコ翻訳を出してはいただけないでしょうか、国書刊行会さん。
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by ulyssesjoycean | 2006-03-27 22:09 | 駄文 | Comments(0)

服を着る意味

服はほんらい他人の視線のためにある。

(鷲田清一 『人はなぜ服を着るのか』 p143)
 つまり、服に対する関心は「他人」に対する関心の度合いである―――というわけだ。もちろんこれは衣服にとどまらず、「化粧」(一般的なメイキャップという意味だけでなく、爪を切る・髪を切る・入浴するなどを含めた概念)に代表される「衛生」とも結びつく。哲学や現代思想には縁遠いが、その中で鷲田清一(わしだきよかず)という人は、相当信頼できる書き手のようだ。
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 (自分の着る)服に全く興味がない、というのは、他人に全く興味がないことであり、(自分の着る)服にしか関心がない、というのは、他人にしか興味がないということで、これはどちらも恐ろしく嫌味なものであるから外すにしても、ではこれからの「お洒落」というのはどういう方向を目指すべきか―――というところで、鷲田氏が言うのは「ホスピタリティ」。人を「歓待」する精神、これだ。
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 話の成り行きとしては当然、ファッション・デザインの方向に話が進んで、だから氏の著作にはコム・デ・ギャルソンイッセー・ミヤケ山本耀司が出てくる。こっちはこの方面に恐ろしく無知だから、このブランド名を聞いた事はあっても、それがどんなものなのか全く知らない。ただ、鷲田氏の著作に引用される言葉を見る限り、山本耀司という人は相当オモシロそうで、この人に密着した映画(『都市とモードのビデオノート』)もあるという(が、入手は相当困難らしい)。
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(あろうことか、このボックスセットでしか見られないとのこと)

 そういったファッション・ブランドの話を読むにつけ、段々と分かってくることがある。こういったファッション・ブランドのやっている試みはオモシロイと思うし、なるほどとも思うのだが、どうしても忌避感があってそれがなぜかというに、こっちにとって服(や建築)は常に「生活」であって欲しい―――というところに落ち着く。今まで「服」というのはどこか座りの悪い概念だったが、これでピシっと一本の線でつながる。なんでも調べてみるもんだなぁ。
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by ulyssesjoycean | 2006-03-25 22:37 | ヴィジュアリゼイション | Comments(0)

「モード系」のモードって!?

なんとなく流通してしまった「モード」という言葉だが、その言葉を知ってはいても「では『モード』とはどういうことか」―――それをきちんと説明できる人がどれだけいるだろうか。

 しかしこういう術語は、知ってしまえば「なーんだ」ということが殆どで、「モード」もその例に漏れない。「(服飾の)流行」を英語で言えば「ファッション(fashion)」、フランス語で言えば「モード(mode)」となる。

 この「モード」という言葉で直感的に思い出すのは、ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin)の翻訳論。なにかの折、恩師にこの英訳をコピーしていただき(その方は「Xeroxing」という言い方をされていた)、そこまでは非常に嬉しかったのだが、いただいたベンヤミンの方は嬉しいどころの話ではなかった。必死こいて読んだ挙句に、結論がこうある。
Translation is a mode.

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 これで終わってしまい、これを読んだときの憤りを今でもはっきり覚えている。これがあってから、ヴァルター・ベンヤミンはまったく頼みにならないと頭に刻み込まれ、その後フランス語を覚えてから読んだポールヴァレリー(Paul Valery)にも同様の憤りを感じ、篠田一士(しのだはじめ)氏が20世紀の三大批評家として選んだうちの二人には、完全にお引取り願うことになった(もう一人はエドマンド・ウィルソンで、この人は信用できる)
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 またしても「詐欺」というテーマから調べ始めたファッションだが、やはりというか何というか、相当ウサンクサイ本しかなく、また学術的にまともな本であっても、「ファッションの意味」=「服を着る意味」というところまで踏み込んでいるものは殆どない。太田垣晴子(おおたがきせいこ)氏のファッションものは目の付け所がよく、オモシロイ上に行き届いた印象があるが、こっちの欲しい情報はなかなか。一筋縄ではいかなそうだ。
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by ulyssesjoycean | 2006-03-24 19:20 | 駄文 | Comments(2)

作り手側からの新雑誌!

『アニメーションノート』という、作り手の側からの情報を満載した新雑誌が創刊されたようで、その図版や写真のレイアウトが素晴らしく、寺田克也・新海誠がインタビューを受けている。
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 今現在、アニメーションやマンガを専門的に扱った―――それでいて専門臭くない―――雑誌の中で成功しているのは、やはり『季刊エス』だろう。図版を斜めに傾けたレイアウトが特徴的だったが、レイアウトが刷新され、デザイン的な意味でのオモシロさは薄れてしまったのは残念だが、それでも企画・特集は充実していて、滅多に表に出てこない作家や関係者が、相当な質量のインタビューや取材をこなしているから、やはりこれだけの内容をやるためには季刊(クォータリー)でないと無理だろう。
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 その他には、『コミッカーズ』『ぱふ』があるが、どちらもマニア方面に偏りすぎ、紙面レイアウトも洗練されたものを感じないため、どちらも苦戦しているようだ。いまや雑誌はどれも苦戦、それを単行本で回収するという方針のようだが、今市子氏が連載している『ネムキ』(朝日ソノラマ)も隔月誌であり、月刊・週刊・隔週誌にも作品単位では素晴らしいものが沢山あるが、やはり「雑誌そのものの素晴らしさ」ということを考えると、デザインやレイアウトが下がってしまうというのは、必然とはいえ、やはり寂しいものがある。
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 フランスの文芸誌『マガザン・リテレール』は、カラー図版も豊富、紙面のレイアウトも素晴らしく、グリッドデザインというものが確立された、アルファベット・デザイング(alphabet designing)の強みを感じることしきり。日本語でそれをそのままやれ、なんていうのはバカもいいとこだが、可能な部分も大きいはず。 
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by ulyssesjoycean | 2006-03-24 00:11 | 駄文 | Comments(0)

『Qさま!!』と19世紀の『見世物』

『Qさま!!』がやけにオモシロイのはなぜなんだろうと考えたとき、要するに十九世紀以来の「見世物」の歴史につながるからだというのが分かる。「『見世物』だなんて失礼な」という方に、見世物がテレビになっていく過程を説明してみよう。

 現在、メディア(伝達媒体)というものを考えると三つある。誰でもわかるように、
テレビ(視覚)
ラジオ(聴覚)
新聞(活字)
 であるが、なぜこの三つの中で、テレビだけがかような殷賑(いんしん)を極めたのか―――いくら小難しい理窟をこねたところで何も説明できはしない。「見世物だから」というのが一番簡単で説得力がある。
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(fig. from
http://www.archomeproducts.com/electronics/Projection_TVs/Hitachi_50_in_CineForm_153_LCD_Projection_High_Definition_Television_05754784000.jpg)

 いきなり現在から十九世紀に飛ぶと分かりにくいので、まず二十世紀初頭を考えてみよう。今のようにテレビもなければラジオもない時代、それがフリードリヒ・キットラーが指摘するように、グラモフォン(蓄音機)フィルム(映画)が登場することによって、その全てが変わる。それまで、音や映像の記録手段は存在しないから、その全てを活字がまかなっていた。いわば言葉の専制時代(オートクラシー)。これが二大発明によってがたーんと変わり、言葉の占める割合が大きく減る(それまでは言葉100%なのだから当然なのだが)。
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 ではそれ以前の十九世紀はどうなのか。記録手段は活字媒体しかないから、それ以外のメディアは大したことなかったんだろう―――と思うと、さにあらず。オペラやコンサートは高価なため一般に開かれていなかったが、ヴィジュアル面、つまり「見世物」はこれでもかというほど流行っていた。よくよく考えれば、当時、識字率はそれほど高くない上に、本はべらぼうに高い。どう考えたって、見世物にいくしかないのだ。
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 そういう見世物の究極の形が「博覧会」。今では文化文化と喧(かまびす)しいが、要するに最初は見世物だったわけで、現代で「見世物」というと下等とかサブカルチャーなんてイメージがあるが、最初からそんなイメージがくっきりとあったわけではない。見世物からいつのまにやら分化した、演劇映画というと高尚な感じがするが、だからといって見世物の伝統が途絶えたわけではない。安くて、誰でも見ることができて、毎日やっている―――なーんだ、これ、テレビのことじゃないか。テレビという媒体に「見世物」は生きている―――というわけだ。

 むしろ「見世物」こそがテレビの正しい(?)あり方なわけで、それを考えると体を張った企画ばかりの『Qさま!!』『鉄腕ダッシュ』がオモシロイのも頷ける。トークバラエティといいながら、その実、全て「自分の話」である番組がオモシロイわけがない。そんなものは見世物ではないからだ。

 じゃあ体を張ってりゃいいのかというと、もちろんそうではない。「見世物としてのテレビ」を考えた場合、その一番すさまじい例はアンタッチャブルのDVD『できませんはいいません』(レンタル有り)ではないだろうか。知らない人は知らないが、知っている人間もそんなに多くはない深夜番組『ゲーム Wave』のスタッフが再集結して作りあげた「私物(!)爆破(!!)企画」は一見の価値有り。それにしてもヒドイことするよなぁ。
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by ulyssesjoycean | 2006-03-22 18:58 | ヴィジュアリゼイション | Comments(0)

押井守 大塚康生 西尾鉄也

二つのインタビュー集がオモシロイ。押井守『勝つために戦え!』『大塚康生インタビュー』、前者は「自転車に乗った理窟」こと押井監督がしゃべり倒し、後者は『カリオストロの城』で作画監督を務めた大塚康生(おおつかやすお)氏が語っているというもの。
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 どちらも業界屈指の理論派であるが、押井氏の場合、理論というよりは「理窟バカ」的な語りであって、それでいながら、なぜこの人のもとに優秀なスタッフが集まってくるのか不思議でしょうがなかったが、収中、西尾鉄也氏の挿絵マンガに登場する押井像(表紙の犬)を知ると、「こういうおじさんがいたらオモシロイかも」と、不覚にも思ってしまう。

 大塚氏のインタビュー自体は読了していないが、パラ見する限りでも、本としてのつくり、つまり造本が相当な高レベルで、ここ最近のアニメ批評・マンガ批評書と比べると出色のデキである。読まなくても良い本だと分かる―――というのは本に失礼かもしれないが、この体裁を見ただけで内容は保障できる。とはいっても『About Face』(MIT press)のように、素晴らしいのはブックデザインだけという本もあったりするからツライ。
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(著者の文章がヘタすぎて、とても読めたシロモノではなかった・泣)
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by ulyssesjoycean | 2006-03-21 15:00 | 駄文 | Comments(0)

『エマ』第七巻で終結!?

雑誌『ぱふ』でのインタビューにて、『エマ』の作者・森薫氏が、一続きのストーリーとしては7巻で終了、書き漏らしたエピソードを集めた番外編が8巻で、これで物語は完全に終わる―――との発言をしている。
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 稀代の傑作『エマ』が次巻で一応終結するというのは寂しい限りであるが、一本筋のストーリーが終わったあとは、キャラクターごとの番外編エピソードになるということで、本編がドシリアスな内容だっただけに、番外編ではギャグ作家としての一面を臆面もなくさらけ出した爆笑エピソードを望む(やるとしたらおっちょこちょいのターシャであろう)
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by ulyssesjoycean | 2006-03-20 21:30 | 駄文 | Comments(0)