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<   2006年 05月 ( 30 )   > この月の画像一覧

翻訳小説『七人の男(抄)』 第七回

 海水浴をしようといったことでもだったが、二人はピーセル夫人に言うことと言っていないことが常にあるのだと感ぜられた。ペギーが父に「投資」のアドバイスをしているなんてこともありそうなことだと思う。果たして二人はピーセル夫人にスイスへいって登山でもやってみようかという気持ちを話したのだかどうだか。

 妻のためを思って秘匿するその例をちょっとだけ昼食後に見つけた。コーヒーを飲もうというのでホテルの正面に席を移した。車は既に待機中で、ペギーは飛んでいって日々の点検を行う。ピーセルがタバコをくれたのを見て、氏の細君がこの人は吸わなくなったんですよと教えてくれる。ここのところ吸い過ぎたように思うからねと説明して、それでしばらく「禁煙」するつもりだという。目を合わせたとしても私はにこりともしなかっただろう。はっきりと分かったよ、昨晩、ニコチンというのはギャンブルのスリルにとって有益ではないと私が言ったことをよくよく「考え直した」んだということをね。私はにやにやするのを堪えきれなくてそれをピーセル夫人に見られてしまった。そこで私もタバコをやめられたらと思ってはいるんですけどね、御主人の意志の強さにはかないませんな、と説明した。青ざめた瞳で自分の夫を見ては、にこにことした。「こんなに意志の強い人はほかにいませんよね」と言った。

 「何をバカな!」と笑う。「僕ぐらい弱い奴はほかにいないよ」

 「そうでしょうとも」と静かに言う。「それも本当よね、ジェイムズ。」

 それでまた笑いはしたが、その顔を紅潮させてる。ピーセル夫人の方でもうっすら顔を赤らめたのが分かった。こんな風に前の人間がやったことを繰り返すのが分かってくるっていうのはあまりゾッとしないね。ピーセル夫人のパラドックスから突如として静寂が差し込み、そこへ娘さんが跳んで帰ってきて顔を突っ込むと、早く行くことにしようよと頼み込んできたからこれには助かった。私のほうを見ている自分の妻をピーセルが見つめ、なんとも妙な話だけれども一緒についてくるんだろうねと頼まれているようだった。もちろんそうですよと主張する私。ピーセルは妻に行きたくないときはそう言えよと言う。「だってそうだろう。昨日はカレーから走ってきたんだぞ。それで明日にはまた走りに出て、その後はずっとそうなるんだから」

 「そうだよ」とペギーが言う、「ウチにいたほうが絶対いいよ、ねぇお母さん、ちゃんと休まないと」

 「ペギー、さ、着替えましょう」とピーセル夫人は席を立って答えた。夫に運転手を呼んでくるのと訊いた。そうするつもりはないという答え。

 「やったね!」とペギー。「じゃあ私がフロントに座れるじゃん」

 「それはいけません。ビアボームさんが前に座りたいはずですよ。」と母親が言う。

 「母と一緒の方がいいですよね」とこの娘が訴える。あたうる限りの力を込めてピーセル夫人とご一緒したいと応えた。もっとも程なくして、母娘が自動車に乗るときのいでたちで再び姿を見せると、私の望みは脇へ追いやられるということが明らかになった。「私、お母さんと一緒に乗る」とペギーが言うのである。

 結局のところ、ピーセル夫人が何かの理由から自論を主張したのを、内心ありがたいと思った。私を嫌いなんだなと思って、傷ついてしまったよ。もっとも事故でもあったりしたとき、助手席に座る人間のほうが後部座席に座っている人間より危険度が高いと、単にそう思ってるからなんですよとは言っていたが、私と一緒の座席は嫌だというのに間違いないと思う。それにね、もちろん私という人間より実の娘の方がいいに決まってるよな。しょうがない女だなァ、気持ちだけでもご一緒しよう。車が海沿いからノルマン風の拱道(きょうどう)を通り、街を抜けその周縁を通り過ぎていくと、自信たっぷりに私を鼓舞してくれたけれど、自分のカミさんにもそうしてくれないかなと願ったりした。(ゴーグルをつけていない)そのりりしい横顔を見ると自信がみなぎっているように思えた。(私もゴーグルをしていなかったけれども)折々辺りを見廻しては細君に会釈し明るく微笑んだ。会釈を返してくれないということはなかったけれども、微笑みの方は娘にとっておいたようだ。

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by ulyssesjoycean | 2006-05-31 18:30 | 翻訳小説『七人の男(抄)』 | Comments(0)

『警察はなぜあるのか』

という岩波ジュニア新書が恐ろしくオモシロイのだが、平易な言葉で語られる法律の意味や法的根拠といったことは全て、「美感」「世間」に生きる日本人には何の意味もない―――ということが分かってしまう。福田恒存(ふくだつねあり)氏と阿部謹也(あべきんや)氏を通過してしまうと、そう思わざるを得ない。

 分かりやすいところで阿部謹也氏から行くと、日本には「個人」「社会」も存在しない。あるのは「世間」だけである―――だからこそ、西洋の「個人」「社会」を基盤にして培われた「法律」「倫理」といったものは、しょせん「建前」としての意味しかない。日本人にとって「世間」にかかわること、これが「本音」であり、だから日本はつねに「二重社会」なのである―――というのが骨子だが、「世間」というのは当たり前すぎて気づかないし、「白人」を気取る知識人は「世間」というものの存在を認めたがらない―――これ以上ない真実だから、こう書いているだけで胸が苦しくなる。
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 そして福田恒存氏はというと、日本人は「美感」であります―――つまり「美しいか美しくないか」といふことだけが問題なのであつて、論理や理論を用ゐて生活を議論を煎じ詰めるのはヤボなのであります。他人との関係がこじれるといふ「穢(けが)れ」の状態よりは、たとへ自分が悪くなくても謝罪して、一刻も早く「穢れ」の状態から抜け出やうとする、これが日本の本質であります―――と、語っている。これもまた真実だから、更にやりきれない気分になってしまう。
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 だからこそ「きれい・きたない」に目をつけた鷲田清一(わしだきよかず)氏はさすがで、日本語において「きたない」という言葉がもっとも強い罵倒だ―――ということをファッション論と絡めて詳述している。
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 というところで頭の法律に戻ると、要するに警察に関わるというのは「穢れ」―――つまり「キタナイ」状態になってしまうから、「美感」をなによりも重んじる日本人としては、自分たちで議論をして争うという居心地の悪い状態より、法律だの規則といったものは「警察(お上)」に全部押し付けてしまって、自分は「キレイ」な状態でいたい―――ということになる。

 それで思い出すのが、、このところ海外へ行って「ウツの宮」になってしまう人が多いという話。海外(主に西洋)へ過剰な期待をこめて留学したりすると、「世間」に生きる日本人には想像もできないほど強烈な「個人」と、「論理」を旨とする「社会」にやられてしまって、「ウツの宮」にこもってしまう人が多いそうな。『のだめカンタービレ』がフランス編になってからまるで話が動かなくなってしまったのは、どうもその辺に理由があるようだ。
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(ラフマニノフのピアノ協奏曲をやったところで、「力石が死んでしまった」印象があるなぁ)
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by ulyssesjoycean | 2006-05-30 19:47 | 探偵する小説 | Comments(0)

サイモン・シャーマの最新刊

稀代の歴史家にして文章家のサイモン・シャーマ(Simon Schama)氏の最新刊『Rough Crossing』(BBC Books)「奴隷制貿易」―――つまり「黒人」問題。例によって、瑣末な情報からちょっとした小話までを集めに集め、その上でその情報自身に語らせるという「クロニクル」な手法は健在。500ページ弱の分量は、いかに文章が上手いとはいえ、なかなかにシンドかった。
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 こちらがこの手の情報や十九世紀アメリカに疎いのと、引用される図版が少ないため、いまひとつ流れに乗れぬまま読了してしまったことが残念といえば残念。十七世紀オランダを扱った『富めるが故の惑い』は、引用される図版と洒脱な文章が渾然一体となったデザイニングが施されていて、ページをめくるのが楽しくてしょうがなかった。あれはやはり、シャーマ氏会心の作であったのだろう。
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 十八~十九世紀イギリスということでいえば、最近富山太佳夫(とみやまたかお)氏による『笑う大英帝国』(岩波新書)という本が出たが、冒頭からして書きたいのか書きたくないのかまったく分からない不完全燃焼っぷり。なんとも煮え切らないまま最終ページまで行ってしまったという印象がある。高山宏氏と同じ、由良君美(ゆらきみよし)ゼミの出身ということで、信頼していたんだがなぁ。
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[その後他の著作を調べ、まるで話にならないことが分かったので、もうトミヤマさんの著作を手に取ることはないだろう]
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by ulyssesjoycean | 2006-05-29 21:29 | 駄文 | Comments(0)

「裏切り」の系譜

傑作『ガンバの冒険』、その中でも最高のエピソード『裏切りの砦』―――「裏切り」によってドラマティックになっている作品は古今東西色々あるが、その中でもこれは珠玉の一本。
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 「裏切り」といってすぐに思い浮かぶのは、何といっても『巌窟王』であり、『モンテ・クリスト伯』。信頼していた友と婚約者に裏切られ復讐鬼と化す―――アニメーション、フランス国営放送、原作小説、解釈が違っていながら、どれも傑作であるというのはなかなか珍しい。
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(原作からは相当「遠い」アニメーション。蓋し名作)

 そしてなんといっても忘れてならないのはシェイクスピアの『マクベス』だろう。三人の魔女にそそのかされ、自身の妻の勧めに従い、主を殺して自らが王となる―――裏切るまでの葛藤が意外に長く、そして裏切った後も後悔の念にさいなまれる―――誰しも知っている有名なセリフ「マクベスは眠りを殺した。マクベスに眠りはない」、そして夜な夜な「血で汚れた手を洗う」マクベスの妻―――シェイクスピアはやっぱり喜劇だよな、なんて言っていても、『マクベス』『リア王』『リチャード三世』、このあたりの訳の分からない迫力にはただただ圧倒される。
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 シェイクスピアはそれ以外にも「裏切り」を組み込んだ作品があるが、じゃあそれ以外に「裏切り」をテーマとした作品って何がある―――と考えると、冒頭の言葉とは矛盾してしまうが、意外なほど思いつかないことに気がつく。

 こちらの知識が乏しいからだろうが、ホメーロスの『イーリアス』『オデュッセイア』も、直接「裏切り」に関係したものではないし、ギリシャ神話を読み解いたオウィディウスの『変身物語』にも「ウソ」をついたエピソードはあるが、それによって恨み骨髄というものも思いつかず、ダンテの『神曲』も地獄・煉獄は登場するが、復讐とはちと違う―――ここでハッと気がつくのが『聖書』。そう、「ペテロの裏切り」だ。

 鳥がなくころ、あなたは私を三度知らないと言う―――これについて一度、教会で説教を聴いたことがあるけれども、キリスト教徒ならざるこっちにも訴えるものがある素晴らしい説教であった。惜しむらくは、そんな機会でもないと聖書なんて今時読まないもんなぁ。あのエピソードを知るためだけにでも、新約聖書を紐解いてほしい(教会に行くとタダでくれたりする)。まあ、こっちが聖書を通読したのも、『エヴァンゲリオン』にドンはまりしていたというのがその理由だから、あんまり偉そうなことは言えないが。
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(なんだかんだ言いつつも、色々なものに手を出すキッカケになってくれた『エヴァ』。でもいいのかそれで)
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by ulyssesjoycean | 2006-05-28 21:07 | 駄文 | Comments(0)

翻訳小説『七人の男(抄)』 第六回

 「でもね、お母さん、泳げないじゃない。お父さんと私はこんなに泳ぎが得意なのにね。」

 私は明るくピーセルのほうを見ると、母親の出来ないことを包み隠すようにして、波間での武勇伝を熱く認識させられる思いがした。その頭の動かしぶりを見ると、この娘が―――この世界でかけがえのない存在だということを示していた。これには私も賛成だな。事実、この娘はなかなか面白い。その父を気に入ったとしたら(私はピーセルのことをこれ以上ないくらい気に入っていたけれども)、だとすればその娘も気に入らないというわけにはいかない。この二人はありえないほど瓜二つなのである。この子を見つめるその男の視線を(めったに目を逸らすということはないのだけれども)、気の利いた風に言うとすれば、鏡を前にしたうぬぼれ男と同じ効果だとしておこう。この男に謎があるとすれば、その娘を通じて解決できそうだという風に私には思えた。もっともね、実を言うと、こんな謎がありそうだなんてことはすっかり忘れてしまっていたんだけれどもね。その父親が愛する人物にこっちも肩入れしてしまっているから、その素人探偵の観察も用をなさないんだな。ピーセルが自分の娘を愛していることを疑う余地はない。ある感情がウソでないというのは、もうひとつの感情が優位を占めているからである。父と娘の間柄を目の当たりにして、その愛情が一方ならぬものであるのを疑うなんてことが出来るものは一人もいない。その一方ならぬものが身の内にある何かの強さを推し量るものと私には見えた。ピーセル夫人の愛情も、そうあからさまなものではないにせよ、浅薄なものでないのは明らかである。もっとも、これは当たり前のことなんだけれど、見物人からすれば母性本能というのは父性のそれより魅力が落ちるからなァ。気の毒なピーセル夫人をいいなと思うのは―――そう、こんな形容辞をつけざる得なかった点にある。かわいそうなことではあるが、その点が抜きがたいものであるように思う。そのせいで、夫と子供の相通じあう縁というものが発する光を感じさせる。つつましいやり方ではあっても、食事のさなか、自分のことを主張しないわけではなかった。そうしたものであったから、この女性を数に入れるという認識はなかったし、数に入りそうもないと私には思えた。大昔のケンブリッジにあったバーで、どうやってピーセルの結婚相手にまでなったというのだろうか。すっかりその手の店から足を洗って、いまやどこから見てもその面影がすっかりなくなってしまった女なのかもしれないな。どうしたのか多くのものがその内側より消えてしまっていて、時間をかけたところでそれを取り戻す方とはないようにしか見えなかった。ピーセルはその歳にしてはやけに若く見えたが、それに反して、この人はその年齢にもかかわらずやけに老け込んでしまったに違いない。どうにも手がつけられない子供を二人も押し付けられた家庭教師のようで不憫に思った。もっとも家庭教師はいつでも警告を与えることができるのを思い出した。気の毒なピーセル夫人を愛情が現在の位置にしっかと結び付けている。

 この三人は明日からフランス縦断旅行を始め、そしてこの場にいる四人は今日の午後からルーアンへと向かうことになっていて、ここでの話題はといえばほとんど車のことばかりで―――このテーマについてペギーが熱弁を振るったけれどもまあまあ聞いていられた。本心というよりは好意の気持ちから、お嬢さんは「大好きでしょうがない」ようですねと言った。そうなんですよと答えてくれた。

 「でもお母さんはそうじゃないよね。キライなのは分かってるからさ。お父さんにスピード落としてっていうばっかりだもん。のろのろ運転なんてしても楽しくないよ」

 「よせってぺギー、のろのろだなんてしたことないだろ」と父。

 「本当にそうなんですよ」と母が言うのを聞いてピーセルはニコニコしながら午後になるまでその話は延期しとこうかと言った。私は通ぶって見せて、ピーセル夫人に、スピードを出すのはいいんですが、ヘタな運転、これがあぶないだけなんですよ。「ほらお母さん!」とペギーが声を上げる。「いつも私たちが言ってるとおりでしょ」

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by ulyssesjoycean | 2006-05-27 19:30 | 翻訳小説『七人の男(抄)』 | Comments(0)

『ガンバの冒険』は『七人の侍』

『ガンバの冒険』『七人の侍』だということに、今の今まで気がつかなかった。イタチ(野武士)に虐げられたネズミ(農民)のために七匹のネズミ(侍)が立ち上がる―――これが『七人の侍』でなくてなんであろう。ここまで設定が同じならば、その違いはどこにあるのだろうか。
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 『七人の侍』が人間(侍)と人間(野武士)の戦いであり、『ガンバ』は動物(ネズミ)と動物(イタチ)の戦いである。なーんだ、といってしまえばそれまでだが、これがかなり大きな差だということに、調べてみて気がついた。人間同士で「敵」を描くのはかなり難しいのだ。

 物語においては、「強さ保存の法則」というものがあるようで、強ければその数は少なく、弱ければその数を多くする。例えばその『七人の侍』では、恐ろしく強い侍はたった七人で、しかもそれぞれに強烈な個性がある。その反対に敵方の野武士は、数は多いが際立ったキャラクターは一人もいない。最後まで野武士に名前がなかったことからでもそれは分かる。これは主人公が強いパターン。
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 主人公が弱いパターンを考えたとき、一番分かりやすいのが『機動警察パトレイバー』。主人公たちが所属する特車二課(これも七人)は警察組織だから現状維持しかできない。それに対して敵の内海(うつみ)は単独行動で、「グリフォン」という恐ろしく強いレイバーを使わせ、ガンガン攻めてくる。ここでも弱いものは数が多く、強いものは数が少ない―――という法則は守られている。

 ここでふと気づくのだが、『パトレイバー』において実際に戦うのは「レイバー」というマシン(機械)である。マシンならば、スペックを上げることによっていくらでも強くすることができる。つまり「力の差」をつけやすい。ところが純粋に人間同士を戦わせると、どうしたって差は出ないし、出せない。『七人の侍』でも、あれだけ強かった侍のうち、何人かは死んでしまう。
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 失敗例というと失礼なのだが、人間同士を戦わせて「力の差」をつけるのがいかに難しいか―――ということを考えさせられるのが『攻殻機動隊 S.A.C』のセカンドシーズンである。主人公である公安九課(これもまた七人)はおっそろしく強いのだが、逆に言うと、これはもう強すぎて敵がいないという状況で、「強さ保存の法則」からすれば、敵は数において攻めてこなければいけない。が、難民や戦争と、強さのバランスをとるためにその数が大きくなりすぎて、非常に苦しいラストになってしまった。

 いくら超人的な能力があろうと、見ている人間に分かるような絶対的な差というのは、人間同士の戦いにおいてはつけづらい。あんまり大きくなれば戦争になるし、強者と強者のぶつかりあいなら、『Gガンダム』のような一騎打ちにするしかない―――しかしこれはどちらも相当な技量が必要になるだろう。
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 それを考えたとき、動物同士の戦いというのは非常に自由度が高いのだな、と思い知らされる。『ガンバ』なんてネズミとイタチだもの。主人公がネズミだから、イタチでも十分強力な敵となるし、身体の大きさを比べてもその差が如実に分かる。それに世界が動物中心であるから、自分たち以上の存在―――人間機械自然現象もアイテムとして大きな意味を持ち、それを使えば主人公がネズミでも、もしかしたらイタチに勝てるんじゃないか―――と、無理なく思わせてくれる。

 ミヒャエル・エンデ氏は、物語を作っていくときのルールがあり、作り手はそれを遵守していかなければならない―――と言っているが、そのルールを守りながら人間同士を描くのは相当難しいことなのだろう。『七人の侍』をアニメーション作品としてリメイクした『SAMURAI 7』に、「敵の見えにくい時代になったものですなぁ」というセリフがあるが、あれはこういう意味も含んでいたのではないかと、つい深読みしたくなる。
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by ulyssesjoycean | 2006-05-26 18:01 | 駄文 | Comments(0)

森薫『エマ』 第七巻

ここまでの怒涛の盛り上がりを、さらッと、実に上品な仕上がりにした『エマ』の第七巻―――折々に挟み込まれる挿話とキャラクターの笑顔には、思わずこちらも笑みがこぼれる。
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 品がよく、笑いがあって、生活があって―――ということで思い出すのは、ビリー・ワイルダーの傑作『アパートの鍵貸します』。あれを見たときの幸福感(ユーフォリア)と『エマ』第七巻の読後感が、不思議とクロスオーヴァーする。
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 こういう上品な作品がもう少しあれば―――と思っているが、よくよく考えたらもうすぐ第五巻が出る『蟲師』、夏には単行本が出るという和泉かねよし『そんなんじゃねえよ』など、ポツポツと途切れずにはあるから、そうあきらめたものでもないようだ。
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by ulyssesjoycean | 2006-05-25 19:47 | 駄文 | Comments(0)

推理小説で英語を覚える!?

密室トリックの金字塔ディクスン・カー『三つの棺』を読むと、とにかく読者を「釣って」いくその書き方に驚いてしまうが、それだけに推理小説を読んで英語を覚えたという人はけっこういる。
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 ナボコフの翻訳者として知られる若島正(わかしまただし)氏なぞ、英語を読めるようになるために―――ということで、アガサクリスティーの推理小説を10冊読んで英語を覚えたそうだが、これはなかなかにいいやり方。

 同じ作家をまとめて読むと、単語の使い方や言い回し―――つまり文体が統一されているので、その意味で非常に楽である。更に、翻訳で読んであらかじめ筋が分かっていれば、内容を当て推量するという意味でも楽ができて、最初の一冊こそ大変だが、原書で一冊読みきったときの達成感というのは堪えられないものであり、あとはその達成感に従ってひとりでに読み続ける。2000ページ読めば、まずその外国語で苦労するということはなくなると言っていい。
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 その「最初の一冊」をどれにするか―――というときに役に立つのが、各種「双書(叢書)」というもので、これは語学学習のツールであるけれど、『直読直解アトム英文双書』というシリーズが今でもあり、左ページに原文、右ページに使用語彙というシンプルな構成で、ヘタな和訳をしていないだけ素晴らしいシリーズである。辞書を引く手間を省いて読めるから、どしどし読める。こっちの経験から言わせてもらえば、辞書はある程度力がついてから「読んだ」方がいい。右も左も分からないころに辞書を使うと、かえって足をとられる。

 この双書の存在を知る頃にはあらかた英語が読めるようになっていたので、「助けられた」ということはなかったけれども、これから英語を始めてみようか―――という人には是非、是非オススメの双書である(大型書店の語学コーナーにはあるはず)。「古典」「現代」「ミステリ」と三シリーズがあったようだけれども、惜しいことに「ミステリ」はもうなくなってしまったようである。

 あとはこれで気の合う作家を見つけたら、その時こそ原書を購(あがな)って読めばいいわけで、この方式でけっこう外国語というのは身につけられる。逆に言うと、気の合う作家が見つからなければ、その言葉は中途半端に終わるわけで、こっちにとってはイタリア語がそうだった。

 目下勉強中のドイツ語は、ミヒャエル・エンデという最高の知性に巡りあうことが出来たから、これはもう嬉しくてたまらないわけで、『はてしない物語』『モモ』をもう一度原書で読みきる頃には、ドイツ語もできるようになっているだろう。「語学は苦労して」―――というのはアレ、力のない教師がついた嘘じゃないかと思う。「楽しめる」やり方で覚える―――これしかないよね。
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by ulyssesjoycean | 2006-05-24 20:23 | 駄文 | Comments(0)

翻訳小説『七人の男(抄)』 第五回

 それでもやはり昼食に誘われたのは嬉しかった。この人物を気に入っていたし、なにより謎が謎のままなんてのは好まない。はじめて会ったその間にピーセルのことを少しも理解できていないんじゃないかというので私のことを鈍い奴だとお思いになるかもしれないが、実のところはこうなんだよ、この男はベールの裏に隠してあると思しき、グリエルソンが気取って授けた称号を引っぺがそうと注意を払っていたというのではなくて、この男の内面に確固たるものがあると、私はぼんやりと感じ取っていたに過ぎなかった。ヴェールがあるとすれば、その穴を明日にでも見つけ出してやろうと、自分に言い聞かせた。もっともエンジンと同じように稼動中のときよりも動いていないときの方が人間の直感も常以上の力を発揮すると思われる。そして翌日ピーセルが止宿先の表で待っているのを見ると、自信がなくなったきた。その活き活きとした顔はなんら―――なんら核心をつくようなことを語ってはくれなかった。もっともそれだけでなく、屈託のない中に探り出せそうにない部分があるのにも気づいた。それにだ、あらゆる点でごく普通の顔であり―――たとえそこに注意を向けても、その顔が「たいそうな変わり者」との関連性を裏切るところがない(とそのときは思った)。確かに精悍な顔つきではある。でもそれってどこにでもあるものなんだよな。

 それと表情がすっきりしていて、話を聞いてみると、ピーセルは午前五時まであの「バケモノじみたバカラルーム」に居座っていたのだという。それで私が、負けたのと訊いた。そうなんだよ、四時間(というところを誇らしく強調したが)かかって打たれ越してね、でも最後は―――そう、負けを全部取り返して(と認め)、「ちょっと浮いた」。「ところでさ」とつぶやいてホールに入ろうとすると、「君に話したアルゼンチンの取引のことだけど、うっかり妻に喋ったりしないでくれよ。投資についてはね―――いつもピリピリしてるから。それについては黙ってることにしてる。神経質なたちの女だからさ、こんなこと言って悪いんだけれども。」

 これについては私の先入観と合致しなかった。私は旧弊な観念にとらわれてしまっているから、てっきり「ひけらかし」の金髪女で、大抵の男には高慢ちきな態度を取るくせに、これはという奴らの肩越しにはしゃくにさわる笑顔を振りまいているんだろうと想像していた。その亭主の言葉をきいても、自分の目にしているものが嘘なのではないかという疑いを振り払うことは出来ず、引き合わされた恐ろしく色の白い小柄な女性の、その頭髪は銀髪というよりは白髪に近かった。そこへ「小さな娘」がきた! この神童の髪は「ダウン」にしてあったが、どんなときでもアップにしているのではないかと見えた。父と肩を並べるぐらいの背の高さで、その顔かたちといい握手のときの熱のこもった様子など父親にそっくりだった。頭の中で高速計算を行い、この娘を数に入れることにした。「注意しとかないといけないな、今朝はひどく腹を立ててたから」。その娘は赤面してしまい、笑いながらお父さんそんなバカなこと言わないでとせがんだ。どうしてまたひどく腹を立てたりしたのと訊いた。その娘が言うには、「がっかりしてたって言いたいんです。父もガッカリして。そうなんでしょ、お父さん?」

 「あの人たちの言うことももっともだと思うぞ、ペギー」と笑った。
 「あの人たちが正しいって言ってるでしょう」とピーセル夫人が言ったけれども、どう見てもはじめて言ったという様子ではない。

 「あの人たち」というのは海水浴協会の権威であると、たった今教えてもらった。ピーセルは娘を泳ぎに連れて行くと約束したんだという。ところがその連中が海野井絵にやってきて血も涙もなくこういう風に伝えたのである、海水浴は「悪天候のため差し控えるように(デファンデュ・ア・コーズ・デュ・モベー・タン)」。この出港停止命令をサカナにしながら腰を下ろして昼食となった。ペギーはフランス人は意気地なしだという見解である。私は、いやいやイギリスだって海が荒れているときの海水浴は禁じられていますよと弁護して。今日の海は荒れてなんてないのに、と認めはしないんだ。それに、穏やかそのものの海で泳いで何が楽しいんですかとこの娘が言う。そういう海でなければ泳ぎたくないとはさすがに言わなかった。「あの人たちが正しいんですよ」とピーセル夫人が繰り返す。

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by ulyssesjoycean | 2006-05-23 19:20 | 翻訳小説『七人の男(抄)』 | Comments(0)

モノマネとパントマイムと

『細かすぎて伝わらないモノマネ』がなかなかオモシロイが、それにしてもこの「モノマネ」は、いったいいつから存在するのか―――と考えると、古代ギリシャに行き着く。

 古代ギリシャでは思考だったか劇の形式だったか、その辺は度忘れしたけれども三つの基本となる様式があって、それが「アナロギア(類推)」「パロディア(諧謔)」「ミメーシス(模倣)」である。その中の三つ目「ミメーシス(mimesis)」「模倣」ということだから、どうもこの辺りから「まねる」という行為が始まったようだ。

 そしてこの「ミメーシス(mimesis)」、字面を見れば分かるが「マイム(mime)」の語源である。フランス映画の傑作『天井桟敷の人々』に出てくるバチストは役者だったが、あれは「パントマイム(pantomime)」である。
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 「マイム」するとは何か―――と追っかけていくと、「身振り手振り」という意味に突き当たる。「panto」はギリシャ語で「全て」という意味だから、「パントマイム」「身振り手振りだけでございます」ということ。喋ったりはしない。バーバラ・スタフォードの言う「身体表現(ボディー・パフォーマンス)」に属するもの。

 16世紀ぐらいまで、世界は「マイム」していた―――「もの」「もの」のつながりがはっきり見える「類似」の世界だったそうで、それが17世紀ぐらいから「言葉」というものが支配的な位置を占めるようになり、「ものの名称(ことば)」「もの」の関係が見えづらくなった―――言い換えると、「ものの名前」は人間にとって便利で都合のいいものにしましょう、「ものの本質」「名前」は関係がなくても、その方が人間にとって便利ならそうしていきましょう―――というのが「表象(representation)」の、一番簡単な意味らしい。
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 その例として一番分かりやすいのが辞書。、16世紀ぐらいまでの辞書は「テーマ別辞書」であって、「家族」の項目に「父」「母」「兄」「姉」「おじ」・・・・・・という風に言葉が並んでいる。ところがこれ、辞書のどこに、どんな項目があるか分かっていないとすこぶる使いづらい。
 
 それが17世紀になってエプライム・チェンバース(Ephraim Chambers)という人が、この世で始めて「アルファベット順」の辞書を作る。その方が便利だからそうしましょう―――という「表象」がここから始まるとのこと。ABC順になっている世界なんてどこにもないけれど、人間にとって便利だからそうする―――こういうことが今に至るまでずっと続いている。
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 「表象」というのは約束事として便利だけれど、「言葉」「もの」の関係が良く分からなくなってしまった―――そこで「絵(image)」が出てくる。「絵」だけは、「もの」との関係がダイレクトに分かる。その証拠に言葉の通じない人にでも、絵に描けば説明できる。

 夏目房之介氏の名著『マンガ世界戦略』(小学館)「ジョサイア」というマンガ家志望の青年が登場するが、日本語のできないジョサイア氏と英語があまり話せない夏目氏が「図解をまじえるとけっこう高度な内容が話せる」というエピソードがあり、絵の持っている「見ると分かる力」の実証例と言える。まあ、二人とも「絵が描ける」人だからというのもあるが。
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 「絵」「マイム」「身体表現」であって、身体表現というのは「言葉」を介さなくても分かる―――「モノマネ」は、その人の口調や顔つきといった「身体表現」に関わるものだから、たとえ元ネタという知識がなくても充分オモシロイのだろう。言葉の知識は孤立するが、身体の知識には「笑う」ことができる。
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by ulyssesjoycean | 2006-05-22 19:52 | ヴィジュアリゼイション | Comments(2)