マンガとアニメーションと人文を、脱線(Digression)でつなぐブログ。
by ulyssesjoycean
カテゴリ
全体
駄文
高山宏講演『脳にいい人文学』
佐々木果、「コマ」を語る
グルンステン×高山宏
物語の中の動物
ヴィジュアリゼイション
詐欺の文化史
探偵する小説
美しい洋書たち
翻訳小説『サンタール』
翻訳小説『七人の男(抄)』
翻訳小説『不安な墓場』
シロクマの文学雑学コレクション
ネコログ
今日のなぐり書き
語学参考書
未分類
以前の記事
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
2005年 10月
2005年 09月
2005年 08月
2005年 07月
2005年 06月
2005年 05月
2005年 04月
ライフログ
フォロー中のブログ
幻戯書房NEWS
前田真宏のINUBOE
最新のコメント
>右往左往さん コメン..
by ulyssesjoycean at 12:21
度々すいません・・訂正で..
by 右往左往 at 11:17
早速お答えいただいて有難..
by 右往左往 at 11:13
>右往左往さん コメン..
by ulyssesjoycean at 12:53
どうも度々お邪魔してすみ..
by 右往左往 at 12:03
>右往左往さん コ..
by ulyssesjoycean at 16:55
どうもお久しぶりですお邪..
by 右往左往 at 00:03
>mimizoさん ..
by ulyssesjoycean at 23:41
こりはまんぞくさんではな..
by mimizo0603 at 16:33
>右往左往さん コメン..
by ulyssesjoycean at 10:46
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


<   2006年 07月 ( 31 )   > この月の画像一覧

はじめて「ファン」が生まれた時

そもそも「ファン」とは何なのか――渡辺裕(わたなべひろし)『聴衆の誕生』が手がかりを与えてくれた。今でこそ静かに聴くのが音楽のあり方になっているが、十八世紀においては飲めや歌えの大騒ぎ、つまり音楽はパーティの添え物でしかなかった。
d0026378_18442358.jpg

 十八世紀は貴族の時代、演奏会も社交の一環でしかなかった。それが十九世紀に入って、超絶技巧のヴィルトゥオーソ(ヴァーチュオーソ)が人気を博し、そのような大衆に対抗するため、現在のような「音楽は静かに聴くべし」という態度が一部聴衆でとられるようになってきた。これがポピュラーミュージックとクラシックの分かれ目だという。

 アチラでは、何かを主張するのに理窟がないなどということは許されない。どうやって芸術(Kunst)に独自な存在意義を与えるか――みんなで考えたわけだ。そこで生まれたのが、芸術というのは、精神と感覚の間にあって調和を生むものだということ。
精神(哲学などの純粋な思索)――芸術――感覚(何かを食べて美味しいと思う気持ち)

d0026378_1847892.jpg

 この考えから「芸術(音楽)は静かにその調和を求めて鑑賞するもの」という態度が生まれてきたのだという。このあと、大量消費社会にあっては商品とは実体ではなく差異を示すための記号だ云々――という話が続くのだが、それについては「流行とファッション」を勉強するときにゲップが出るほど調べたので、割愛。

 問題はこの先である。ファンであろうと消費者であろうと、何かを「選ぶ」という行為こそが重要である。では「何か選ぶ」ってそもそもどういうことなのか――と追求していくと、どうも哲学者のカントに行き着くらしい。ライプニッツの次はカントか――と多少気が重いが、これもまた致し方のないこと。翻訳が良いことだけを期待したい。
d0026378_1843648.jpg

[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-07-31 18:28 | 駄文 | Comments(0)

蟲師 RAY 小林七郎

『蟲師』の第七巻は、二十話目となる『筆の海』が出色(しゅっしょく)のできばえだった。幽玄とはかような作品を言うのであろう。ちなみに十九話は大地丙太郎(だいちあきたろう)氏の絵コンテである。
d0026378_1812120.jpg

 『蟲師』とともに見たのが『RAY the animation』の第一巻。オープニングでクレジットを見てぶったまげたが、なんと美術監督は尊敬してやまぬ小林七郎氏ではないか。残念ながら本編の方は少々ツライ出来だったが、小林氏が関わっているだけあって、なるほど「レイアウト(画面構成)」は、非常に高レベル。

 レイアウトについては過去に縷説(るせつ)しているので、興味のある御仁は『鋼の錬金術師 シャンバラ~』を参照していただきたい。使っている人はあまりいないかと思うが、画面の左端をスクロールさせていくと、「検索」ツールが見つかると思うので、より詳しくレイアウトについて知りたいという方は、そちらで検索していただきたいと思う。

 ちなみに「視覚系・美術系」の話題は、「ヴィジュアリゼイション(Visualisation)」のカテゴリーに収めています。
d0026378_18203719.jpg

[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-07-30 18:12 | 駄文 | Comments(0)

翻訳小説『不安な墓場』 第七回

 夜、私は閉所恐怖症のような心持ちになるときがある。自分自身であるというパーソナリティーで窒息しそうになり、この世に在るということで喉が締め上げられる。この間というもの、全世界(ユニバース)が監獄のように思え、そこで私は自分自身の感覚によって鎖につながれ、自分自身であることによって盲(めしい)となる。

 転覆したボート、その船体内部に釘付けになっていると考えればいい、深く潜って脱出するのはまだ怖いという心境。こういったとき、出口があるのは間違いないにしても、パーソナリティーだけを脱ぎ捨ててこそそれは可能なものとなる。

 たった一度愛するという、その一度のために万障繰り合わせているのが私たちというものだ。それでなくて恋に落ちることがありそうに思えるのは――九月上旬のある日ということになるだろう、六時間ほど短いにしても、六月であるかのように思える暑い日。一番最初の色恋沙汰がどうだったかで己がじしの人生のありようというものは決まってくる。

 結婚においては二つの恐れというものが入れ替わる、孤独か束縛か。孤独への恐怖というのは束縛のそれより厳しいものがあるから、私たちは結婚する。縛られることを恐れる人間が一人いれば、四人は解き放たれることに恐怖している。とはいうものの自由を愛するというのは気高い精神であり結婚生活を営む大半の人もそれを切に望んではいる――神経症のように依存関係にあるというのでなければの話だが――しかし時すでに遅し。牡牛は野牛にはなれず家禽は隼にはなれない。

 孤独を恐れるというのは、弱さから生じたものだから、克服しうるものである。人間というのは自由になることを望むもので、自由になるとは即ち孤独になるということ、しかしながら束縛への恐れというものは、真なる危険に対する危惧であって、年若く美しい男女が想像上の危険から結婚へと避難するのを見ると、痛ましい心持がしてならないけれども、その友人たちにしてみれば悲しむべき損失であり、二人にとっては手痛い挑戦である。初恋こそ何にも増して価値のあるものではあるが、えてしてその二番目が最高の結婚になるから、自由への切なる要求が費(つい)えたときはじめて結婚すべきだろうと思う。男なら自分が落ち着く性質(たち)なのかどうか知った上でないといけない。別れ話の何が悲惨かといって、若くして結婚したカップルが七年の幸福を楽しんだのち、溜め込んでいた情熱が燃え上がって寄りかかりたくないという独立の気持ちが爆発し――なぜなのかは分からぬまま、まだ互いを愛しているとしても、互いを破壊しつくすなんてことになってしまう。

 ひとつの色恋沙汰が終わりとなって、残されたものの虚栄心にとってはこれ以上ない痛手となる。だから、色恋の始まりにこう考えてみるのもあながち無駄ではないことで、満足するという源の最大なるものは同時に虚栄心にも当てはまるのだということ。互いに惹かれあうその第一の兆候は現在に生きることにほとほとうんざりした人間を誘引しかねない。

 茶色のナッツをこつこつと割って、斑点が浮かぶ黄と緑の花鋼で飾られた茶色のスズカケを眺めながら、焚き火の傍で老子を読む。これぞ十月の英知。秋の至福。秋分に研究する宗教。

[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-07-29 19:55 | 翻訳小説『不安な墓場』 | Comments(0)

『そんなんじゃねえよ』 ついに完結!

現在の少女マンガ界では突出したギャグセンスの、しかし恋愛マンガとしてもきちっとまとめた傑作、和泉かねよし『そんなんじゃねえよ』(小学館)
d0026378_18483688.jpg

 当初は、島本和彦氏に通じるハイテンションな作風が目立ったが、終盤にかけてみるみる画力をつけ、主人公たち(表紙の三人)よりはむしろ、その母親の描き方が図抜けて素晴らしくなった。
女に年齢などないッ!! 今が花盛り 今が旬!
いつ・いかなる場 誰の挑戦(質問)でも
「いくつに見えるゥ」
で通すべし!!

(和泉かねよし 『そんなんじゃねえよ』 第九巻 p12)
 これが母親であるキャラクターのセリフなのだから、相当「どうかしてる」マンガなのは間違いない。ドラマCDが発売されたとき、『攻殻機動隊』草薙素子(くさなぎもとこ)を演じた田中敦子氏がキャスティングされたのも頷ける。
d0026378_1920153.jpg

 しかしこんなムチャクチャなマンガでありながら、下品なところが少しもない――というのがこの作者のインテリジェンスを感じさせる。『エマ』森薫氏、『百鬼夜行抄』今市子氏に続く、「品」のある作家である。
d0026378_19231010.jpg

[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-07-28 18:47 | 駄文 | Comments(0)

推理小説からライプニッツへ

推理小説の源流はなにか――ということを突き詰めて考えていくと、最終的には17世紀の哲学者ライプニッツにたどり着くという、とんでもない結論が出た。冗談でもホラでもなく、これは本当のことである。
d0026378_16334921.jpg

(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ)

 ではなにが「とんでもない」のかというと、ライプニッツがただの哲学者ではないから、調べようとするとドエライことになる。確かに哲学者ではあるのだが、同時に数学者でもあり、さらには三十年戦争で荒廃しきったヨーロッパを駆け抜けた外交官でもあり、アカデミーを作ろうと奔走し、諸外国の知識人と文通し、さらには薔薇十字団という魔術結社ともつながりがあるという――とてつもない博学博識の徒なのである。
d0026378_1638135.jpg

 しかし推理小説のことを調べ始めて、その源流であるライプニッツを調べないというわけにはいかない。では――というので手始めに読んだのが『モナドロジー』(中公クラシックス)だが、これがおそろしく爽快な書物で、哲学系の本にしては(と言わざるを得ないあたりが苦しいけれども)、非常に「明るい」。尊敬するスタフォード氏の「明るさ」は、なるほどライプニッツゆずりか――と合点がいった。
d0026378_16343882.jpg

 ただ惜しむらくは、これはもう日本の哲学における「病弊」と読んで差し支えないと思うが、翻訳があまり良くない(割りに良い方ではあるのだが)。フランス・ドイツ産のいわゆる「思想・哲学」系書物は、実は、原書で読むと相当わかりやすい。

 逆に言えば、わかりやすいものを翻厄者(!)がわざわざ意味不明な日本語に仕立てているわけで、「われわれがわれわれの身体にわれわれの存在を現前せしめる」なんていう訳文を見ると泣きたいような心境になる。たしかにフランス語では再帰代名詞というものをよく使うが、
Nous nous asseyons ici
 というのを「わたしたちはわたしたちをここに座らせる」などと訳したのでは話にならない――はずなのに、それがなぜか通用しているのが思想・哲学系の翻訳というものではないだろうか。だからこそ、こっちは英仏独伊羅を独学で身につけたのだけれども、そうまでしないと読めないなどというのは、どう考えてもオカシイよなぁ。
d0026378_16472735.jpg

(ジャック・ルイ・ダヴィッド『ソクラテスの死』 

ヒドイ翻訳書をつかまされたときは、左側の弟子みたいな感じになります)
[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-07-27 16:02 | 探偵する小説 | Comments(2)

攻殻機動隊×イノセンス

「分かりにくい、難解だ」の枕詞をもって敬遠された『イノセンス』――しかしその前作『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』から、もうすでに「そういう」作品ではないだろうか。しかし時代の流れとは恐ろしいもので、2006年の「今」見ると、非常によく分かる。
d0026378_18274011.jpg

 テレビ版の監督をした神山健治氏も、冒頭のセリフが持つ意味は、ケータイとインターネットがこれだけ普及した現在、少しニュアンスが変わってきた――という内容のことを言っていたのが、まさにそうで、電脳やネットといったことを1995年の時点でやり遂げていたのだから、そりゃ分かるほうが不思議というもの。

 『イノセンス』の不人気はむしろ、宣伝と広報活動があまりに「上手くいってしまった」こと――公開直前にテレビ版の『攻殻機動隊 Stand Alone Complex』が人気沸騰していたことも拍車をかけて、じゃあ行ってみようかなという一般層が初めて目にする「押井演出」に面食らって「なんじゃこりゃー!」と不満をぶちまけた――これがミもフタもない真相ではないだろうか。
d0026378_18364654.jpg

(極私的には、『攻殻』よりも『イノセンス』の方が好みである。なにより「あの犬」がスバラシイ)

 今回はじめて『攻殻機動隊』を真剣に見させてもらったのだが、テレビ版の監督をつとめた神山健治氏の言う「押井守の模倣者になります!」というセリフは、なるほどこういう意味だったのかと合点がいった。あのシーンのアレはこれを模倣していたのか――という驚きが連発。

 オリジナリティを獲得する方法は「真似る」ことだと思う――いくら模倣しても模倣しきれず、それで一時は落胆するが、そこに自分のオリジナリティを発見する、と発言している神山監督。この秋、『攻殻』の新作である『Solid State Society』が放映されるが、いったいどんな作品になるのだろうか。
d0026378_18545445.jpg

[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-07-26 18:32 | 駄文 | Comments(0)

翻訳小説『不安な墓場』 第六回

 先祖、我が古(いにし)えの化身、いつものパリヌルスよ(パリヌルス・ウルガーリス)、ヴェネツィアの赤海老、伊勢海老、ロブスター、泡を立てるモーリタニアの海棚で食いつないだのか、それとも波立つ――テネリフェの南方、シシリー島の北方――収縮し膨張する波。罪を恐れより我が身を解放したまえ、罪と恐れより我が身を開放したまえ、轟く海より出でしまだら模様の掃除屋であるぞ!

 以前の化身はというと、メロンであり、ロブスターであり、キツネザルであり、一本のワインであり、アリティッポス。

 生きていた期間。ローマはアウグストの治世、一六六〇年から一七七〇年までのパリ・ロンドン、そして最後は一七七〇年から一八五〇年。

 最初に出来た友人たち、ホラティウスに、ティブルスに、ペトロニウスに、ウェルギリウス。その次、ロチェスターに、コングリーヴに、ラ・フォンテーヌに、ラ・ブリュイエールに、ラ・ロシュフコーに、サン・テヴルモンに、ドライデンに、ハリファックスに、ポープに、スウィフトに、ラシーヌに、ヒュームに、ヴォルテール。最後の化身を取ったときはウォルポールとギボンに親しみ、バイロンに、フォックスに、ベックフォードに、それとスタンダールに、テニソンに、ボードレールに、ネルヴァルに、そしてフロベール。オランダ館(ホランド・ハウス)で午後、マグニーで晩餐。

 フルーツがいくらもあって食欲より深い感情を私の中に呼び起こす。麝香の香りがする黄金のオーブさながらのシュガーメロンやグリーンとブラウンの海草が虎目模様になっているカンタループメロン、ウロコの如きパイナップルの皮やイチヂクの肌理(きめ)それにツバキモモ、オレンジを飾りレモンが木々に実りそれとも死んだ振りをしたようにしてとぐろを巻く年老いた無毒ヘビ、私はそれらと一体になって、サトウキビとともに熟し、バナナは花を咲かせ、私は自らを接木する――マンネングサやコウヤマキ、陽光をこよなく愛するノーフォーク島のマツ、しなる竹に、かがまるイナゴマメと、朽ちたコルクガシとニレ。百回目にして私は驚きとをこめてこう言った、ニレの枝葉というのはブドウの木が垂れ下がっている姿にそっくりではないか! 「やもめのニレとスズカケをからませる(エウィンケト・ウルモス・プラタナス・コエレブス)」。やもめのスズカケがニレの木々を追い立てる……

 英知こそ私が求めるものであり、意志を鍛錬するためではない。「意志とは屈強な盲目の男が目が見えるびっこを背負っていること」――ショーペンハウアー。

 私にとって人生で成功するというのは生き残ることにある。円熟の老年とは、自然の秘密を掴んだ人間に与えられる贈り物だと信じている。早死にも気違いになるのも嫌だ。存在の真なる様式(パターン)とはゲーテの如き長い一生をかけて学ばれるべきものだろう――理性的な生活はときおり感情の暴発によって妨げられ、精神分析で言う置き換え、情熱、愚行の数々。若い頃の理性的な生活というのは本質的に足りることがない。感情的な生活というのは、わずかな期間をのぞけば、あとは耐え難いものとなる。

[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-07-25 18:54 | 翻訳小説『不安な墓場』 | Comments(0)

蟲師 第七巻 和泉かねよし

ここ最近のアニメーション作品としてはベストに近い健闘ぶりの『蟲師』。こういう良作が月に一度楽しめるという喜びを享受したい。次回発売は7/26とのこと。

 26日といえば、和泉かねよし『そんなんじゃねえよ』の発売日でもある。島本和彦氏に通ずるハイテンションな、しかし品のある「笑い」を提供してくれる素晴らしい作品である。八月売りの少女マンガ誌『Betsucomi』では、新連載をスタートさせるそう。そちらにも期待したい。
d0026378_2045151.jpg

[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-07-24 20:45 | 駄文 | Comments(0)

医者と密室トリック 

私室の成立が遊歩者(フラヌール)を生み、その遊歩者から生まれてきたのが探偵だ――というところまで話はつながった。推理小説の原型であるポオの『モルグ街の殺人』が、いみじくも「密室殺人」を扱っているのは、実はそういうわけなのだ。
d0026378_18172912.jpg

 「私室の成立」というのはイコール「密室の誕生」でもあって、要するに「人が入ってこない空間」である。防犯意識の薄い日本でさえ、まったく見ず知らずに人を家に入れたりはしないだろう。ましてやヨーロッパは「鍵文化」であって、密室の閉鎖性は桁違いである。

 そんな中、ただひとつ「密室」に入っていける職業があった。「医者」である。
d0026378_18191864.jpg

 18世紀までの医者とは同時に「床屋」でもあって、雑学好きならば、床屋の看板が「赤・青」のらせんなのは、あれは静脈と動脈をあらわしているんだよ――つまり床屋は医者だったのだ、と教えてくれるだろう。こちらが愛読するフィールディングの『トム・ジョーンズ』にも、おっちょこちょいな医者であり床屋としてパートリッジという人物が登場する。

 ただし十八世紀当時においては、医者の役目というのは「瀉血(しゃけつ)」――つまり余分な血を抜くことが治療行為であったわけで、古くからの「ヒューマー(体液)」説を根強く信奉していたことからも、それほど進歩的な職業でなかったことが分かる。
d0026378_18201912.jpg

 これが十九世紀になると臨床医学と解剖学が合わさったことにより、飛躍的にその立場が上昇――特殊な知識を有し、患者の秘密を守り、博愛の精神を持つ「医者」という職業が誕生した。「身体を治す」だけでなく、倫理・労働の領域まで介入する権利を得て、予防医学・衛生学に着手する。

 こうなってはじめて、医者というのは「私室(密室)」に入る権利を有するに至った。ブルジョワ階級の家庭生活に深く入り込んで、なくてはならない存在になる。シャーロック・ホームズを書いたコナン・ドイルが医者だったのは象徴的で、登場人物にワトソンという医者を登場させている。
d0026378_18204759.jpg

 シャーロック・ホームズとは、パリの街路(パサージュ)から生まれた遊歩者(フラヌール)であると同時に、科学知識を有する特権階級としての「医者」が、その造形に大きく寄与している。ただしホームズは、フラヌールの伝統である「観察者」は受け継いだが、外はめったに出歩かず、「室内」にこもり、もっぱら「蒐集家(コレクター)」として過ごした。
d0026378_18284377.jpg

 そのかわり、ホームズはよく「窓」を眺めた。十九世紀当時の絵画には、「窓」というのがモチーフとして頻繁に現われる。「観察者」を極めれば、群衆を高みから見下ろす――神にも等しい存在になるという、そのあらわれではないだろうか。バルザックに、こんなセリフがある。
人生というものを、連中が見ているよりももっと高いところから見てみよう。

(バルザック 『人間喜劇』 金融小説名篇集 ゴプセック p21)

d0026378_1843020.jpg

(ギュスターヴ・カイユボット『窓辺の青年』)

 魔術思想に根を持つ観相学も、行き着く先は「神の視点」――それが最後はヒトラーに帰着するのだから、皮肉な話である。先が見通せぬ末世(fin de siecle)になると、人が安易なオカルトに走ってしまうのは、今も昔も変わりないようで、それもまた皮肉な話である。

 やはりE・M・フォースターのように「私は科学の進歩も信じない。神の存在も信じない。ならばお前は何を信じるのだがと問われたら、人と人とのつながりだと答えたい」――敬愛する喫茶店のマスター「さっきの言葉いいね」と言ってくれたから、これだけは間違いないようである。
[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-07-23 18:00 | 探偵する小説 | Comments(0)

絵で見る十九世紀の文化

卓抜な批評仕事を見せる小倉孝誠(おぐらこうせい)氏の著作より、十九世紀の画家ジャン・ベロー(Jean Beraud)を教えてもらう。なかなかに十九世紀してる絵ばかり。いくつか御紹介しよう。
d0026378_18453712.jpg

(十九世紀に大きな意味を持つことになったカフェ文化)
d0026378_1845489.jpg

(森薫『エマ』でおなじみ社交界)
d0026378_18455848.jpg

 最後の一幅はなかなかに「スキャンダラス」な絵だったそうだが、なぜか――というのは小倉氏の好著『女らしさはどのように作られたのか』を参照していただきたい。

 推理小説とは別に調べようと思っている「観客/ファン」論――予想通りというか、頼みになりそうな参考文献がまるで見つからない状況。まいったなぁ――というところに、MIT出版局より発売されるという、こんな本が見つかった。
d0026378_18535518.jpg

 表紙がちとアレな感じなのが気にかかるが、ファンも消費者も観客も、何かを「選ぶ」という行為がその存在を分かつことを考えれば、使えそうな気配――なーんて思っても、現物を見ると「なんじゃこりゃ」なこともあるんだけどね。良書であってほしい。
[PR]
by ulyssesjoycean | 2006-07-22 18:46 | 駄文 | Comments(0)