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たまにはお役立ち情報 オススメのピコピコ学習本3冊ヽ(´▽`)/

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たまにはお役立ち情報を、ということで、「オススメのピコピコ本3冊」をご紹介。

1. 草野真一 『メールはなぜ届くのか』(講談社ブルーバックス)  
価格:929円(税込)

寸評:ピコピコをニガテに感じている人にはぜひぜひオススメの一冊。網の世界はこうなっているというのを、メールの進化発展に合わせて解説。正直、この一冊だけ読めば十分とも思う。

やるだけやってわかったけど、「網」と「紐」は全く別の世界ですな。

・網 = 日本全国の道路を管理する仕事(点検とかメンテとか含む) 
・紐 = 道路を走る乗り物を製造する仕事(ハンドルとかタイヤの大きさを決めるとか、車のデザインとかも含む)

と考えた方がいいかもしんない。

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2. 山本貴光 『世界が変わるプログラム入門』(ちくまプリマー新書) 
価格:886円(税込)

寸評:網の世界と紐を打ち込んでピコピコを動かすのは違うものなんだけど、「ふーん、紐ってこういう感覚で書いていくんだ」と分かる一冊。

人文系の人には馴染みないであろう、
「全ての要素を細分化し」
「類似する項目をまとめ」
「それを最小の単位で積み上げていく」
やり方が書いてある。

理系文系の融和が進まないのは、こうした「真逆のアプローチ」じゃないかなと思ったり(「全体像と文脈をサッと掴む」式の自分には、この「細分化」に馴染むのにエライ手間暇かかったことであるよ(´∀`))。

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3. 服部雄樹 『HTML&CSSとWebデザインが一冊できちんと身につく本』(技術評論社)
価格:2,462円(税込)

寸評:今までのは大枠の話だったけど、いよいよピコピコに紐を打ち込んでみよう!という時に最高なのが、この服部雄樹さんの一冊。何度もオススメってるので、一部の方には「わかったわかった」だという気もする(^∇^)

この本のエライところは、「ピコピコ用語の『由来』を解説」してくれるところ。全部ではないけど、英語の意味と発音もフォローしてくれるので、ピコピコ苦手組には「こーいうのが欲しかった!」と膝を打つ内容。

これはピコピコ&数学方面の方にお伝えすべきかと思うけど、ピコピコと数学が苦手な人は、「数学的思考法」ができないわけじゃない。「数学的思考法」が大事なことには異論なし!

つまづいてるのはそこではなくて、「数学やピコピコの用語の『由来、英語の発音、正しい読み方』」がモンダイになってるんだな。

正直、HTMLをHyper Text Markup Languageとして、「言葉の意味と読み方を正しく説明してる」のは服部雄樹さんお一人のみ。

数学やピコピコ本を見ると、「単語の読み方や発音は一切書いておらず、その処理方法だけが書いてある」のが、その内容を欲する読者とミスマッチになっている、と声を大にして言いたい。

例えば<div>なら、これは「divideを縮めたもの。ページ内に『区切り』を付ける時に使うから、divideって言うんだよ。だから<div>は『ディバイド』って読んでね」と言われれば、初心者は非常によくわかる。

一方で自分が不思議だったのは、この手の本職の方たちは「<div>を使って『やること』には敏感だけど、<div>という『記号の読み方』は全く意識してない」ということ。

この点で、文系理系のカベは大きいなぁと思ったりしたのでした( ´ ▽ ` )ノ  

*もちろん、理系方面から語学方面に対する違和感がきっとあるだろうから、それをちゃんと突き止めるのが現在のケンキューテーマ

あとこれは本じゃないけど、ピコピコに深入りしようという方には、edXが超オススメ。

日本語でピコピコ学習すると、独特の言葉遣いが気になって困ったけど、なんということでしょう、英語だけでやれば全く違和感を感じない!というビフォアアフター感覚。

証明書(Certificate)を取らなければ、大半のコースが無料で学べるのは超ありがたい。あとは気の合う講師を見つけるまでやってけばいいという。自分はこれのおかげでAzat Mardan「師匠」に出会えたもの(^∇^)


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# by ulyssesjoycean | 2018-10-13 12:00 | Comments(0)

スノー『二つの文化』に欠けてる「三つ目の文化」は何なの⁇

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(一時期相当に入れ込んだ福田恆存さん。自分は「つねあり」と読んでるけど、リアルタイム読者では「こうそん」と音読みする人もいるみたい。C.P.スノーの『二つの文化』に卓抜な批評を書いてらしたけど、全集のどこに載ってたっけ)

「理系と文系」がここ最近のテーマになったけど、全くアンテナに引っかからないできたスノーの『二つの文化』。

今回初めて通読してみたけど、色々考えさせられたな。

というのも、この『二つの文化』、大事なことを言ってるのは分かるんだけど、決定的なところで「何か大事なことが欠けている」という印象が。

変な話、書き手(というか、これ自体講演録らしいから話し手)のスノーさん自身、そのことに自分で気づいてる雰囲気。自分の議論は、何か抜けてるぞ、という。

ところが当時のイギリス教育事情を憂うあまり、何かが抜けてるにしても、言わずにはいられない!という気分から発表した感触。その後、ドトーの議論に巻き込まれてヘトヘトになったと、後年の解説に書いてあったけど。

ただこの「何かが抜けてる」というのは分かるけど、この「何か」が何なのかわからないので、すごくモヤモヤするんだな。だからこそ多くの人を巻き込んだ話題になったのかも。

あとはこの本を読んでて「あ、そうなの?」と思ったのは「読書」について。科学者がほとんど読書習慣を持たないという記述がホイホイ見つかる。

「音楽を除いてはあまり芸術的なものが含まれていない」(p. 14)
「それにしても読書については、ひじょうに少なかった。」(p.15)

(C.P.スノー、『二つの文化と科学革命』、みすず書房、2011年版)

ちゃんとその後にはフォローがあって、読書が提供する(もしくは、提供してくれそうな)内容が、科学者の興味関心にはフィットしない印象あるからだ、云々。

別にそのことをどうするというわけじゃない。ただこれ、自分が前々から無意識のうちに持ってた感覚だったので、「あれ、やっぱりそうだったの?」という感じ。

去年くらいにハッと気づいたんだけど、自分の中に「自然科学に携わる人は本を読まない」というヘンな思い込みがあった。

実際、思い込みにしたってこれはヒドイよ。だって自分の身近にそんなケースはないんだから(^∇^)。それだけに自分で気づいてビックリしたんだよね、「なんでそんな思い込みがあるんだろう」と。そしてこの思い込みが「いつからあるんだろ」なんて。

一方でこの1〜2年というもの、数学とピコピコに深入りした結果、人文系に対して言われる違和感も実感と共に感じられるようになったりして。

自分がここ1〜2年で人文系で気になるようになったのは、批判はあるんだけど対案はない、という。ナルホドなぁ、こういう違和感を感じてたのか、と得心がいった形。

バーバラ・スタフォードしかり、とにかくスゴイ人文書は「ぶっ飛ばされる」くらいの威力あるけど、なんかアレだなーという人文書については、何かの批判だけが目立ってしまうというのは、理系学問をやって心底身にしみた。

それでここまで書いてきてやっとわかったのは、スノーさんが「二つの文化」じゃなくて、「三つの文化にすべきだった」という話、「三つ目」はヴィジュアルじゃないだろうか。

スノーさんの後年の解説を読んだら、心理学や経済学、社会学なんかが「三つ目」になってほしいと期待を込めて書いてあったけど、これ、どれも「言葉中心主義」だからなぁ。

前に遠山啓(ひらく)さんの『無限と連続』(岩波新書)を読んでハッとしたんだけど、「数学が一般に敬遠され、忌避感を与えるのは、全ての物事を数値と記号に置き換えてしまう点だ」と。

個人の違いやモノの性質を捨象して、全て記号と数値に置き換える、これが非数学者に対して嫌悪感を抱かせる一因と数学者が言ってるんだから、この発言は重い。

で、結局、記号も数値も、本の活字も全部「言葉」なんだから、「言葉じゃないもの」を範疇に入れたら良かったのでは、という。

ヴィジュアル教育!とか言うけど、実際、「絵を描けるようにする」ことだろう。ヴィジュアルの受容じゃなくて、ヴィジュアルの発信。

もちろん、カメラ持って写真撮ってもいいんだけど、これもある時に気づいたのは、「写真は[いまここにないもの]は撮影できないぞ」ということ。

だとすると、手っ取り早く絵を描くのがいいと思うんだけど(安上がりだし^_^)、二つの文化が分断されちゃうのは、間を取り持つ「ヴィジュアル」のコミュニケーションがないからかも。

これもナルホドと思ったんだけど、文字よりも絵の方が歴史は遥かに古いんだって。ラスコーとかアルタミラの洞窟画とか、紀元前ウン千年から存在してる。

実際あれは、ウガウガ時代の「パワーポイント」だったそう。ウガウガな人たちが集まって、松明で照らしながら「今期中間発表 マンモスの収穫率とその改善方法について」なんて、KPIがどうしたと話し合う感じ(^∇^)

本来的に、人間が何かを「わかる」ためにはヴィジュアルを必要とするそうで、言葉ばっかりになって長いこと来ちゃったから、むしろラスコーのウガウガ方法論を取り入れてもいいのかも。

こういう話も、「書いてるうちに思いつく」面があるから、やっぱりブログは続けてみるもんだな( ´ ▽ ` )ノ

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# by ulyssesjoycean | 2018-10-07 10:47 | Comments(0)

演劇は一番歴史あるジャンルだぞ!でも何か「気恥ずかしい」のはなんでだろう

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(古代ギリシャ研究で超のつくエライ先生らしい、C. M. Bowraさん。「バウラ」というカタカナ表記しか見たことなかったから、Cecil Maurice Bowraというのがフルネームみたい。綴りがわかったので調べてみると、Oxford Scholary Classicsというシリーズから再販されてる様子。でも価格を見たらBrill社なみのお値段だったので、パオーンパオーン!と泣き叫ぶばかり)

このところ楽しみとして読みつづけてるのが、ギルバート・ハイエット先生の『西洋文学における古典の伝統』(筑摩叢書)。

ハイエット先生がギリシャ・ラテンの作品に超くわしいのと、プッと吹き出す語り口に釣られてゆっくり読み進める形。どのみち二段組で活字びっしりの上下巻だから、ゆっくり読むほかない。

やっと時代がバロック(17〜18世紀)まで来たところで、自分が演劇にウトイことがなんだか申し訳なく感じられてくる。

古代ギリシャから延々と続くジャンルが演劇なわけで、シェイクスピアもその伝統をついでるし、フランス文学の世界だと「演劇で成功しない限り何もない」という扱い。

敬愛するユゴー先生も、劇作『エルナニ』で、古典派・ロマン派の対立を激化させたそうだし、ほかの作家の話を見ても、みんな芝居を作っている。

あとは全然最近の話として、高山御大の和本を譲り受けた「古書ほうろう」さんも、水族館劇場のテント芝居が学魔御大とのご縁のキッカケだったとか。

そんな風に、色んなところから大小の演劇に関してフックが入るんだけど、今回のハイエット先生の一冊でも、ギリシャ悲劇の伝統がいかにその後に影響を与えたかと、大変にアツイ口ぶり。

芝居と言わず「ステージ」に話を広げると、音楽は一番親しみやすく、これについてはセッセと参加する次第。その次がかろうじて映画で、さらにそのずっと後が演劇という形。

近年は数学とピコピコ紐ingという、「2大やらないできた分野」が中心の生活になったので、そのうち「演劇すばらしい!」とか言うようになるのかもだけど(^∇^)

前に『季刊エス』を読んでたら、芝居や演劇に馴染みない人は、単に面白い舞台に出会ってないだけだと思う、という簡潔明瞭な意見があったな。

ここまで書いてきて思うのは、自分の超乏しい演劇体験で言うと、人が何か演技をしてるのを見るのが「恥ずかしい」「面映ゆい」と気づく。

自分が役者として舞台に立ってるわけじゃないんだから、何も舞台上の役者さんを見てこっちが恥ずかしくなる道理はないんだけど(^o^)、あの「むずがゆい」心境はなんなんだろ。

音楽のステージでそういう「気恥ずかしさ」を感じることはマレだから、なんかこの辺に理由がある気がするナー。

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# by ulyssesjoycean | 2018-10-06 12:00 | Comments(0)

「文系・理系」バナシの大先輩はC・P・スノーの『二つの文化』でした

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(文系と理系がどうした、と言いながら、スノーの『二つの文化』を今の今まで未読だったということにハタと思い当たる。断片的な引用は頻繁にされるけど、現物を手に取ると全然ちがう話だったりするしな(^∇^))

1950年代にドトーのモンダイ提起になった、スノーの『二つの文化』。文系理系モンダイに切り込んだ視点の一冊。

ところがその評判ばかり聞くものだから、ずーっと未読で来てしまった。今回大きなデータがどうした、という本を読んでたらスノーの話があり、「そういえば」と思い出した形。

ちなみにスノーさんのこの本を網で引いてみると、Two Cultures?のクエスチョンマークのついた本も見つかる。なんだろう?と思って著者名を見ると、F. R. Leavisの名前が。

バリバリというよりはゴリゴリの批評家で鳴らしたリーヴィス先生。由良君美さんとかジョージ・スタイナーに興味を持ってたころ、やたら名前を見かけたのがこのリーヴィス先生。

その後、一回くらいは原書を手にした気がするけど、そのゴリゴリっぷりについていけず放り投げてしまった気も。少なくともその後も再読する形にはならなかったなー。

スノーさんは理工系の教養を持った上で以上の書物を書いたわけだけど、リーヴィスさんはゴリゴリの文芸派だから、この反論書もなんだか凄そうだ。

理系と文系は「アプローチが真逆だから」「両方とも学ぶのはドエラク大変」というのが今現在の自分の心境。

合ってるかどうか分からないという前置きをして言うと、リケー方面のアプローチは:

「モンダイを細分化し」
「小さなものから順番にもれなく処理して」(ボトムアップ)
「それを法則化する」

ことにあるかな、と思うんだけど、一方のブンケー方面は:

「全体を俯瞰し」
「全体像を大掴みに処理して」(トップダウン)
「分かりやすい言葉にする」

じゃないかな、と。

前者は細部の積み重ねから全体に至り、後者は全体を把握してから細部に降りてくるという、真逆のスタンス。

で、「語学人」(*自称)からすると、「理論的な細部の分析」は全体の10〜20パーセント、あとは「今までのインプットを蓄積したデータベース」が80パーセントという感じ。

とにかく大量のデータベースから「例」を引っ張ってきて、それをつなげ合わせる。で、つなげ合わせたものを「間違ってないかな」と確認するのに「理論アンド分析」を使う、そんな印象。

多分この、「大量のデータベース」を作るのが、「理論アンド分析」より優先されるということが、どーしても納得いかないんじゃないかなー、というのが昨今の心境。

自分が数学とピコピコをやり始めた時、「全てのことを細分化する」というのが、面倒で面倒でやり切れなかった。それまで「大枠を掴む」ことが何より大事!と思ってた面があるので、細分化がツライのなんの。

その反対に、語学に代表される自然言語キツイは、きっと「質より量で、大量のデータベースをまず自分の中に設置する」のが大変なんじゃないかなー。これは「理論と分析」を重視する人には、自分が細分化するときに感じた抵抗と同じものがあるだろーー

というのを考えてはいたけど、そこで煮詰まってたきらいあるので、そうだ、スノーさんのこの本を読んだことなかった、と思い至った次第。

何らかの補強でも発見でもあれば嬉しいなぁ。なんか引用で目にするばかりで半分読んだ気になってた気すらしてたから(^∇^)

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# by ulyssesjoycean | 2018-10-02 20:44 | Comments(0)

コールリッジを読んでいて、マックス・ビアボームを思い出す。どマイナー街道まっしぐら!(´∀`)

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(ワーズワースの盟友、サミュエル・テイラー・コールリッジさん。自分の場合、英文学で「オモシロイナー」と心底楽しむのが、18世紀と1920年前後の作品。それでいうとコールリッジさんはそのちょうど真ん中に位置する形。込み入った英語を読むのに骨が折れるけど、たまにドイツ語に言及してるので、そこはちゃんと確認確認)

高山宏・巽孝之『マニエリスム談義』(彩流社)を読んでて、自分の好奇心アンテナに「ピーン!と来た」(©︎みうらじゅん)コールリッジ。

ひとまず原書をちょいちょい覗いてみるんだけど、いかにも19世紀的な込み入った英文で、この辺りが自分の関心と重ならなかった理由だな、なんて妙にナットク。

とはいえ実際にコールリッジの英語に触れてみると、「前にどっかで見かけたような」印象が。どうもこれ、イギリスのマイナーな書き手、マックス・ビアボームの雰囲気だ、と。

エドマンド・ウィルソン『アクセルの城』を、こりゃーオモシロイと夢中になって読んだとき、巻末のあとがきを書いていたのが篠田一士さん。

で、その篠田一士さんがウィルソンへの道筋として、「マックス・ビアボーム」という名前を挙げてたんだな。

「マックス・ビアボーム」がMax Beerbohmだと分かるまで相当手こずったけど、いざ取り寄せてみたビアボームの英語は手こずるどころの話ではなかった。まー、凝りに凝った英語の使い手。

もともとビアボームさんはイラストレーターで鳴らした人らしく、ササッと描いた絵がまた絶妙にうまいという。絵がササッとしてる分、文章は凝りに凝ったのかな(^∇^)

ビアボームの原書はちょこちょこ揃えているものの、なかなかアレを読み通す気力が湧いてこない。長編小説『Zuleika Dobson』も安い判で購入したら、印刷がヒドくて読めたシロモノでない。

印刷のせいにして読まないことにした気もするけど(^∇^)、それからしばらく経ってコールリッジ読んでたら、あ! この感じはビアボームだ!と。

そういえば一昔前、邦訳が出たはずだと思ったけど、この網でピコピコのこの時代、密林でもなかなか見つけられない。

やっと見っけた!と思ったら『ズリイカ・ドブソン』という訳名だったので、それで分からなかったのね(´∀`)。寝かせごろの作品ではあるので、再チャレンジしてみようかな。


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# by ulyssesjoycean | 2018-09-25 23:34 | Comments(0)

哲学者カントの講義録『Logic』。ロックは論理学に怒ってたけれども( ´ ▽ ` )ノ

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(『純粋理性批判』とか、えらくカタイ内容を扱った哲学者のカントさん。でもその講義は分かりやすくて面白く、いつも教室がいっぱいになる盛況ぶりだったとか。この『Logic』も講義録らしいから話の進め方や例え話が親しみやすく、メチャメチャ面白い。英訳も雰囲気からして、相当丹念なお仕事だなーと感じる)


George Booleの本に載ってたから、という安直な理由で手に取ったカントさんの『Logic』(Dover)。これが大変おもしろい。


そもそもこっちがMathematics の学び直しをやったとき、できれば避けて通りたいと思ったのがこの「論理学」。


日常生活の「論理」と、数学で使われる「論理」は同じものじゃないよと、尊敬する小島寛之さんの新書に教わったけれど、さりとて得意になるわけではない(^∇^)


ピコピコ方面をやるようになって、このLogicとSequenceという、数学でもご勘弁願いたい分野を避けては通れないと気づいたので、仕方なく進めてる形。


調べてみて分かったけど、このLogicというやつ、キライな人は筋金入りでキライになる分野みたい。で、その代表選手がジョン・ロック。


こっちもBooleさんの本で言及されてたので、どれどれと目を通すと、論理学をボロクソに言っていて、さすがのこっちも「なにもそうまで言わなくても」という気分になる。


ロックさんが言うには、論理学それ自体は自己完結してるものだから、生産性がまるでない。人間の知識を増すのに何一つ貢献しないとやっつけている。


17~18世紀の英語では「~ to knowledge」とknowledgeを動詞として使う用法あったんだナーなんて眺めてるけど、ロックさんの論理学なんてナンダ!という勢いにビックリさせられる次第。


もちろん、当時の背景として、スコラ哲学が無味乾燥な論理をいじくりまわす一方で、それこそ「生産性がない」状況があったんだろうから、こんな因襲やめにしよう、ということだったんだろう。


実際、ロックの同時代人、フランシス・ベーコンさんも、これまでの学問のあり方はおかしいぞ、ということで、観察・実験・記録に基づいた「新しい学」を提唱した由。


ロックさんの頃にもその弊風が残っていたから、それで怒りに怒ってたんだろう。その当時のスコラ哲学を覗くと、「ソレハナイ」という惨状だったんだろうなー。


で、そっから100年近く経過したケーニヒスベルクのカントさん。ちゃんと論理学の限界を分かった上で「大事さ」も見抜いてる雰囲気。


カントさんも、「別に論理学は、それ自体でなにかを生み出すものじゃないよ」ということを再三指摘してる。ただ「correctであるために」必要ですよ、なんて。


それを道案内に例えて、案内役のある人は、それまでの「経験」によって判断して、ちゃんと目的地まで辿り着ければそれで良い。


しかし法律家や弁護士の場合「経験に頼って判断する」のは誤謬のもとである、云々。


論理学はそれ自体に生産性ないけど、それが必要不可欠なジャンルもあるんだよ、なんてことを気さくな調子で述べてくれてる。


ロックさんとカントさんで、その口ぶりにエライ違いがあるので、なんだか論理学は毀誉褒貶の激しい分野みたいだ。


そもそも自分がLogic方面をやり出したのも、A→B→Cと順番に進むときはいいんだけど、C→B→Aと「さかのぼる」論理思考にまごついたから。


Booleの本でも、論理が遡行する場面に至って「あ、これは自分は分かってないぞ」と痛感することに。


そういや前掲の小島寛之さん、数学の「論理と証明」を教えるため、自作のカードゲームを作ったそうな。


なんだっけ、動物とヒントがセットになっていて、動物を揃えていくと、最終的にゴール動物に辿り着く、とか。


読んだときは「まあ、自分は証明とかやらなくていいし」とスルーしてたけど、ピコピコに深入りするに至って「避けては通れない」となったから、一度気分転換に小島さんのご本を見てみるか。


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# by ulyssesjoycean | 2018-09-20 20:15 | ピコピコ武者修行 | Comments(0)

「コールリッジ」と「ピクチャレスク美学」が気になってしょうがない、高山宏・巽孝之『マニエリスム談義』

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(高山宏アンド巽孝之の、アメリカ文学対談本。再読すると、以前と違うところに興味関心を持ったのは、ここ最近取り組んでるLogicsのせいだろうか。彩流社のフイギュール彩の一冊として、税抜き1800円にて発売中)

自分の原点に戻る時は、各種の「タカヤマ本」にあたるのだけど、対談集である『マニエリスム談義』を再読したら、今回、自分の関心動くポイントが初読の時と違ったので、「おや」と思う。

まずはColeridge。以前から名前は知っているけど、「ド・クインシーとか、あの辺りの作家」とひとまとめに括っていたところがあった。

ところが最近になって、なぜかColeridge、コールリッジの綴りに目が留まるように。この対談集でもコールリッジさんはカントフリークらしく、ドイツ留学までしてるとか。

この数日、カントの講義録『Logic』を英訳本で読み始めたら、これがべらぼうにオモシロイ。あらゆるものにはrulesがあり、rulesナシと見える場合、それは単にそのrulesが人間にとってまだ未知だからだ、なんてことが切れ味するどく書いてある。

ピコピコ方面からのアンテナでカントまで辿りついたけど、そのこととコールリッジの名前がミョーに気になるのは何らかの関連性あるのかな。

コールリッジ以外で言うと「ピクチャレスク美学」。高山学派ならおなじみのキーワードだけど、今回読んだら「おやっ」と思う自分がいたな。

というのも、視覚文化全般に後進国だったイギリスが、イタリア文化をゴッソリ持ち帰って、それをまんまイギリス内に移植しちゃう、云々。

ある構図をフレームに収めて見切るやり方が、今現在のカメラの横長フレームにまで尾を引いている、とかとか。

そこまではこれまでのタカヤマ本で馴染んでいたけど、その、フレームに切り取ってしまった「内側」と、フレーム外に切り捨ててしまった「外側」という話題があったんだな。

切り捨てちゃったものが恐怖の対象になってくるとか、フロイトの言うunheimlich(不気味)に話が繋がってくるんだけど、これがなんか妙に気にかかる。

このところ行動エコノーミクスをやって、人間ってアレだなーとつくづくゲンナリしていたのと、何か関係があるのだろうか。

というのも、行動エコノーミクスでよく言われるのは「人間は、自分の経験だけが唯一の基準」ということ。

アジフライが好きなAさんがいる。アジフライ大好きなAさんからすれば、Aさん以外のBさんもCさんもDさんも、手っ取り早く言えば「自分以外の全員」「アジフライが好きだ」と思いがち。なぜなら「自分がアジフライ大好きだから」。

そんな無茶な!と言いたいところだけど、このブログ主を含め、「自分だけが判断基準」という事例は枚挙にいとまがない。

どーもこれ、ミンスキーのフレーム理論とかと関わりある気がするんだけど、ピクチャレスク美学のフレームと、「自分の思考フレームに気づけない」(=フレームの外があると感じられない)に、何か共通点があるのかな。

そんなこんなで、こういう漠然としたヒントが貰えるところが、「原点もどり」の良いところ。まずはこれでコールリッジを読んでみようと思ったわけだから(^∇^)

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# by ulyssesjoycean | 2018-09-17 12:00 | Comments(0)

ゆずチリさんの『姫乃ちゃんに恋はまだ早い』、10月から本格連載決定!

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(「これはエビちゃんとタケルのアナザーストーリー!」とメチャ嬉しくなった、ゆずチリさんの『姫乃ちゃんに恋はまだ早い』。5回の短期集中連載が終了し、来月から本格的に連載開始の知らせヽ(´▽`)/。連載化を切望する声多かったから、やっぱり人気だったのね(^o^))

近年はサツバツ〜としたお話がことにニガテになったので、楽しみに読むマンガはホノボノとした雰囲気が多い。

ゆずチリさんの『姫乃ちゃん〜』は、小学生が背伸び(アンド無理)をする雰囲気がたいへん微笑ましい。

この辺、「微笑ましい」になるか、「あざとい」になるか、ホントにマンガ家さんの個性が出るところなんだろうナー。

自分としては石黒正数さんの『それ町』にて、エビちゃんとタケルの小学生バナシを再読しまくってたので、そのアナザーストーリーとして楽しく読んでいる形。

ーーそう思ってたのは自分だけじゃないらしく、ガッツリ読者人気もあり、10月から本格的に連載開始というのだから嬉しい。

この手のウェブもの、ツイッター発で言うと、ゆずチリさんと同じゲッサン枠のマンガ家・斉藤ゆうさんも動きはありそうな気が。

「擬似ハーレム」というドキッとするタイトルだったけど、演劇部の先輩と後輩の話で、これも心温まる内容だった(^∇^)。

『姫乃ちゃん〜』は会員登録とか何もなしでURL一発で読めるのも嬉しい。応援も兼ねてリンクを貼っておこ( ´ ▽ ` )ノ


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# by ulyssesjoycean | 2018-09-15 12:00 | Comments(0)

「宮仕えはツライよ」から生まれたのがロマンス文学? ハイエット『西洋文学における古典の伝統』

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(ギリシャ・ラテンの碩学、ギルバート・ハイエットの『西洋文学における古典の伝統』を楽しみにちょびちょび読み進めている。何しろ二段組に活字ビッシリ、さらには上下巻ということで、これはちょびちょび読み進めるしかない。ハイエット先生は大変に話のわかる方らしく、折々に挟み込まれる冗談が楽しい。それにしても筑摩叢書は名著が多いナー)

因果なことにメチャ新しい方面をやっている反動で、1000年前だかもっと前だかの作品に心惹かれる昨今。ギルバート・ハイエット先生の語り口につられて、ほっぽりっぱなしのLoeb Classicを引っ張りだしてきたり。

そうしたラテン語の原典で、なんだろうコレと思っていたジャンルについて、ハイエット先生の本を読んで初めて得心がいった。

Pastoralとか農耕詩とか、自然と田舎の生活を歌う形式があるけど、あれも一種の「ユートピアもの」だったそうな。

平明な自然描写が続く作品の著者が、実はほとんど宮廷人だったりして、権謀術数とかハードな泥仕合に嫌気がさした人たちが、「ここではない理想郷」を求めて書いたものの由。

前にEdmund Wilsonさんの本を読んだら、ラテン語はカトゥルスの農耕詩から始めるとよい、なんて書いてあったので手に取ったけど、あまりに牧歌的な自然描写の連続にどうしていいかわからなかった。

今回のハイエット先生の一著で、やーっと合点がいった。トマス・モアさんもヘンリー8世の宮廷で辛酸をなめて『ユートピア』という諷刺文学を書いたけど、あれはモアさんが廉直だったからで、ちがう方向に行くとロマンスとか田園詩になるみたい。

やっぱりこういう「作品が生まれた背景」がわかると、それまでと捉え方が変わるのが面白いなー。それまで日本古典は湿っぽい話が多いと思ってたけど、小西甚一先生の本を読んだら「作品として発表するのはそっち側の心理だけ」というので納得したり。

それから以降、自分の本棚に岩波の黄色版がズラッと並ぶようになったのだから、小西先生のお導き大なりと言わなくてはならない(^o^)

その伝でいくと、『ダフニスとクロエ』とか『ポールとヴィルジニー』は、名前こそ知ってたものの、読んでみようとは思えなかったジャンル。

でも「書いた人は、宮仕えに疲れ果てた宮廷人」という視点が一個入っただけで、グンと興味が湧いてきた。

そういえば中国の怪談はやたら話のわかるお化けが出てくるけど、作者はみんな科挙に受からなくてヤケクソになった人たちばかりであるという話を荒俣宏さんがされていて、思わず膝を打ったものなぁ。

日本の古典でつくづくそう思ったけど、1000年とか500年とか離れてると、何がしかのフィルターないと作品に入れない面がある。言葉も近代語と丸っ切りちがうし、その意味で『新曲』でダンテさんを連れてあるくウェルギリウスが必要なのだなぁ、と思ったのでした( ´ ▽ ` )ノ

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# by ulyssesjoycean | 2018-09-12 22:25 | Comments(0)

ピコピコのTrue/Falseを調べてたら、なぜかJohn Lockeが出てきた

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(議会制の立役者ジョン・ロックさんは、ピストルズばりに「論理学◯◯クラエ!」な態度だったそう。ところがガチの論理数学をやったら、ロックさんへの引用あったので、これはどういうことなのか。『An Essay Concerning Human Understanding』は色んな判型で出ています)

TrueとかFalseを「数学として」整理したGeorge Booleさん。今のピコピコはこの人の発想に根付いて運用されるのだからスゴイ。

ブーレさんの本は翻訳が出てないので、仕方なくガチの数学書450ページを通読。1854年の段階で「大きな情報」の話もしてるなど、先見の明がありすぎ。

書かれたのはヴィクトリア朝時代だけど、英語がたいへん読みやすい。実際、文章家だったので、当時の数学雑誌編集者の目に留まったとか。

中身の数学、しかも論理学は一番馴染みないところなので、理解のほどは「まあ、まけておけ」としか言えないけれど、終盤に至ってJohn Lockeへの言及が。

ブーレさんは論理学を数学に整理したスゴイ人だけど、ロックさんは論理学をまるで認めていなかった人の由。それだけになんでロックが論理学の本で言及されるわけ?と。

ブーレさんの本は学術書だから、引用や出典も正確なので、ロックの本のココに書いてあると指定も明確。Essay, Book IV, Chapter VIIIだって。

因果なことにLockeの”An Essay Concerning Human Understanding”は原書をたまたま所有してるから、該当する箇所を開いてみると、章のタイトルが「Of Trifling Propositions」となっている。

Trifle系の単語を使ってる時点で、これはもう論理学を腐しているとしか思えないけど、これはこれで何か大事なことが書いてあるんだろうか。ちょっとだけ目を通したら、こんなものは左手に牡蠣を持ったサルと一緒だ、なんて調子が書いてある。

あとはブーレさんが言及していて困ったのが、Immanuel Kantの “Logik”。カントさんにそんな著作あったっけ?と?Vernunftがどーした、というのが主著じゃなかった?

グールグル先生を頼って書誌を調べると、Logikがタイトルに入ってる著作がいくつか見つかる。正確に言うと「見つかってしまう」。

ジョン・ロックさんにプラスしてカントも読むとなると、ピコピコのbooleanをやるために始めた調べ物がとんでもない方向に逸れていくなー(´∀`)

でも一方で、ピコピコ参考書を見ても、「boolean。True or Falseで記す形式。George Booleにちなむ」としか書いてなかったので、それに業を煮やして調べ始めたようなものだしナー。

ロックさんは「右とは右のことである」なんていうのは、何も言ってないのと同じだ!と大変な剣幕だから、「boolean。George Booleにちなむ」なんて書いてあるのを見たら、「何も言ってないのと同じだ!」とお怒りになるかもしれない(^o^)

それにしてもカント先生も論理学の著作あったとはなぁ。18世紀のドイツ語は自分のドイツ語力では読めそうにないので、とりあえず英訳でチェックしよっと。

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# by ulyssesjoycean | 2018-09-10 23:43 | ピコピコ武者修行 | Comments(0)