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ジャバナントカは置いといて網の設計図「HTナントカ5」を調べてみようと思います( ´ ▽ ` )ノ

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(オライリーにはホントにお世話になってるナーと、ピコピコ道に入門して感じる。またこの手の技術書は原書で読むと超わかりやすく&楽しいと判明。数学もそうだけど、英語に馴染みさえあれば自然科学系はオールEnglishで良いと思うのでした(´∀`))

先日までエズラ・パウンドの話をしていて、今度はピコピコ道の投稿が続くというカオスっぷり。

でもパスカルさんもソ言ってたよ、「炎がなぜ燃えるかを知るためには、空気のことも知らなくてはいけない」って。

最近はピコピコ道をやるにしても、「その公式資料をぜんぶ読む」方向に移ってきた。

参考書はありがたいんだけど、ピコピコは具体的な技術でもあるから、「もともと決まってるやり方」「使う人が自由にアレンジ」きる側面がある。

そうすると、どこからどこまでが「もともとの決まり」(動かせない部分)で、どこからどこまでが「本の著者がアレンジしたもの」なのかがハッキリしないんだな。

そういうことが2〜3件続くと、もう「もともとの決まり」をぜんぶ読んでしまえ!と思うように。この手の資料は繰り返しも多いから、20〜30ページでもサラッと読みきれると分かったし。

ところが、ピコピコ&網の世界で、いっちばん根っこになってる部分は、20〜30ページなんて生易しい分量では済まないな。なので本にしようと。

それで今回取り組もうと思ったのがHTなんとか。机上ピコピコでも手元ピコピコでも、HTナントカ抜きには成り立たない「基礎建築」の部分。

手元ピコピコに入れて使う「応用」も、結局はHTナントカを使ってる。最近の主流だよという「反応現地民」の紐を見ていたら、結局HTナントカを最適化するためのものなのね、と。

でそのHTナントカをいじるのに、ジャバナントカをたくさん使うんだけど、自分が服部雄樹さんのデザイン本で見知った「値札」がぜんぜん使われない。

服部さんの御本では、区切りをつける「値札」<分割する>だけじゃなくて<幅>ってのもあったし。他にも色々あったのに、高度ジャバナントカを見ると<分割する>しか出てこない。あれ?

でもこういう技術的な世界に「なんとなく」ということはあり得ないから、「値札」の種類にも必然性がきっとあるんだろうーー

これまでは高度ジャバナントカの方にアプローチしてきたけど、結局、いじくられるオオモトのHTナントカも調べておいた方がいいんじゃないかなー、なんて。

そんでまたこのHTナントカは、網の歴史そのものだから、「求めますよコメントを」を見たってボーダイな分量が見つかっちゃう。

なのでこういう時こそオライリーさんに頼ろうかと思った次第。

高度ジャバナントカは「回転はやくてついてイケネー」と、バリバリのピコピコラーさんでもこぼすそうだから、だったらいじられる側を捕まえた方が早かないかい?なんて。

あとはピコピコ街道の複雑な方をやってるとアタマが疲れてきたので、色川武大さんの『うらおもて人生録』よろしく、「大きくバックする」のも必要なんじゃないかなと。

これでHTナントカの5番目が分かれば、案外、高度ジャバナントカもスルッと親しめるようになるじゃという期待もあるんだけど。

そんなにジャバナントカがアレな感じならやらなきゃいいじゃんと思われるかもしれないけど、なんかもう近年の網&ピコピコはジャバナントカ抜きには成り立たないみたいなので、これまた1つのライプニッツよろしく「急がば回れ」戦略だと思うことにする( ´ ▽ ` )ノ

# by ulyssesjoycean | 2019-07-16 12:00 | ピコピコ武者修行 | Comments(0)

パウンド爺さんの『ピサ詩篇』が届いたので読み始め イタリア語と英語のチャンポンだ(о´∀`о)

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(パウンド爺の “Pisan Cantos”が届いたので読み始め。新倉俊一さんが激賞してたので「ホントか」というイキオイでイソイソと取り寄せ。こうしてみると、詩文は小説ほど読みはじめるのに抵抗ないかも。最近はフロベール先生の書簡も読み始めたけど、あれも「いつやめてもいい」感があるから(^∇^))

パウンドさんの批評には長らく親しみ、またパウンドさんがプロデュースした作品も愛読してきたけど、御本尊の詩作を手にするのはこれが初めて。

届いたから、ドレドレと中身を開くと「LXXIV」とローマ数字で記載されてる詩から始まってる。Cantosはシリーズ物だからだろう。

のっけからギリシャ語とイタリア語が混ざってて面食らうけど、「オオー、イイナー」という響きの詩行も見つかって嬉しい( ´ ▽ ` )ノ  例えばこんな:

(...)
To build the city of Dioce whose terraces are the colour of
stars
(...)
sorella la luna
Fear god and the stupidity of the populace,
but a precise definition 

(Ezra Pound, Pisan Cantos, LXXIV, p.7. Faber and Faber, 1949)

引用したとこだと:

To build the city of Dioce whose terraces are the colour of
stars

の三ヶ所が、音の響きが連なっててメロデイみたい。単純に「韻を踏んでる」と言えばいいか(´∀`)

2こ目のとこだと:

sorella la luna
Fear god and the stupidity of the populace,
but a precise definition 

ラ・ルゥーナ」というイタリア語から「ポピュレイ」ときて、最後に「プリサイス」となる感じが良い。「ア」「アイ」「エイ」「L」と「R」の滑らかな音が繋がってる。sorellaもそうだけど。

こういう色んな言語が混ざった詩の作り方は、W・B・イェイツさんから「理解不能」と散々に言われたそうだけど、la lunaなんてイタリア語使うと、英語の単語とも繋げていけるんだ、なんて。

惜しむらくはこっちがギリシャ語をよく知らないので、そこだけ困るかなー。ギリシャ語の綴りをみると、まず「なんて発音するのかな?」と一度レイセイに考えなくちゃいけない。

このところ重たい調べ物だかりだから、パウンド爺の詩行も気が向いた時に読み進めよ。

アレだな、活字だけみると、ちょっとシンプルな吉増剛造さんという感じかも。

そういや吉増剛造さんは、折口信夫から与謝野晶子などなど、色んな詩人の朗読テープをかき集めてらっしゃるけど、パウンドさんの朗読って残ってないのかな。

聞いた話では、パウンドはイタリアでプロパガンダのラジオ放送もやってたらしいから、自作の朗読も残ってるんじゃないかなと思うんだけど。

*その結果、ピサで虜囚生活を送ることになって、その時に出来たのがこの “Pisan Cantos”なんだって

# by ulyssesjoycean | 2019-07-14 12:00 | Comments(0)

「イイ顔してる」パウンド爺さん 『ピサ詩篇』が良いそうなので読んでみます( ´ ▽ ` )ノ

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(「イイ顔してる書き手」BEST3に入る、エズラ・パウンドさん。自分の中のBEST3だし、そもそも「イイ顔してる書き手」というカテゴリーもいま考えたんだけど(^∇^)。とはいえ「顔がカッコイイなぁ」というのでパッと思いつくのがエズラ・パウンドなのはウソ偽りなし。爺さん顔[↑]もまた良し。あとの2名は誰かな。ジェイムズ・ジョイスが横向きの顔も「オオー」という感じだったけど。日本だと吉増剛造さんか。急に日本からランク入りしちゃったから、東西のカッコイイベスト3とかやりたい( ´ ▽ ` )ノ)

西脇順三郎さんの研究本を読んでたら、その伴奏者としてエズラ・パウンドの話が。

最近は詩もイイもんだな、と思うようになったので、「詩人」としてのパウンドにも関心が。

どれどれと自分の本棚をひっくり返してみたら、パウンドの本が4冊も出てきた。意外と愛読してたんだ、なんて。

その中で一番読み込んだのは “Selected Essays”だと思うけど、改めてページを開いてみても、英語がムツカシイ。よくこれを愛読してたなと、自分でも呆れる。ーーというより、分かんないながらなにか気にいるものがあった、ということなんだろう。

それでいうと、最近またシェイクスピアのHamletを読み返していて、これも「分かんないなりに気にいる」のが愛読の理由だと気がついた。

シェイクスピアさんは1564〜1616が生没年だから、ざっと見ても400年前の人。今とは英語が違うし、またシェイクスピアさんはありとあらゆる英語を持ってくるから、その点ではパウンドさんと語彙の豊富さでは変わりない。

でも文章についてみると、リズム感がキビキビしていて、それが楽しさになってる様子。イギリスの詩はリズミカルでフランスの詩より親しみあるナーとか、色々思う。

なんだっけ、19世紀フランスの何とかという批評家さんの文章読んでたら、フローベールは細部の細部まで念入りに仕上げられていて、それも良いが、バルザックやシェイクスピアの大雑把な天才で一息つきたくなる、なんて書いてあったな。

エズラ・パウンドの詩はまともに読んだことないけど、いったいどんな感じなんだろう。色々あった挙句にイタリアで虜囚生活をしてる間にできた詩篇がことに良い、という話なんだけど。

パウンドさんは「文学方面のプロデューサー」として尊敬を集めてるけど、その作品ということではあまり評判が聴こえてこなかった。こっちもあまり詩作品に関心なかったから、まあいいや、なんて。

でも西脇順三郎さんの詩と並べてみると、たしかに何か相通じるものがある気がする。西脇さんの詩はどっか力が抜けてて気に入ってるので、この機会にパウンドさんの詩文にも入っていけたらいいな(´∀`)

# by ulyssesjoycean | 2019-07-12 12:00 | Comments(0)

デザインは「どこからどこまで」やればいいの? 販促チラシの例を見て考え込む(´∀`)

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「ピコピコでデザインやるのがシンドイ」と言ってても仕方ないので、なぜシンドイと思うのかを分かるためにデザインについて学ぶという、『不思議のダンジョン』ばりのマゾ修行がスタート。

その流れからデザイン系の学習本を読んでいて「おや」と思ったんだけど、「◯月◯日にあるイベントをアナウンスする」チラシのデザイン例がいくつも載っていたんだな。

Aという部分を強調するとこうなる、Bという部分を強調すると、Cならこう、Dならこうーーと、いくつもデザイン例が出てくるんだけど、そこに決まって「読みやすくなった」という解説が。

それはその通りなんだけど、でもそんなに素材(◯月◯日にあるイベントのお知らせ)の「見せ方」にこだわるのなら、当然「素材そのもの」にもこだわらなくちゃいけないのでは、と。

例えば日付にしたって、「2019年5月4日」「2019/05/04」「May 4, 2019」と幾らでも表記の仕方はあるし、「2019年5月4日に◯◯というイベントがあります」と説明的に書くこともできれば、「開催日時:2019年5月4日」とリスト的に書くこともできる。

今のは「日付」だけど、これが「文章」になったらものすごいバリエーションになるし。なもんで、「人に伝える文章(言葉)を考えるのもデザインなのでは?」ということを思ったんだな。

見た目を工夫した結果、出てくる言葉が「読みやすい」「わかりやすい」なら、当然「文章の段階で『読みやすい』『わかりやすい』も目指すべき」ってなっちゃうような。その辺をデザイナーさんはどう切り替えてるのかな、なんて。

自分の絵の師匠は、アニメーション美術の小林七郎さんだけど、この人の教則本を読んだら、まず「日本語の明確さ」に感動した。一文に無駄な言葉が一つもない! これはすごい。

そこから小林七郎さんに全面的な信頼感をもって今日に及んでいるけど、その意味で小林七郎さんは「自分の書く教則本で優れたデザインをした」とも言えるんだな。だって、読み手が混乱するような文章は一つもなく、全編に渡って明快簡潔なんだもの。

デザイン学習本で出てくる「読みやすい」「わかりやすい」は、小林七郎さんだったら「文章という『素材』の時点で完成されてる」とも言える。なので、そういう素材の良さをどう引き出すか、とかなら話は分かるんだけども。

もちろんこれはものの例えで、こんなこと言っていけばデザインでフォローする範囲は森羅万象に及んでしまう。だってファイル名の付け方も「ネーミング・デザイン」だというんだから、ある意味でデザインには「キリがない」。

その点、「どこからどこまで」がデザインの範疇なのか、実際にデザインを手がける人たちはその辺をどう「割り切って」いるのかなーという風に思った次第。

やたら長く続けているこのブログも、開始当初は「文章がむずかしい」という反応あったので、色川武大さんの『うらおもて人生録』を参考にした語り口に徐々にシフト。

ただやってもツマンナイから、開始当初から一貫して「一人称は使わない」シバリを守ってるけど、こういう「文章の雰囲気を変える」のは「デザイン」に入らないのかなー。

デザインはカバーする範囲が広いから、学習本ひとつ取っても「あれ?」というところから、連想が広がることは多いかも。

せっかくの機会でもあるし、この『不思議のダンジョン』のデザイン編はもうちょっと続けてみよ( ´ ▽ ` )ノ

# by ulyssesjoycean | 2019-07-07 12:00 | Comments(0)

スタフォードの新刊が発売日にまさかの売り切れ? 遅ればせながら新刊の『Ribbon of Darkness』がもうすぐ手元にヽ(´▽`)/

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(密林で発売日にまさかの売り切れ! でも思ったより早いタイミングで再入荷してくれたので、良かった良かったヽ(´▽`)/  Barbara Staffordの新刊”Ribbon of Darkness”はシカゴ大学出版局からペーパー版30ドル、ハードカバーは100ドルで発売中)

「スタフォードの新刊を買う人、そんないるの⁈」と、まさかの発売日当日の売り切れに直面してドびっくり。

高山宏御大の翻訳本は数々あるけど、スタフォードの訳本くらい「相性ピタリ」はまずないと思う。そんくらい、原文を読んだ時の印象とタカヤマ語(!)訳の印象が同じ。

由良君美さんとジョージ・スタイナーは、”My other voice”と呼び/呼ばれる関係だったそうだけど、高山宏御大とバーバラ・スタフォード御大も似たような関係に思える。

こっちはコレクション趣味がないから、ひとりの書き手を残らず集めるということはしないんだけど、スタフォードだけは相当追っかけたなー。

原文は造語・新語てんこもり、文章のドライブ感がハンパないので、中身を読んで分かるというより、圧倒される感じでついていく形。

スタフォードの新著も久々だけど、この間、自分の方に哲学思想の大ブームがやってきたので、少しはスタフォードさんの文章についていけるかな。

“Echo Objects”の頃は哲学サッパリだったから、頻繁にDavid Humeが言及されるものの、なんだろう?という感じだったから。

今ではそのヒュームさんの大ファンになったけど、思えばスタフォードの言及がキッカケになってたのかな。ヒュームのものの考え方は、『脳がわかれば心がわかるか』で把握した格好だけど。

そういうわけで(どういうわけだ^_^)、スタフォードの新刊がもうすぐ読めるぞ!と思うと嬉しくて仕方ない。最近なにかとヘコタレムードだったから、スタフォード菩薩のカンフル剤で夏場を乗り切ろう\(^ω^)/

# by ulyssesjoycean | 2019-07-06 12:00 | Comments(0)

スピノザもパスカルと同じく「行動経済学」の人だった⁉︎ 遅ればせながら『エティカ』を読んでみた(´∀`)

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これまではぜんぜん親しみを持てなかったスピノザさんだけど、親しめないけど仕方がない形で『エティカ』を通読することに。


「〜は証明された」の連続に閉口しながら読み進めたけど、スピノザさんもパスカルさんと同じく「行動経済学者」だったのね。


このブログでよく名前が出てくる行動経済学だけど、要は「ニンゲーンがこうだったらいいな、ああだったらいいな」という理想はさておき、「あるがままのニンゲーン像から色んなものを設計しよう」みたいなこと。


「あるがまま」くらいなら歌にもなりそうだしいいんだけど、行動経済学では「あるがまま」どころか「ミもフタもない」人間像が次々出てくるので、けっこうションボリする局面も(´∀`)


で、そういう人間ってアレだなーというところをごまかさずによく見た思想家が、フランスのパスカルさんだったりして。


パスカルさんは「ニンゲーンは情念と理性の2つから成り立っている」ので、その分裂のがものすごいよ、ということを『パンセ』の中でしきりに説いている。どっちかだけだったらカンタンなのに、なんて。


パスカルさんみたいに、理性と情念、精神と肉体という分類は昔からよくあるけど、一方のスピノザさんは全然ちがう。なんかしきりに「延長」という言葉が出てくる。


スピノザさんの言ってることを読み解いていくと、どうもニンゲーンの自己は、ドンドン広がっちゃうらしいんだな。


例えばAさんが、知人のBさんのことを想像する。そうすると、「想像されたBさん」も、Aさんにとっては「自分の一部」なんだとか。


「実際のBさん」と「想像したBさん」が同じもののはずはないんだけど、Aさんにとっては「どっちも同じリアリティがある」から、そのことで喜んだり悲しんだりすると。


エピクテトスさんもそんなこと言ってたけど、人がガッカリしたり悩んだりするのは、物事自体じゃなくて、「それについての自分の考え」だ、なんて。


エピクテトスさんは合理主義だから、そういう「自分の力でどーにもできないことは考えても仕方ないだろう」。だから、「自分の力でどーにかできることだけやりましょう」なんて発想に。


ところがスピノザさんはそこを一歩進めて、「実際の物事も想像したことも、当人にとっては同じこと」となる。


スピノザさんの話を聞いててナルホドと思ったのは、「想像の中のBさんも自己の延長だから、ついつい実際のBさんも『自分の思い通りにしたい』と考えてしまう」そうな。


スピノザさんは色んな事柄を「喜び」(=活動力をアップさせるもの)と「悲しみ」(=活動力をダウンさせるもの)と対置させてるのが面白かったな。


面白かったどころではない、ミもフタもない話もあるんだけど(о´)、そこはスピノザさんもわかっていて、『エティカ』の結びは「素晴らしいものは何でも稀有なんだ」と書いてあったな。


スピノザさんはやたらややこしい構成を取ったけど、あんまりわかりやすく自説を述べるとウィクリフやフスさんと同じ目にあっちゃう可能性あったとか。


教会の権威が絶対だった時代に「無神論者」と言われてたくらいだから、色んな煙幕を張りに張って作ったのが『エティカ』なんだそう。


そういえば、スピノザさんの著作を読み通してわかったんだけど、違和感の正体はどうも幾何学にあったっぽい。


自分で数学をやり直してみたら、Geometryをとにかくやりたくない、というのが念頭を去らないんだな。証明がマストの分野だからかもだけど、


で、これまでずっとスピノザさんに「なんか親しめない」というのも、『エティカ』がGeometryの書き方を踏襲してたせいじゃないかなー。


それにしてもなんでこんなに「証明」という手続きに違和感を感じるのかなー。パスカルさんも「幾何学的精神」とか言ってるんだけどナー。 ε-(´∀`; )


# by ulyssesjoycean | 2019-07-03 12:00 | Comments(0)

古代ギリシアは何かと言うと「神さまに捧げもの」 ギリシャからウシやヒツジがいなくならないか心配(´∀`)

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(古典と言われるむっかーしの作品を読んでいると、何かあるたびに捧げもの捧げもので、その頻度に驚いてしまう。貴重なものだからこそ供物にしたんだろうけど、こんなに捧げていたんじゃギリシアのヤギやヒツジがいなくなっちゃうんじゃないかと心配(´∀`)。ホメロスの『オデュッセイア』は岩波文庫から上巻が税込1,048円で発売中)


最近は紀元前/紀元後すぐくらいの古典作品に目を通すこと多くなった。


その機会が増えたから気づくんだけど、ギリシアにしてもローマにしても、古代の人たちは何をするにも捧げものを欠かさない。


その捧げものというのが、高島屋の袋に入った手みやげとかでなく、みーんな生贄。つまりはヒツジやウシ、ヤギだったりする。


地続きのローマはともかくとして、島国のギリシアは耕せる土地も少ないし、こんなに動物を供物にそなえて大丈夫だったのかな(^^)


古代は農耕より狩猟、牧畜の方が盛んだったから、「家畜 = 全財産」と聞いたけど。


『旧約聖書』読んでると、現代のニポンジーン的にはザンコークすぎませんか、というエピソードいっぱいあるんだけど、あれも「狩猟・牧畜文化」の影響なんだって。


阿部謹也さんの本に「ノンネンマッハー」(尼さん作り)というドイツ語が出てきて印象に残ってるけど、あれは「メス以外の家畜を屠殺する」という牧畜社会の習慣なんだとか。


ただそれにしたって、ワンエピソードあるごとに生贄、次のシーンでも生贄、次の次のシーンでも生贄となると、「こんなに財産をほふっちゃって大丈夫なの?」と心配に^_^


アレだな、網上には「◯◯[*好きな数字を入れてください]の法則」が溢れてるけど、その法則を全部あわせたら合計いくつになるんだ、と気の利いたことを言った人がいたな( ´ ` )ノ


その連想で、例えばホメロスのテクスト中で、「犠牲獣は合計◯匹!」とか数えてみるとオモシロイかも。


「牛一頭」って文字で書く分にはカンタンだけど、これ、「祭りの食事」として考えたら1つの共同体が何日か食いつなげるんじゃないだろうか。


『山賊ダイアリー』なんて変わり種の猟師マンガ(!)を読んでも、イノシシ一頭でも相当な分量。


ホメロスさんの作品は始終神さまが出てきてあーでもないこーでもないと横槍入れるものの、リアルなところは妙にリアルだから、「ホメロス作品の生贄ぜんぶ数えました」なんてのは、意外な発見につながるかも。


「ホメロス作品の生贄ぜんぶ数えました」は、丸っ切り響きが「池の水ぜんぶ抜いちゃいました」と同じだと、言った後から気づいたな(´∀`)


# by ulyssesjoycean | 2019-06-29 12:00 | Comments(0)

「おかしいなーおかしいなー」(©︎稲川淳二)には理由があった! 古典ラテン語の作品を楽しく読めネーな話(´∀`)

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(ラテン語学習本として今まで見た中で最高の一冊!という印象あるWheelock’s Latin。文法の説明も的確だし、当時の雑学エピソードも豊富。でもそういう「基礎学力」と「ラテン語文学」の隔たりは相当大きいみたい)

エーリッヒ・アウエルバッハとかギルバート・ハイエット先生のお導きにより、古典文学に興味関心が増すようになってきた。

ところがラテン語文学自体は、なっかなか原文で楽しむようになれないんだな。ラテン語そのものが駅前留学(なつかしい言葉^_^)ほど手軽な分野じゃないってのはあるんだけど。Loeb Classic Libraryの何冊かも、本棚に置いてあるだけ。

「ラテン語はいくらやっても作品を読めるようにならない」というションボリムードがあったんだけど、逸見喜一郎さんの解説本を読んだら、どうも大半の人はそうらしい。

同じ古典語でも、ギリシャ語の方は身につければ作品を読んで楽しむところまではいけるみたい。語学的には入り口せまいけど、できるようになればちゃんと楽しめる人は一定数いるそうな。

一方のラテン語は、そもそも「ギリシャの作品を下敷きにしてる」そうなので、まずその前提がわかってないと、「こう書きました」という作者の意図もわからないとか。

また、ギリシャ語の韻律をラテン語の詩でも再現しようとするから、語順含めたレトリックがとんでもなく複雑になると。

当時の社会情勢も作品づくりに反映されてるし、今まで言ってきた複数の要素が絡み合ってるので、「ラテン語文学おもしろい」に至る道は「ギリシャ語以上」なんだそう。

逸見喜一郎さんのラテン語文学の講釈を聞いて、それで初めて「なるほど、そういう楽しみ方をするんだ」と得心がいった次第。その上で作品読んだら、おおーこれはスゴイと素直に感心したりして。

どこの国でも「文章語」と「話し言葉」の違いは大きいけど、ラテン語の世界はとにかくそれが大きかったのかもしれない。

自然科学や数学に興味を持つと、むかしの学者さんの文章に当たらなくちゃいけないんだけど、その人たちの使ったラテン語は比較的読みやすい。まあ、英語とドイツ語が分かれば何とか、みたいな。中身が科学だから理路整然としてるし。

それが「文学作品」になるとまるで印象違うので、おかしいなーおかしいなーと稲川淳二さんばりに首をひねってきたんだな。

逸見さんの本をキッカケに、大学書林あたりの薄っすいラテン語参考書を念入りに見てみたら、単語の語順がものすごいと分かった。

ラテン語はaccusativeだとかablativeだとか、くっつく単語によって形が変わるんだけど、一行目の最初に出てくるAって単語に付く別な単語Bが、その行の終わりに来てることもザラ。

格変化系の言葉は語順がわりに自由だけど、同じ格変化でもドイツ語とラテン語では自由度が違いすぎ。ラテン語さんの方はフリーダムすぎる。

最近は京都大学の西洋古典文学叢書とかも充実してきたし、またそれを読んで初めて感動したりしてるので、もっかいラテン語やっておきたいなー。

# by ulyssesjoycean | 2019-06-27 12:00 | Comments(0)

トマス・ド・クインシーの『阿片常用者の告白』はタイトルに反して笑えるエピソード満載!

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(「まず書名が良くない」という理由で今の今まで敬遠してきたド・クインシーさん。もともと19世紀のイギリス文学は厚ぼったくて読みきれないという印象あった上に、こういう話を聞かされてもなぁと。ところが現物を読み込んだらなかなか面白く、ちょっと原文でも読んでみたいという気持ちに。これはひとえに野島秀勝さんの訳業も大きいと思うんだけど。ド・クインシー『阿片常用者の告白』は岩波文庫から税込778円で発売中)

「19世紀のイギリス文学はとにかく重厚で楽しむどころでない」という思いが切実にあったので、その時代の作品はビックリするくらい縁遠い。

なんだっけ、由良君美さんの『椿説泰西浪漫派文学談義』でも、猟奇犯罪とか阿片がどうしたという目次だてがされてたし、自分の「19世紀文学ムイテネー」の想いが強まることはあっても弱まる機会はないという。

実際、ディケンズとか英語で読んでもムツカシクて楽しめなかったんだな。自分が「英語で本を読むってオモシロイ!」と感激した体験が、イギリス18世紀の作品だったのもあるけど。

フィールディングの『トム・ジョーンズ』とかロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』とか、抱腹絶倒、自由闊達、英語も簡潔平明リズミカルーー「外国語の本を読む」習慣がついたとしたら、多分に18世紀文学のおかげ。

それが次の世紀になったら、あまりの変わりようにビックリ。あの生命力と天衣無縫はどこに行っちゃったの?という格好で、完全スルーが長かった。

それが近年、「テツガクシソーってオモシロイナー」というところから、多少ともイギリスの19世紀にもポツポツと馴染みが出てきたような。J・S・ミルの『自伝』なんて、あんなに笑った本はないというくらい爆笑。

そうきた流れの中で、「思いのほか話せる人だ」という印象が生まれたのが、トマス・ド・クインシーさん。

まずタイトルからして先入観を持つしかない『阿片常用者の告白』だけど、訳者が野島秀勝さんだからなァ、というので手にしたら、これがけっこうユーモラスな読み物だった。

ド・クインシーさん、遺産相続のゴタゴタに巻き込まれて後見人とかなりハードにやりあったようだけど、またクインシーさんはクインシーさんで、どうにもしょうのない一面あるお人柄。案外抜けてるとか、そんな雰囲気あるし。

で、そういう「どうにもしょうのない」部分を誰より分かってるのがド・クインシーさんご本人。自分のことを書いてるのにまるで他人事のような取り澄ましたトボけた書き振りに、ついこっちも吹き出してしまう。

会って話したらけっこう楽しい人だったかも、と思える人柄が文章から伝わってくるので、タイトルの先入観で読まないできたのは申し訳なかったなと少し反省。

原文はどうなってるんだろう?という興味も湧いたので、読んでみたいなと思う反面、野島秀勝さんが擬古文のようなカタイ文体で訳されてるので、原文は相当な難文なんじゃないかな。

ド・クインシーさんはギリシャ語に超堪能だったみたいだし、古典文学の知識は筋金入りのようなので、そっから出てくる英文は相当のものだろうと思う。

買ってから「うわ! これは大変だ!」となっても仕方ないから、少し網状で原文を下調べしておこ。ジョン・メイナード・ケインズの本とかも、紹介本に感激して原著を購入したら、とてものこと読める英語じゃなかったから(^∇^)

# by ulyssesjoycean | 2019-06-23 12:00 | Comments(0)

「次にくるマンガ大賞」にもノミネート! ゆずチリ『姫乃ちゃんに恋はまだ早い』第2巻は7/9発売予定ヽ(´▽`)/

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(「次に来るマンガ大賞」にもノミネートされた、ゆずチリさんの『姫乃ちゃんに恋はまだ早い』。小学生同士の噛み合わないやり取りが何とも微笑ましい(..◜ᴗ◝..)  はやくも2巻が7/9に発売されるとな!  買わねば)

マンガで読むのは「ほのぼの」「ホッとする」作品ばかりになった最近、読んでると何より落ち着くのがこの『姫乃ちゃんに恋はまだ早い』。

石黒正数さんの『それでも町は廻っている』にも、小学生同士の今ひとつ噛み合ってない2人が出てくるけど(^∇^)、ゆずチリさんのこのマンガもまさにそんな感じ。

ヒメノちゃん(ヒロイン)の暴走(妄想?)に対し、オージくん(小学生男子)が素の反応で返すさまがなんとも微笑ましい。

でもオージくんが素なだけに、自然体でやってることの中で男前ぶりを発揮したり。当人はべつだん狙ってないトコロが偉い!なんて( ´ ▽ ` )ノ

石黒正数さんの『それ町』もそうだけど、何度となく再読してるので、2巻の発売が決まったのは嬉しい。

登場キャラクターも地味に増えてきたこの作品、ぜひ爆進を続けてほしい。あとWEBマンガだから、オンラインでサクッと全話読めます。


# by ulyssesjoycean | 2019-06-22 12:00 | Comments(0)