唐沢俊一氏が、裏モノ日記で、
文字で語るとき とテレビのトーク番組で語るときとでは論というものは性質がまるで違ってくる。テ レビの場合、限られた時間内でこの線に沿って話を盛り上げるという演出上、まず語 ることありきで、データは補助線の役割。今回はとにかく、この補助線上で語るよ、 というワク決めでしかない(しかなくもないが、まあ、しかない)。そこがテレビの 限界であり、また、テレビならではの視点が出て面白くなってくるところでもあるん である。(唐沢俊一 裏モノ日記 6月7日)
「BSアニメ夜話」についてのコメント。こういうタレントならざる人の「テレビ」視点が面白い。そういえば夏目房之介氏も
テレビ的につくられる人格をそのまま信じもしないし、それが本人とまったくちがうとも思わない。両方とも、その人なのである。(中略) 漱石が千円札になった1980年代、僕がマスメディアで「漱石の孫」を演じることに、いわば「あらたな人格」をつくっていく面白ささえみいだすことができる気がしたのは、つまりそういうことだ。むろん、過剰な露出と演出は自分の輪郭をどんどん溶かしてしまうので、うまく制御しないと精神的にアブナくなるが(夏目房之介 漱石の孫 p78)
なーんてつらつら引用してきましたが、とうとう「いしかわじゅん」氏のHP上に、
アニメ夜話は、また収録してるらしい。
はたして、本家マンガ夜話(シロクマ注1)は消滅してないだろうか。
やっぱり終わったんじゃないっすかね。
「視聴者が見たいもの」と
「出演者がやりたいもの」との乖離がはっきりし、番組の長期化による定型化とモチベーションの低下が拍車をかけた、ということでしょうが、「終わってしまった」というのも一つの言い方であって
「マンガ夜話はその役目を果たした」という言い方もできるはずで、少女マンガと少年マンガの「文法」の違い、なんて、そもそも
「マンガの文法」というような言い回しが定着し、使えるようになったのは、マンガにまつわる印象批評を脱却する大きな一歩だったのではないでしょうか。「終わった」と言って私小説的な愚痴を並べるより、功績を讃えた方が生産的な気がする、ということにして逃げておく。
注:マンガ夜話(まんがやわ)。NHKBSが誇る日本一の教養番組、であるかどうかは知らないが、「ただ読んでいた」マンガに「なんとなくではない」読み方を、書き手側から発信してくれる唯一のテレビ番組ではあったわけで、この番組によって夏目房之介・いしかわじゅん・岡田斗司夫の名前が記憶に残り、その後のマンガ論の土台を作った、というかマンガ論なんてものの存在を認めた、などというのは少々口幅ったいが、事実そうである点は大いに評価できるが、こういう番組に対していまだに「批評なんてものは必要ない」という意見が散見されるのは困ったもの(存在を否定しちゃあいかんよな)。