先日のカルチャーセンターではないけれど、知ってしまったがゆえにかえって煩悶するというジレンマのひとつがコレ、
「活字ルネサンス 詩人・吉増剛造×写真家・港千尋」(日経新聞2009/11/23より)。
開催は12月9日ということで、詳細はこのリンクかららしいけれども、うーんと唸るだけ。
吉増氏はもちろんのこと、港氏も卓抜な論者――という印象があったので(一冊しか読んでないけど)、先日のレヴィ・ストロース物故の際には追悼文まで書いていた。
批評家かと思っていたけど、写真家なのね。
「写真家」という言葉には奥行きの計り知れないところがあるらしく、美術史の延長線上――という感じで話を進めていたら、それとこれとははっきり違う由、仔細は省くけれども、大いにたしなめられるところがあったので反省することしきり。
言葉の世界であれば、ある程度以上つっこんだ話でも大丈夫だけれど、ヴィジュアルの世界の、しかも職人的に特化した分野だという印象がなかったので、これははっきり認識不足だった。
そんなガッカリ話をしてもしょうがないし、聞く方でも困るだろうから
「言葉」の分野に矛先を変えると、悪筆で悩むのは洋の東西を問わないみたい。
こっちも相当な悪筆で困っていたから、その気持ちはよく分かるし、広いスペースに日本語を縦書きするときはまだしも、横文字をキレイに書くのはほとほと難渋する。
「練習しましたから」というのは
「Je me suis entraine」(*アクサン省略)とその場で教えてもらったけれど、上手い人の字を模写する――この
「模写」が出てこない。
さーてなんていうのかな――と思って最初に出てきたのが
「imitation」だったけれど、どーも違う。あとあと調べたら
「copier」で、なんだ、こんな簡単に言えるのかーと、目からウロコ。
できることなら先生について洋式の習字もしてみたいところだけれども、そううまくはいかないので、これもなんか考えてみよう。
そこから冒頭の吉増剛造氏に戻っていくと、こっちの字は、氏の臨書(模写)だもんね。見た瞬間に
「これだ!」と思って、一生懸命練習したなぁ。それにまた、そうするのが少しもイヤでない。
でもそうやってしばらくすると、その字体とはビミョーに形が変わっていくので、へぇ~と思ったな。自分で書いてるのに(笑)。
(ちなみにキレイな字は「bonne ecriture」と言うそうです。でもいま辞書を見たら、「belle ecriture」ともなっていたな)