先日紹介したアートと視覚光学をつなぐ、
セミール・ゼキ、
ドナルド・D・ホフマン、
リチャード・グレゴリーを読んでみたが、この三人の中では、ホフマンの仕事が一番新しい知見があり、興味をそそられる。グレゴリーも悪くはないんだけれども、「新しいものを見た」という感じは別段しなかったな(入門書としては良いと思う)。ゼキはというと、前評判とは裏腹に翻訳が悪すぎてとても読めたものではなかった。翻訳がいい、なんて大嘘の皮もいいとこ。
ホフマンの著書
『視覚の文法』は、
見ることにまつわる能力(Visual Intelligence)が、どれだけ複雑なことで、
「見る/見える」ということのプロセスを、
「ものが見えるなんて当たり前」という読み手の既成概念を崩しながら、基礎理論・法則を、症例やCGを引用しながら一つ一つ組み上げていく、といったもので、文章は読みやすいのだが、速読して大まかな流れを掴むのは難しい、といった体(てい)をなしている。ただ一冊読むと相当勉強になることは間違いないが。
それにしても、翻訳というのはつくづく恐ろしい。ゼキの著作も、原著はオモシロそうなのだが翻訳で台無し、その反対に、ホフマンは翻訳と本文・図版デザインのおかげで興趣あふれる仕上がりになってしまっているわけだから。
よく翻訳の文章なんて内容が分かればいいんだ、ということをおっしゃる方がいて、それには何らかの根拠があって言うのだろうけれど、こっちからするとても信じられない話である。ただ翻訳に限らず、言葉というものについてあれこれ言い出すと、福田恒存氏の言う如く、「人は自意識過剰になる」ので、これはよくよく注意しなければならない。気をつけよう。
ちなみに
錯覚視学・トロンプ・ルイユ(Trompe L'oeil/だまし絵)などに興味があれば、
鈴木光太郎(すずきこうたろう)氏の著作・翻訳書をオススメする。
自然科学や数学パズルからの興味であれば、
マーティン・ガードナー(Martin Gardner)が良いだろうと思う
。『自然界における左と右』とかね。ガードナーは文学関係でも「詳注・アリス」(東京図書)や、翻訳はされていないもののジョイスについてエッセーを書いていて、こういう自然科学よりの多芸な人を、ヴァーチュオーソ(Virtuoso)と言うんだそうである。