(何度となく名前が出てきたけれど、その度になぜか関心わかなかったノースロップ・フライの『批評の解剖』。漱石の『文学論』と並べて紹介されていたので、そういえばというので手に取った次第。法政大学出版局から今も再刊されてるみたい)
本とは出会うタイミングあるみたいで、ラブジョイさんは読んだもののスルー、ひどい時には読む本としても意識すらしてないものものあったりして。
自分の場合はノースロップ・フライの『批評の解剖』がまさにそれ。ホッケ『迷宮としての世界』と同年!と、各種タカヤマ本に記載されていたのに、なぜか「手に取ってみよう」とは思わなかった。実際、なぜだろう。
というのも、今回はじめて目を通す『批評の解剖』がメチャメチャ面白い。訳文からも気合が感じられて、ユニベルシタス叢書イチの日本語じゃないだろうか。やっぱりタイミングってあるんだなとシミジミ。
タカヤマ御大の『アレハンドリア』を読んでたら、夏目漱石の『文学論』と並べてこのフライの一著が語られており、明治時代と1950年代カナダで「人文不要」の最中に書かれたものだという。
そうすると、もうフライ先生の気合も納得というか、この人は何か大変なことに取り組もうとしてるという雰囲気が序文からビシビシ感じられる。一方の漱石さんはそれでおかしくなってしまったぐらい、なんかすごいことに取り組んでるな!と。
最近読み始めたシュレーゲルの『ロマン派文学論』を見てもそう思うんだけど、案外こういう「背景知識」って大事だな、と。シュレーゲルさんの本も、パッとこれだけ手渡されたら面白いと思えたかどうか。
ところが、西脇順三郎さんがボードレールの解説をする際、頻繁にこのシュレーゲルの名前を出す。ボードレールさんが大事にした「イロニー」という思想は、シュレーゲルさん由来なそうな。「ありえないこと」と「ありえそうなこと」を「想像の中で」並べてみせるというやつ。
そうやって見ていくと、ははぁ、ボードレールさんはこの辺を自分の作品に活かしてるんだな、という箇所がいっぱい見つかる。裏を返せば、「西脇順三郎さんのチャート」のおかげで「楽しみ方」がわかったというか。
で、最近、全くの別件でゲーミフィケーションという舌をかみそうなジャンルを実践・導入してみたんだけど、これも結局「チャートのある・なし」が大事みたい。チャートというか、ワールドマップ。
「いま自分がどの辺にいて、こっちに何があるか」が大まかにでも分からないと、RPGどころの話ではないという。だってどっち行っていいかもわからないんだから。で、マップがないとリニア(直線)に進むしかなくなるので、たいへん窮屈な冒険スタイルに。
考えてみると、地図ってのもずいぶん色々あるなぁと思うし、それ自体が「世界の見方」なんだろう。実際、書いてあることのムツカシサとは別に、「この人はこの辺にいて、こういうことをやろうとしてる」というのがスッと見えると、一気に面白くなる。
ーーというのがノースロップ・フライさんの『批評の解剖』という感じ。序文の「これはただごとでない」感がハンパないので、思わず原書も読みたくなってしまう(ので、積ん読が山になるわけだけれども^_^)。