(脳内Googleに一度もヒットしない人名として、異色の法哲学者Robert Nozickを知る。モーゲンベッサーといい、法哲学にはとんがった人がたまに現れるんだなー)
最近は経済と哲学が一番学んでいて面白い分野になったけれど、Nozick、誰それ?と。その人名を全く耳にした覚えがない。
フツー、どんだけマイナーでも「なーんか見覚えがある」くらいはあっていいはず。法哲学に馴染みないせいもあるだろうけど、それにしてもノーマークだった。
モーゲンベッサーという反骨の法哲学者がいたのは知っていて、また実際にしょうもないことばかり言っていた喰えないジジイだったそう( ´ ▽ ` )ノ
なにしろユダヤ人に生まれてユダヤ教のラビを目指したものの、信仰を棄てて哲学者になったというから筋金入り。これは侮れないジジイだ!的な(^∇^)
晩年は難病を患い、「神はなぜこれほどまでに私を苦しめるのか。信じていないからか」と発言したそう。
こういう愛嬌のある爺さんが昔から好きなのでスパーンと脳みそにインプットされたけど、本題のRobertさんは残念ながら存じ上げない。
ところがそういう人に限って面白そうなことを言ってたりする。アナーキズムまで行かない最小国家というものを考えたそう。
で、見ていくとNozickさん、個人はみんな違うだろ、というのを軸にして話を展開してる雰囲気。
寅さんじゃないけど、この世に自分と同じ人はいない。みんなそうである。で、個人個人が全く違う人間なのに、一律に「平等」を押しつけるのは実態に即してない、云々。
それでつい、「法哲学のデイヴィッド・ヒュームみたいだな」と。ヒュームさんは因果関係なんてない、あるのは経験だけだとバッサリ。
実際、石ころにしても太陽にしても、「昨日と同じ」石ころや太陽ではない。1日ぶん時間が経過してる。
今までそうだったからと言って、なんで次も同じことが起こると断言できるのかーーといったことをヒュームさんは主張していて、詳しくは中公クラシックスの『人性論』をお読みいただきたい。
人間にしたって、年齢性別身長体重生育環境、漢字ばっかりになってしまったけど、実際ふたりと同じ人はいない。
それなのに、平均や基準値といったものを判断のモノサシにするのはおかしかないかとヒュームさんに言われれば、たしかにそうだなぁと。
敬愛するバーバラ・スタフォード先生は、何もかも違っているからこそ人間は類似に目を向けるノダと、さらに気の利いたことを言っていてなるほどと思わされる。
ただヒュームさんの指摘で、ケーニヒスベルクでよく散歩してた人が大きなショックを受けたり、そういう「攪拌作用」があるのかも。
で、くだんのNozickさんも、最初からそういう効果を狙ってた雰囲気。あえて極端な例を持ち出したり、かと思えばカンタンに否定はできない議論をしたりと、とかく厄介。
ヒュームさんも、こんなこと言ったら大変なことになるなとわかっていながら、やらずにいられないあたりに感動を覚える。
実際のヒュームさんは大変気さくな人柄で、案の定Atheistとレッテル貼られてしまったけど、Atheistと罵っていた友人のお母さんがヒュームに会ったら、「あのヒュームさんだったらいつでも家にお呼びなさいな」と言うくらい、人間味ある人だったそう。
だから、という論法もオカシイんだけど、Nozickさんはどんな人だったのかなーと興味を持ってしまう。たいへん精悍な面差しで、好感を持ってしまった面も(^∇^)
ヒドイ話で、ハイデガーは「顔が好きになれない」という一点からスルーしてるので、それを思うとNozickさんが余計気になる。
関心の順番で言うと、経済(ものを買ったり売ったり) → 哲学(考えるってなんだろく) → 政治(人が3人以上集まった時にどうしよう) → 最後に法律なので、気が向いた時に確認するようにしたいです( ´ ▽ ` )ノ