(漱石読者の中でも評価が分かれる『文学論』。名前のよく似た『文学評論』は愛読者も多く、イギリス文学の小林章夫さんも名前を挙げてらした記憶が。自分は「人物・人柄」の方面の漱石さんに興味あったので、いまだに手にしたことない。むしろ手にしたものの忘れてしまってる可能性大)
山本貴光さんがかねてから注力してらした夏目漱石の『文学論』論、ご本人のツイートでも出版を控えて最後の仕上げといった様子。
自分がこれまで「あんまなー」と思っていた自然科学やプログラミングをかじってみる結果になったのは、山本貴光さんの存在が大きい。
理系文系という分け方はどうなのよ、という話はいつの時代にもあるけれど、その両方を同じくらいのエネルギーで扱うのはなかなか。
というより、最近シミジミと思うんだけど、工学的な「仕組み」(作動原理、力の伝わり方)が、自分の脳ミソにスッと入ってこない。単に入門段階だからだ、という話はあるにしても。
一方で語学は当初からのめり込んだ部分だし、語学をやること自体に抵抗感はあまりない。それでうーんと思うんだな。
プログラミングもそうだけど、「もののしくみ」が理解しやすい人と、「ものの形態」(見た目、綴り、色形、類似性、音声)が理解しやすい人に分かれるのかなー、とかとか。
で、山本貴光さんは「ギリシャ語の読めるプログラマ」という稀有な立ち位置から、おそらくご自分なりに両分野にアプローチしてこられたので、「後から来る人」が参考にしやすいのかも。
そういった意味で、自分がもともとあんま得意としてない文学者としての夏目漱石像が、また違った見え方になるのかなと期待している次第。
愛読してやまない吉田健一なんかは、夏目漱石に対してケンモホロロな扱い、また痛快な書き方をするものだから、読んでるとこっちもその勢いにつられてくる。
それでいて、吉田健一作品に幅広く目を通してると、批判するわりにやたら漱石を論じてる箇所が多いので(^∇^)、あれ? 認めてないんじゃないの?という気分になってくる。
自分なりの結論としては、これ、「同族嫌悪」なんじゃないかなーと。吉田健一さんの中に夏目漱石さんと根本に通じるものあって、それで批判が痛烈にもなるけど、同時に何度となく取り上げちゃう、みたいな。
吉田健一作品はどれもスッとぼけた雰囲気だけど、若い頃はそれどころではなかったらしい。ドストエフスキーを世界一えらい小説家と思っていた、何事にも妥協するのが嫌いな潔癖なこの東洋の青年は、みたいな自分像が出てきたりする。
夏目漱石さんの方も、先日たまたま『坑夫』を読んだらこれがメチャメチャ面白かったので、あらためて「どんな人だったのかなー」と関心が再燃してる面も。
山本貴光さんの『「百学連環」を読む』は、これはスゴイぞ!と読みふけっただけに、ニシアマネさんと時代が被ってもいなくない夏目漱石さんの『文学論』論はどんな手つきになるのかなーと楽しみにしている。
楽しみということでは、文学論論というタイトルをどうされるのかな、ということが気になってたりもするんだけど。文学ロンロンというのも、上野のパンダみたいで捨てがたいのだけど( ´ ▽ ` )ノ