見たことのない者と、その世界を分かち合うのは難しいさ(アニメーション『蟲師』 第一巻)
この世の
「いる/いない」を分けるのは、
「見える/見えない」だけが焦点であって、それが実在するかどうかというのはさしたる問題ではない、というのが視覚文化のキモである。
「見える」ことをテーマにして突き詰めていくと、ヨーロッパで発生した
「博物学(natural history)」という分類に向かうけれども、当然その反対に
「見えない」ことをテーマにした世界もあって、それが
伝奇ものというジャンルに落ち着く。
愛読してやまぬ
『百鬼夜行抄』から
諸星大二郎の作品群、新しいところでは
『もっけ』『蟲師』など、これ全て
「見えない」はずなのに
「見える」、だからこそ
「いない」はずなのに
「いる」という話である。見えないものにとっては
「いない」けれど、見えるものにとっては
「いる」―――それを考えると、マンガというのは伝奇ものをやるのに最も適した媒体かもしれない。
分類大好きヨーロッパの方々も、19世紀にカメラが登場して
「あちらの世界」に関心を持つようになる。
コナン・ドイルや
ルイス・キャロルが、カメラという最新機器を使用して
「うそ心霊写真」作りに熱中するのは、この時代。何も二重露光のトリックまで使ってやるこたないよなぁ、と思うが、
「見えない」ものは何が何でも
「見える」ようにするというヨーロッパ人の執念。
なにもあちらだって最初からキリスト教だったわけではなく、
土着の精霊文化のようなものは根強くあり、
ケルト神話なぞその宝庫といった感じさえする(
W.B.Yeatsの『Short Fiction』は傑作!)。ものの本によると、キリスト教の
三位一体「父と子と精霊」というのも、実はそういう流れをくむものらしい。
この
三位一体(trinity)という概念はあちらの人でも説明に苦しむらしくて、スペインの宣教師がペルーの人々に説明しようとしてこう言ってしまったそうである。
三位一体と申して、三人の神があり、そして一人の神があり、それ故に合計四人である。 (吉田健一 『酒に呑まれた頭』 ちくま文庫 p21)