(文系と理系がどうした、と言いながら、スノーの『二つの文化』を今の今まで未読だったということにハタと思い当たる。断片的な引用は頻繁にされるけど、現物を手に取ると全然ちがう話だったりするしな(^∇^))
1950年代にドトーのモンダイ提起になった、スノーの『二つの文化』。文系理系モンダイに切り込んだ視点の一冊。
ところがその評判ばかり聞くものだから、ずーっと未読で来てしまった。今回大きなデータがどうした、という本を読んでたらスノーの話があり、「そういえば」と思い出した形。
ちなみにスノーさんのこの本を網で引いてみると、Two Cultures?のクエスチョンマークのついた本も見つかる。なんだろう?と思って著者名を見ると、F. R. Leavisの名前が。
バリバリというよりはゴリゴリの批評家で鳴らしたリーヴィス先生。由良君美さんとかジョージ・スタイナーに興味を持ってたころ、やたら名前を見かけたのがこのリーヴィス先生。
その後、一回くらいは原書を手にした気がするけど、そのゴリゴリっぷりについていけず放り投げてしまった気も。少なくともその後も再読する形にはならなかったなー。
スノーさんは理工系の教養を持った上で以上の書物を書いたわけだけど、リーヴィスさんはゴリゴリの文芸派だから、この反論書もなんだか凄そうだ。
理系と文系は「アプローチが真逆だから」「両方とも学ぶのはドエラク大変」というのが今現在の自分の心境。
合ってるかどうか分からないという前置きをして言うと、リケー方面のアプローチは:
「モンダイを細分化し」
「小さなものから順番にもれなく処理して」(ボトムアップ)
「それを法則化する」
ことにあるかな、と思うんだけど、一方のブンケー方面は:
「全体を俯瞰し」
「全体像を大掴みに処理して」(トップダウン)
「分かりやすい言葉にする」
じゃないかな、と。
前者は細部の積み重ねから全体に至り、後者は全体を把握してから細部に降りてくるという、真逆のスタンス。
で、「語学人」(*自称)からすると、「理論的な細部の分析」は全体の10〜20パーセント、あとは「今までのインプットを蓄積したデータベース」が80パーセントという感じ。
とにかく大量のデータベースから「例」を引っ張ってきて、それをつなげ合わせる。で、つなげ合わせたものを「間違ってないかな」と確認するのに「理論アンド分析」を使う、そんな印象。
多分この、「大量のデータベース」を作るのが、「理論アンド分析」より優先されるということが、どーしても納得いかないんじゃないかなー、というのが昨今の心境。
自分が数学とピコピコをやり始めた時、「全てのことを細分化する」というのが、面倒で面倒でやり切れなかった。それまで「大枠を掴む」ことが何より大事!と思ってた面があるので、細分化がツライのなんの。
その反対に、語学に代表される自然言語キツイは、きっと「質より量で、大量のデータベースをまず自分の中に設置する」のが大変なんじゃないかなー。これは「理論と分析」を重視する人には、自分が細分化するときに感じた抵抗と同じものがあるだろーー
というのを考えてはいたけど、そこで煮詰まってたきらいあるので、そうだ、スノーさんのこの本を読んだことなかった、と思い至った次第。
何らかの補強でも発見でもあれば嬉しいなぁ。なんか引用で目にするばかりで半分読んだ気になってた気すらしてたから(^∇^)