(吉増剛造さんの講演で名前を知って以来、今の今まで読む機会のなかった詩人の大手拓次。このところ「合理性のカタマリ」とでも言うべきピコピコや数学ばっかりなので、その反動で「想像力でのみありえる世界」にキョーミが湧いたんだと思う。『大手拓次詩集』は岩波文庫から税込1,026円にて発売中)
好んで詩を読むタイプではないんだけど、まーリクツと合理性、論理性のカタマリばかりやってると「そーでない世界」にアンテナが向く。
愛読するようになるまで長かった吉増剛造さんというキテル詩人さんがいるけど、その人が激賞してたのが大手拓次。
そんな人いるんだとビックリしたけど、まー初めて名前を耳にするくらいだからそうそうカンタンに本が手に入らない。その講演で名前を聞いた小林正樹監督の『怪談』も、見るまでに相当アチコチ回ったな。
で、大手拓次さんの詩集をやっとこの2019年に手にしたら、まーこれがまた「どうかしてる」。
吉増剛造さんは、折口信夫の讃仰者を名乗るくらいの大ファンだけど、大手拓次の日本語も折口ばりに独特な響きがあって良い感じ。音読すると良さそう。
「遠い昔の夢の断れ片(きれはし)」は折口信夫だけど、「ゆふぐれのさびれたたましひのおともないはばたき」が大手拓次の詩の一行。ふしぎーな響きがある日本語だなぁと、つらつら読み進めている。
「つらつら」と書いて思い出したけど、大手拓次さんはこの手の擬音・擬態語の名人みたい。「どしどし」を「あるく」にあてたり、この辺りの妙に吉増さんは参ったのではないだろうか。
巻末のあとがきその他を見てみると、北原白秋や萩原朔太郎が一文ものしている。朔太郎さんもボードレールに影響を受けたようだけど、大手拓次はボードレールをフランス語で読むだけ、日本語の詩文は一切読まなかったそうな。
萩原朔太郎が大手拓次のところを訪れると、日本語の本がぜんぜんなくて、あるのはフランス語の原書だけ、読んでるのはボードレールとサマンだけ、それも全く衒いなくそう言ってのけたのでビックリした云々。
そのくだりを読んでて思ったのは、「サマンって誰?」ということ。それなりにフランス文学史も眺めたつもりだったけど、「サマン」という名前は初めて聞いた。
外国の人名を昔はぜんぜん違う読み方してたりするから、「サマン」もその仲間かなと思ったけど、思い当たる名前がまるでない。西田幾多郎さんの本に出てくる「モンテーン」が「モンテーニュ」だというのは割にすぐ分かったんだけど。
仕方がないのでグールグル先生に尋ねてみたところ、Albert Samainというフランス詩人らしい。聞いたことないなぁと思って仏国密林で引いてみたら、GallimardやFlammarionなどから新本は一冊も出てないみたい。
それこそ、神田神保町の田村書店2階にあるような年代物のフランス本しかサマンの本はないみたい。ボードレールとは扱いがえらい違う。
あとは単純な話として、萩原朔太郎さんも大手拓次さんも、どーやってフランス語の詩を読んでたんだろう。大手拓次さんはフランス語の原書オンリーだというから、東大仏文・辰野隆門下だったりしたんだろうか。
中原中也と小林秀雄を主役にした『最果てにサーカス』というマンガを激ホメしてるけど、時代的にその後なのか前なのか。
『最果てにサーカス』の中で、賢治の春と修羅がどうした、という新刊詩集をサカナに中原中也と小林秀雄が議論するとこあるけど、そういやこの辺の前後関係はサッパリだな。
その当時、フランス語の扱いはどんなものだったんだろう。中原中也はアテネ・フランセにも通っていたとかいないとかだから、どんな学習法をしてたかキョーミあるんだけどなぁ。