(自分の絵の師匠・小林七郎さん。もちろん直接教わったわけではなく、著作を片手に独学したので、こういうのを「私淑(シシュク)」と言うそうな。とにかく「正方形をフリーハンドで正確に描ければ良い」という明確なスタート地点が大きかった。ただその『アニメーション美術』は絶版、プレミア化してるみたい。惜しいなぁ)
「なーんで本を読むのは面白いのかな」ということをたまに考える。もっと言うと「なんで自分には面白く感じられるのかな」ということ。
というのも、つい最近まで、「本を読む」ことを最大の苦痛に感じている人がこんなに多いとは知らなかった。
有名どころだと、父子で同じ名前の大のつく棟梁さんの子供の方(*説明長い)が、読書に対して大きなコンプレックスを感じ、その重荷で相当苦労したそうな。
最近よく聞く「Dyslexia」とも違うんだな。Dys〜の方は「記号としての文字を読み取る」ことにハードルがあるものなので、「本を読むのがツライ」とはまた違う。
なんだっけ、クリント・イーストウッドさんが小学生のときにそれで困ったそうな。左利きだったのを、右手でペンを持つように矯正された結果、脳が混乱して一時的にDyslexiaに陥ったそう。
では翻って自分のことを考えてみると、なんで本を面白いと思うのか、これはまた厄介な話なんだな。
だって「本を読むのがツライ」という人は、Dyslexiaでないとしても、それなりの理由あるはずだから、それをドン無視して「面白い側の意見」だけ突きつけるのはなんか違う気がする。
それで最近になってやっと思い至ったのは、
本を読むのが面白いのは、変化の対象が「自分自身」だからだ
ということ。
よく言う「タイクツする」とか「なんか面白いことないかな」というのは、周囲にあるもの(外界)が自分に刺激を与えなくなってしまった、ということに起因すると思うんだな。
なんだっけ? コーヨー逓減仮説とか言うんだったかな、ベルヌーイさんがそんな表現に近い理論を考えてた気がするんだけど。要は「刺激は前と同じでも、繰り返すうちに満足度が下がっちゃう」というやつ。
ベルヌーイさんの理論を持ち出すまでもなく、繰り返すうちにあんま楽しくなくなるという心境はよく分かる。自転車で一番嬉しかったのは「乗れるようになった瞬間」だったりして。
そのことと「本を読む」を対比して考えると、本を読むと「自分自身に影響が出る」から、それで「飽きない」=「面白い」となるんじゃないかなー。
例えば、冒頭の小林七郎さんのお陰で絵を描くようになったけど、やってみてビックリ、「以前とはモノの見方が変わった」ことに気づくんだな。
それまではまさに「マンガを読むことにも飽き」が来ていたんだけど、「絵が描ける」ようになったら、マンガに描かれてる情報に気づけるようになった!と。
読んでるマンガは「モノ」そのものだから何も変化してないけど、それを読む「ジブン」が変化したので、「すごい! マンガってこんなことが書いてあったんだ!」と大感激。
本を読むことは全てその調子で、影響の大小はあるにしても、「自分に影響を与える」( ≒ 自分が変わる)から面白いんじゃないだろうか。
近年はピコピコingにドップリだけど、その考え方が身につくと「今まで考えもしなかった発想法」が手に入るので、まずそのことに自分がビックリする。
本を読むのが面白いのは、変化の対象が「自分自身」だからだ
を言い換えると、
自分が変化したことに自分がビックリするので面白い
と言えるのかも。単に新しい情報を摂取してるだけではないのは、この点にあるのではと思ってるんだけど。
とりあえず「オモシロ側」の仮説は手に入ったので、あとは「キツイ側」の理由も分かるようになると、キョーヨー主義的な話から、もっとちゃんとした話になるんじゃないかと思うのでした( ´ ▽ ` )ノ