シェリフは燦爛(さんらん)たる満足をおぼえて瞳を閉じた。すぐそばでは焚き染めた香が芳ばしい煙をあたりに撒いており、そのせいであろう、ほどなくして眠りに落ちた。眠るうち、丘陵を目指して自分が旅しているが、進めば進むほどその丘は遠ざかっていく、すぐさま、その光景は変じて、水が照り返す泉のそばに、年老いた男が座し、その姿は実に搢(しん)紳(しん)としたものだった。その容貌(かんばせ)には憂いがありありと見え、手に書物を携えている。その夢の中でシェリフは、男がこういったように思えた。
我はシナイの山をいただく無辜の地に在りて
無花果とオリイヴにその身を焦がす
この人を識る 眉目好き肌(はだえ)のその人を
卑賤のうちに身を窶(やつ)す 行い正しく信ずる者
賜りしその恩寵 消えること無し
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目が覚めると随分と時が経ち、モスクは空(から)になっていた。真珠で飾られた説教台(ミンバル)が微光を発し、それで東天を見ると日が沈みかけているのが分かった。衣文(ハイク)で覆った姿は生命を感じさせず、漫遊する隠者(マラブー)は遁世(とんせい)の存在に見えて、その人物がどこかへ行ってしまってから、シェリフはあの夢が意味するところは何なのか、訊いておけばよかったと思った。
外へ出ると随分涼しい。
この一帯では、ヤシの木がその枝を綿羽のように黄金色の空に伸ばしている。親族の家はバブ・アズーン通りの角に在った。この街のどの通りより、乞丐(こつがい)が多い通りだ。蓋しシェリフは急いで家に帰ろうとは少しも望まなかった。モスクの中庭を散策していたい、その中央に葡萄が影を落とす噴水があり、それが炳乎(へいこ)とした音をたてている。端を縁取る青シダの瑞々(みずみず)しさは譬えようもない。四方から巡礼者がやってきてはこの水を味わっていくが、それというのも肺病の特効薬になると考えられていたからだった。しかし何といっても不可思議なのは黄金色のハトがたった一羽きりで尖塔(ミナレット)に住んでいるということ。折々、管理人が塔の扉を開け放しにしておくことがあるので、そういう時シェリフが登っていけずに困るということはまずなかった。都市(まち)中の屋上を見渡すのに丁度良く、その遥か向こうには砂漠が見えて、それも早朝、太陽が夜明け時の朝露の合間から隙(すき)漏(も)れてくる。寝そべりながら、雲がゆっくりと浮き上がってくるのを見ると、マッカについてあれやこれやと奇想が思いつくのだった。真昼から、地平線上に青々とした蜃気楼が立ち現れ、海を思わせるような幻想が呼び起こされるということも、ないではなかったのである。
(http://www21.ocn.ne.jp/~newlife/x14.JPG)
訳注:聖地メッカは、発音に忠実にマッカとした
コーランも同様にクルアーンとする