「世界史やり直し」がスタートした結果、やはり自分の主たる関心は「歴史」にあるのだなぁと再認識。
ところがこれが世間一般に言う「歴史好き」かというと、どうも違うっぽい。「歴史好き」で括られる話を見ていくと、基本的にはキャラクターが大事な気がする。
それこそ、自分にビシッとくる歴史上の人物がいて、その人のファンになる感じか。
「大統領」とか「とても珍しい宝石」の名前がついた雑誌があるけど、あーいうので取り上げられる武将のみなさんも、そうしたキャラクター的な位置づけと思える。
じゃあこっちの歴史に対する関心は何か、どのへんが面白いのかというと、「はじめてものがたり」なスタンスだろう。
要するに、現代にあって当然なものも、「誰かが考え出した」ものだと分かるのがオモシロイんだな。例えば毎日使う「箸(はし)」だって、誰かが考え出したわけでしょ。誰が作ったか、知らないけれども(^∇^)
言葉だったら「語源」があり、制度だったら「発案された時代」があるわけで、自分が知ってることをチョイと揺さぶられる感じがオモシロイ。
好奇心とは何かを心理学からアプローチすると、「知ってて知らない」部分が一番反応しやすいのだって。
「全く知らない」では興味を持つ取っ掛かりがなく、「ものすごく知ってる」ものは驚きに出会う確率が低いと。
そんなことで言うと、歴史はとりあえず「今あるもの」と「昔あったもの」の差がハッキリするので、好奇心を刺激されやすいんじゃないかな。語源なんかは特にそれを感じる。
今でこそ周辺に各種の辞書辞典が転がってて、中には通読(!)するくらい惚れ込んだものもあるけど、そんな辞書好きになるキッカケは「ラグラン袖」だった。
洋服のカットの仕方で、肩まわりが緩やか。それを「ラグラン袖」と言うと教わって、なにかのタイミングで辞書を引いたんだな。
そしたら「ラグラン袖は、ラグラン将軍にちなむ」とあってビックリ。ええっ、ファッション用語じゃなくて、将軍だから軍人の名前だったんだー!なんて。
小さい頃は「辞書を引きなさい」と言われると、「ことばのいみをしりたいんだから、そのばでおしえてもらったほうがはやいじゃん。へんなの」と思ってたフシが。
もちろん辞書には「意味がわかる」という意味合いもあるけど、「知ってるつもりだったけど、知らないこと」が書いてあるのが面白かったんだな。それで辞書の世界にのめり込むように。
言葉の歴史は辞書に詰まってると言えるけど、ニンゲーンがアレコレ考え、またやらかしたことの数々を見っけることができるのが歴史なんだろう。
それでいうと、ヘロドトスの『歴史』とか、ショージキ言って読んでオモシロイもんじゃないけど、エジプトのミイラ作りの話は良かったなー。
古代エジプトのミイラはそれこそ『和風総本家』扱うようなたぐいの職人技術だったみたい。それこそ方々に「ミイラつくります」という工場があって、産業になってたそう。
で、当然ショーバイなわけだから、ミイラ作りにも色んなグレードがあって、王侯貴族ならコレ、お金持ちならコレ、一番お安くできるお手軽のミイラパックはこちらになりますーー
そんなのを大昔にまじめにやってたというのが、そこはかとなくおかしいんだな(^∇^)。ミイラ作りにも「松竹梅」があったのね、なんて。
そういえば自分にはそうしたシュミはないけど、世の中、神社仏閣、名所旧跡を巡るのが好きな方も多い。
自分にその楽しみがないのでお話を伺ったら、「自分が立ってるその場所を、1000年前に人が歩いたんだ」というのを体感するのがオモシロイらしい。
そういう視点が自分にまるでなかったので、「そうか!」とものすごく腑に落ちたな。いま自分が歩いてるこの場所を1000前の人も歩いたのだ、と追体験するのはなんかスゴイ。
西田幾多郎先生のご本にいっとき随分のめり込んだけど、先生のおっしゃることに、数学と真反対の対応をするものが歴史なんだと書いてあったな。文学や哲学じゃないんだ、と。
そういえば日本の古文に親しめるようになったのも、いわゆる「古文常識」がわかったのが大きいナー。小西甚一先生のご本で「平安時代は布団がなかった」と知った時は驚いたもの。
そんな次第で、やっぱり歴史は、というか、「歴史的な観点からアプローチする」のはオモシロイなと再確認したのでした。そんなお話( ´ ▽ ` )ノ