『蟲師』第五巻はアニメーションとしてのオモシロさもさることながら、なぜここまで
「土地(里)」というものにこだわるのか―――という意味でもオモシロイ。
たとえば
『七人の侍』では、村の周縁にある家が、このままでは野武士の餌食だから―――というので引き移ることを勧めても、ガンとして聞き入れない。要するに
「野武士に殺される」ことと、
「土地を手放す」ことは、全くの等価値だということになる。
では仮に、土地を手放したらどうなるのか。あとは
「旅」をするしかないわけで、旅をして暮らしているのは
芸人か
凶状持ちのヤクザということになる。ヤクザは別名
「渡世人」ともいって、
「世を渡る人」だから、これはまんま
「旅人(traveller)」。こっちが愛してやまない
勝新太郎の傑作
『座頭市』は、まさにそういう世界だった。
そういう風に
「旅人」は
「外れて」しまった人なわけだが、逆にどこへでも入っていける存在でもあったようで、
『座頭市』なんかを見ていると、旅籠(はたご)の人間が宿泊客の殿様に直接会うことははばかられるが、
「おお、あんた『あんまさん』かい、じゃあひとつ殿様のところへ行ってもんでおくれな。お礼ははずむよ」という風に、一面では手厚く歓待されていたフシがある。
勝海舟のロクデナシ親父・
勝小吉(かつこきち)の自叙伝
『夢酔独言(むすいどくげん)』(平凡社ライブラリー)はとてつもなくオモシロイ読み物で、読んでいないとしたら生涯の不幸だが、この中に、さんざんどうしようもないことをやったあげく、15歳にして乞食になる話がある。
「もらって歩く」とはよく言ったもので、乞食とは言い条、けっこう食うには困っていない様子があり、それが関西(上方)まで行くと、風俗が変わってしまって
「もらって歩く」ことが出来なくなり、仕方なく帰ってきた―――というのは、なにか
古今亭志ん生のどうしようもなさに通じるものがあるが、
「旅」というものの一面を知る上で、なかなかに意義深い。
そこでふと気づくのだが、
「旅」をしても食っていけるのは、
「芸(ars)」があるからである。座頭市は
「あんま(マッサージ)」でもあり、
バクチ打ち―――勝小吉はぶったまげるくらい剣の腕が立つから、用心棒もできる(のだが、自分で道場をやったりはしないからスゴイ)。そういう意味では
『蟲師』に登場する
「里に縛られた人たち」には
「芸」を身につけている人が殆どいない。つまり
「土地」だけが偽らざる
「全財産」であり、それこそが
「アイデンティティー」、つまり
「その人をその人たらしめる」ものだということ。
そして何より驚くのは
「これは昔の話」では全然なくて、現代でも全く同じ価値観が働いているということ―――やはり
「土地への執着」と
「世間」というのは、自分の顔や身体に対する不満みたいなもので、ある一面どうしようもないものかもしれない。その意味でも、
「世間」というものに着眼した歴史学者・
阿部謹也氏の慧眼はいくら賞賛してもしたりない。なかなか
「『世間』論」が広まっていかないのが悲しいけれどもね。