『三匹のこぶた』で知られる喜劇作家の
飯沢匡(いいざわただす)氏の
『武器としての笑い』―――この中に
「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」にひっかけて、日本人を
「ホモ・マジメデンス」と呼んだのは、
『実況パワフルプロ野球』に登場する瓶ぞこメガネの矢部くんの口調を思わせてちょっと笑ったデヤンス。
『武器としての笑い』(岩波新書)自体は、戦前の昭和モダニズムが象徴するインテリである著者が、どうしてこう「笑い」というものが世間に広く浸透しないのか、なんでわかんねーのかな―――と、苛立ちを吐露しつづけた一著であるように思う。
明治人の人物研究で知られる
森銑三(もりせんぞう)氏も
「いつの世も具眼の士の少ないことを嘆ぜざるを得ない」とまったく同じことを言っていて、これを現代風に翻訳すると
「ものの良し悪しが分からない奴らばかりで嫌になるよなぁ」ということになる。つまり
「価値観」の問題だ。
「価値観」については、
押井守(おしいまもる)氏も
『勝つために戦え!』(エンターブレイン)でこのように発言している。
押井 優秀な消費者っていうのは自分のお金を何にかけるか、世の中の動向を無視したところで自己実現できるかどうかであってさ。
――周囲の流行とかに左右されずに、自分の判断で、いいと思ったものを買うということですよね。
(押井守 『勝つために戦え!』 p139)
しかしこれはどうやったって無理な話なのだ。なぜなら
「価値観」というのは、自分の
「中」にあるもので、それでは説明不可能。説明したいのであれば、なんとしてでも
「見える」かたちで
「外」に提示しないといけない。
人間は十八世紀以来、見えない人体の
「内」部は
「解剖」によって
「見える」ようにしてきた。
「見え」れば、それはどんな人にでも理解可能なものとなる。解剖できなかった
「脳」は、現在テクノロジーの進歩とともに、MRI・PET・CTスキャンによって解明が進められている。これも要するに
「見える」ようにした、だから
「分かる」ようになった。
ところがいくらテクノロジーが進歩しても見えない部分が残ってしまって、それが人間の
「感覚(意識)」。
「認知(cognition)」というのは客観的なデータがとれるので、それを積み上げて仕組みを明らかにすることはできるらしいのだが、
「意識・感覚」というのはデータが取れないので、哲学も認知科学の人たちもお手上げらしい。
そして
「価値観」というのはこの
「感覚(意識)」に属するもの。だからこそ
「味覚」といっしょで、他人と自分の感覚を共有できない―――食べ物の好き嫌いを考えてみれば自明の理であって、納豆を好む人間がいくらそのウマさを説いたところで嫌いな人間からすれば馬の耳にどの方向からだったかの風であり、まるでひょうたんなまずである。
この先いろいろと
「品」について考えだしたが、なんともロクな結論が出せなかったので、今日はここまでとする。
「品」について考えるのはムツカシイなぁ。