そもそも
「ファン」とは何なのか――
渡辺裕(わたなべひろし)『聴衆の誕生』が手がかりを与えてくれた。今でこそ静かに聴くのが音楽のあり方になっているが、十八世紀においては飲めや歌えの大騒ぎ、つまり音楽はパーティの添え物でしかなかった。
十八世紀は貴族の時代、演奏会も社交の一環でしかなかった。それが十九世紀に入って、超絶技巧の
ヴィルトゥオーソ(ヴァーチュオーソ)が人気を博し、そのような大衆に対抗するため、現在のような
「音楽は静かに聴くべし」という態度が一部聴衆でとられるようになってきた。これがポピュラーミュージックとクラシックの分かれ目だという。
アチラでは、何かを主張するのに理窟がないなどということは許されない。どうやって
芸術(Kunst)に独自な存在意義を与えるか――みんなで考えたわけだ。そこで生まれたのが、芸術というのは、精神と感覚の間にあって調和を生むものだということ。
精神(哲学などの純粋な思索)――芸術――感覚(何かを食べて美味しいと思う気持ち)
この考えから
「芸術(音楽)は静かにその調和を求めて鑑賞するもの」という態度が生まれてきたのだという。このあと、大量消費社会にあっては商品とは実体ではなく差異を示すための記号だ云々――という話が続くのだが、それについては
「流行とファッション」を勉強するときにゲップが出るほど調べたので、割愛。
問題はこの先である。ファンであろうと消費者であろうと、何かを
「選ぶ」という行為こそが重要である。では
「何か選ぶ」ってそもそもどういうことなのか――と追求していくと、どうも哲学者の
カントに行き着くらしい。ライプニッツの次はカントか――と多少気が重いが、これもまた致し方のないこと。翻訳が良いことだけを期待したい。