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「鉄道大好きの英文学者」小池滋さんは、シヴェルブシュも真っ青の「鉄道文化史」を書いていたヽ(´▽`)/

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「鉄道好きの英文学者」として記憶している小池滋さん。高山宏さんの都立大時代、鉄道唱歌の大合唱に酔いつぶれた交遊録が記されているけど、申し訳ない、こっちに鉄属性がないばかりにこれまでスルーしてしまっていた。

とよ田みのるさんの『金剛寺さんは面倒くさい』じゃないけど、ひょんなことから今や新幹線の全車種をソラで言えるようになり、『シンカリオン』も最後まで見てしまったのだから、人間、なにが起こるかよくわからない(^∇^)

ところが交通手段は各国の文化風習お国柄の影響をモロに受けるので、アチラの事情となると調べないわけにはいかない。実際には「駅名」が読めないのと、「その駅がどこにあるのか」を知りたかったからなんだけど。

そんな調べ物の最中に小池滋さんのことを思い出し、一連の著作を読んでビックリ。これはシヴェルブシュ(シーウェルブシュ)の鉄道本より遥かに卓抜な鉄道文化史批評!

イギリスの鉄道におなじみの客車(コンパートメント)を密室と読み解いて、移動スピードが上がれば上がるほど、外界と遮断された「牢獄」になるなど、そこから「退屈しのぎ」にスリリングな推理小説がドーン!と受けるなど、目の覚める思い。

特に「グリニッジ標準時」が「鉄道でイギリス全土を移動」することに伴って制定された、なんていう指摘には膝を打つ思いがしたな。それまでのノンビリムードから、画一的な「時間に支配される」構造が生まれた、とかとか。

小池滋さんは鉄道に深い関心を持つからこそ、ネガティブな側面についての目配りも冷静な筆致で、読み手のこちらも共感できる。なんでも最初から批判するぞなトーンだと、読んでるこっちも「わかったわかった」となるのが人情。

で、一通り読み終えたところで思ったのが「乗り物酔い」のこと。鉄道が敷設されたのも1840年代からだから、歴史的にはごく最近に類する。だとすると案外「乗り物酔い」も新しい現象なのか?と。

というのも、こっちは旅と名がつくものが特にニガテで、長距離の移動に気が重くなるのはひとえにこの「乗り物酔い」に由来する。

「乗り物に乗る」=「オエー(;´д`)」がセットされてるので、「乗り物に乗る」=「楽しいところに行く」という発想が生じようがない。

最近はやりのVとかRがどうしたというのを未だに試す勇気が出ないのも以上の経緯が大きい。ヒドイときは在来線でもボエーになりかねないので、相当ハードだというアレな器具を試す勇気が出ないとしてもご勘弁いただきたい。

ちょうど先日、船について集中的に調べてたら「船酔い」のメカニズムも書いてあったな。なんだっけ、「6秒周期の上下動」が最も人間の知覚を狂わせるとかで、それで船酔いになりやすいんだとか。

でまた、6秒周期というのは、海上の航行ではごく普通なんだとも。悪天候とかでなく、ごく普通にちょっと荒れたかな荒れてないかなくらいの頻度で発生する波の周期が、ちょうど6秒前後。

前に英文学の世界で「痛風(gout) 」の研究をしてる人がいたけど、sea-sick やcar-sickの類もケンキューしてみると面白いかもしれぬ。

18世紀の馬車旅行の際は、まー道がそもそも悪いし狭いしすし詰めだしと、モーツァルトの書簡を読んだら馬車移動の文句ばっかりだったな。

乗り物酔い全般にアタマを悩ますこちらとしては、乗り物酔い文化史なんかを試みても案外楽しいのかな、なんて。船酔い編とか、色々拾ってったら興味深い共通点が見つかるかもしんないし。

ということで、小池滋さんの鉄道文化史に目を開かれる思いをしたので、そこからの思いつき短文を書いてみました( ´ ▽ ` )ノ

# by ulyssesjoycean | 2019-08-20 12:00 | Comments(0)

「アレな」本満載! というかソレしかない‼︎ 大江・留・丈二『韓国いんちきマンガ読本』(´∀`)

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(『シンカリオン』に絵コンテでクレジットされている大畑晃一さんは、この手のしょーもない[ホメ言葉]グッズのコレクターとしても知られているようだ。なんなのその芸風の幅広さ(^∇^) 大江・留・丈二さんの『韓国いんちきマンガ読本』はパブリブから税込2,484円で発売中)

「絵を描かない日がない」ようになった結果、「マンガについて何か言いたい」エネルギーが相対的に減少。絵を描いているとマンガ方面で満たされる面があるのかもしれない。

そんな比較的マジメなところから、久々に手に取ったマンガ研究本がコレかい、という、大江・留・丈二さんの『韓国いんちきマンガ読本』

コレというよりはアレな要素満載の研究本。日本産のマンガ作品が大陸でコピーされ、その劣化ぶりがスゴイ!なんていう一冊。

みうらじゅん法師に代表される「どうかしてる」アレな一冊だけど、取り上げた内容そのものもさることながら、この著者の吸う息吐く息でアレなフレーズが出てくるところがまず素晴らしい。

19世紀末のイギリスでは、各種のレストランその他が有名人士の集まるサロンも兼ねていたそうで、若い頃のオスカー・ワイルドが画家のウィッスラーに「自分もウィッスラーのような警句が言ってみたいものだ」なんて憧れの念を吐露してたらしい。

こっちもこの本の著者のような文章を書いてみたいものだと常々念じているのだけど、サッパリ書けるようにならない。読み始めて早速吹き出したアレな文例で言うと、「挑戦的(朝鮮的)」としたり、読み替えが絶妙。

ぜんぜん違うところで憧れる文章というとマンガ家のつばなさんがいるけど、つばなさんの「それ、いう必要なくない?!」という文章もなかなかマネできない。

手持ちピコピコを使って路上で怪物をつかまえるのが大流行りするときには、「おふとんGO」と言ってみたり、世界的な杯がどうしたという頃合いには「今日球蹴りないの」と言ってみたり。あとは「アナと雪ちゃんの大冒険」とか。その脱力したセンスに震える。

こういうのはもはや「芸」の域なので、『韓国いんちきマンガ読本』というタイトルで、特に自分にはフィットしないと感じる方にも、ぜひこのアレすぎる文章を堪能いただきたい。

あと冒頭にみうらじゅんさんの名前を挙げたけど、こういうアレな作品、アレな分野を追い続けるのは名著良作を丹念に掘り起こす以上の労力が必要。

みうらじゅんさんの映画バナシが空前絶後なのも、「修行映画」と称して、その一群の作品を見続けていること。

名著良作に親しんだ頃合いで、B級C級といった「魔の映画界」に親しむことはあっても、やっぱり一時期にとどまるもの。

ところがこうしたアレな分野を追い続ける人たちは、齧っただけで終わらせず「見続けている」執念がものすごい。生半可なコンジョーではとてものこと「見続けられない」

そのことは収録されてる図版の一覧を見てもクラっとするけど、こうした一連の作品をガッツリ追い続ける様子に脱帽。またそれを綴る文章センスにも脱帽する形。

あんまりにもキテル内容なので、内田魯庵さんよろしく「頼まれたわけではないが、いささか提灯を持っておく」というやつだな( ´ ▽ ` )ノ マジメ一本のビジネス本の合間に、なんの役にも立たないこうした一冊を手に取られるのも一興じゃないかなー。


# by ulyssesjoycean | 2019-08-17 12:00 | Comments(2)

名訳を手がけた朱牟田夏雄先生の『英文をいかに読むか』が研究社から復刊! 8/22発売予定ヽ(´▽`)/

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(『トリストラム・シャンディ』『トム・ジョウンズ』で名訳を世に送り出した朱牟田夏雄さん。その英文読解本が待望の復刊ヽ(´▽`)/ 朱牟田夏雄『英文をいかに読むか』は研究社から8/22に発売予定。価格は税込3,240円ナリ)

ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』、フィールディングの『トム・ジョウンズ』など、岩波文庫で名訳を送り出した朱牟田夏雄さん。

その『英文をいかに読むか』は韋編三絶したなーーというのはウソだけども(^∇^) 折に触れて読み返す一冊なのは間違いない。

朱牟田さんの訳業に導かれて、初めて原書で通読したのが”Tom Jones”だったから、その人の読解本なら買わなくては!なんて。

ところが当時の語学力ではまるで読めず、相当ショボーンとしたな( ´ ▽ ` )ノ  また朱牟田先生(東大英文科教授)が、1950〜1960年代の標準に合わせて解説するから「自分のできなさっぷり」を思い知らされてたな。

でもその後、確認したいこと手に取ったとき、「あっ! もう読めるじゃないか!」と感激したな。出会い頭で鼻をへし折られてただけに、例文や解説文が「読めるようになった!」というのは超嬉しかった。

最近、吉川美夫(よしお)さんの参考書もちくま学芸で復刊されたみたいだけど、アレだな、聴き流すだけのCMを聴き流すのにも飽きてきて、ガッツリ「ホンモノ」に取り組みたい、という流れが出てきたのかも。

それこそちょっと前の伊集院さんの昼のラジオに俳優の武田真治さんが出演されてたけど、◯◯すれば的なダイエットは娯楽として楽しむレベルで、やっぱりカラダを鍛えることを「言ってもいい」雰囲気にみんなが気づいてきたのかな、なんて話題が。

外国語方面でもついにそうなってきたのかな、と思ったりして。斎藤秀三郎の『熟語本位英和中辞典』も岩波からCD-ROMつきの新装版が出たし、「何かに本気で取り組みたい!」というアラワレなのかなーと。

なんにしても朱牟田夏雄さんの著作が復刊されるのはめでたいので、頼まれてもいない提灯をかついでみた形^_^  文献書房で言うと、佐々木高政さんの『和文英訳の修業』も復刊候補ではあるのかな? あれも良い本だったから。


# by ulyssesjoycean | 2019-08-11 12:00 | Comments(0)

「ブンケー・リケー」は「ダーマの神殿」で考えると分かりやすい? レベル50の戦士からレベル1の僧侶になるのはキツイ!(´∀`)

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「ブンケー・リケー問題」についてこのブログでも散々投稿してきたけど、調べるアンド実践を年単位でした結果、今の自分の考えは「致し方ない」に。

つまり、ある人がブンケー、ある人がリケーに分かれてしまうのは、「どうにもならないな」という印象。

こういう話について、自分もかつては「ブンケーリケーが分かれてるのはおかしい! ガクモンは全部を包括するものだ!!」と力強く思ってたけど、「実際に両方の分野をガッツリやってみた」結果、これはどーにもならないな、というのを痛感。

なんで「どーにもならないな」と感じたかというと、「お互いのアプローチが真逆」な上に、「片方の最適アプローチが、もう片方では最悪アプローチ」になるので、両者に重なり合うものがない。

「ブンケーとリケーを統合する」という掛け声は立派だけど、その掛け声と「実際に自分で両方やってみる」ことの差異には天と地ほどの開きがあるなぁと。

イエスさんもソ言ってるけど、「兄弟の目にあるおが屑に気づいて、なぜ己が目の梁(うつばり)に気付かぬか」と。

「まず汝の目より梁を取り除け。さすればよく見え、容易く兄弟の目よりおが屑を取り除きえん」なんて。

つまりこれは、「ブンケーとリケーの融和を叫ぶなら、まず自分が両方の分野を身につけなさい」ということだな。

自分がやった経験で言うと、外国語に代表される自然言語では、「直観と連想」が何より大事。あるものを見たとき聞いたときに、瞬間で、直観的に判断する。で、すべての単語や表現を連想から導き出す。

一方、ピコピコと数学を年単位で取り組んだ結果分かったのは、「直観と連想」式の考え方が邪魔になるということ。「直観と連想」の能力はぜんぶ捨てて、「確実さと細分化」をゼロから身につけなくてはいけない。

それこそダーマの神殿で違う職業になると、「戦士としては50レベルだけど、僧侶に転職するとレベル1になるけど、いい?」って尋ねられてるようなもの。

ゲームならまだしも、リアルライフでこう言われると「ちょっとまってください」となるのが人情というもの。なのでつい、「戦士で50レベルまできたんだから、戦士のままでも僧侶の回復呪文くらい覚えられるはずだ」と考えちゃう。

ところが戦士ではどー頑張ったってホイミ(回復魔法)は使えるようにならないんだな。レベル50がレベル99になっても、戦士で回復魔法は使えない。どーやっても一度僧侶に転職しないといけない。それが困る。

あといま「ホイミ」という回復魔法の話をしたから言うと、ブンケー・リケーの双方が「理解に際して求める情報が違う」のが、両者のミゾを拡大してる気がしてならない。

「ホイミ」を例にブンケー(緑色)、リケー(青色)ごとの説明を言うとこんな感じ

ホイミ:ドラクエで使われる回復魔法。初代ドラクエでは容量の関係で使えるカタカナに制限があった。敵モンスターの名前など、固有名詞にカタカナを使っていき、最後に残った3文字「ホ」「イ」「ミ」から、回復魔法の「ホイミ」が生まれた

ホイミ:ドラクエで使われる回復魔法。ホイミを使用すると30〜40のHPを回復することができる。使用可能な職業は僧侶と賢者。僧侶はレベル1からホイミを使用できる。ホイミで消費するMPは2である。

ブンケー方面は「言葉の由来」「歴史」をもとめ、リケー方面は「意味内容」「数値情報」にまとまる感じ。

ところがこれ、ブンケー方面の内容をリケー方面に説明しようとすると、「言葉の由来」「歴史」ばっかりになって、相手の求める情報にならないんだな。

逆もまた真なりで、リケー方面の内容を「意味内容」「数値情報」で説明されても、ブンケーの人は納得しない。だってブンケーの人が知りたいのは「言葉の由来」「歴史」なんだからーー

一時が万事この調子なので、これは致し方ないという心境に。ブンケー・リケー問題の解決は「言うとやるとで大違い」大変さが待っているなぁ、なんて。

それじゃなんでわざわざ僧侶に転職して回復魔法を覚えた、じゃなくて、数学とピコピコという2大ニガテジャンルをやることになったかと言うと、「やらざるをえない」状況に立ち至ったから。

それこそ大山のぶ代さんのドラえもんが「それを言っちゃあおしまいだ!」というアレな状況に出くわして一念発起、「じゃあ自分でホイミを使えるようになる!」と思い切った格好。

好奇心は強い方だけど、「ちょっとかじってみたい」くらいの関心では、「自分の普段やってる思考法をぜんぶ捨てる」方向にはなかなか踏み切れなかった。

さっきダーマの神殿の例えを出したけど、これ、一時的にレベル1にはなるもの、ちゃんとやってけばレベル10,20と上がっていくから、戦士と僧侶の使い分けも可能に。転職そのものができないわけじゃない。

ところがやっぱり「レベル1に戻るけど、いい?」という質問に「イエス!」とは言いにくいナー。なので、のっぴきならない状態にまで追い込まれないと、「レベル1から僧侶やります」とは決めきれない。

その伝で、いま自然言語(外国語)の習得に頭を悩ませてる人は、きっと自分と同じ「ダーマの神殿」にいる感じなんだろうなーと思う。僧侶でレベル50、全体回復から状態異常の回復までなんでもござれな人が「レベル1から戦士やります」とは言いにくい。

ブンケー・リケー問題も、こんな風にドラクエに例えると分かりやすくなるかも思ったけど、どうだろう。戦士と僧侶でレベル20になれば良いとこ取りの「パラディン」なれるかもしれないけど、そのために「レベル1からリスタート」と言われると考え込んでしまう。

じゃあどういう条件がついたら「戦士→僧侶」「僧侶→戦士」になるかと言うと、たぶんこれ、パーティ編成になるんじゃないかな。

戦士・戦士・武闘家・武闘家みたいな肉弾戦で来たけど、回復魔法を使える奴がいない。やくそうでは回復しきれない、となった場合、だれかが堪忍して「じゃあ僧侶やります」と決断、みたいな。

僧侶・僧侶・魔法使い・魔法使いなパーティ編成で来たけど、「魔法反射、物理のみ有効」なボスが出てきちゃったら、このパーティ編成で攻略は無理。それで観念して「戦士やります」的な。

そっから先の研究テーマとして、「なぜ人は戦士向きのステータス、僧侶向きのステータスで生まれてくるのか」があるけど、これもまた超厄介。

ある人は直感を求め、なぜある人は確実さを求めてしまうのか、なんで「両方とも」備わってる人はいないんだろう、なんかニンゲーンのDNAにそーしてないとまずかった理由でもあるの?なんて。

前にデザイン研究のナントカさんの本を読んでたら、「自分で改善できない限り、デザインの批判はしない」と書かれてて感動したな。

そのメンタリティを引き継いでいくと、「ブンケー・リケーの融和を唱えるなら、自分がどちらも実践してから」となるか。

でまあ、両方やってみたんだけど、その両者があまりに対極の関係にあるので、ユーワしようとはなかなか言えなくなっちゃったな。はたた  ε-(´∀`; )


# by ulyssesjoycean | 2019-08-10 18:00 | Comments(0)

「〜〜ってよ」の作者さんの話を聞いて、「注意力資源の節約」についてアレコレ考える( ´ ▽ ` )ノ

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(アリストテレスの『二コマコス倫理学』を読んでたら、「人と人の間で利益と損失がアンバランスになったら、それを均等にするのが法の役目だよ」なんて書いてあったな。でも数字の上では均等なことも、人間の心理的には不均等というのは平気であるなと、セイラー先生やカーネマン教授のご本で痛感。ダニエル・カーネマン『ファスト・アンド・スロー』はハヤカワ・ノンフィクション文庫から発売中。上巻は税込907円なり)

先日、「〜〜やめるってよ」の作者さんの話を聞いて、そういえば自分は日本語オリジナルの小説を楽しみにする習慣がないとハタと思い当たる。

あんなものはなんだ式の意味はまるでなくて、言われてみれば読んでない、なんでだろう?というような発想のキッカケに。

アレだな、スーパーに行っても、「自分が通らない売り場」のことは、そもそも意識してない、みたいな。

そこからの連想で、「自分が書店に行った時、どんな棚をチェックしてるんだろう?」という興味にも繋がった形。

前にナントカさんという人が、自分は気が弱い、人の意見に左右されやすい、結果、家に帰ってみると「なんでこんなものを買ってしまったんだろう」と冷静になるーーというエピソードが。

そこまでは「あるある」話的だけど、この人は心理学者なので、「自分が買わされてしまうような業種に参加して、売る側の心理を実践しよう!」と考えるところがスゴイ。

『影響力の武器』とか言ったかな、その著者の「自分の弱点を知った上で、自分で実験する」姿勢にダツボーしたけど、その人が言ってたのは「人間の注意力は『資源』である」ということ。

つまり、車でいう「燃料」のようなもので、ガソリンをボンボン燃やして走っていれば、ガソリンタンクはカラになる。カラになったら当然、燃料がないわけだから車は走らない。

それと同じ現象が「注意力」にも当てはまると。なので人は可能な限り「注意力を節約する」方向で日常生活を生きていく由。

なので、「自分で考えて決める」ことと、「他の人がやってることに倣う」を比べると、前者の方が格段に「燃費が悪い」。つまり「注意力を余計に消費する」。行列があるとつい入ってしまうのはそのせいだ、なんて。

そのあたり、さっきの「日本語オリジナルの小説を読まないのはなぜか」みたいなことにも応用ができるんじゃないかなーと。

本に費やすことのできる注意力(=集中力)も資源みたいなものだから、その人の嗜好に従って無意識でハイブリッド車なみのエコモードになるのかも。

あとはその反対に、「自分が自然と足を向ける本棚」とかを考えるところが、今現在の自分の関心のありようがわかってオモシロイかもしれない。

この数年、自分のブームとして「今までやってこなかったことをやってみよう」実験があったけど、結果的に「数学」「ピコピコ紐ing」はガッチリハマった形。「英語だけで考える」ようにしたことが大きな補助になったし。

でもそういう、自分でも気づいている「あんまやりたくないな」はまだしも、「素通りしていることにも気づかないことに気づく」のは意識するのが難しい。

自分では頼まれもしないProustの原書を読んでたり、古代ローマのラテン語作品なんかにも触れてる意識あったので、「ってよ」の作者さんの話を聞いて初めて「あ! 自分は日本語の小説を素通りしてる!」と気づいた形。

ダニエル・カーネマンさんとか、そういうメカニズムを面白おかしく、でも事実相当にシンラツな口調で書いてるけど、新しい心理学の世界では「注意力は有限」というのが共通してるみたい。

そこから、「考えるのメンドイからそれまでの経験で間に合わせちゃえ」式の発送を「ヒューリスティックス」(経験則)というのも覚えた形。

この手の新しい心理学は面白いんだけど、ある意味身も蓋もない内容だから、系統立てて複数冊目を通したところで、かなりガックリ来たなぁ。今はそこを通過したからこんな話もしてるけど。自分のダメなところを科学的に見せられると、さすがにショボーンとなる。

で今、アリストテレスさんの『二コマコス倫理学』読んでるけど、そのあたりが気になってくるんだな。いやいやアリちゃん先生、100ドラクマの損失は200ドラクマの利益がないと人間は「均等になった」と思わないよ、なんて。

たぶん、法律の解釈や実行が、ニンゲーン的に「納得いかない」心情を呼び起こすのは、この辺なんだろうなーとか。

ダニエル・カーネマンさんの理論からセイラー先生が発展させたのは「経済学」だけど、これ、「法律」に当てはめたら結構オモシロイかもしれないなと思うように。

「ってよ」のトークからアリストテレス、果ては法律まで連想が繋がったので、「ってよ」の作者さんの新刊もせっかくだから読んでみようかと思ったり思わなかったりするのでした(´∀`)

# by ulyssesjoycean | 2019-08-08 18:00 | Comments(0)

評判良かったものだけ「残す」スタンスは? 山本崇一朗『それでも歩は寄せてくる』から考える「ジョーネツのアジャイル開発」(о´∀`о)

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(『からかい上手の高木さん』で人気を集めるマンガ家の山本崇一朗さん。ツイッター上で「ひまだからマンガをかきました」とアップしたのがこの「将棋のやつ」。それがあれよあれよという間に少年誌で連載〜単行本化という流れ。人気作の『高木さん』とはまた違ったテイストで最高ヽ(´▽`)/  山本崇一朗『それでも歩は寄せてくる』は、講談社マガジンコミックスから税込670円にて発売中)

このところ、マンガ家さんがヒョイっとツイッターで投稿したマンガが人気を集め、それが連載獲得〜単行本化という流れが目立つように。

マンガに限らずだけど、「なんとなくやったこと」の中から「周囲の評判がいいものに本式に取り組む」スタンスはアリなんじゃないかなーと思うように。「リアル人生のアジャイル開発」みたいな(^∇^)

というのも、ちょっと前にそうした記事が出てフームと思ったんだけど、ジョブズさんが大学のスピーチで「情熱を傾けるものを探す」という話をしてるけど、あれ、「見つからない場合はどうするのか」という質問が。

で、そういう質問については「見つかるまで探す」と応えるのが通例になっていたけど、むしろ「情熱を育てる」方式もありなんじゃないの、という内容だったんだな。

そりゃジョブズさん的な人は情熱のありどころもサッと見つかるけど、みんながみんなああいうタイプではないので、それぞれに適した方法論があるだろうと。で、「見つける」よりは「与えられたものから育てる」視点はどうか、という記事内容。

それがなーんか引っかかってたんだけど、これ、冒頭に述べた「マンガ家さんがヒョイっとツイッターにラフなマンガを投稿して、そっから連載〜単行本化」と繋がるもののような。

色々な活動を小規模にやってみて、その中で「自分の反応」じゃなくて、「他人からの反応」が良かったものだけ「本腰を入れて取り組む」みたいなことかなー。

で、どうも「活動を小規模にやってみて」で大事になるのは、それこそマンガ家さんが描くマンガのように、「他の人にも目に見える形」にしてあることが重要みたい。

山本崇一朗さんの将棋マンガだって、サラサラッとラフな絵で描いてあったけど、ニンゲーンは想像力で補填できるから、案外「これはいい!」と判断するだけならラフな段階で全然オーケーな様子。

絵だったらラフ画、音楽だったらアイディアの録音、小説だったらプロット文章の切れっ端とか、なんかそんなの。自分のキョーミがゲージツに偏ってるからこんな例しか出ないけど、工学や技術、法曹やバイオでも何でも、なんかしらのモノになってればいいのかな。

で、そういうのを「持ち歩いている」のが良いみたい。それこそ手持ちピコピコにはその手の「持ち運び」にはベンリ極まりないから、紙とペンでは残せないものも持ち運べる。歌とか写真とか。

それをバーンと網に載せるのが昨今の風潮だけど、バーンと載せるのはシンドイから会う人会う人に手持ちピコピコ内のデータなり、手帳に書いたメモなりを見せていく形。

なんだっけ、秋田新幹線のデザイナーさんがイタリアで車のデザインをしてるとき、ヒョイッと会社の代表者が立ち寄って「新しいクルマのデザイン企画ない?」という話があったそうな。それも突然。

で、そのデザイナーさんはアイディアデザインをスケッチブックに書き溜めてたので、それをサッと見せることができたそう。で、それが突破口になったとか。

後年その人がおっしゃってたのは、そういう「急にきた15分」のためにアイディアを書き溜めておくのが大事とか、なんかそんな話だった。

秋田新幹線のデザイナーとかいうと、もうそれだけでハイレベル!な印象付きまとうので、もうそのダウングレードのダウングレード、ミジンコみたいなちっちゃな何かで良いような気が。

その点、「絵が描ける」というのは「ないものを見せるようにする」という観点からすると、文章なんか比じゃないパワーがあるナー。

押井守さんも「絵は下手でも、企画書には必ず絵を描いて表紙を作る」と言ってたし、まあそういうことなんだろう。興味を持ってもらうためには絵の力はパナイ!みたいな。

バーバラ・マリア・スタフォードさんも、「絵の持っている分かるというチカラ」を称揚してらっしゃるから、とりあえず何していいかわかんない人は「絵を描けるようにする」のが突破口なのかも。

こっちが絵を描き始めたのは、100%バーバラ・スタフォード先生の影響なので、『グッド・ルッキング』(産業図書)を読んで目の前が開ける気がしたものな。

爾来幾星霜というやつで、絵を描かない日はないくらいになったけど、とにかく「未知のものを説明する」観点からすると絵は最強という思いが。

写真でもいいんだけど、困ったことに写真は「ないものは撮れない」と気づいたので、アイディア段階では絵の方がカンタンみたい。

子供の頃は誰しも絵を描く体験してるんだから、絵はデザイナーやマンガ家とか広義の「絵描き」じゃなくてもドシドシ使ってオーケーだろうなぁと。

こうしてみると、スタフォード大先生から「絵をやれ!」と叱咤されて、その後アニメーション美術監督・小林七郎さんから「フリーハンドで正方形を描ければ良い」と教わったのが大きかった。

C.P.スノウさんが「二つの文化」で文理の分断を憂いたけど、なーんか食い足りない議論という印象残ったのは、「絵の分かるチカラ」を活用するに思い至らなかった点じゃないかな。

ブンケー・リケーの両方をやってみた結果、互いハンモークするのも当然だ。両方のアプローチが真逆すぎる」と身にしみて感じだけど、あとはもう「絵で間を取り持つ」しかないだろう、なんて。

また取り留めなく長くなったけど、「ちょっとした思いつき」でも、「他人に見せられる形で保存」しておくメデイアとして「絵は最強」という話なので、「情熱をはぐくむ」方面に舵を切るなら、それこそまず「絵を描く」ことからスタートするのが一番かも、と思ったのでした( ´ ▽ ` )ノ


# by ulyssesjoycean | 2019-08-04 12:00 | Comments(0)

漱石先生は「明治時代のピコピコラー」? 数的論理と集合論がよほど好きみたい(´∀`) 夏目漱石『文学評論』

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夏目漱石の『文学評論』、調べることがあって読み始めたら、面白いので終わりまで読んでしまった。こういうことをしているから調べ物が捗らないけど、これはもう仕方がない。

先年、山本貴光さんが『文学問題 ( F+ f ) +』(幻戯書房)という分厚い一冊で、これまた分厚い一冊の夏目漱石『文学論』を論じてらしたけど、今回自分が読み通した分厚い一冊『文学評論』でも共通の印象が。

どうやら漱石先生は、明治時代に生まれてああいう仕事をしたけれども、世が世ならピコピコラーとして良い仕事をしただろうな、ということが想像される。つまり発想の基本が「紐ダー」的。

漱石先生はなにかを扱う時、「漏れがある」「抜けがある」のを非常に嫌っている。なので、「漏れがない」「抜けがない」議論をしようと話を進めていく。

なもんで、いきおい漱石先生の論法は「数学的論理(Logics)」と「集合論(Set Theory)」の二本柱でまとめられる。そしてこの2つこそ、ピコピコラーのマストアイテム。

悲しいかな、自分が数学で一番馴染み薄いのがこのLogicsとSet Theory(と数列 Arithmetic Sequence)。よりにもよってピコピコで扱うのが、一番避けて通りたい分野ばかりなのだからさすがにゲンナリ。

特に数学方面のLogicsは、「自然言語の論理」とは別物なので、そこが困る。AならばBとか、話がストレートに進む時はいいんだけど、BでないならばAでないなど、考える順序が遡行する方向にいくと、自分のソザツなノーミソではなかなかシンドイ。

そういう操作を漱石さんはこともなくやっている。というより、「そうせずにはいられない」ものがあるらしく、自分でも『文学評論』という講義録中で、こういう微細に徹底しないと気が済まないのが自分の欠点だと思う、なんて言っている。

それで今回読み通して思ったのは、漱石先生が一番興味を持って深々と論じてるのはJonathan Swiftなのね。

『文学評論』自体、イギリスの18世紀文学を取り扱ったもので、なかなか珍しい作家も取り上げられてるのでありがたかったけど、スウィフトのところだけ気の入りようが違う、という印象を受ける。

でまた、スウィフトの人柄に共感してるわけではないけど、その作品の徹底した作り方に、漱石さんは惹かれるところがあったみたい。

漱石さんの小説はあんまノレずに来てしまい、特に吾輩がどうしたという例のアレは特に親しめなかった。それがTuttleとかいうイギリスの出版社が出してる英訳を読んでビックリ、「漱石さん、こういうことがしたかったのか!」と初めて納得。

そういった経験してたので、なーるほど、スウィフトの影響はこういうところに萌芽があったのね、と膝を打つ思いだったな。

ただこっちの話で言うと、漱石さんの日本語作品にノレないのと同じトーンで、スウィフトさんの作品にもノレないんだよなー。桶がどうしたと、中古車販売の名前みたいなやつは目を通したんだけど。

中古車販売の方は文章に釣られて読み進めたけど、リリパット国に到着したあたりの「リリパット語」表記でついていけなくなった。あのスウィフト作の人工言語が、どーも自分には座りが悪くて落ち着かない。

それと同じ印象を受けたのが、George Orwellの”1984”か。あれも大きな兄弟がどうした、という出だしで、その世界では効率簡便が何より大事だから、長ったらしい表記はすべて取りやめて、簡潔な短縮語が多用される。

でその、短縮語の人工言語っぷりが、どーにも不自然な印象を与えて、そのあたりでパタンと本を閉じてしまった記憶が強烈にある。

オーウェルさんは、そーいう非人間的な世界を描きたかったんだから、それは狙い通りとも言えるんだけど、ジョイスさんとかラブレーのエネルギー充填120パーセント!な造語に比べてしまうと、なにか物足りない。

オーウェルさんのエッセイは残らず読んで、いまだに大好きな作家さんだけど、その小説という意味ではどれもピンとこないまま来てしまった。

スウィフトの人工言語に接して「あ、この違和感はオーウェルの小説と同じだ」と思い出したんだな。

でまた、それを夏目漱石で思い出すと(^∇^)。良い悪いじゃなくてニガテな路線ということでは、夏目漱石・スウィフト・オーウェルの1984と、なにか一本スジが通ったようで、フームと思わされる。

ピコピコラーになっても、中島誠之助さんから「良い仕事してますねぇ」とニッコリ褒められたに相違ない漱石先生。『文学評論』読み終えて思ったのは、この人、文章に困らなかったから論理学的な思考に進んだのかな、なんて。

というのも、講義録の『文学評論』でも、先日読み切って「これはすごい、初めて心の底のからオモシロイッ!」と思えた『坑夫』にしても、漱石先生は文章に苦しんだようなところが微塵もない。

お弟子さんの内田百閒のエッセイなど読むと、夏目先生は小説の連載が始まるとものすごく不機嫌になるとか、書きつぶしが積み上がって15センチくらいになった、なんて描写があるものの、作物を見ると「文章それ自体」呻吟してる様子が見えない。

ピカソとかサルバドール・ダリとか、若い頃からあんまり絵が上手すぎたので、年齢が重なるにつれてドンドン新しい試みにチャレンジしてたってのも、漱石先生が集合論とかそっちに進んだのと通じる様子があるような。

またとりとめもなく長くなったけど、これだけ自然言語の文章に堪能で、しかもピコピコラーのマインドセットある人はそういないぞ、というのをあらためて思ったのでした。


# by ulyssesjoycean | 2019-08-03 12:00 | Comments(0)

ピコピコ界の「ミスタードリラー」 根っこ(root)が大事なのは自然言語もキカイ言語も一緒かも(о´∀`о)

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自然言語をやっているとよく言われるのが「語源を学ぶ」というアプローチ。

ヨーロッパ言語は色んなところで繋がってるから、英語の両親にあたるのがドイツ語とフランス語みたいなもの。で、フランス語やってるとイタリア語の影響もあり、大体の言語はラテン語に辿りつく、みたいな。

そういう歴史的なつながりがある以上、語源をフォローすると非常に効率的なんだな。綴りや字形が似てる言葉は、だいたい同じ系統の言葉から派生してるとか、理解が超しやすくなる。

この2年間で気合を入れて学んでるピコピコ道は、バリバリのテクノロジーだけあって、自然言語とはアプローチ違うな、と思うこと多いけど、案外なところで「語源」的なアプローチに出くわすことも。

というのも、この2年でみっちり紐ingをやってみた結果、最新のものを追っかけるより、どちらかといえば「元々の形式」をフォローすること多くなった。

近年の流行は「ナントカ.js」とつくものばっかり。それも進化改良が矢継ぎ早に行われるので、自分の知ってるだけでも3通りくらい書き方があったりして。

ところがナントカ.jsが「いじくる側」(素材)の方は動いてないので、じゃあ素材の方をキチッとおさえればよくない?と。

自分としては「真っ黒画面の提供者側」が性にあってるけど、その分野の学習以前に、「網はどういう仕組みで成り立ってるのか」をビッチリ調べてたのが良かったみたい。根幹の部分は動かないから。

どうやらピコピコの世界も、ある程度の実力と知識がついたら「根幹の技術にさかのぼる」と理解しやすい様子。ずっと納得できなかった単語について、ラテン語の辞書を引いたら一発で頭に入った、あの感覚。

もっといえば、自然言語やピコピコに限らず、「学習が進む」ってことは、「根本を理解する」方向に進むのかも。

学習っていうと、階段を上ったり、それこそ「レベルアップ」みたいな言い方をするけど、むしろ『不思議のダンジョン』感覚で、下に下に掘り進んでいくものなのかもしれないナー。

だったら最初から根っこに向かって進めばいいじゃんとも思うけど、どうやらそれは無理っぽい。掘り進むための機材 = その時の学力、と考えると、シャベルしか持ってないときは5〜10センチしか掘れない的な。

で、装備品がシャベルからスコップ、ツルハシ、ドリル、削岩機とシンカして行って、それに見合った深さまで掘っていける、みたいなことなんだろう。

ピコピコさんはとにかく新しいのが次々出てくるから、何かでつまづいたら「その上のレベルをやると分かる」こともあったけど、それでもダメなときは「より根っこを掘っていけ」が大事なアプローチになるのかも。そんなことを思ったのでした( ´ ▽ ` )ノ
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# by ulyssesjoycean | 2019-07-26 12:01 | ピコピコ武者修行 | Comments(0)

超遅まきながら、千石英世訳の『白鯨』(講談社文芸文庫)にどハマり中ヽ(´▽`)/

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(グスタフ・ルネ・ホッケの次くらいの頻度で各種タカヤマ本にて言及されるハーマン・メルヴィル。メルヴィルというよりは、その作『白鯨』だけれども。本ってオモシロイナーと深入りする過程で、この千石英世訳の講談社文芸文庫も見知ったのだけど、面白さが分かるのは今の今だというのだから何とも仕様のない話。千石英世訳『白鯨』は講談社文芸文庫から上下巻、一冊あたり税込2,268円にて発売中)

タカヤマ御大が仕切りに引用〜言及するハーマン・メルヴィルの『白鯨』。白いクジラを追っかける北米捕鯨船団のやつ。

波乱万丈の大スペクタクル作品かと思いきや、冒頭からアレコレの引用やら何やらがあり、途中にはクジラ学あり、さながら百科事典という趣き。

それでまあ、冒険活劇を期待して手に取ったら、実物はエライ違うなーと読み手をたじろがせる作品として、ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』と双璧かもしんない。

自分の場合、それよりもっとヒドイ付き合い方で、「安かったから」という身も蓋もない購入理由。読み始めた頃は、中身より何より、Thouとかtheeが頻出する古風な英語にビックリという感じ。

一応通読した気もするけど、不思議とずっと手放さずに本棚の一部に収まって、一年に何度かポツポツ読むために取り出すのだから、「何かある」作品なんだと思う。

で、それが今回、千石英世さんの訳書の存在を思い出し、イソイソと読み始めたらやっとビシッと作品世界に入れたのだから世話はない。

でもまあ、やたら物知りなボルヘスお爺さんが「世にツマラナイ本はない、それは単にまだ読むタイミングが来ていないだけだ」なんて気の利いたこと言ってたから、まずそういうことなんだろう。

文学作品にも相性あるらしく、自分が読んでて一番「しっくりくる」のはイギリス18世紀の作品。平易かつスピーディーな18世紀の英語に接すると、生命力の力強さを感じる。

その次くらいがフランスの小説で、その次その次へと思い出して行って、最後の最後に来るのが「アメリカの小説」という感じ。なんでかなー?

ヘミングウェイやフィッツジェラルドの作品も、先日パラパラとめくってみたけど、なぜか入っていけないというのが正直な印象。やっぱり相性ってあるのかな、というのをアメリカ文学に触れるたびに感じる。

内心そう思って長いこと来てしまったので、ここでメルヴィルにビシッと来たのは自分でもちょっとビックリ。米文学の巨人というくらい、メルヴィルの存在が代表的だから。

これで味をしめて、もしかすると長いこと素通りしてしまっているトマス・ピンチョンにも入門できるようになるかもしんない。

ジョン・バースの『サバティカル』も、たまーに思い出すんだけどどうなんかな。あれもなんか船の上で大学教授のご夫妻がなんか延々と話をしてた、というのは覚えてるんだけども。

案外アレも、メルヴィルへのオマージュだったりするのかな。あとここまで書いてきて思ったけど「メルヴィル」Mervilleはフランス語のMerveilleが由来なんかな。

この辺り当然のごとく、タカヤマ御大が文章に草してらっしゃるんだろうけど( ´ ▽ ` )ノ

# by ulyssesjoycean | 2019-07-22 12:00 | Comments(0)

ジャバナントカは置いといて網の設計図「HTナントカ5」を調べてみようと思います( ´ ▽ ` )ノ

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(オライリーにはホントにお世話になってるナーと、ピコピコ道に入門して感じる。またこの手の技術書は原書で読むと超わかりやすく&楽しいと判明。数学もそうだけど、英語に馴染みさえあれば自然科学系はオールEnglishで良いと思うのでした(´∀`))

先日までエズラ・パウンドの話をしていて、今度はピコピコ道の投稿が続くというカオスっぷり。

でもパスカルさんもソ言ってたよ、「炎がなぜ燃えるかを知るためには、空気のことも知らなくてはいけない」って。

最近はピコピコ道をやるにしても、「その公式資料をぜんぶ読む」方向に移ってきた。

参考書はありがたいんだけど、ピコピコは具体的な技術でもあるから、「もともと決まってるやり方」「使う人が自由にアレンジ」きる側面がある。

そうすると、どこからどこまでが「もともとの決まり」(動かせない部分)で、どこからどこまでが「本の著者がアレンジしたもの」なのかがハッキリしないんだな。

そういうことが2〜3件続くと、もう「もともとの決まり」をぜんぶ読んでしまえ!と思うように。この手の資料は繰り返しも多いから、20〜30ページでもサラッと読みきれると分かったし。

ところが、ピコピコ&網の世界で、いっちばん根っこになってる部分は、20〜30ページなんて生易しい分量では済まないな。なので本にしようと。

それで今回取り組もうと思ったのがHTなんとか。机上ピコピコでも手元ピコピコでも、HTナントカ抜きには成り立たない「基礎建築」の部分。

手元ピコピコに入れて使う「応用」も、結局はHTナントカを使ってる。最近の主流だよという「反応現地民」の紐を見ていたら、結局HTナントカを最適化するためのものなのね、と。

でそのHTナントカをいじるのに、ジャバナントカをたくさん使うんだけど、自分が服部雄樹さんのデザイン本で見知った「値札」がぜんぜん使われない。

服部さんの御本では、区切りをつける「値札」<分割する>だけじゃなくて<幅>ってのもあったし。他にも色々あったのに、高度ジャバナントカを見ると<分割する>しか出てこない。あれ?

でもこういう技術的な世界に「なんとなく」ということはあり得ないから、「値札」の種類にも必然性がきっとあるんだろうーー

これまでは高度ジャバナントカの方にアプローチしてきたけど、結局、いじくられるオオモトのHTナントカも調べておいた方がいいんじゃないかなー、なんて。

そんでまたこのHTナントカは、網の歴史そのものだから、「求めますよコメントを」を見たってボーダイな分量が見つかっちゃう。

なのでこういう時こそオライリーさんに頼ろうかと思った次第。

高度ジャバナントカは「回転はやくてついてイケネー」と、バリバリのピコピコラーさんでもこぼすそうだから、だったらいじられる側を捕まえた方が早かないかい?なんて。

あとはピコピコ街道の複雑な方をやってるとアタマが疲れてきたので、色川武大さんの『うらおもて人生録』よろしく、「大きくバックする」のも必要なんじゃないかなと。

これでHTナントカの5番目が分かれば、案外、高度ジャバナントカもスルッと親しめるようになるじゃという期待もあるんだけど。

そんなにジャバナントカがアレな感じならやらなきゃいいじゃんと思われるかもしれないけど、なんかもう近年の網&ピコピコはジャバナントカ抜きには成り立たないみたいなので、これまた1つのライプニッツよろしく「急がば回れ」戦略だと思うことにする( ´ ▽ ` )ノ

# by ulyssesjoycean | 2019-07-16 12:00 | ピコピコ武者修行 | Comments(0)