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「良い参考書」を見つけるための3ポイント! 「自分にピッタリ」の参考書に出会うために(о´∀`о)

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(吉川美夫[よしお]さんの『考える英文法』がちくま学芸文庫で復刊!  ながらく手にするのがカンタンでなかったので、まずは素直に喜びたい。でも吉川さんの著作で言うと、『新英文解釈法』は激レア・稀覯書の扱いなので、こちらもぜひ復刊していただきたい( ´ ▽ ` )ノ)

先日、『英文法の「なぜ」』を激ホメしたところから、じゃあ「どんな参考書が良い参考書なんだろう?」と。

今回はオール独学修行でやってきた一人として、良い参考書の共通点」みたいなことを考えてみたい(´∀`)

1. 良い参考書は「本文のレイアウト」がキレイ

1番はこれだなー。もはや中身がどうとかでなく、パッと開いて目に入る「印象」が良いものは、まず良い参考書である、というのを感じる。

カラーでケバケバしいのもアウト、文字組がギチギチもアウト、スカスカもアウトーーアウトばっかりだけど(^∇^)、反対に「おおっ!」という参考書は本文のレイアウトが絶妙。

じゃその「レイアウトが絶妙」とはどういう内実を指すのかと言われると、ハッキリ言えないのが困る。むしろ「読みにくい」という印象がまずあったものは、良い参考書ではない、少なくとも「自分にピッタリ」の参考書ではない。と思う(思うだけかい(´∀`))

2. 良い参考書は、「例題」に工夫が凝らしてある

これは語学関係がわかりやすいけど、とにかく「実例」で例文を作ってるのは、まず間違いなく良い参考書。

だって、ある項目を説明したい!と思うことはあっても、「それにピッタリの実例」を探すのは途方も無い労力が必要になる。変な話、探したって「ピッタリの実例」は見つかるか分からないんだもの。

これは数学方面でも同様で、小島寛之さんなんか、「数学の例題」を探すうちに経済学者になってしまったという。

なんでも、数学に使う理論を追っかけていくと、自然科学の「誤差」がクセものなんだとか。つまり理論をバッチリ使っても、それこそ物理で言う摩擦や空気抵抗が影響して、「数学の例題」としては不適当なんだって。

しかし、誤差や空気抵抗を「ないものとする」例題はやりたくない、本当に現実に使われていて、しかも数学の理論を100%活かせる例題というので、その当時「なんでもあり」な経済学を見つけたと。

ご本人が著者に書いてたけど、ミイラ取りがミイラになるで、そっから経済にのめり込んでしまったそうな。でも実際、「例題」を探すためにはそれくらいのエネルギーが必要なんだと思う。

なので、そこにものすごいエネルギーを費やしてる人は、1年365日「良い実例はないか」と探してるわけだな。やはりそういう人の作る参考書は格上!というのをヒシヒシ感じる。

3. 良い参考書は、「専門以外の知識」がたくさん入っている

参考書を書くくらいの人は、当然、その専門分野についても確かな知識を備えてるわけだけど、「良い参考書」に限っていうと、マー、専門以外のこともよく知ってるなぁと思わされる。

先日パスカルさんを読んでたら、「炎がなぜ燃えるのかを理解するためには、空気のことも知らなくてはならない」と書いてあったな。

つまりは専門以外の領域に、専門の理解を助けるヒントがたくさん含まれてる。さっきの小島さんが素晴らしいのは、「自分は数学センモンだから、物理はやりません、経済学やりません」とはならなかったこと。

語学方面に目を転じても同じことで、英語は歴史的にフランス語とドイツ語の影響大きいし、もっと遡ればラテン語とギリシャ語が出てくる。

語学方面でアレだなーというのは、まず書き手が「多言語」を知らない場合に目立ってしまう。なんか押し付けがましいな、という語学参考書の場合、往々にして「一言語しかやってません」人のものだったり。

ピコピコ方面はアダム・スミスさんもビックリなくらい分業化が進んでるから、「ピコピコ参考書がわかりにくい」という印象が先行するのも、この「専門領域だけを扱ってる」ことに由来するんじゃないかなー。

その手のガッカリ経験で言うと、「イナゴ」「一網打尽」というキーワードが出てるのに、「出エジプト記」への言及がないことに仰天してしまった。

つまりはそのピコピコ道具を作った人は、『旧約聖書』の「出エジプト記」でモーセがエジプトに色んな災厄をもたらしたエピソードを念頭に置いてるのに、その道具を紹介する人は作り手の意図を全く理解してないというーー

ピコピコを本式に人に伝えよう!としてる人は、ピコピコの成り立ちから知ってるし、一つの領域に閉じこもってないもんな。敬愛するAzat Mardan師匠は、年間100冊を読み切る読書家みたいだし。

あと思ったんだけど、ピコピコは専門性・細分化が顕著だからこそ、「おぬし、なかなかやるな」というMardan師匠的な人は、むしろ色んな分野に関心持とうとしてるのかも。

古文研究の小西甚一さんにしても、英語はもとよりルネ・ウェレック(!)にも言及するなど、「日本文学の観念史派」だった様子。

やはりこういう書き手自身が学ぶことに積極的な本の方が、読んでても面白いし、学習する上でも参考になるよナー。

まとめ: 良い参考書は、書き手が「学ぶの大好き!」である

共通点をまとめてみると、結局、「良い参考書の書き手は、良い学び手である」ということに尽きるのかも。

つまり、自分が色んなことを学んで身につけるのが面白いので、さっき言った「業」(©︎みうらじゅん)のような実例探しも、イヤイヤやってないんだな。

学んで終わりじゃなくて、これからももっと学んでいくぞ! よりよい方法はないかな?と前のめりな姿勢が、良い参考書の紙面にあらわれてくるんじゃないだろうか。

そうは言っても学習法は人それぞれみたいで、分厚い一冊やり切るのが好きな人もいれば、短くカンタンに終わらせられるのが好きな人もいるので、そこが一律でない。

ただ、独学修行を長く続けてわかったけど、ちゃんと探してると「自分にピッタリ」の参考書or師匠が見つかるんだから不思議。むしろ「合わないけど、まあいいや」で済まさず、「ピッタリなのを見つけるまではやらないぞ!」という思いきりの方が実情としては正しいみたい。

自分の場合、ピコピコ道は「動画講義」が合ってたようなので、学ぶジャンルによっては新しい手法を試してみてもいいかもしんないと思うのでした( ´ ▽ ` )ノ

# by ulyssesjoycean | 2019-06-16 12:00 | Comments(0)

堀井雄二さんが「あっという間にBASIC覚えた」伝説のマニュアル、『みんなで使おうBASIC』( ´ ▽ ` )ノ

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(ドラクエの生みの親、堀井雄二さんが初めて購入した「マイコン」(Notパソコン)についていたのが、この『みんなで使おうBASIC』だったとか。書籍じゃないから「名著」と呼んでいいかわからないけど、「これでBASICおぼえました」という成功体験をたくさんの人に与えた一冊みたい。気になるなぁ)

独学修行が長いので、そのぶん各種の「参考書」のお世話になるんだけど、そうした回路から名前が入ってきた『みんなで使おうBASIC』。

ドラクエシリーズの新作がそろそろ発表になるとかで、その関連で堀井雄二さんがラジオにゲスト出演。で、生まれて初めて購入した「マイコン」の話に。

27歳のときに「PC-6001」という機種を購入、そこについていたのが『みんなで使おうBASIC』だったそうな。

堀井さんの話を聞いてビックリしたんだけど、まずこの『みんなで使おうBASIC』が「すごくわかりやすかった」そうで、それで「あっという間に」ピコピコ言語のBASICを覚えたそうな。

BASIC自体、その名の通り初心者向けのピコピコ言語だけど、それにしたって「あっという間に」覚えられたというのはスゴイ。でまた、そうなったのは堀井さんだけではないみたいなんだな。

そもそもピコピコ関連の参考書を開いて、「すごくわかりやすい」と読んだ人に思わせる冊子というのはフツーでない。「すごくわかりにくい」と思ってピコピコ言語やめちゃった人の方が多いのでは( ´ ▽ ` )ノ

その道の人に聞いたら、ぜんぜん知識なくても最後まで読み通せたそうだし、文章(文体)に工夫が凝らしてあったそうな。やっぱり技術書であっても、「文章のよさ」は大きいんだなぁ。

ちょっと前に必要に迫られて日本語で書いてあるピコピコ言語本に目を通したんだけど、あまりの素っ気ない訳文に「いくら技術書でもこれは」という感想を漏らしたことが。

これについてもその道の識者から、技術書は正確さが第一なのはもちろん、技術書の出版はスケジュールが超超タイト、日本語を練り上げるだけの時間はとても確保できないとか。

そういう事情があったのでは仕方ないかな、と思っていただけに、『みんなで使おうBASIC』が「知識ゼロでも通読できて、しかも文体が印象的」というのはスゴイ!と。

でまたその一冊が、堀井雄二さんほか、当時のたくさんの作り手を「育てた」わけだから、これは独学修行人としても無視できない! ぜひ参考書の参考にしたい!的な(´∀`)

しかし悲しいかな、『みんなで学ぼうBASIC』は、そもそもマイコンに付いてた「マニュアルの一種」で、つまり「書籍」ではないんだな。なので図書館にも収蔵されてないという。

欲しい人は欲しいらしく、各種オークションサイトでも「ワーオ」というプレミア価格がついてるし、「ちょっとみてみたいナー」程度の関心ではなかなか手が出ない。ヌー。

しかし堀井雄二さんの購入した「PC-6001」のスペックを見てビックリしたんだけど、主要記憶装置の容量が64「キロバイト」(^∇^)。

64キロバイトって、今なら手持ちピコピコのメモ帳に数行メモしただけで「おわりでーす」という分量じゃないかな。そういう中でやりくりしてたんだから、その当時のピコピコラーさんはスゴイナー。

もちろんそのぶん、堀井さんよろしく「ぜんぶ一人でやってました」というわけで、紐はもちろんピコピコ画像から音楽から「全体を見ていた」経験が大きいんだろう。

いまは分業化が進んでるし、かく言う自分も「前終わり全然ダメ」で「後ろ終わり超楽しい」だから、まさにその「分業」スタイルなわけだけど。

今回は参考書バナシだったから、独学修行を続けてく中で「これは良かった!」という参考書をズラズラ挙げてくのも面白いかもしれない。気が向いたらやろ(テキトー^_^)

# by ulyssesjoycean | 2019-06-13 12:00 | ピコピコ武者修行 | Comments(0)

「過去形があるのになんで完了形?」 素朴な疑問をごまかさない名著! 朝尾幸次郎『英文法の「なぜ」』ヽ(´▽`)/

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(「過去形があるのに、なんで完了形が必要なの?」というギモンからスタートした英文法書は初めて見た。ニガテな人が感じる疑問をごまかさずに追求した点がすばらしいヽ(´▽`)/ いずれこういう「ニガテな人目線からの数学書」「ニガテな人目線からのピコピコ紐書」を準備したいくらい。朝尾幸次郎さんの『英文法の「なぜ」』は、大修館書店から税込1,944円にて発売中)

このところ数学&ピコピコにかかりきりだったけど、なにか本能を刺激するものがあった朝尾幸次郎さんの『英文法の「なぜ」』。オー、これは久々の「あたり」だ!と感激。

まずこの朝尾さん、そもそも英語が全く得意でなかったそうで、「過去形があるのになぜ完了形を使うのか」とか、「なぜ英語には日本語で言う『〜は』(てにをは)がないのか」など、いちいち引っかかっていたそうな。

本文中には古英語・中世英語はもとより、フランス語、ラテン語への言及もバッチリ見られるので、ニガテなところをごまかさずに突き詰めるあたりに好感を持った。

自分の数学/ピコピコ学習でも、「ニガテ組の感じる疑問は、トクイな人はそもそも意識すらしない部分」と分かったので、気になる箇所はすべて自分で調べることに。

なぜ「平均」をあらわす略字が「A(verage)」でなく「M」なのか、「√」の記号はなんであの形をしてるのか、などなど、分かった時はメチャ嬉しかった。

ただ厄介なことに、こういう「ビックリするくらい瑣末な部分」の疑問は、自分で気づくのは言うほどカンタンではない。

自分が数学をやり直してそのことに気づけたのは「自分なりの学習方法が定着してた」からじゃないかな。

だって√の記号なんて学生時代にウンザリするほど「目に入って」いたのに、「記号が読めないことがモンダイだった」と気づいたのはこの数年の話。

自分の場合、語学はそれこそ抵抗をあんま感じないままアレもコレもとやってきてしまったので、それこそ「数学の√の記号はなんであんな形なの?」レベルの疑問を持ちたくても持てない。

それだけに、著者の朝尾さんがごまかさずに一つ一つ突き詰めていったことには大きな感激と共感が。

特に語学はTとかCのつくハイスコア至上主義になりがちだし、あとはアチラの大学に行ってムリクリなんとかしちゃうケースもある。つまりは「ビックリするくらい瑣末な部分」は置いてけぼりになりがち。

自分としても、数学のツマヅキはここだったんだ!と分かって嬉しかったので、その英語バージョンとでも言うべき本書には拍手喝采。

あとそれだけにとどまらないのは、日本人泣かせな「aとtheの使い分け」についても、今まで目にしたことのない解説が読めたこと。couldとかmight、beを使った仮定法など、自分でも「そうだったのかー!」と池上ダレカばりに快哉をさけんだ。

あとはあれだな、朝尾さんの偉いところは、新旧とりまぜて例文が「実例主義」ということかな。つまり「実際に使われてる表現だけ、例文にします」という手法。これがスゴイ。

フランス語文法では、西村牧夫さんがこの手法を徹底していて、とにかくぜんぶ実例を使って解説するというのは並大抵のことでない。だって解説したい項目は先にあるけど、それにピッタリの実例は「出会わない限り見つからない」わけだから。

西村牧夫さんもそう言ってたし、今回の朝尾さんも同じこと書いてたけど、「教える立場に立ってみて、『自分が何も知らない』と気づいた」というのが共通してるのね。

そういう原体験を持つ人は、「自分でゼロから説明原理を作り上げる」必要あるから、それが西村牧夫さんのフランス文法に結実したり、今回の朝尾さんの一冊になったりするわけだな。

前にヘーゲルの伝記を読んでたら、「A先生もB先生も十年一日のごとく同じことの繰り返しだったが、C先生だけは常に『よりよい方法はないか』と工夫を凝らしていた」と書いてあったな。1800年代に(^∇^)

モンテーニュさんも「現代のキョーイクはひどいものだ」と、450年前(!)に書いてるけど、裏を返せばその当時から西村牧夫さん、朝尾幸次郎さんばりに「工夫を凝らす」エライ人がいたとも言えるんだな。

久々に英語学習本で目を開かれる思いがしたので、マジメに長文の投稿をしてみた。語学がニガテな人にもトクイな人にも大きなプラスある一冊だと思う。オススメ( ´ ▽ ` )ノ


# by ulyssesjoycean | 2019-06-09 12:00 | Comments(0)

E・M・フォースターさんが1番大きな影響を受けたのは、サミュエル・バトラー? 好みが渋すぎる(´∀`)

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(英語で本を読み始めた頃、E・M・フォースター作品も安いのをアレコレとペンギン版で購入してたのを思い出した。でも不思議と愛読するようにならなかったので、なんでかなーと思ったら、フォースターのエッセイを読んで納得)

「イギリスの」というより、「英国の」といった言い方がピッタリの一連の作家がいるけど、E・M・フォースターさんもその中の一人という位置付け。

ジョージ・オーウェル、イヴリン・ウォー、フォースターみたいな。

ところがオーウェルとウォーはそれなりに愛読して印象に残ってるけど、不思議とフォースター作品は愛読するに至らなかった。吉田健一さんが頻繁に言及するから、どんな人かなーとは思ってたんだけど。

それが今回、たまたまフォースターのエッセイ集を読んで妙に納得。フォースターさんが1番影響を受けたのは、サミュエル・バトラーの『エレホン』なのね。

別にサミュエル・バトラーが悪いわけじゃないけど、フォースターさんが名前を挙げる作品や書き手が、なんというか、大時代的な名前ばかりで、ギボンとかショーとか、そういう系統がバンバン出てくる。

で、自分はそっちがあまり性に合わず、フォースターさんが挙げる名前がことごとく自分の「イイナー」と思う作家とは別方向なので、フォースターさんを愛読するに至らなかったのは、こうした志向の違いがあったのね、と。

よくよく考えてみたら、フォースターさんもそのお一人だったという「ブルームズベリ・グループ」自体、アンマナーだったので、そのことを追体験する形。

ヴァージニア・ウルフとか、たまーに『Mrs. Dalloway』『To the Lighthouse』に挑戦しようとするんだけど、毎度毎度数ページで手が止まってしまう。

リットン・ストレイチーとかも、今の今まで親しむ機会ないので、これはどうもブルームズベリの方々とは適性ないようだ。ちょっとザンネン。

# by ulyssesjoycean | 2019-06-05 12:00 | Comments(0)

デザインなぜかニガテ〜なヒントが見つかって少し嬉しいの巻(о´∀`о)

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(尊敬するビジネスパーソン・安西洋之さんが翻訳すると宣言した、Ezio Manziniのデザイン本。ベルガンティの「意味イノ本」でタッグを組まれた八重樫さんと今回も共訳される由。ヨーロッパ系のデザイン本は哲学シソーの話もドシドシ出てくるあたりが硬派で良いナー( ´ ▽ ` )ノ)

以前から「何か落ち着かない」気分を引きずっていた「デザイン」という言葉。引きずっていたというか、今も絶賛モヤモヤを引きずっている次第(^∇^)

ピコピコ系のデザインとなると、真っ黒画面を動かす時のヤル気が10分の1くらいになるので、自分でも「なんだろうこれ」と常々思っていた。またその理由が自分にもハッキリしないので、やたらモヤ〜ンとするんだな。

それが今回、「あっ、もしかしてこれか?」というヒントが見つかる。

デザイン系の学習本を眺めてたら、最終案を選ぶに際して出てくる言葉が「すっきり」「読みやすい」「大胆に」「きれい」なんだな。つまり「感覚的な表現」が選択の基準になってる。

感覚を大事にするのは別段悪いこっちゃないんだけど、自分が悩むところは「感覚は “人それぞれ”じゃないの?」ということ。メチャ振り幅のある「感覚」を決める理由にしちゃっていいのかな、なんて。

極端な例で言えば、本の活字の大きさとか、読み手の「年齢」で変わっちゃう面があるのでは。

こっちが以前よく見ていた『BSマンガ夜話』なんか、シリーズ後期になるとみんな老眼だから、マンガのページ数を確認するのにメガネを外すシーンが(´∀`)

そうやって考えると、老眼の人向けには文字は大きい方がいいんだろうけど、老眼と言ったって人それぞれだし、やたら活字を大きくすれば、老眼じゃないの人が読むときには大きすぎて読みにくいかもしれない。

一事が万事その調子で、人物は同じでも10年前と今では「感覚」が違うのは当たり前だし、10年後の感覚が違ってるかもしれない。

そういう「人それぞれ」なものに対して、何を拠り所にすればいいのかな。どうもデザイン周りではこういう側面が気になってたみたい。

あとはその感覚云々で思ったのは、「なんで?」がないことかなー。「読みやすくなりました」というのは分かったけど、「なぜ読みやすくなったのか」が説明されてない。数学を学び直した時と全く同じ心境だなこれは( ´ ▽ ` )ノ

太い文字と細い文字だったら、細い文字の方が読みやすいーーいやいや、「なぜ細くすると読みやすくなるのか」が知りたいんだけども、と。

例えばマルとシカクだったら、ニンゲーンは丸いものに注意が集まるという心理学の実験結果がある。あとはニンゲーンは「顔」に最も注意が行くから、顔に似せたマル型にも同様に意識が行くんだよ、なんて。そこまで言われれば納得。

ところがそういう情報まるでなしに「読みやすい」とだけ言われてもなぁと。文字ならまだしも「きれい」とか「大胆」ってなっちゃうと、もう何を基準に決めたらいいんだろうと。

アートとかゲージツであれば「きれい」とか「大胆な」をガシガシ言っていっていいと思うけど、近年、デザインはビジネスの世界にも取り入れられるような理知的なアプローチが主体なので、それでいーんかな、と。

ヘタすると「自分には読みやすいから、これでいいんだ!」的になっちゃう危険性も。考えすぎかな。

デザイン周りはモヤモヤすることが多かったけど、とどのつまり「個人の感覚」というのが一般的な着地点になってるから、そこで色々迷ってたんだろう。

自分が絵を描き始めた頃は、とにかく鈴木光太郎さんの認知科学本を愛読してたけど、いままた鈴木光太郎さんの書籍に向かうと色々得るものえるかもしれない。

そんなことを思ったのでした^_^  周辺にデザイナーさん多いから、「最終的なデザインの決め手は何か」を機会あるときに聞いてみよ。自分はとりあえず「複数案を出す」形でお茶を濁してる面あるから( ´ ▽ ` )ノ

# by ulyssesjoycean | 2019-06-01 18:00 | Comments(0)

大鶴義丹さんと高山宏御大の喋り方が似てる⁈ 観相学ならぬ観声学なんてないのかなー(´∀`)

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(庵野秀明さんが声優を務めた『風立ちぬ』。ブルーレイでフランス語吹き替え版も観たんだけど、声優さんは非常に上手だった。でもなぜか日本語版の庵野さんバージョンほど感動できなかったので、その意味でも色々と考えさせられたナー。フランス語版では「にいにいさま」が「Petit grand frère」と表記されてるのが微笑ましかった( ´ ▽ ` )ノ)

メディアと名のつくものではせいぜい伊集院ナニガシさんのラジオくらいが唯一の接点というこの頃、以前は感じなかった新しい聞き方が加わるように。

伊集院さんの朝のラジオには色んなゲストが登場するけど、当然ラジオだから話し手の顔が見えない。

そうやって聴いていると、「あれ、この人とこの人の話し声は似ているぞ」なんてことを感じる。

最近の放送で言うと、俳優の大鶴義丹さんと高山宏御大の話し方、声が似てるなぁと。お二人のご年齢こそ違うけど、同一線上にある感覚。

あとは脚本家の柏田道夫さんと、アニメーション監督の庵野秀明さんも、「似てるなぁと」という。

なんだろう、声も似てるけど、口調も含めて「あっ、この話し方は聞いたことがある」って思うんだよね。

だからなんだってことでもないんだけど( ´ ▽ ` )ノ  そういや「声が似てる」って、どの辺で決まってくるの?と。

よくある話として、それこそラジオのトークテーマなんかで聞くのは、友達の◯◯くんに電話したつもりが、実際に電話に出てたのは◯◯くんのお父さんだった、とか。

親子だけでなく、兄弟姉妹でも「声で本人だと勘違い」エピソードはよくあるし、骨格とかが関係してるのかなぁ。

マジメな話、バンドのヴォーカリストが変わったりするとファンの間で大ロンソーになるのも、この「声のイメージ」が大きいんじゃないだろうか。

『龍が如く』シリーズで主役を務める黒田崇矢さんがおっしゃってたけど、それこそシリーズもののキャラクターが変更になって、後からその役を引き継いだ人は総叩きになる由。

で、その「新しい声」にお客さんが馴染むまでに半年くらいかかるとか、なんかそんな話が『龍が如く』のポッドキャストで配信されてたな。

*中身は正確じゃないので、御用とお急ぎでない方は龍が如くスタジオのポッドキャストで確認ください(´∀`)

そんなこんなの下敷きあったとは思うんだけど、この1〜2ヶ月くらいで急に「あ、この人とあの人の声が似てる」ってことがラジオ越しに感じられるようになった。

ただ似てるだけならそれで済むんだけど、大鶴義丹さんがテント小屋芝居をやってるという話をされており、あれ、高山御大も水族館劇場という「テント小屋芝居」に関わってるんじゃなかったか、とかとか。

それこそタカヤマ学派的なキーワードで言うと、ラファーターの観相学(Physiognomy)があるけど、その人の声を研究した分野ってなかったのかな。観相学じゃなくて観「声」学^_^

それで言うと、いっちばんそれに近しい研究はアレだな、『探偵ナイトスクープ』の「赤ちゃんが泣き止むCM」というやつ。

タケモト◯アノのCMがかかると、大泣きしてた赤ちゃんが一斉に泣き止む(!)というので、ウソかと思ったらホントだった的な。

結果あれは財津一郎さんの声が440ヘルツだかで、人間の耳に心地よく響く音程だとかなんとか。

ここまで書いてきて、よくまあ「ラジオで聞いた声が似てる」だけでこんだけ連想が広がるなど自分でも呆れるけど(^_^;)、これまでまるで考えもしなかったことだから、なーんか大事なことが含まれてるんじゃないかなーって。

例によってオチとははないけど、大事な気がするナーってことは一応書き留めておこうかナーということで書いてみたのでした。ヌー(*´ω`*)

# by ulyssesjoycean | 2019-05-30 12:00 | Comments(0)

エリ・マオール『不思議な数eの物語』が気になります! 素数と違って名前しか知らない自然対数(´∀`)

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(「あっ!この数学書はオモシロそう‼︎」と直感した、エリ・マオールの『不思議な数eの物語』。Prime Numberはリーマン予想の時に馴染みができたけど、同時にeで表される数もあるよとインプット。『不思議な数eの物語』はちくま学芸文庫から税込1,620円にて発売中)

久々に数学書を眺めて「ピーン!ときた」(©︎みうらじゅん)、エリ・マオールさんの書籍、『不思議な数eの物語』。

素数はPrime Numberというのだと、リーマン予想のアレコレを通じて知ったけど、一方、むかしっからよく使われる数にeというのもあるとか。

自然対数という日本語はインプットされたけれど、悲しいかな、eが何の略なのかわからないーーというより、今の今まで調べてこなかったな( ´ ▽ ` )ノ

著者のエリ・マオール(Eli Maor)さん、いったいどこの人なんだろうと思ったら、イスラエルの方なのね。

なんだっけ、リチャード・セイラーさんが大きなインスピレーションもらった心理学者コンビもイスラエル出身だったし、黒い白鳥がどうした、という本を書いた人もイスラエル。

色んな学者さんが出てるんだなーと思ったら、この人もかい!という。

本題のeだけど、これ、貝殻の巻き方がどうしたとか、そんな文脈で出てきたような。あとはオイラーとか。

なんか「むかしからよく使われてたベンリな数」だったらしいんだよね。ただそれがどーいう文脈で使うと便利なのかはまるで知らなかったので、それもあってエリ・マオールさんの本にピーンと来たのかな。

あとはイスラエル、エリ、という名前から、自然と『新約聖書』にあった「エリー、エリー、レマサバクタニ」という言葉を連想する。

新約聖書をはじめて読んだ時、ここだけカタカナ表記されてたので、なんだろう?というのが印象に残った。「主よ、主よ、なぜ私をお見捨てになるのですか」だったっけ?

それとEli Maorさんの名前が関係あるのか知らないけど(^∇^)、覚えやすい名前でもあるし、この機会にエリさんの数学書にいろいろ触れてみよ。日本語で数学やるのシンドイから、英語でだと思うけど。

# by ulyssesjoycean | 2019-05-29 12:00 | Comments(0)

「モデル」が「憧れのお仕事」なったのはいつ頃から? あと福田晋一『そのビスクドールは恋をする 3』が素晴らしすぎるんだが( ´ ▽ ` )ノ

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(「興味なかったことをやってみよう!」という自分だけのキャンペーンを実施してみた結果、数学とピコピコ紐ingにはドハマりしたけど、残念、カメラで写真を撮る方面はヌーンという感じだった。ナダールとかダゲレオも名前だけしか知らなかったので、実際の写真集で当時のポートレートを見られたのは大きかった。今も発売されてるのかな)

「興味なかったものの中にこそ発見がある」と、数学とピコピコ紐ingで味をしめたので、「機会があればやってみよう」のキャンペーンは継続中。

ただそこは人間よくしたもので、興味ないことの中には、実際にやってみても「やっぱり合わない」と分かるものがあり、それが自分の場合はカメラ。

一眼レフとか名前しか知らなかったけど、自分でカメラ持って撮影したら感じ方が変わるかな?と思ったけど、自分の興味ゲージは着手前から据え置き(^_^;)。ま、そういうもんだな。

ところが最近になって俄かに関心高まったのが「モデル」というお仕事。あのお仕事は、いったいいつからあるんだろう?

それとなく周辺でモのつくその仕事をしてる人がちょこちょこおり、言われてみればその職業の成り立ちを全然知らなかったな、と。

撮る側のケンキューは芳しくなかったけど、撮られる側のケンキューをしたら何か閃くものがあるかもしれない!

というのも、5/25に発売になった福田晋一さんの『そのビスクドールは恋をする 3』(スクウェアエニックス)が超オモシロイんだな(^∇^)

でまた、自分のあこがれのキャラクターに成り切る、服を作る、さらには撮影機材や照明にまで「撮られる側」視点での話がてんこ盛り。

それでまた、モデルって、今の世の中ではごく当たり前な職業でもあり、憧れの対象にもなったわけだけど、それこそナダールとかあの頃はどんな扱いだったのかな。

四方田犬彦さんの何かの対談を読んでたら、写真機が出始めの頃は丸っ切り山師商売だったとかで、撮る側でさえそうなんだから、撮られる側が職業として確立してくのは相当な難路だったんじゃないかな。

自分も今、せっせとピコピコで紐を書いてるけど、ナダールさん当時の写真家に向けられたのと似たような視線とも思えるし。

もっと言うと、新しいものは何でも批判の対象にもなるので、なんだっけ、『モンテクリスト伯』のフランスドラマ見てたら、「機関車に乗っていて25キロ以上出たら、乗客は全員死亡するという研究もある」なんて話があった。

新幹線で時速300キロを目の当たりにしてると、そんなバカなと思っちゃうけど、「機関車というものがはじめて生まれた」当時、頼るべきデータは何もないんだから、そうした反応も当然と言える。

だからまあ、「新しい◯◯」が、「職業として認知される」までの過程が「モデル」を調べたら分かるかもしれないナーなんて。

そんなメンドイことはさておいても、福田晋一さんの『そよビスクドールは〜』は超オモシロイので超オススメですヽ(´▽`)/


# by ulyssesjoycean | 2019-05-27 18:00 | Comments(0)

“Learning”は「ドラゴンキラー」? マイナスなくす方面の学習バナシ(´∀`)

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(神話学者として名高いジョーゼフ・キャンベルさん。ビル・モイヤーズとの対談を収めたこの『神話の力』は折に触れて思い出す一冊。早川書房から税込1,080円にて発売中)

ピコピコから数学から節操なく色々学んでいるけど、「学習」の一番の効用は、「なにかを身につける」ことじゃなくて、「何かに対する恐怖心をなくす」ことかもと思うように。

「なにかを身につける」はプラスを付けてくことだと考えられるけど、「恐怖心をなくす」はマイナスを減らす効果がある。

というのも、学習したりなにかを学んだりするときに「身につける」だけを基準にしちゃうと、「身につかなかったからもうダメだー!」ってなるような気が。

それとの対比でいうと、「マイナスがなくなる」方面は、(あんま使いたくない言葉だけど)「安心」につながるから、取り組みへのハードルが下がるかも。

自分がピコピコに馴染んで1番良かったのは、「身についた」方面より、「おっかなびっくり使うことがなくなった」ことだもの。

バリバリのピコピコラーさんたちのインタビューや回想録など読むと、小さい頃から「ものの仕組み」に関心強く、分解したり組み立てたりして遊んでた、というエピソードがやたら見つかる。

つまるところ、「つくる」方面への興味なんだけど、自分としては「つくる」方面へのエネルギーが希薄。だってゲームもピコピコも「すでにたくさんある」んだもの( ´ ▽ ` )ノ

もちろんこれはモノの言い方であって、ピコピコに限らず「つくる」が何より楽しいかと言われるとギモン。少なくとも、自分の「つくる」エネルギーは、文章・絵を描く・音楽と、いわゆるゲージツに偏ってる。(だからこそ、あまり具体的な「モノ」をつくることに関心乏しいのかなと思ったり)

つくるものがないとピコピコ学ぶ意義がないのかというと、そうでもないぞ、と分かったのが一つ。「つくる」じゃなくて「なおす」視点。

ピコピコを使っていて1番パニックなるのは、ピコピコさんがコショーした時だろう。モノそれ自体が壊れることもあるし、ピコピコの中に入ってるものが動かなくなることも。

そんな時にちゃんと「ピコピコの知識」があると、トラブルシューティングができる、というのが大きい。

恐怖感はトラブルの時に最大化するから、そのトラブルを「自分でなんとかできる」というのは、大変なストレスフリー環境。

ピコピコが分かりやすいので例えに出したけど、これ、「学習」全般に言えることなんじゃないだろうか。

自然言語についても「なにが書いてあるからわからない、なにを言ってるかわからない」キョーフ感は相当なものがあるだろう。

ピコピコの類推で言うと、「つくる」にあたるのが「しゃべる・かく」で、「なおす」にあたるのが「きける・よめる」かもしれない。

世に言うコワイものは、オバケにしてもユーレイにしても、「なんだかわからないからコワイ」面がある。

それで思い出すのは映画『エイリアンVSプレデター』(^∇^)。エイリアンさんもプレデターさんも寅さん感覚でハッキリ出てくるので、ぜんぜん怖くないという。

見た後で、リドリー・スコットやジェームズ・キャメロンってエラかったんだなと痛感。『エイリアン』の1、2をあらためて見返したら、暗がりだったり水に濡れてたりカメラが壊れたりして「ハッキリ見えない」のがホラー感を増幅させてるーー

結果、見ながらガクガク:(;゙゚'ω゚'):になるのだから世話はないけど、「姿がハッキリしない、全貌が見えない、輪郭が不確かだ」というのが「おっかない」ことなんだなーって。

もちろん、何かを学習したからって、何ズキルーペばりにハッキリ見えるようにはならないけど、とりあえず「全体像」が見えるようにはなる。輪郭はつかめた!みたいな。

それで冒頭の『神話の力』になるんだけど、ジョーゼフ・キャンベル先生が「〜〜できない」という内心の声を「それはあなたの中に棲む龍ですよ」なんてカッコイイこと言ってる。

童話とか神話とかには「ドラゴンキラー」というのが出てくるけど、キャンベル先生いわく、個人の成長の葛藤と克服が神話には「物語」として投影されてるよだって。

葛藤を代表するのが「ドラゴン」で、その克服が「ドラゴン退治」と。ただドラゴンさんも縁日の射的の的ではないから素手じゃ倒せないので、「ドラゴンキラー」が必要になると。

でこの「ドラゴンキラー」が、現代風に言うと「学習」なんじゃないのかね。ドラゴンキラーは相当後半のアイテムだから簡単には入手できないにしても、「はがねのつるぎ」や「ホワイトメイル」くらいまでは作れるよ、なんて。

あれだな、学習してると良いのは、武器屋・防具屋がナントカ村に揃ってくることなんだろう。ドラゴンを倒さないまでも「ひのきのぼう」が「どうのつるぎ」になり、「はがねのつるぎ」まで使えるようになったら、冒険の安心感は相当だろう。

そんなことをツラツラ考えたな(^∇^)。学習とか学ぶのアレだという場合、それはプラス方面だけ狙ってるからじゃないかなーって。

# by ulyssesjoycean | 2019-05-22 12:00 | Comments(0)

19世紀のヨーロッパはフタばっかりでやりきれない だからこそ「自然ってスバラシイ!」なの?( ´_ゝ`)

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(荒俣宏さんの紹介文で先に知ってしまった「博物学(者)」。これまでは人文学一辺倒だったけど、ピコピコ由来で数学もやり、自然科学方面にも馴染みができたので、19世紀の博物学も以前より親しみやすくなったなー。何だっけ、著者のリン・バーバーさんの旦那様について、小説風の自伝的エッセイも出版されてたような。リン・バーバー『博物学の黄金時代』は国書刊行会から異貌の19世紀シリーズとして発売)

このところ19世紀の各種散文(フツーの文章)+韻文(詩)を眺めているけど、19世紀ヨーロッパは「抑圧の時代」だつたんだナーということを考える。

「抑圧の時代」というとなんだかカッコよすぎるので、違う言い方をしてみたい。なんだろう、人の意識や行動が至る所で「フタ」をされていて、6〜7割がたはそのフタで押さえつけられる感じ。

当然、残った3〜4割でなんとかやっていこうとするんだけど、当然、考えることや振る舞いもその狭い範囲で非常に窮屈。

でまた、当の本人たちが「フタをされている」とは気づいてない場合が多く、窮屈さから居心地の悪さを感じているんだけど、それが何かハッキリ言えないのでいイライラしてるーーそんな印象。

で、そういう「フタをされてる」ことに気づいた鋭敏な人たちもいて、それぞれの制約のもとに奮闘してたんだけど、ついに「フタがあるではないか!」と露悪的に言い始めた19世紀人が、マルクスとキルケゴールとニーチェなんじゃないかな。

マルクスさんは産業機構がメチャいびつになっていることを「これはシステムそのものを変えないとダメだ」と痛感したそうだし、キルケゴールさんは「教会はもはや信仰の場ではない、単なる権威と儀式に堕してしまった」なんて言ってる。

一方のニーチェさんは、むしろフタの押さえつけを10割に強めよう、それだけ押しつぶされれば、その「反作用」としてフタを押しのける力が生まれてくるだろうーーみたいな。

このお三方はそれぞれに強烈なやり方でフタをこじ開けようとしたけど、そこまで強烈でない人たちも、「フタのことを気にしなくていい世界」を求めてた雰囲気。

というのも、当時のヨーロッパで野山の散策とか、野鳥を観察するナチュラリスト運動みたいなのがあったらしい。それまでは「狩猟」がメインだったのに、それが「観察」に軸足が移っていく。

ニーチェさんやキルケゴールさんも、よく野山や草原を散策したそうだけど、人間ばっかりの”respectable”な世界に嫌気がさして、「人間のいない自然」を求めたんじゃないかなー。

『博物学の黄金時代』でも、老若男女が分け隔てなく野山で昆虫やら動植物を観察・採集するようになったのは、そうした「バランス感」の必然があったんじゃないだろうか。

前にジョイスの”Portrait of the artist as a young man”を読んでたら、スティーブン青年が罪を告白しに神父さんのとこに行くんだけど、この神父さん、「その罪というのは、imaginaryかね?」と尋ねるんだな。

imaginaryだから、「頭の中で考えたこと」も罪の対象になるんでは、当時の人は本当に大変だったんだな、そこまでキリスト教が干渉してたんじゃやりきれないーーと強烈な印象。

20世紀は「フロイトの世紀」と言われるそうだけど、その辺りの精神構造を「無意識」とか、それこそ「抑圧」という言葉で整理した人だから、なんか道理に適ってる気がするな。

実際、フロイトさんと、マルクス〜キルケゴール〜ニーチェの前後関係までよく知らないんだけど、フロイトさんは長命なほうだったから、やっぱり20世紀に食い込んでると思う。

19世紀の小説はまあ、それなりに目を通していたんだけど、それ以外のジャンルをアレコレ眺めるようになったら、なーるほど、なんかジャンルを問わず全体的にみんな「息苦しさ」を感じてたのね、と。

それで自然描写とか野っ原に行って本当に解放される!というふうに書いてるんだなーと。つまりは誰もいないところに行かないと一息つくのも難儀な時代だつたんだなって。

その意味でも、あんまジャンルにこだわらずにその時代をまるっと見てみるのは大事かも。小説だけだとこういうことに気づけなかったからなぁ(´∀`)

# by ulyssesjoycean | 2019-05-15 12:00 | Comments(0)