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食えないおじさん、カトーさん(古代ローマの方の)

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(古代ローマの『太平記』といった印象のモンタネッリ『ローマの歴史』。現代と古代が違うというのはわかるんだけど、まだイエスが生まれる前なのに、延々とサツバツとした話が続くのでどうするかと思っていたら、やっと共感できそうな人を食ったおじさんが出てきた。食えないオヤジのカトーさん唯一の書物がこの『農耕論』だそう)

日本の『太平記』も太平とは程遠い内容が延々と繰り広げられてて、さらには藤原のなにがし、やあやあ我こそは足利のなにがしと、似たような名前が続くので1冊読んでそれっきり。面白いっちゃ面白いんだけども。

モンタネッリさんの『ローマの歴史』(中公文庫)も似たようなテイストだなぁ。ーーというか、延々と戦うばかりの描写なので、取りつくシマがない。

そんな時にやっと共感できそうな人物として、カトーさんが登場。ローマの頽廃を叱咤する法律家で、貴族相手に舌戦を繰り広げるも、なぜか出世街道もバクシンするあたり、「食えないオヤジ」感が満載(^∇^)

実際、なんか好もしいところのある人だったんだろう。紀元前の人には珍しく冗談を忘れない人柄だったそう。同じ頃のスキピオさんは常勝将軍だったけど、あんま冗談は言わないそー。会ったことないから想像でしかないけれども。

で、このカトーさん、当時の文化人がギリシャかぶれなのに腹を立ててたのに、ご自分はちゃんとギリシャ語を身につけて、その上で批判するのだから気合いの入りようが違う。

弁論なんてロクなもんじゃない、と主張して憚らないのに、ご当人は弁論が大変うまかったとか、なんともお茶目なジイさんだなぁと。

こういう人は敵に回すと一番厄介そうだけど、実際、カトーさんを訴えた側が嫌になるくらい、理路整然とした弁舌と食えないオヤジっぷりだったそう。

一応は古典ラテン語をやっているわけだから、こういう人の著作には目を通してみたい。唯一の著作が『農耕論』というのでウーンと思うんだけど、エッセイ的な話題も多数おさめられていると言うし。

何より、ラテン語を母語とする人が、はじめてラテン語だけで著したものの由。ダンテがラテン語じゃなくてイタリア語で著作したとか、そういうエポックメーキングな人。

何より、冗談や現代でいうユーモアを持ってた人だというのが良い。尊敬するミヒャエル・エンデさんの話に「古代は美でいっぱいだけれども、善意のおおらかさがない」とあった。

ローマの喜劇を見ても、奴隷がさんざんぶちのめされて終わるけれど、現代人としては、かわいそうだと思ってもゲラゲラ笑う素材には程遠い、古代は感性そのものが違うのだ、云々。

そうした中でカトーさんは、エンデさん言うところのユーモアに近いものを持ってる気がしてならない。始終ギロンを戦わせて、なおかつその自分を笑えるヨユーが素晴らしい。

読む前からこんなハードル上げていいのかなとは自分でも思うけど(^∇^)、マジメな方面から言うと、「冗談が言える」というのはかなり大事なことみたい。

UとかXの関係でここ1〜2年は心理学書をメチャメチャ読んでるけれども、その手のお医者さん方面の心理学書に、「患者さんが快癒期に近づくと、当人が冗談を言いはじめる」そうな。

それが国も時代も異なるマジメーな医学書に共通例として出てくるので、ふーんと思ったな。開始当初のキッツイ状況の時は罵詈雑言、頑健なフロイト先生も参るくらい大変らしい。

回復期に入ってくると、罵詈雑言を飛ばしてたその人が冗談を言うようになるそうなので、それが1つのサインなんだとか。あ、この人、良くなってきたんだ、みたいな。

それも「冗談を聞いて笑う」のではなくて、「自分で冗談を言う」ようになるのがいいじゃない(©︎みうらじゅん)。なんらかの気持ちの余裕のあらわれなのかな、ジョーダン飛ばせるって。

前に「世の中、『◯◯(*お好きな数字を入れてください)の習慣』が山ほどあるが、ぜんぶ足したら合計で幾つになるのか」と大変気の利いたことを言ってた方がいたな( ´ ▽ ` )ノ

想像するに、カトーさんは紀元前のローマでこんなことばかり言ってた人じゃないかと思うんだよね。

幸い、紀元前の著作が現代まで残ってるというんだから、これは一度、ロウブ古典文庫を通じてカトー先生のしょーもないご高説を伺いたい。

ラテン語の文章はやたら修辞が細かくて、そうスラスラと読めるもんじゃないとその道の人に聞いたけど、そういう修辞をボロクソに言っていたカトーさんは文章も平易じゃないかなと期待してるところも。

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# by ulyssesjoycean | 2018-02-24 12:00 | Comments(0)

『Maps and Politics』の著者も、実は「空想地図」を作ってた!

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(「空想地図」の作者として話題になった今和泉隆行さん。ちょっと前に伊集院光さんの朝のラジオにも登場されてたけど、今回購入した『Maps and Politics』の著者Jeremy Blackさんも同じようなことしてたみたい。高山御大を経由して知ったReaktion Booksは、好きでちょこちょこ読んでいたり)

「メタ認知」というカタイ名前に「みうらじゅん」テイストの名前を付けたいと思いつつ、みうら法師ほどピーンと来ないのが悲しい。

メタ認知というとカタイけど、これ、要は「自分をRPGのキャラクターに見立てる」ことのようなもの。戦士は魔法を使えないから、このモンスターとの戦いでは不利になる、とかとか。

キャラクターの特性と能力を掴んで、「このキャラクターをこういうパーティに入れておけば、このボスキャラも楽に戦える」みたいなもの。

これを「自分相手にやってみる」が要するにメタ認知なんだろうけど、ゲームと違って「ステータス画面」が見えないからなぁ。

UとかXのつく分野をやってみた結果、「いま現在の自分の状態がわかる」のはサービス運営の上でとっても大事みたい。

以前それを痛感したのがエレベーター。ちょうどエレベーターの改修作業だかで、「エレベーターは来るけど、何階にいるのか、上がってるか下がってるか」分からないだけでえらく困惑する。

RPGはその点、キャラクターが毒でやられれば、画面の色が変わって「どく」とか表示されるし、また残りのHPも分かるから、あと◯ターンは回復魔法をかけなくても持ちこたえられる、とかとか。

そのアナロジーで行くと、「メタ認知」が高いレベルで使いこなせる人であれば、HP、MP、レベル、キャラの職業、次のレベルまでに必要な経験値、その他の「ステータス画面」がいつでも利用できるイメージ。

その反対に、メタ認知が全くないのを想像すると、そうした「ステータス画面なしでRPGをやる」ようなものかもしれない。

あともう一つ、RPGが「よくできてるな」と思うことに、「常にワールドマップが見えている」こと。ゲームのこの世界のどの辺に自分がいるのか、常に確認できるようになってる。

町が近づいてきたとか、山ばっかりで敵は強いから洞窟があるんだろうとか、「地図」と「ステータス画面」が相乗効果。このHPではダンジョンはムリだから、いったん町に帰って装備を整えよう、なんて。

メタ認知はたぶん、「ステータス画面」(自分の状態確認)と「ワールドマップ」(全体の見取り図、行き先)の2つをサポートしてくれるんだと思う。

「メタ認知」は「調べる相手」としてはミミック並みに厄介な相手とわかったので、じゃ、「マップの方から攻めてみよう」と方針転換。

「安かったから」という大変安直な理由でJeremy Blackさんの『Maps and Politics』(Reaktion Books)を手にしたけど、序文を読んだら、この人も数学できなくて地図の世界を断念したみたい。

地図作成は幾何学と深い関係にあるのか、高校で地理は「優」を貰ったけれども大学の「専攻」段階になると、数学の運用能力が必須らしく、それで歴史学に転向した由。

『みんなの空想地図』(白水社)の今和泉さんも、物理の点数の兼ね合いで建築方面には進めなかったと書いてあったけど、地図作成の分野は意外に数理的なのね。

そういや、数学が超トクイなアチラの友人に勧められて、MITの教科書である『Applied Mathematics』をやり始めたころ、話がMatrix(行列)からスタートするので、不思議な気がした。

フーリエ変換は応用数学でいつでも使える大変よろこばしい友である、みたいなことも書いてあり、Matrixの世界と応用数学(現実に当てはめる数学)がどう関係するのか分からなかったな。

その後、色々な事情が重なってピコピコ学習もスタートさせたけど、Matrixは「社会交流奉仕」のデータベースにも関係あるのね。

要するに、AさんBさんCさんがいた時に、AさんとBさんは友達、BさんとCさんが友達、というのをリーグ戦の総当たり表つくって記載することできるという。

友達関係があれば「1」、なければ「0」と表現するから、AさんBさんCさんの関係は

[0, 1, 0]
[1, 0, 1]
[0, 1, 0]

と表記できるそう。ナルホド、こりゃ確かにMatrixだ。

ただ、3人でさえ9マス取るのに、これが「社会交流奉仕」みたいになったら、こんなテーブル構造(表)では容量的に非効率きわまるので、Edge形式にするんだそう。

そうやって見てみると、けっこう色んなものがMatrixで表記できると分かり、MITの先生が行列から教科書をスタートさせてたのはこういうことかな?と得心が行った。勘違いかもだけど(^∇^)

それで言うと、地図作成も色んな計算があるんだろうなぁ。そういや精密な日本地図を作った伊能忠敬さんも、天文や算術バリバリの人だった。

そのあたりについていけず、歴史学に進んだというJeremy Blackさんだけど、この人も「空想地図」を作ってたんだって。ファンタジー小説とか子供向けの本に「架空の地図」が載ってて、それにワクワクしていた由。

地図も「縮尺」とか、厳密な世界だから数理的な運用能力は必須なんだろうな。幾何学(Geometry)とか三角関数(Trigonometry)くらいしか想像つかないけど。

GeometryもTrigonometryもいまだ熱心になれない分野だけど、あれ、なんで「角度」を「θ」で表すのかね。OEDもギリシャ語辞典も調べたんだけど、未だに掴めない。

で、「なぜθで角度を表すのか」に納得できないので三角関数に進めないという、数学トクイな人からすればビックリな理由だろうけど、Jeremy Blackさんはきっと同意されると信じたい(^∇^)

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# by ulyssesjoycean | 2018-02-21 18:00 | Comments(0)

古代ギリシャの鉄板ネタ「昔は良かった」と、プルードンさんの『貧困の哲学』

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(2018年現在まで続くロンドン王立協会。自分も「社会交流奉仕」で流れてくる記事を楽しく読んでたり。でも発足当時は良くも悪くもアマチュア集団でしかなかった様子。新発明に興奮する会員と、なんだあんなものという外部の反発は、ロンドンに行かなくても見られるあたりが歴史の面白いところ。M・H・ニコルソン『ピープスの日記と新科学』は白水社から税込4,536円にて発売中)

ちょっと前にエッフェル塔のことを調べていて、パリの街の景観が変わっちゃうと激怒するコンサバ系と、新技術の鉄骨を利用してバリバリ新しい建物を作るエッフェルさん。

我が世の春を謳ったエッフェル社も、新しい建材のコンクリートが出てきて縮小、そーいうサイクルが至る所にあるなぁとシミジミする。

一方で、「なんで人は『新しいもの』に対して忌避感を持つ」のかな?という、そっちの心理に興味が湧いてきた。よくある小噺で、古代ギリシャの石碑を解読したら「昔は良かった」と書いてあったって言うし(^∇^)

もっと言うと、自分の愛読する文語訳旧約聖書の『伝道之書』に、「今日ありしことは昨日ありしこと」なんて書いてある。つまり、一見「新しい」ように見えることも、実は昔のアイディアを再編集したものだと見ることも。

それなら、新しいものに忌避感を感じる必要もなければ、必要以上にありがたがることもないはずなんだけど、17世紀の王立協会から19世紀のフランスまで、「昔は良かった」トークはネタとして長持ちするなー。古代ギリシャの人がネタをパクられた!と怒っても良さそうなんだけど( ´ ▽ ` )ノ

こういう話で「ナルホド!」と思わされたのは、フランスのピエール・ジョセフ・プルードンさん。『貧困の哲学』で「アンチノミー」をテーマにしてた。

鉄道ができれば郵便馬車は衰退する、しかし鉄道の「次の何か」が出てくれば鉄道事業は衰退する。対立し、かつそれを乗り越えていくアンチノミーを次々と生み出してくのが人間である、云々。

ヘーゲルさんはたしか、アウフなんとかといって、対立項を「まとめる」視点を打ち上げてらしたけど、プルードンさんは対立項で乗り越える、みたいなこと言ってて、大変印象的だった。

鉄道ができれば郵便馬車は大打撃だろうが、それは人間の歴史の必然だ、どのみち鉄道だってそのうち取って変わられるんだから、嘆くよりもそういうアンチノミーを次々繰り出すことに注力しようーー

プルードンさんがエライなーと思ったのは、鉄道ができれば郵便馬車事業は大打撃をこうむるというのも、ちゃんと分かってること。で、鉄道自体も「次の何か」が出てくれば郵便馬車とおんなじ目にあうんだし、などなど。

そりゃ郵便馬車側としてはたまったものでないから大反対にしても、鉄道とも郵便馬車とも関係ないところで、「新発明すばらしい」「なんだあんなもの」と、いつだったかのロンドンで目にしたような光景が繰り広げられる。

行動経済学とその方面の心理学をやったら、人間は「変化でしかものを見ない」そう。例えば「10日間」の旅行をして、すばらしい「1日」とサイアクーな「1日」は覚えてるけど、後の「8日」はスパーンと記憶から消えるそう。

なんかこれ、新旧の対立と関係あることの気がするな、と思うんだけど。あとはなぜ「新しい」(見たことない)に過剰反応しちゃうのか、その理由はなんなんだろう。

前になんかで読んだ気がするけど、自分たちと「見た目が異なってるもの」は病原菌や害毒の可能性があるから、それで忌避するようにプログラムされてるとか。

野生動物の生態観測か何かで、著しく見た目が異なるというのは、危険のサインとして認識するとか。

ただキリンとかゾウとかシマウマと、人間の心理を一緒くたにしちゃっていいのかわからないけど、その辺りのメンタリティというか、「そう反応せざるを得ない仕組み」を知りたいなぁ。

知った結果、行動経済学とおんなじように、人間ってアレな感じだと薄々思ってたけど、ホントにアレそのものなんだなーと気付いてガッカリするかもだけど( ´ ▽ ` )ノ

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# by ulyssesjoycean | 2018-02-19 12:00 | Comments(0)

JSやるのに、なぜかOED引いてる回り道。でも実は近道( ´ ▽ ` )ノ

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(JS誕生の歴史も、運営元の長文資料に目を通してやっとそれなりに納得するーーが! 結局、「ザックリ見るもの」開発が関わっているとわかってしまい、そっちも調べないといけないとか、泥沼もいいところ。゚(゚´Д`゚)゚。  でも「中途半端」は結局身につかないと知ってるので、やれるとこまでやろう。それにしてもオライリーは何の本でも出してるな)

いちいち断るのも面倒になってきたイエズス会でない方のJS。誕生の背景を知るには結局運営元の正式な資料を読むしかないとわかり、「言葉」の枚数換算で英文25枚に目を通す。

でもおかけで、「そういうことか」というのは納得いった。網がだんだん広まっていく過程で、「網をザックリ見るもの」も今後はこうなるだろう、こうなってほしい、まちょと覚悟はしておけ。

ピコピコの例えに関白宣言を持ち出してダメダメにするのが、このブログの矜持だけれども(*大げさ)、要は「色んな人が使う以上、バリバリのピコピコラー以外の人が使える環境を用意しよう」と、まずそんなことだったらしい。

あとはそこに大人の事情が絡まりあって、何のかんのでJSが生まれ、また品種改良のごとくバージョンアップしながら年月と共に整理されてったそうな。

文面読む限り、JSは初期の網に関わるようなデザイナー、スクリプター(というのは多分、滝ドドド書式の設定をする人だと思うけど)、その他の「Notピコピコラー」を対象にしてる由。

それで落ち着いたかと思ったら、Notピコピコラーの人たちが専用の環境なくても「ザックリ見るもの」上で操作できるのがJSの強みとして語られてて、これ、結局「ザックリ見るもの」のこともわかってなきゃいけない雰囲気。

ピコピコラーさんたちから大変評判悪かった「網の中冒険家」も最近は「突端」と名前が変わったり、「火狐」に「量子」が付いたり、「ザックリ見るもの」界隈も色々と喧しい。

たくさんの人が使ってるのは「色」だと思うけど、自分のピコピコとは仲が良くないのと、知らないうちに新しい何かが入っていて、それで急にザックリ見るものが動かなくなったりしたので、けっこう前から火狐に完全移行。

今回、正式の資料読んではじめて知ったんだけど、「根付」の後継が「火狐」だったのね。なーんでJSの資料が「ゴジラ&モスラ」的な会社にあるのかわからなかったけど、根付の会社からの流れだったのね。根付の会社が、JSを作ってたそうだから。

*もはや暗号めいてきたけど、どのみちこれを正式に名称でやったって同じことになるので、それならもっとテキトーな名前にしちゃえスタンス(^∇^)

これまで、「ザックリ見るもの」についてはほとんど考えたことがなかった。ピコピコ本体はなんとか自分でも直せるようにと知恵もつき、動かす方のピコピコ命令文にも抵抗はだいぶ少なくなった。

ところが網を見るために使ってる「ザックリ見るもの」さんをまるで知らないのもどうなのかな、とちょっと考え始める。現金じゃないキャッシュを扱ったり、色んなことをしてるわけで。

ーーまあ、こういうことをやっていくと際限がないんだけど、ピコピコ参考書を読みはじめた頃、どれを手に取っても「基礎がない」と嘆きが共通してたんで、ひとつ、門外漢が基礎の基礎からやってやろうじゃないか!と。

なんでピコピコを相手にすると、スコットランド対イングランドみたいになるのかわからないけど(^∇^)、何事も中途半端はいちばん面白くないからなー。

前に阿佐田哲也さんの『ドサ健ばくち地獄』を読んだら、ピカレスクヒーローたるドサ健が、「オレはなんでもとことんまでやりてえんだ」と言ってて、そこに共感したからなぁ。

あとはマジメな話、もともと得意な人は苦手な人がどこに突っかかるか知りようがないので、「この辺が引っかかり」とフォローしていかないと、得意は得意、苦手は苦手だけで終わっちゃって、何一つプラスがない。

でも自分がピコピコに取り組む時に心底良かったと思えるのは、英語の資料が使えることだなー。parseIntなんて出てきてもナゾナゾでしかないけど、ちゃんとOEDで調べれば納得がいく。

ここまで書いてきて思ったけど、なにかスキルを身につけるときに大事なことって「自分が納得できるか」どうかなのかもしれない。

高山御大がよくやる「OEDで語源チェック」も、基本的なことながら「納得感」の向上にはメチャメチャ意義がある。

で、ピコピコの世界に違和感とか抵抗あったのは、たぶんこの辺に理由があるんだろう。この人、「parseInt」という命令文の「使い方」は知ってるけど、parseとIntに、「それぞれどんな意味があるか」がアヤフヤだ、なんて。

別にピコピコに限らず、どの分野でもそうなんだろうけど。前に必要に迫られてEnglish Accountingの本を読んだら、CRとDRが何なのか、尋ねてはいけないなんて書いてあった。

調べれば必ずわかることなのに、なんで調べないのかな、と思うけど、よくよく考えたら、江戸時代の本居宣長先生も「調べればすぐわかるのに、なぜ調べないのか」と怒ってらしたな(^∇^)

でも結局、調べた方が身につくし、身についた知識が長持ちするんだから、結局「ザックリ見るもの」も調べたりするんだろう。『不思議のダンジョン』的なマゾゲーと思って楽しむことにする( ´ ▽ ` )ノ

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# by ulyssesjoycean | 2018-02-18 12:00 | Comments(0)

日本思想はどうもナーだけど、中公文庫だから奈良本辰也『武士道の系譜』

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(「興味なかったことやってみよう」ブームはまだ続いているらしく、フツーだったら絶対に手に取らないだろう「武士道モノ」を読み始める。古い中公文庫は名著傑作の山だと知っているからこそだなー。未知の名前だったけど、「奈良本辰也」がスパーンと予測変換で出てくるのだからフシギ)

2017年は清水書院のセンチュリーブックスに味をしめ、これは大変オモシロイ新書であると、目ぼしいものは大概読んでしまった。

で、ほかのシリーズと何が違うのかな?と考えてみたけど、それは執筆陣の肉声が聴こえてくるからだろう。

小牧治さんがその点で一番目立っていたけど、それぞれがのっぴきならない理由でその哲学者の仕事に触れた経緯を書いていて、なるほどなぁと思わされる。

別に賛同するわけじゃないんだけど、「そういう事情から、この哲学者の、この本に取り組んだのか」とわかるので、そこのところがいわゆる「研究書」とは違う雰囲気になったんだろう。

で、清水書院のセンチュリーブックスをせっせと読みつけてわかったことがもう一つ。こっちは無意識に「日本思想」を避けてるらしい。

センチュリーブックスがこんなにオモシロイのだからと、巻末のリストで読んだものを赤ペン先生よろしく潰していったんだけど、そうするとビックリするくらい日本と中国の思想家部分が真っ白。

リストを作るとたまにそういう内心の傾向がわかったりするけど、「そこだけ避けて通っている」ような白さにうーんと唸るだけ。

古文は読むようになったし、ヘコタレた時の気分として平安期の文章いいなと思うけど、思想となるとサッパリなのか。だとすると、本居宣長先生への傾倒はむしろ例外なんだな、などなど。

また最近、武蔵野の巨匠が手がける新作に吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』なんかが取り上げられたりして、新渡戸稲造とか中江兆民とか、どうしてあの辺には関心が持てないのだろうーー

別に考え込まなくなっていいんだけど(^∇^)、おかしいなーおかしいなーとナニ川淳二さんの怪談ナイト的な気分がどっかにあったのか、この『武士道の系譜』にたどり着く。エライ長い前置き。

で、武士道って言われてもなぁ、なんて思ってたんだけど、この奈良本辰也さんものっぴきならない事情から武士道を追っかけたみたい。

のっけからレミ・ド・グールモンの話は出てくるし、ヘーゲルやマルクスなんかのドイツ思想もガッツリ身につけた雰囲気。

それであらためて清水書院のセンチュリーブックスのことを思い出し、歴史とか思想とか、やっぱりこういう「のっぴきならない、個人の切実な動機」がないといけないのダナ、と思ったりしたのです。

かといって個人的なところにだけ埋没しちゃってると読む側は鼻白むだけだから、その辺りの塩梅がムツカシイ。でもなんか「これをやらずにいられない」感は大事なんだろうな。

先日の文系理系バナシにウーンと唸ってしまうのは、個人的なところだけに特化されても、また個人的なところが全くなしなのも味気ないということもあったりして。

自分には日本史の知識も欠如してることだし、この奈良本辰也さんのご本で「そうだったのか!」と池上ダレカ的な納得あることを期待してます(^∇^)

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# by ulyssesjoycean | 2018-02-17 12:00 | Comments(0)

グループ分けすると仲が悪くなる? 文系理系のなんだかなー話

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(「好奇心」がテーマの『子どもは40000回質問する』。いまだにちょいちょい思い出すことあるので、その意味でも良い本だったと思う。光文社から税込1,944円にて発売中)

このところ文系・理系の分断というか反目関連の話が目につくので、なんだかなー!と阿藤快ばりに思ったりする。


一方で、それも致し方ないという気分も。苦手意識あった数学&ピコピコ方面をこの1〜2年でみっちりやってみた結果、アプローチがまるで違うんだもの。


新しいものを追加するんじゃなくて、今までの自分のやり方を一度「解体」しないと、ニガテ方面の内容が摂取できないという。


*あくまで個人の感想です。なんかサプリメントのCMみたいだけど(^∇^)


「今日から左手にハシを持ってご飯を食べる」感覚なので、これ、「そうせざるを得ない事情」がない限り、そりゃやらないだろうと。


たぶんこれ、語学がニガテな人は自分が数学のメチャメチャ細かいところに突っかかるように、小さいことが気になって仕方ないんだろうなー。


実際問題として、ニガテ分野は「自分の得意な考え方を崩す」ところからスタートなので、学習コストはバカでかい。そのあたりで互いに分断が生じるのは仕方がないのかな、という気も。


それとは別なところで言うと、文系理系に限らず、何らかのクラス分けがされた瞬間から反目は始まってしまうそう。それこそ1組と2組でも、2年生と3年生でも、犬派猫派でも何でもそうらしい。


『子どもは40000回質問する』に書いてあったと記憶するけど、グループを2組に分けた段階から双方に良くない意味での対抗意識が生まれてしまい、実験を指揮した心理学者がたいへん困った由。


実験後も仲違いしたままではマズイ、というところから、打開策として「両グループが協働で取り組む課題」に取り組んだところ、もとのグループの親和性が回復されたそうな。よかったよかった。


そうしてみると、文系理系が阿藤快状態なのは、「両グループが協働で取り組む課題」が見つからないあたりにその原因があるのかな。


「あとはそっちでイイ感じにやっておいて」という、そりゃないよフレーズがあるけど、アダム・スミス先生言うところの分業が、心理的には大変なマイナス効果。


それでいて、手ごろな「両グループが協働で取り組む課題」がカンタンには見つからないのだから困る。


自分の経験から言うと、案外デザインの分野と数学が相性いいので、ほう!と思ったりする。


限られた画面サイズの中に、決まった要素を効果的に配置していこうとすると、どうやったって規則的に分割することになる。


そういうとき、画面の大きさが〇〇ピクセルで、これを3分割して、余白は✖️✖️あればいいから、1つの要素は△△ピクセルだ!なんて。


やっぱり最終的には「ビジュアル」が共通解になるのかね。


言葉はコミュニケーションの大事なものではあるけど、使う人の記憶と経験が加味されてるから、ヒドイ時には単語と表現は同じなのに、AさんとBさんが反対のことを言ってたりする。


言葉のそういう側面につくづくゲンナリした結果、「これからは絵をやろう」とスタフォード先生について行って、はやくも干支も一回り。


今になってみると、絵の方が評判良かったりして、最初に言ってたのとは違う意味で阿藤快のナンダカナーになったりする( ´ ▽ ` )ノ


少なくとも、超ニガテ分野を覚えるより、絵を描くのを覚える方がずっと抵抗は少ない(*と思う)ので、「ビジュアルコミュニケーション」がもっと広まるといいんだけど。


一時期「写真」でもいいのでは?と思ったんだけど、ある時、「あっ! 絵は『そこにない』ものも描けるけど、写真は『ないもの』を手軽に撮影できないぞ」と気付いたりして。


あと自分的に絵を学んで良かったことは「描かなくても描けるようになる」ということだな(^∇^)。


名アニメーターの湖川さんがおっしゃってたのを読んで、こりゃいいやと。


花を見る時、それまでは漠然と「花」として見てたけど、「花びらが何枚あるか」と気にして観察すれば、あとは描けるようになったものな。


実は書き文字よりも絵の方がずっと歴史は長いらしく、だってアルタミラとかラスコーの洞窟に「壁画」が描いてあるでしょ、と。なるほどなぁ。


そんな次第でいつもの話に戻るのだけど、ビジュアルは描けるようになるとたいへん結構なものだと、スタフォード先生にはあらためて感謝。


もっとも「スタフォード読んで絵を描き始めた人なんていないですよ」と至極もっともな意見ももらったけれども( ´ ▽ ` )ノ



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# by ulyssesjoycean | 2018-02-16 18:00 | Comments(0)

JS誕生は1995年! でも何キッカケで「書き換える」必要生まれたの?

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(どの参考書を選ぶかが決定的なのは、語学もピコピコもあんま変わんない大モンダイ。で、イエズス会ではないJSも、学参レベルで山ほどテキスト出てるけど、ピコピコ初心者的に使いやすいものはそんな多くないのは、これもまた語学と一緒。で、狩野祐東さんの『確かな力が身につくJavaScript「超」入門』は丁寧な作りがされていて好印象。SB Creativeから税抜き2,480円にて発売中)


イエズス会とはまるで関係のないJSを齧って少し経ったけど、結局その「歴史」が気になって進むペースがやたら遅くなる。


JSで出来ること、使い方やその思想はいいとして、「なんでそんな使い方をしなければいけなかったんだろう」と考えてしまう。


HT何とかと滝ドドド書式では、一回開いちゃった画面は動かせませんよ、もう一度読み込むなり何なりしないと変化しませんよーー


で、ページ全体を再読み込みしなくても、ザックリ見るもの上でアクティブに書き換えることができる、それがJS!


いや、それは分かった。それとは別に、「なんでザックリ見るもの上で書き換える『必要』があったのか」、それが知りたいんです。


テクノロジーは先へ先へと進みたがる要素もあるけど、一方で「使う側が慣れてしまう」という側面もある。


ドナルド・ノーマン先生のプロダクトデザイン本を読んでいて、たしかに「使いにくいけれども、使ってるうちに慣れちゃった」ものはちょいちょい見つかる。掃除機の巻き取りコードとか( ´ ▽ ` )ノ


その発想で行くと、「再度読み込まないと表示内容を変えられない」のであれば、「表示内容を変えたいときは再度読み込む」という方向で慣れる手もあったはず。


JSがオギャーと生まれたのは1995年とからしいから、「再度読み込み」では大変マズイことがあったのか、それとも別の事情があったのかどうか。


*単純に考えれば、ひっきりなしに再度読み込みされたら、その申し込みを受け付ける網受け渡し係の負担がハンパない、という物理的な要因の気がするけど


前に網受け渡し係作成の本を読んだら、網の世界は「その都度つぎたしつぎたし」で出来上がってる世界だそうな。


そのそものナントカアドレスにしても、ジャ◯ーズ事務所と全く関係のないV4でスタートしたら、あっという間に足りなくてなってきたとか。


最初は全世界で400住所だったから、「そもそもこんなに広まると思ってなかった」そう。なもんで住所の割り振りも(後から考えれば)極めて非効率的だったという。


このままじゃ住所が足りなくなる!というので、より堅実な設計思想でタレント方面とは何の関係もないV6をバッチリ整備したんだけどーーこれがさして浸透しないという。


V4を「どうにかやりくりする」方向へはグングン進むんだけど、設計的にはしっかりしてるはずのV6への移行が進まないというあたり、なんか網っぽい話だなぁと。


*そもそもの設計から効率的に作り直したのに、一番最初にV6を作った人たちはどう思ったんだろう


網はとにかく「必要に迫られる中で何とかしちゃう」スタンスで発展してきたそうだから、JSを使ってでも「何とかしなくちゃいけない」理由があったんじゃないか。


最初からピコピコいじりが好きならともかく、HT何とかと滝ドドド書式とJSが3セットみたいに語られてると、単に「役に立つから」では学習意欲に繋がらない。


またその手の人に話を聞いたら、「JSをやると紐がすごく汚くなるんだよ」という意見も。


自分のショボい紐技術でも、大文字小文字が一緒くたになった命令文とか、カッコがやたら続くとか、決して読みやすくない。


もっと言うと、JSは「HT何とかと滝ドドド書式だけではできないことをやります!」と書かれてるってことは、「HT何とかと滝ドドド書式で出来ることは、可能な限りその2つでやってしまおう!」とも読める。


実際、網遺跡を最初に作ったところ、あれ? JSというものを一回も使わないまま完成しちゃったけど、使わなくっても作れるんだ!とビックリしたから。


ドラクエで例えると、攻撃呪文のメラゾーマと回復のホイミは必須としても、補助系のボミオスとかマホトラはあんま覚える気にならない的な(^∇^)。スクルトとピオリムは欲しいけど。


JSの創始者と言われる人の名前も分かったけど、悲しいかな、バリバリのピコピコラーらしく、自著らしい自著はないのな。


ピコピコを多少なりとも使うようになるってことは「最初から得意な人」の視点だけではやってけない面あると思うけど、実際、「ピコピコ紐を教えられる人」は相当少ないそうな。


自分も超後ろ向きな理由から紐ingを始めたので、「得意でない人はこの辺がギモン!」というのをちゃんとメモっておきたいなと思う。


それもあって、「ピコピコ」「網」「受け渡し係」「紐ing」「滝ドドド書式」なんて、メンドクサイ言い回しにしてるんだけれども(^∇^)


まだ齧ってるレベルなのに、本式の言葉遣いは気恥ずかしい面がある。「お互いウインウインの関係を構築していくことがマストなストラテジーですよね」みたいな気がして^_^


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# by ulyssesjoycean | 2018-02-14 12:00 | Comments(0)

ヴァレリーさんは辞書⁈ プレイヤード版の2冊を辞書として眺めてみる( ´ ▽ ` )ノ

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(フランス詩法の本を手に取ったら、ひっきりなしにヴァレリーの引用がされるので、これはむしろヴァレリーの本文を読んだ方が早いのでは、ということで手元のプレイヤード版を引っ張り出す。安かったから、純粋に「資料として」持っていたけど、こういう時にパッとオリジナルを確認できるのがありがたい)

フランス詩法を学んでみるかと思ったけど、やたらヴァレリーの話ばかり。フランス詩の解説なのかヴァレリーの解説なのかわからないくらい。

これではラチがあかないのでヴァレリーさんの原文、Propos sur la poésieがVariétéにおさめられていると分かり、イソイソとそこだけチェック。

ヴァレリーさんは出会い頭に読んだ本が良くなかったらしく、なんだかやけに気取った書き方をする人だと、そんな印象が長いこと先行してた。

で、その後フランスのマンガ作品に多少とも親しむようになったら、バンド・デシネの原作もバリバリこなすブノワ・ペータースさんが、ヴァレリーの伝記を執筆中と知る。あれは何年前のことかなー。

ヴァレリーは苦手だけど、ペータースさんの目を通して見たヴァレリー像には興味がある、という大変ヒネくれた理由からその伝記を読むと、ペータースさんの「実作者としての視点」が大変面白かった。

要するに、「締め切りとアイディアに悩んだ時はヴァレリーの散文を読め」と書いてあった(^∇^)。ヴァレリーは殆ど何についてでも書いてるから、何かしらヒントが見つかると。

えらく実利的な活用法が書かれてて、またそれを正直に書いてるペータースさんにも好意を持ったけど、「研究」じゃなくて「実作」の視点から見るヴァレリーさんというのは面白い。

今回は詩の解説の話がヴァレリーばっかりなので、それならご本家はどんなこと書いてるんだろうも思って読むと、これが大変すばらしい。今頃になって「この人のフランス語わかりやすいなー」なんて感銘を受けたりして。

あとはそのPropos sur la poésieを探すのに目次をダダダーっと眺めたけど、ペータースさんの言う通り、ほとんど何でも仕事をしたんだな、この人、というくらい種々雑多なテーマが見つかる。

自分が最近キョーミを持ったスタンダールさんについても書いてるし、文学批評以外にもアレもコレも状態。

変な話、ペータースさんの話を一歩進めて、原稿の締め切りに困らないまでも、自分が関心持ってるテーマについてヴァレリーの散文を「辞書」として使うのはアリかもしれない。

ヴァレリーさんの良いところは、「いやいや、自分はそう思わないよ」と適度に反対したくなるところがあるから(^∇^)、「自分はこう思う」というのをハッキリさせる点でもピッタリな感じ。

最初からヴァレリーのファンだという方には申し訳ない限りだけど、こういうある種ヒネた読み方もさせてくれるのは有難い面ある。

あんまり好きすぎると鵜呑みガブ呑み状態で批判検討する余地もないし、全く嫌いだったり同意できないとなると、そもそも読むことが楽しくない。

そのあたり、ヴァレリーさんは不思議なところに位置していて、たまーに思い出した程度にプレイヤード版を眺めると、フームと思ったりする。

ヴァレリーさんの良いところは、著作がプレイヤードの2冊にまとまってるから、その点でも辞書っぽい。それこそ最近気になってた「メタ認知」とか「書き言葉の習得」についても書いてるんじゃないかな。

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# by ulyssesjoycean | 2018-02-13 21:54 | Comments(0)

ユゴー先生のお孫さん詩集から、フランス詩法に初入門(今更!)

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(ユゴー大先生のお孫さん詩集を購入したのはいいけど、結局フランス詩の形式をまるで知らないということに今更ながら思い当たる。プルーストさんもバリバリと新旧の巨匠の詩文を引用してるけど、多少は詩の形式を知ってた方がいいのではと思い腰をあげる)

西脇順三郎先生のご本を読んでたら、フランスは詩論ばかりあって大した詩はなく、イギリスでは詩論がぜんぜんないのに立派な詩が多いとか、そんな話があった。

だからジョン・キーツさんが詩論を出したのは異例なことで、フツーは笑ってスルーするような話題を、キーツさんが馬鹿正直に受け取って詩論として批判を試みた云々。西脇さんはまずそんな話し方をされていた。

フーンと思ってそのままだったけど、フランス語の文章を読んでると、頻繁にアレクサンドランとかソネとか、そんな名前が出てくる。

なんなのかなーと気になっていたんだけど、詩を愛読するほどでなし、まあいいやと思ってきたけど、これ、一応の原則を知らないとどーにもならないなと思うように。

日本語なら五七五七七とか、漢文なら七言絶句とか、基本の構造くらいはなんとなくわかる。英語でもリメリックとか、一時期イギリスのA.E.Housmanに凝ったこともあったし。

フランス語ではそれがないので、じゃ、この機会にアレクサンドランとか、ソネとかを知っておこうと。

小説=文学は割と最近のことだし、韻文の方が歴史は長いのだから。でも結局、プルーストさんの影響が大きいかも。プルーストさんは鋭いこと言ってる気がするけど、悲しいかな詩の技法がわからない、みたいな。

前に『やさしいフランス詩法』なんて名著があると知ったけど、よくできた語学参考書の例に漏れずこれも絶版らしい(ToT)

高山御大も辞書道楽でたびたび文章書いてらしたけど、辞書だけでなく、「語学参考書」も検討の価値があるんじゃないかと思う。

ニガテにしてきた古文なんか、まさに「良い参考書」に当たることで今の古文力がついた気もするし。

そうした実益とは別に、昔の人はどうやって外国語おぼえてたのかな、というのも気になっている。

フランス語の参考書にもずいぶんお世話になったけど、詩論だけは通って来なかったから、この機会にまた愛読する一冊が増えると嬉しいな( ´ ▽ ` )ノ

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# by ulyssesjoycean | 2018-02-11 19:39 | Comments(0)

「書き言葉」は「楽器演奏」と同じだ! チクセントミハイ『ものの意味』から思いつく

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(夢中になって没頭している状態を「フロー」、ひと昔前なら「ゾーン」と言ったりしたけど、そうした心理学をドドーンと広めた立役者がチクセントミハイさん。フローほど覚えやすくない名前なので、「筑前富杯」と四文字熟語にして無理やりこじつけました(^∇^))

「本を読むのが面白い」という人もいれば、「書き言葉」に対して根強い抵抗感を持つ人がいるのも確か。

これはいったい何だろう?と思ってきたけど、もしかしてこれ、チクセントミハイさんの「フロー」が関係してなくない?

ドナルド・ノーマンさんのプロダクトデザイン本を読んだら、このチクセントミハイさんの本が紹介されていた。でも「フロー」じゃなくて、『ものの意味』だったので、おやッと思ったんだな。

しかも「プロダクトデザインを志すものなら必読」、勧め方がすごい。で、実物を手にしてみたら、ケーススタディの書物という感じだった。

要は、「あなたが長年、身の回りに置いてる『モノ』はなんですか」という問いに対して、色んな家族にアンケート調査した格好。

で、年齢が上がるにつれ、「私物」として大事にしてるのは楽器とか本、写真とか絵だったりする。そういう特徴が共通してるという。

それに対して筑前さん(*違う)は、「フローを生み出す対象」という解説をしてたな。もしくは「フロー体験を思い出しやすいモノ」と説明してた。

フロー体験は何かに夢中になって取り組む状態だから、それ自体がメチャメチャ楽しい。結果、フローを味わうために練習したり挑戦したりする。

しかし筑前さんが抜け目ないのは、フロー体験は「難易度」と「自分の技術」が釣り合ってないと発生しないと言ってるところ。その人にとって難しすぎてもカンタン過ぎてもフローには至らない。

よくできてるなと思ったんだけど、楽器は夢中になって弾く楽しみがあるけど、それは弾けるようになってからの話なんだな。今日ピアノの前に座って明日からラフマニノフが弾けるもんでもない。

そういう「一定の修練を積むと容易にフローを得られるもの」の代表選手として楽器が取り上げられてた。ナルホドなぁと感心した覚えがある。

で、本を読むのが楽しいとか楽しくないとかも、これ、結局はそういう話じゃないだろうか。

つまり「本を読むだけの『読み取りレベル』」に達していると、「本を読むのは楽しい」し、そこに達してないと「苦痛を感じる」と。

本も「私物」と捉えると、たしかに楽器と似た位置付けかもしれない。音楽が好きでギターを練習する人もいれば、クラシックのソリストもいるし、その習熟度はおんなじじゃない。

最近メタなんとかの関係で、「書き言葉」について調べてたけど、まさにこれ、楽器を弾くような「技能」と考える必要があるんじゃないだろうか。

つまり、「段階的に」「練習を積んで」はじめて身につくもので、当たり前な技能では全くない。楽譜も何もなしでピアノに座ったからと言って、弾けるようにはならないでしょう。

弾ける人がたまにいちゃったりするから困るんだけど(^∇^)、楽譜の読み方は身につかないだろうなー。

楽譜にしたって、ト音記号とヘ音記号では随分感じ方が違うし、シャープやフラットも相当気をつけてないといけない。また指を動かしてないと弾けなくなるのも事実。

ずーっとわからなかったけど、書き言葉もそうなんじゃないかな。楽譜が読める人には音楽にアクセスする有効な手段だけど、何も知らない人には言葉以上の暗号みたいなもの。

で、ここがクセモノだなと思ったのは、楽器と違って言葉は「誰でも使える」という前提があるから、つい「それなら書き言葉も『そのうち』『なんとなく』身につくだろう」と思いがち。

思いがちもなにも、自分もそう思ってた一人だけど( ´ ▽ ` )ノ、これだけ「本キライだ」とか「なにも頭に入ってこない」という話を数十以上聴くと、何か大切なことを見落としてるんじゃないかーーと。

で、「書き言葉」は「言葉の延長」でなくて、「楽器の演奏能力」と捉えた方がいいような気がしてならない。

クラプトンみたいに誰もがうまいな、と唸るところから、カート・コバーンみたいにテクニカルじゃないけど何かグッと来る、というのも理解しやすい。

ギター弾いてるからといって、みんながクラプトンになるわけじゃない(^∇^)。楽器じゃなくて、歌とかもそうだなー。

前に福田恆存さんが「言葉を相手にすると誰もが自意識過剰になる」という意味のことを言っていたけど、語学ばっかりやっていて多分に自意識過剰の自覚あったのか、ドキッとした記憶がある。

今は絵を描くスキルを身につけて、言葉以外のメディアも手に入れたけど、直接の絵を始めた理由はスタフォードにしても、裏の理由として福田恆存さんがあったのかな。

いまやっと、「書き言葉は楽器演奏と同じ」とアナロジーを手に入れたので、本を読むのが辛い、やりたくないという人の気持ちも推測できる気がするな。これ、気がすすまないピアノ教室で、超複雑な楽譜を置いてピアノの前に座らせられてる感じ、という。

言葉はつい「できて当たり前」と思っちゃうけど、楽器に例えられれば誰もそんな無茶は言わないだろう。ただ言葉が楽器以上にキツイのは教則本が一切ないことかな。

それこそピアノのバイエル、ブルグミュラー感覚で、本当に単純なレベルから、だんだんとステップアップしていく教則本が書き言葉にもあればいいんだけど。

変な話、外国語を覚えるときの方がちゃんとメソッドあるくらいだもの。まず綴りと発音から、自己紹介、単語と文法を段階的にやっていくし。

書き言葉でそれができないとも思えないんだけど、これに気がつくまで2017年から丸1年以上かかってるわけで^_^、前途は遼遠、広大無辺であるなぁ。

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# by ulyssesjoycean | 2018-02-06 20:57 | Comments(0)