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カテゴリ:未分類( 608 )

「モデル」が「憧れのお仕事」なったのはいつ頃から? あと福田晋一『そのビスクドールは恋をする 3』が素晴らしすぎるんだが( ´ ▽ ` )ノ

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(「興味なかったことをやってみよう!」という自分だけのキャンペーンを実施してみた結果、数学とピコピコ紐ingにはドハマりしたけど、残念、カメラで写真を撮る方面はヌーンという感じだった。ナダールとかダゲレオも名前だけしか知らなかったので、実際の写真集で当時のポートレートを見られたのは大きかった。今も発売されてるのかな)

「興味なかったものの中にこそ発見がある」と、数学とピコピコ紐ingで味をしめたので、「機会があればやってみよう」のキャンペーンは継続中。

ただそこは人間よくしたもので、興味ないことの中には、実際にやってみても「やっぱり合わない」と分かるものがあり、それが自分の場合はカメラ。

一眼レフとか名前しか知らなかったけど、自分でカメラ持って撮影したら感じ方が変わるかな?と思ったけど、自分の興味ゲージは着手前から据え置き(^_^;)。ま、そういうもんだな。

ところが最近になって俄かに関心高まったのが「モデル」というお仕事。あのお仕事は、いったいいつからあるんだろう?

それとなく周辺でモのつくその仕事をしてる人がちょこちょこおり、言われてみればその職業の成り立ちを全然知らなかったな、と。

撮る側のケンキューは芳しくなかったけど、撮られる側のケンキューをしたら何か閃くものがあるかもしれない!

というのも、5/25に発売になった福田晋一さんの『そのビスクドールは恋をする 3』(スクウェアエニックス)が超オモシロイんだな(^∇^)

でまた、自分のあこがれのキャラクターに成り切る、服を作る、さらには撮影機材や照明にまで「撮られる側」視点での話がてんこ盛り。

それでまた、モデルって、今の世の中ではごく当たり前な職業でもあり、憧れの対象にもなったわけだけど、それこそナダールとかあの頃はどんな扱いだったのかな。

四方田犬彦さんの何かの対談を読んでたら、写真機が出始めの頃は丸っ切り山師商売だったとかで、撮る側でさえそうなんだから、撮られる側が職業として確立してくのは相当な難路だったんじゃないかな。

自分も今、せっせとピコピコで紐を書いてるけど、ナダールさん当時の写真家に向けられたのと似たような視線とも思えるし。

もっと言うと、新しいものは何でも批判の対象にもなるので、なんだっけ、『モンテクリスト伯』のフランスドラマ見てたら、「機関車に乗っていて25キロ以上出たら、乗客は全員死亡するという研究もある」なんて話があった。

新幹線で時速300キロを目の当たりにしてると、そんなバカなと思っちゃうけど、「機関車というものがはじめて生まれた」当時、頼るべきデータは何もないんだから、そうした反応も当然と言える。

だからまあ、「新しい◯◯」が、「職業として認知される」までの過程が「モデル」を調べたら分かるかもしれないナーなんて。

そんなメンドイことはさておいても、福田晋一さんの『そよビスクドールは〜』は超オモシロイので超オススメですヽ(´▽`)/


by ulyssesjoycean | 2019-05-27 18:00 | Comments(0)

“Learning”は「ドラゴンキラー」? マイナスなくす方面の学習バナシ(´∀`)

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(神話学者として名高いジョーゼフ・キャンベルさん。ビル・モイヤーズとの対談を収めたこの『神話の力』は折に触れて思い出す一冊。早川書房から税込1,080円にて発売中)

ピコピコから数学から節操なく色々学んでいるけど、「学習」の一番の効用は、「なにかを身につける」ことじゃなくて、「何かに対する恐怖心をなくす」ことかもと思うように。

「なにかを身につける」はプラスを付けてくことだと考えられるけど、「恐怖心をなくす」はマイナスを減らす効果がある。

というのも、学習したりなにかを学んだりするときに「身につける」だけを基準にしちゃうと、「身につかなかったからもうダメだー!」ってなるような気が。

それとの対比でいうと、「マイナスがなくなる」方面は、(あんま使いたくない言葉だけど)「安心」につながるから、取り組みへのハードルが下がるかも。

自分がピコピコに馴染んで1番良かったのは、「身についた」方面より、「おっかなびっくり使うことがなくなった」ことだもの。

バリバリのピコピコラーさんたちのインタビューや回想録など読むと、小さい頃から「ものの仕組み」に関心強く、分解したり組み立てたりして遊んでた、というエピソードがやたら見つかる。

つまるところ、「つくる」方面への興味なんだけど、自分としては「つくる」方面へのエネルギーが希薄。だってゲームもピコピコも「すでにたくさんある」んだもの( ´ ▽ ` )ノ

もちろんこれはモノの言い方であって、ピコピコに限らず「つくる」が何より楽しいかと言われるとギモン。少なくとも、自分の「つくる」エネルギーは、文章・絵を描く・音楽と、いわゆるゲージツに偏ってる。(だからこそ、あまり具体的な「モノ」をつくることに関心乏しいのかなと思ったり)

つくるものがないとピコピコ学ぶ意義がないのかというと、そうでもないぞ、と分かったのが一つ。「つくる」じゃなくて「なおす」視点。

ピコピコを使っていて1番パニックなるのは、ピコピコさんがコショーした時だろう。モノそれ自体が壊れることもあるし、ピコピコの中に入ってるものが動かなくなることも。

そんな時にちゃんと「ピコピコの知識」があると、トラブルシューティングができる、というのが大きい。

恐怖感はトラブルの時に最大化するから、そのトラブルを「自分でなんとかできる」というのは、大変なストレスフリー環境。

ピコピコが分かりやすいので例えに出したけど、これ、「学習」全般に言えることなんじゃないだろうか。

自然言語についても「なにが書いてあるからわからない、なにを言ってるかわからない」キョーフ感は相当なものがあるだろう。

ピコピコの類推で言うと、「つくる」にあたるのが「しゃべる・かく」で、「なおす」にあたるのが「きける・よめる」かもしれない。

世に言うコワイものは、オバケにしてもユーレイにしても、「なんだかわからないからコワイ」面がある。

それで思い出すのは映画『エイリアンVSプレデター』(^∇^)。エイリアンさんもプレデターさんも寅さん感覚でハッキリ出てくるので、ぜんぜん怖くないという。

見た後で、リドリー・スコットやジェームズ・キャメロンってエラかったんだなと痛感。『エイリアン』の1、2をあらためて見返したら、暗がりだったり水に濡れてたりカメラが壊れたりして「ハッキリ見えない」のがホラー感を増幅させてるーー

結果、見ながらガクガク:(;゙゚'ω゚'):になるのだから世話はないけど、「姿がハッキリしない、全貌が見えない、輪郭が不確かだ」というのが「おっかない」ことなんだなーって。

もちろん、何かを学習したからって、何ズキルーペばりにハッキリ見えるようにはならないけど、とりあえず「全体像」が見えるようにはなる。輪郭はつかめた!みたいな。

それで冒頭の『神話の力』になるんだけど、ジョーゼフ・キャンベル先生が「〜〜できない」という内心の声を「それはあなたの中に棲む龍ですよ」なんてカッコイイこと言ってる。

童話とか神話とかには「ドラゴンキラー」というのが出てくるけど、キャンベル先生いわく、個人の成長の葛藤と克服が神話には「物語」として投影されてるよだって。

葛藤を代表するのが「ドラゴン」で、その克服が「ドラゴン退治」と。ただドラゴンさんも縁日の射的の的ではないから素手じゃ倒せないので、「ドラゴンキラー」が必要になると。

でこの「ドラゴンキラー」が、現代風に言うと「学習」なんじゃないのかね。ドラゴンキラーは相当後半のアイテムだから簡単には入手できないにしても、「はがねのつるぎ」や「ホワイトメイル」くらいまでは作れるよ、なんて。

あれだな、学習してると良いのは、武器屋・防具屋がナントカ村に揃ってくることなんだろう。ドラゴンを倒さないまでも「ひのきのぼう」が「どうのつるぎ」になり、「はがねのつるぎ」まで使えるようになったら、冒険の安心感は相当だろう。

そんなことをツラツラ考えたな(^∇^)。学習とか学ぶのアレだという場合、それはプラス方面だけ狙ってるからじゃないかなーって。

by ulyssesjoycean | 2019-05-22 12:00 | Comments(0)

19世紀のヨーロッパはフタばっかりでやりきれない だからこそ「自然ってスバラシイ!」なの?( ´_ゝ`)

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(荒俣宏さんの紹介文で先に知ってしまった「博物学(者)」。これまでは人文学一辺倒だったけど、ピコピコ由来で数学もやり、自然科学方面にも馴染みができたので、19世紀の博物学も以前より親しみやすくなったなー。何だっけ、著者のリン・バーバーさんの旦那様について、小説風の自伝的エッセイも出版されてたような。リン・バーバー『博物学の黄金時代』は国書刊行会から異貌の19世紀シリーズとして発売)

このところ19世紀の各種散文(フツーの文章)+韻文(詩)を眺めているけど、19世紀ヨーロッパは「抑圧の時代」だつたんだナーということを考える。

「抑圧の時代」というとなんだかカッコよすぎるので、違う言い方をしてみたい。なんだろう、人の意識や行動が至る所で「フタ」をされていて、6〜7割がたはそのフタで押さえつけられる感じ。

当然、残った3〜4割でなんとかやっていこうとするんだけど、当然、考えることや振る舞いもその狭い範囲で非常に窮屈。

でまた、当の本人たちが「フタをされている」とは気づいてない場合が多く、窮屈さから居心地の悪さを感じているんだけど、それが何かハッキリ言えないのでいイライラしてるーーそんな印象。

で、そういう「フタをされてる」ことに気づいた鋭敏な人たちもいて、それぞれの制約のもとに奮闘してたんだけど、ついに「フタがあるではないか!」と露悪的に言い始めた19世紀人が、マルクスとキルケゴールとニーチェなんじゃないかな。

マルクスさんは産業機構がメチャいびつになっていることを「これはシステムそのものを変えないとダメだ」と痛感したそうだし、キルケゴールさんは「教会はもはや信仰の場ではない、単なる権威と儀式に堕してしまった」なんて言ってる。

一方のニーチェさんは、むしろフタの押さえつけを10割に強めよう、それだけ押しつぶされれば、その「反作用」としてフタを押しのける力が生まれてくるだろうーーみたいな。

このお三方はそれぞれに強烈なやり方でフタをこじ開けようとしたけど、そこまで強烈でない人たちも、「フタのことを気にしなくていい世界」を求めてた雰囲気。

というのも、当時のヨーロッパで野山の散策とか、野鳥を観察するナチュラリスト運動みたいなのがあったらしい。それまでは「狩猟」がメインだったのに、それが「観察」に軸足が移っていく。

ニーチェさんやキルケゴールさんも、よく野山や草原を散策したそうだけど、人間ばっかりの”respectable”な世界に嫌気がさして、「人間のいない自然」を求めたんじゃないかなー。

『博物学の黄金時代』でも、老若男女が分け隔てなく野山で昆虫やら動植物を観察・採集するようになったのは、そうした「バランス感」の必然があったんじゃないだろうか。

前にジョイスの”Portrait of the artist as a young man”を読んでたら、スティーブン青年が罪を告白しに神父さんのとこに行くんだけど、この神父さん、「その罪というのは、imaginaryかね?」と尋ねるんだな。

imaginaryだから、「頭の中で考えたこと」も罪の対象になるんでは、当時の人は本当に大変だったんだな、そこまでキリスト教が干渉してたんじゃやりきれないーーと強烈な印象。

20世紀は「フロイトの世紀」と言われるそうだけど、その辺りの精神構造を「無意識」とか、それこそ「抑圧」という言葉で整理した人だから、なんか道理に適ってる気がするな。

実際、フロイトさんと、マルクス〜キルケゴール〜ニーチェの前後関係までよく知らないんだけど、フロイトさんは長命なほうだったから、やっぱり20世紀に食い込んでると思う。

19世紀の小説はまあ、それなりに目を通していたんだけど、それ以外のジャンルをアレコレ眺めるようになったら、なーるほど、なんかジャンルを問わず全体的にみんな「息苦しさ」を感じてたのね、と。

それで自然描写とか野っ原に行って本当に解放される!というふうに書いてるんだなーと。つまりは誰もいないところに行かないと一息つくのも難儀な時代だつたんだなって。

その意味でも、あんまジャンルにこだわらずにその時代をまるっと見てみるのは大事かも。小説だけだとこういうことに気づけなかったからなぁ(´∀`)

by ulyssesjoycean | 2019-05-15 12:00 | Comments(0)

福田晋一『その着せ替え人形は恋をする 3』が5/25発売! 源素水さんの新刊も6/12に出るぞヽ(´▽`)/

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(福田晋一さんの『その着せ替え人形は恋をする』は、ここ半年くらいの激オシNo.1のマンガ作品。1〜2巻でココロ鷲掴まれて、3巻はまだかな〜と思ってたら、なんと5/25に発売とは! 福田晋一『その着せ替え人形は恋をする 3』はスクウェア・エニックスからヤングガンガンコミックスとして、税込648円で発売予定。当日は書店へGOヽ(´▽`)/

5月末〜6月にかけて、注目のマンガ作品が単行本で出るらしく、今から超タノシミだ(*´∇`*)

福田晋一さんの『その着せ替え人形は恋をする』は、雛人形職人の孫(主人公)と、コスプレ意欲の高さと反比例する手芸スキル持ち主(ヒロイン)のラブコメ作品。

↑に書いたストーリー的な部分はなーんにも知らず、華やかな絵柄にひかれて表紙買い。結果、これは来た!という感じ。

ムサヲさんの『恋と嘘』や、横槍メンゴ作品が好きな人ならグッと来るんじゃないかなー。『その着せ替え人形は〜』はダーク展開もないので、読んでてハツラツとします(^∇^)

6月12日に発売予定の作品で大注目してるのがコレ、源素水(もとみ)さんの『先生は恋を教えられない』(小学館ゲッサンコミックス)。

ポツポツと別冊で読み切り掲載、原作付きで期間限定連載をはさみ、この『先生は〜』で何か鉱脈を掴んだ!という印象。連載の第一回を読んだ時は興奮したナー。

先生と生徒モノという王道の展開なんだけど、毎度毎度楽しく拝読。山本崇一朗さんしかり、「このマンガ、結局2人しか出てきてないじゃん!」という内容でも、やっぱり面白いものは面白いという(´∀`)

山本崇一朗さんの『高木さん』なんかも、舞台はせいぜい学校内(教室、廊下、せいぜい体育館)、登場人物は基本2人(からかわれる西片と、からかう高木さん)、でもこれで「面白い」んだからどうにも。

源素水さんの作品も、毎回毎回限られた舞台と登場人物なのに、なんで面白いのかな、フシギ、という感じ。年単位で読み切りを読んできた人が、「自分の向いてる世界」を見つけたような気がして大変うれしいです( ´ ▽ ` )ノ
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by ulyssesjoycean | 2019-05-14 12:00 | Comments(0)

プルーストが一番影響を受けたのはショーペンハウアーじゃね? 内容の類似に超ビックリ(´∀`)

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(プルーストを原文で読んでる人は本国でもレッドデータアニマル並みの扱いみたい。そりゃそうだろうと思うんだな、日本語ネイティブで『源氏物語』を通読してる人がほとんどいないのと似たようなものの気がする( ´ ▽ ` )ノ)

哲学オモシロイナーと、人文方面では哲学書ばっかり読むようになったけど、この人イイナーと好感を持つようになったのがこの3人。ヒュームとキルケゴールと、ショーペンハウアー。

三人とも「文章家」なのが特徴かも。デンマーク語は分かんないけど、キルケゴールさんの文章は人をグイグイ引っ張っていくし、ヒュームさんの英語は実に分かりやすい。

で、ショーペンハウアー。3人の中では一番の達人だったんだろうと思う。ドイツ語の名文として名高く、話も実に分かりやすい。

ショーペンハウアー先生はあの強烈すぎる見た目(アンド髪型)でイメージが先行してたけど、実際に本編を通読したら、「厭世主義? どの辺が?」という感じだった。

実際、ご本人は「厭世主義」という言葉は一度も使ってないそうだし、主著を眺めてみても、厭世的な面は微塵もなかった。むしろ、原理は原理として受け止めて生きていくのをどう考えるか、的な。

キルケゴールさんもエヴァ由来で『死に至る病』とかを先に知っちゃったけど、本編を読んだら全然そんな話でなかった。最晩年の別な作品読んで、涙を流したりしたものな。そのあたりからキルケゴールファン^_^

ショーペンハウアーさんもそんなイメージ先行で損をしてたみたいだけど、今回腰を据えて読んでみたら、途中からずーっと頭を離れなかったのがマルセル・プルースト。

プルーストが『失われた時を求めて』の中で書いてるようなことが、まんまショーペンハウアーさんの本に出てくるという。

なんだっけ、過去を再発見した喜びがどうしたとか、自分の著作は建築物と同じだからこの形式にする他なかったなどなど、まんまプルーストじゃね?なんて文章がいくつも見つかる。

フツー、プルーストが一番影響を受けたのはイギリスのジョン・ラスキンになってるけど、ラスキン読んだ時よりショーペンハウアー読んだ時の方が「直接の影響」を感じたナー。

こっちは別にプルーストのセンモンカでも何でもないし、『失われた〜』もなーんか気になってしょうがない作品としてたまに読むくらいで、愛読とは程遠い。

プルーストさんは相当な凝り性でもあったから、影響を受けまくったショーペンハウアーのことをサッと隠しておいた、というのも考えられなくはない。そのくらい似たような内容があるんだもの。

前にどうした弾みだったか、プルーストの書簡集を買ったことがあるから、この機会に再読してみるかな。作品では言ってないけど、手紙の中ではショーペンハウアーに言及してるかもわかんないし( ̄∀ ̄)

by ulyssesjoycean | 2019-05-08 22:34 | Comments(0)

哲学者のカントとギリシャ思想のプラトンが「同じこと」を言ってる⁈ にわかプラトーン( ´ ▽ ` )ノ

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(芸術に批判的な立場とったプラトンさん。言葉 > イメージという立場はプラトンから始まると言ったバーバラ・スタフォード大先生の影響で、ギリシャ関係でも一番ココロが遠かったのがこの人。でも最近になって急に興味が湧いてきたな。パイドンとパイドロスという超似た書名があるのも自分のコンランに拍車をかけてるような( ´ ▽ ` )ノ)

お好きな方には大変申し訳ないけど、長らく関心なかったギリシャ哲学。近年数学に深入りした関係でギリシャ語やギリシャ思想にも馴染みができたけど、まだまだ知らぬことばかり。

手持ちピコピコに古典ギリシア語キーボードをセットしたりはしてるけど、ラテン語以上に関心あると言ったら嘘になるだろうと思う。

そんな中でも特に興味関心から遠かったのがプラトンさん。対話篇という書き方もそうだけど、芸術全般にすげない態度だったというのが追い打ち。

大尊敬するバーバラ・スタフォードから「言葉が絵よりエライ!という思い込みはプラトンから始まっている」などと聞かされると、自然、プラトンさんを敬遠することにもなるわな(´∀`)

そうは言っても哲学思想が面白くなり、古代方面に遡るとプラトンさんのご意見を聞きに行かなきゃいけない場面も。実際、ソクラテスの最期に相当な衝撃を受けたそうだから、そういう「ドキュメンタリー」の視点もあるし。

ところが一方で、プラトンさんのイデア論でよく出てくる例え話、「洞窟の中の影絵」あれが全然ピンと来なかった。なんなんだろう、コレ?みたいな。

そんなアレコレが続いてたので、プラトンさんとは終生縁がないのかなと思ってた面あったけど、先日、尊敬する哲学者さんの文章読んでビックリ、カントとプラトンが同じこと言ってたらしい。

カントさんは、日本語で読んでもドイツ語で読んでもややこしい文面だけど、この人はスゴイ人だなぁ、「カント以前/カント以後」という切り分けが成立することにもある種納得。

カントさんは文章こそ厳密すぎて込み入ってるけど、講義自体はたいへん分かりやすく、学生人気ナンバーワンだったそう。教室はいつも満員で立ち見状態、カントさんも名調子で、なかなか話のわかる人だったそうな。

そのカントさんとプラトンさんが、言い方こと違うものの、ほとんど同一の主張をしてたというのは目からウロコ。それも例の「洞窟のメタファー」が鍵になってると。

そう言われてカントさんの話とプラトンさんの洞窟バナシを並べて見ると、たしかに読んだ時に受ける印象は相当似通ってる。というより、カントさんが言いたかったことを念頭にプラトンを見ると、ああ、そういうことなんだ、みたいな。

というわけで、プラトンが急にきになるようになったんだけど、肝心要のイデア論はどれに入ってるんだったかな。『パイドン』と『パイドロス』のどっちかな気がしてならないんだけど。

アリストテレスさんほどじゃないけど、プラトンさんもそこそこ著作多いからナー。ま、数学に深入りしたのも何かの機縁であるし、気長に眺めてみよ( ´ ▽ ` )ノ

by ulyssesjoycean | 2019-05-04 12:00 | Comments(0)

Loeb Classical Libraryが並ぶ本棚に憧れるナー。でもラテン語はムツカシイナー(*´ω`*)

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(「こんな本棚にしたいな〜」と願う、Loeb Classical Libraryが並ぶ写真。画像出典はPinterest)

ギリシャ語は緑、ラテン語は赤のLoeb Classical Library。ハーバード大学出版局が刊行する西洋古典の名作が原文で読めるというシリーズ。

最近は古い本ばかり読んでるので、その中に言及される古典文学の数々にも興味が湧く。

自分でもラテン語の叢書を何冊か持っているけど、情けないことに所有するのみ。はたた(´∀`)

ひさびさにLucretius, “De Rerum Naturae”を取り出したんだけど、基本的に韻文。この「韻文(詩)で書いてある」というのが読み通せない原因なのかなーと感じる。

前にそんな話を聞いたんだけど、時代を遡れば遡るほど「散文より韻文の方が書きやすかった」面があるのではないかって。

いま自分が書いてるような「散文」(普通の文章)の方が古代の人には書きにくくて、むしろ「韻文」(決まったリズムと韻律ある詩)の方が自然に書けた面あったそう。

ルクレティウスさんの書いてる内容は、荒俣宏的な「博物学」みたいなことだと思うんだけど、それも基本は韻文で書いてあるという。

これも前に聞いたんだけど、ギリシャ語は難しいと言われるし、実際その通りだが、読めるようになるとスラスラ行けるそうな。

反対にラテン語は、入り口こそギリシャ語ほど複雑怪奇ではないものの、実際の作品はレトリックの限りを尽くして書いてあるので、読めるようになるのはギリシャ語よりラテン語の方が難しいとか。

子供っぽいとも思えるんだけど、冒頭のようなロウブ古典叢書がズラッと並ぶ本棚はやはりどこか「憧れ」を掻き立てるものがある。

その憧れついでに読めるようにならないかなと思うんだけど、自由に読むとこまで行かないな。”Wheelock’s Latin”をも一度再開しようかな( ´ ▽ ` )ノ

by ulyssesjoycean | 2019-04-28 12:00 | Comments(0)

「〜するべき」はニンゲーンのどの辺りからやってくるのでしょうか、な話( ´ ▽ ` )ノ

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(最近よく聞くビックなデータがどうしたという話題、キチンと研究レベルで取り扱っているものは少ないらしく、せっかくだからと手に取ったこの『データサイエンティストが創る未来』をいまだに参照してる格好。スティーブ・ロー、『データサイエンティストが創る未来』は講談社から税込2,160円にて発売中)

そういうことは言わなくていいとか、もっと言わないほうがいいんじゃない的なタイトルの書籍を眺める機会あったんだけど、科学的なデータが色々紹介される中で、結局「〜〜するべき」という表現が出てきちゃう。

またその科学的なデータの内容というのがスゴイナーというものなんだけど、結果、その科学的データから「〜〜するべき」という言葉が出てきちゃうのか、という。

データは単体でも意味を持たないらしく、それを置く文脈の方が大事だよと、大きな情報がどうしたこうした研究の本に紹介されてたな。

「39」と言われてもただの数字だけど、それが「人間の体温」という文脈を与えられたとたん、うわ、高熱だ!なんてことになる。

そうすると、言ったほうがいいとか言わないほうがいいとかいう内容(データ)も、必ず解釈する人(そのデータを文脈に置いてみる人)がいる以上、「〜〜べきだ」からは避けられないのかな、なんて。

それは仕方ないとしても、この「べき」というのはどっから出てくるのかな〜と。

AさんとBさんが同じ「〜〜するべき」だったら別にいいんだけど、AさんとBさんとの「〜〜するべき」が真反対だったりするから、それが困る。

ちょうど今、カントさんの『人倫の形而上学的位置づけ』というメンドクサイ本を読んでるところだったので、それがいやでも気になっちゃうんだな。

カントさんの用語によく出てくる「当為」というのがなんなのか分からなかったけど、西田幾多郎先生の本を読んで、「当為」はドイツ語の「Sollen」と判明。

なんだ、英語の「Should」じゃないかと急に落ち着いたんだけど、この「Sollen」とか「Should」はどっから出てくるのかね。

カントさんは人間の理性とか意志からの命令という話にしてるけど、自分が気になるのは全人類的なSollenとかでなく、「その人の固有の”べき”」なんだな。

だってそれがショートツするからこそヤヤコシやーが発生するわけで。何もイサカイのタネが最初からインプットされてなくてもいいだろうと。

先日からの数学ニガテ語学ニガテにしたって、「細分化ニガテ王に、自分はなる!」と何ピースばりに宣言してなるわけじゃないから。

なんである人は「細分化」を最初から志向して、なんでまたある人は「綜合」に向かっちゃうんだろうと。

両方ともやってみた結果、「どっちも大事だ」とわかったんだけど、その「最初からの志向」が「もう片方になじむ」のを阻害しちゃうので、「これだからリケーは」「これだからブンケーは」みたいなハンモークになりがち。

前にエリザベス・シューエルの『ノンセンスの領域』を読んでたら、分析と論理の大家であるリアもキャロルも、結局なぜその合理性を徹底するかというと、「それが心地いいから」以上の理由がないという。

何も心地よさのためにイサカーイをしなくていいだろうと思うんだけど、「当為」は「Like」じゃなくて「Should」なあたり、譲れないなんかがあるんだろうなーと。

例によって、だからどうしたという話でもないんだけど(´∀`)、言ったほうがいいとか言わなくていいとかいうことも、結局「するべき」が出てきちゃうのをみて、アレコレ考え込んだのでした。

by ulyssesjoycean | 2019-04-24 18:00 | Comments(0)

「数学ニガテだけど、やり直したい!」な人向けの話。細分化よりも「総当たりリーグ戦」形式はいかが( ´ ▽ ` )ノ

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(「ゲーム理論」を取り扱ってる新書が見当たらなかったので、「こちらもどうぞ」とオススメされたこの『戦略的思考とは何か』を読むという安直さ。でもこういう「ま、いっか」が良かったりするので、あながち悪い方法でもなかったと思う。実際Prisonersがどうしたという話は使い古されてるから、というアマノジャクな発想にもグッと来たような。岡崎久彦さんの『戦略的思考とは何か』は中公新書から税込821円にて発売中)

「数学ニガテだったけど、もう一度やり直したい!」という人向けの話が途中で終わっちゃったので、その続き。


「現実にある素材から数学にアプローチ」して、「英語だけで学習するとアタマが混乱しない」2大トピック。残ったひとつがこれ:


(3) 細分化の発想になじむ


これが一番ハードル高いんだなー。


というのも、自然言語(フツーの人間の言葉)の処理に向いてる人は往々にして「その話の要点は何か?」みたいな傾向ある。と思う(´∀`)


で、こういう「なにかを見た瞬間に全体像を掴んで、パッと要点を把握する」の真逆が「細分化の発想」なんだな。


つまりは「可能な限り小分けにして、それをカンタンなものから順番に処理していく」という方法論。


山本貴光さんの『世界が変わるプログラム入門』を読んで、ピコピコの解説以上に七転八倒したのがこの考え方。


何度も例えに出すので、自分に相当の衝撃あったんだなと分かるけど(^_^;)、とにかくX軸とY軸と同時に処理できない」というのに腰を抜かした。


その時の印象を正確には思い出せないけど、自分が紙の上(平面、XY Coordination)に点(Point)を打つのは一瞬で出来るのに、それができないんだ!なんて。


というのも、自分にはXY座標に点を打つ」というのが細分化の限界で、それより先はないと思ってからじゃないかな。


まず点を打って、その点を繋げると線になって、みたいに考えてたら「いやいや、点の打ちかたはもっと細かくできますよ」みたいな。


で、この「細分化」さえ通り抜けられれば、きっと数学ニガテな人も再入門できるだろうし、数学を続けていけると思う。


自分でナントカその「細分化」に馴染めたと感じたのは、アレだな、「ゲーム理論」かもしれない。


何だっけ、『戦略的思考』とかそんなタイトルの新書で読んだ記憶あるけど、要は「組み合わせ表」にして考えるというやつ。


スポーツのリーグ戦なんかで「総当たり表」があるけど、あれを色んな場面に当てはめてみる。


例えばA社とB社があります。新製品を高くしようか、安くしようかと両社とも検討しています、みたいな時にこのリーグ戦組み合わせ表が使えるんだな。


タテ軸に「A社」「B社」、ヨコ軸に「高い」「安い」を置いて組み合わせ表を作ると、漏れなく全てのケースを見通すことができるーー


思うんだけど、「細分化」の発想が大事にしてるのって、この「漏れなく」なんじゃないかな。そう考えれば数学ニガテ組にも「細分化」の発想になじみやすくなると思う。


だって実際に、AB、高い・安いみたいなのは幾らでもオーヨーが効くし、自分が「どうしようかなー、どうしようかなー」と決めかねて悩むのはこういう「組み合わせが整理できてない」ことに起因するような。


この方式の素晴らしいところは、紙の上とペンさえあれば、組み合わせ表を作るのはすぐできるということ(^^)


自分の場合「細分化して、全ての要素を網羅するなんてメンドクサイ」と思ってたキライあるけど、この組み合わせ表ならサッと作れるし手間いらず。


どうも「数学ニガテ」「語学ニガテ」とで、「メンドクサイ」と感じるポイントが違うんじゃないかなと思うんだけど、どうだろう。


自分としては「紙の上に総当たりリーグ戦の表を書く」のはめんどくさくないけど、X軸の命令文とY軸の命令文を2回打ち込む」のはめんどくさいという( ´ ` )ノ


数学ニガテだけど再チャレンジ!という人には、とりあえず「総当たりリーグ戦方式はどうですか」とオススメってみたいけど、どうだろう(´∀`)


by ulyssesjoycean | 2019-04-23 18:52 | Comments(0)

「数学ニガテ! でもやり直したい!」人へのアドバイス3ヶ条?! (´∀`)

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「数学ニガテだったけど、もう一度やり直したい!」という人向けに、何かアドバイスがあるかなーと考える。

このブログでも再三記載してるのはこの2点:

(1) 応用数学(Applied Mathematics)だけやる
(2) 英語オンリーで学習する

(1)はわかりやすくて、とにかく「数学ニガテ」という人の場合、それはほとんど「純粋数学(Pure Mathematics)がニガテ」の意味だったりする。

なもんで、「現実にあるもの」で、そこに「数学の発想」が含まれてる分野をやると、ビックリするくらい馴染みやすい。

自分がそういうので一番カンゲキしたのがStandard Deviation。学校でよく言われるナントカ値というアレだな。

自分が見たのは株価(Stock Price)の例だったけど、この株価はどのくらい変動しやすいのか?というのを見るときにこのDeviationを使う様子。

そしたら、平均(Mean)からどのくらい離れてるかを見るために数値(Value)を2乗(Square)してマイナス(Negative)を取ってやり、その後の数値にルート(√、root)をつけて「2乗する前の数値に戻す」という。

「√」って何をやってるのかなーとずっと思ってたけど、それがStandard Deviationをやって氷解。2乗と√はこういう風に補い合ってるのか!なんて。

たぶん数学がトクイな人は、純粋な数的処理だけを楽しめると思うんだけど、ニガテ組からすると「現実に使ってる文脈」が分かるのが第一歩に思える。

(2)の「英語オンリー」もこのブログではおなじみの話題。数学をやる上で「日本語表記」がかえって理解を阻害するという目からウロコの話。

数学ニガテ方面は発想が「連想型」なので、数学で使われる表現から色々と想像が広がってしまう。これが足かせになるんだな。

なので、「標準偏差」と言わず「Standard Deviation」と言われるとピタッと分かり、「線形写像」よりも「Linear Mapping」と言われた方がスムーズ。指し示す内容とその名前にブレがない。

何より数式を「言語として発音できる」ようになるので、記憶への定着が格段にアップする。「0 < x < 1」という表記も、「X’s domain is greater than zero and smaller than one」と言われると、スパーン!とアタマに入る。

その意味で、アチラのKhan先生の網上数学講義を英語で聴いてると、「ははァ、あの記号をこうやって読んでるのか」と目からウロコが落ちまくり。

ーーと、ここまではこのブログで再三取り上げた話題なので取り組みも具体的なんだけど、もう一個関門があるんだな。それが

(3) 細分化の発想になじむ

こと。正直言って、これがいっちばんキツイところだと思うけど、これについてはまだ「こうやれば馴染みやすい!」という方法論が見つからないでいる。

これについての話はまた次回(^∇^)。その次回がいつなのか、というのはボカしておくのでした(´∀`)  ノリで書いてるからなー^_^

by ulyssesjoycean | 2019-04-22 22:09 | Comments(0)