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コトComsumptionは結局「時間」と「価値観」のモンダイでは

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(シックリくる2大分野が、心理学と経済学。「使うひと経験」でも心理学の知見がバリバリ導入されるし、経済方面の本当にエライ人も、知ってか知らずか心理学の理論と同じことを実践してたりする。ただどれもコピペできるようなものではないので、「すべて応用」なのが大変かなぁ。ナシア・ガミー『一流の狂気』は日本評論社から税込2,808円にて発売中)


「モノConsumption」から「コトConsumption」へなんて言われるけど、最近、このことをちょいちょい思い出すようになった。


だいたいこういうのは、鬼太郎の妖怪アンテナよろしく「大事だぞー!」と無意識さんがシグナルを送ってるものと勝手に解釈してる。


で、「こういうことなんじゃない?」という、思考の途中経過をメモとして書きつける場がこのブログだったりするので、途中の話だけ聞かされても、な面はあるかもしれない(^∇^)


それで考えてみると、「コトConsumption」を全く含まない「モノConsumption」なんてあるの?と思い当たる。


例えば「気分転換に美味しいものでも食べて元気をつけよう!」という話だって、「美味しいもの」という「モノConsumption」の結果、「元気をつける」という「コトConsumption」をアテにしてる。


「使うひと経験」が着目されるのも、結局はモノを買ったり使ったりするのは、それを使ったutility(コト)を計算に入れてると気づいた面があるのだろう。


もっと言えば、そのutilityが自分的にピンと来ない、想像が付かないと、「別にいいや」になるんだろう。もしくは「意識すらしない」というのが正しいかも。


で、昨日思ったのは、コトConsumptionって、「時間の捉え方」ってことなのかな?と。


すごく集中してるときは時間が経つのがあっという間だ!と言う場合、それを「あーつまんなかった」という人はあんまいないだろう。


むしろタイクツしてる時は「はやく終わんないかなー」と、時間を長く感じるけど、これを「トクした!」と捉えられる人はなかなかいない。みうらじゅん法師くらいの有段者じゃないとキビシイ(´∀`)


それで思ったんだけど、「時間の捉え方」は、完全に「その人の価値観」に由来するんじゃないだろうか。


さっきの食べ物の例を使うと、世の中には食べるのが好きな人が多いけど、中には小食で悩んでいる人もいる。


雑誌の栄養講座みたいな連載を読んでたら、小食が悩みの人がいて、元気を出すには食べなくてはがプレッシャーだったけれども、年齢を重ねて「これでいいのだ!」と吹っ切った云々という話が。


そうすると、小食の人からすればお腹が減ってない時に「食べるのが元気のモト!」なんて言われて食事する羽目になったら、その時間のutilityはメチャメチャ低くなるのでは。


一事が万事その調子で、運動から何から「その人の価値観次第」なのがやり切れない。泳ぐと肩コリが解消される、やったぁ!というのは「泳げる人」だからこそ。なんかの理由で「泳げない人」からすれば、その精神的なゲンナーリは容易に想像がつく。


そうすると、大事なのは「ある時間でやること」という具体的な部分でなくて、「その人の価値観に訴えること」なのかなーと思った次第。


自分で割に飽きがこないのが「なんかを学んでスキルを身につける」ことだけど、これは結局「自分の価値観で『面白がれること』を増やしてる」からなんだろう。


ピコピコは長らく「厭ダナー」(©︎夏目漱石)な分野だったけど、止むに止まれぬ事情からピコピコの紐ingに取り組むようになったら、「オー、源紐が読めるようになった!」と喜べるように。


*ピコピコによる肩コリのモンダイは据え置き( ´ ▽ ` )ノ


それと先日、所ジョージさんが伊集院さんのラジオにゲスト出演した際、「『面白くない』と思う人は何をやっても『面白くない』のよ。」と言ってて、へえ、と思ったんだな。


先日読んだ心理学書でも、重要なのは「何が起こったか」ではなく、それを「どう解釈したか」である、なんて書いてあった。


打たれ強さとか「弾性」(元に戻りやすさ)と言われる分野は、まさにそういうことらしい。「起こったこと」は同じでも、「弾性」があると、それに対する「解釈」がぜんぜん違う由。


なにかを学んでスキル(*超どうでもいいもの含む)が増えると、その分「面白がれる材料」は増えるから、割となんかを学ぶのは飽きずに続けてられるんだろう。


そこから続けて考えてくと、「価値観が固定しちゃう」のが、「何やってもツマンナーイ」現象の第1歩なのかな。少なくとも「面白がれる材料」が「増える」ことはないだろう。


でも冒頭の「コトConsumption」なんか、言ってみれば「新しい価値観を提示する」ことだろうから、「いや、新しい価値観とかいいっす」という人にどうアプローチしたものか。


もっと言うと、「その人の価値観が変化する」のはどういう時なんだろう。変化というと大げさだから、ピンボールの台を揺さぶる「Tilt」ぐらいが正しいかも。


最近は「使うひと経験」から何から、心理学ばっかり学んでるので、「価値観を考える心理学」とかないんかなと思った次第。


「オー、これはスゴイ!」なんていう超ハッキリしたタイミングは覚えてるけど、「揺さぶり」程度の価値観がグラッと来るなんて、意識してないからなぁ。


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by ulyssesjoycean | 2018-03-31 18:00 | Comments(0)

ツマヅキは「Be動詞」から⁈ 外国語に母語を「代入」しちゃうとタイヘンそう

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(「文系・理系の考え方」をテーマにしてる以上、自分が数学やピコピコに取り組むだけでなく、「語学シンドイ」という人の目線も取り入れたいと検討中。しかし! 数学をやって痛感したけど「もともとその分野が得意な人」が書く参考書は、「もともとその分野が苦手な人」の参考にはなりにくいという。語学についても「再入門」とか、その手の資料からリバースエンジニアリングを試みてる次第)


「理系・文系」ケンキューの一環で、「語学を負担に感じる人は、どこが負担なのか」を知りたいと常々思ってきた。


「使う必要がそもそもないから」と言われるけれど、それが理由の100%ではないーーというより、「自分でも気がつかないくらい小さいこと」がハードルになってたりする。


そのヒントが『PRESIDENT 2018年4/16号(最新「英語」の学び方)』でようやく見つかる。


どうもキモは「Be動詞」にあるようだ。


特集中、ホントにチラッとだけ書いてあったけど、「I am Sato」が「私は佐藤です」なら、「amは日本語の『は』と同じものだろう」と考えるそうな。


これが目からウロコの大発見。そうか、そういうことか!!とアルキメデスさんばりに走り出したい気持ちに。


「I am Sato」が「私は佐藤です」なら、「彼は田中です」は「He am Tanaka」にならなきゃいけない。でも「He」の時は「is」が出てくる。


母語と「一対一対応」を突き詰めれば、そりゃそうなる。「私」を「I」に変換、「彼」を「He」に変換、もっと言うと「代入」できるとした場合、「◯◯は△△です」はどんなときも「◯◯ am △△」となる。


しかしこれ、Heの時はなぜisになるか、と言われて答えられる人はスゴイ。自分は答えられない。Youはなぜareなのか、というのも深遠な質問。


自分が数学やってナルホドと思ったのは「自分なりに納得する」ことだった。自分が納得していないものは、結局のところ思考の材料にはなってくれない。それを「使えない」。


それで言うと、数学の記号に自分がこだわった、引っかかったのは、「それが発音できない」からだった様子。


その理由を何とかして推測するとこうなると思う:


・「記号」は「言語」の一種である

・「言語」は「発音」することができる(音に変換可能である)

・「発音」を伴わない「記号」は「言語」ではない

・「言語」でないものは理解できない


「語学人」(*自称)的には、何かを理解する前提が「言語」であることらしい。f(x)も「function」と読めれば、それを使った数式も処理できる。数式を「言語として扱える」ようになるので、理解可能になる。そんな順番。


一方で、「記号」の便利なところとして、「複雑な処理を集約して簡潔に表現できる」面がある。言葉にしてたら長くなることも、記号なら数文字でスッキリする。法則なんかは特に、記号にすることで間違いを少なくすることができる。


ところがこれが「自然言語」(ニンゲーンの言葉)を相手にするとき、障壁になってしまうんじゃないだろうか。さっきの自分の例に手を加えると:


・「記号」は「理論」の一種である

・「理論」には「法則」がある

・「法則」を伴わない「記号」は「理論」ではない

・「理論」でないものは理解できない


こうした次第で、何かを理解して使えるようにするためには「理論」として扱う必要があるんじゃないかな。一貫した「法則性」が理解のベース。


それで言うと自然言語はカオスの極み。発音と綴りの不一致から、「例外」を拾い上げたらキリがない。英語は特に発音と綴りの開きが大きいから、その点でも理論を重視する人は大変だと思う。


さてここからが「語学人」としての課題なんだけど、そういう「理論が理解のベース」の人に対して、「Be動詞が3つある」ことをどう伝えたら良いだろう。


これを語学人目線で、「日本語と外国語はそもそも別種のものなのだから、単語レベルの一対一はできない。外国語は外国語としてそのまま理解しましょう」なんて言ってはユメユメいけないと思う。


だってこれと似たよーなことを、数学の参考書やってさんざん感じたものな(^∇^)。「この公式を覚えると計算がラクになるよ」と書いてあるたび、「いや、ラクをしたいわけじゃないんで」と思ってたから。


自分が知りたかったのは、その公式を「誰が」「いつ」「どんな理由で」考えたか、ということ。ルートの記号(√)なら、「なぜあの形なのか」「誰が決めたのか」を知りたかった。


それさえ分かれば√の計算も別に困らない。でも「ルートの記号がなぜあの形なのか」を教えてくれる参考書は皆無。そりゃそうなんだな、こっちは人工言語に対して自然言語的な説明を求めてるわけだから。


そうすると、自然言語に抵抗を感じる人には、自然言語を人工言語のようなアプローチで伝えれば把握しやすいのでは。


最近はピコピコで紐ingをやってるから、最初に「宣言する」のはどうかな?と考えてる。つまり、変数とかクラスを指定するみたいに、先に限定しておく。


var subject = [I, You, He, She];


とか。「主語(subject)」という変数には「I, You, He, She」が入りますよ、なんて。この後、複数の場合は、push命令で[I, You, He, She, We, They]と、arrayに足してあげたり。


もっと言えば、「似た要素はまとめよう!」が紐ingの基本だそうだから、単数と複数で分けるのもいいかもしれない。


var subjectSinglular = [I, He, She, It];

var subjectPlural = [We, You, They];


こっから先、GetSubjectByPersonとか、if elseで分岐させるとか、インチキ紐ingを考えたけど、長くなるだけなのでやめる(^∇^)


でも実際、自然言語はこういう紐を書いて条件分岐するようなことを頭の中でやってるわけだから、基本的な部分を先に宣言するのはいいかもしれない。


なんだっけ? ピコピコ方面でどえらく難しい「自然言語処理」とか、あれもニンゲーンの言葉を分割していって、理論に当てはめたりしてるそうだから。


イキナリ自然言語処理を持ち出さないまでも、自然言語の要素を形態素まで分割して、そっから組み立てるというのを先に提案するのも大事な試みかと思う。


でも悲しいかな、それをやって喜ぶのは、きっと理論方面だけなんだな。自然言語にもともと向いてる人からはブーイングが来そう。


で、数学は数学で、自然言語のアプローチをすると、人工言語に長けた人からブーイングあるだろう。


結局、理解の方向性が違う人を「全員同時に」「同じ方法で」やろうとする時点で色んなムリが出るんだろうなー。


ちょっと前に「半世紀も間違ってると言われ続けるのでは、今の学校教育さんもタイヘンだ」と書いたけど、それは多分に「カスタマイズの余地がない」ことが原因なのかな。


ただこれも考えもので、「その人にあったやり方にカスタマイズしよう!」ってやってくと、完全オーダーメイド形式になる。だってAさんとBさんはそもそも「ちがうニンゲン」なんだから、と。


自分がピコピコから何から「独学」の冥府魔道を進むのも、きっとその辺が理由なんだろう。独学の分にはカスタマイズフリーダムだし(´∀`)


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by ulyssesjoycean | 2018-03-29 12:00 | Comments(0)

「使うひと経験」には「ジンテーゼ」が必要? 小林製薬の新商品ではありません(^∇^)

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(天才肌では全然なかったらしいヘーゲルさん。当時のドイツ的なところは300だかの領邦が寄り集まってて、全く統制が取れない、イギリスやフランスに水をあけられるばかりだ!とゲンナリしてたのが、1789年のフランス革命で「すごい! 人間にはこんなことができるんだ!」とヘーゲル青年をプッシュしたそう。清水書院のセンチュリーブックスにはいつもお世話になってます(^∇^))

このところ「使うひと経験」に本式に取り組んでみようと思い、本家・川喜田二郎さんのやり方もなぞってみた。

川喜田さんは方法論を整理してシステム化(誰でも使える)に心を砕いていたそうで、やっぱり「正しい指導」と「技能の熟達」はあるそうな。つまり、上手下手みたいなこと。

こっちはまだその段位がショボいという前提で話すけれども、川喜田さんのやり方に集中的に取り組んだ結果、「この先のやり方」がある気がするんだな。

というのも、川喜田さんの方法論は、データの出所を明らかにした上で、断片にしか見えないデータが集まっていき、オー、こんな風に理解できるんだ、と構造が見える形。

やってみた結果、カオス!にしか見えないものが、似た者同士が自然と寄り集まっていき、「なーるほど、こういう関係性あるんだ」と気づく面ではタイヘン有効だった。

ところが「それだけでは何か足りない」という印象が残る。数回やってみて、やっぱり同じことを思ってしまう。

そりゃやる人の段位が低いからだと言われればその通りでござい、となるのだけど(^∇^)、やるだけやってみたイメージが「2次元」な印象。ぺたーんとした、平べったいもの。

カオスだったものが「分かりやすく」はなったけど、「この状況全体をひっくり返す」次のアプローチがあるんではないか、なんて思うんだな。このぺたーんとしたものが、「3次元」にならないかな、という。

何を言ってるか分からないと思うけど、こっちも分かってないんだからしょうがない(^∇^)。「どうすればいいか」が分かってるのであれば、ミニミニ陽明学者的には、文章にしないで即実行!

なーんで川喜田さんのやり方に、またその結果に物足りなさを感じるのかな、という時、やたら目に飛び込んで来たのが「ジンテーゼ」。

カタカナで書くと小林製薬のラインナップに出てきそうだけども(^_^)。「カクテルを飲みすぎた翌朝に、小林製薬のジンテーゼ!」的な。

ジンテーゼは「統合」とか訳されるけど、ヘーゲル先生の専売特許。テーゼとアンチテーゼを統合するのがジンテーゼ。

自分が欲してるのはコレだな、と思う。要するに「全体像が分かって良かった良かった」ではなくて、そこから「別の何かに変身する」みたいな。月並みな表現で言うと、サナギからチョウチョが出てくるように、オー、違うものになった!という。

「使うひと経験」の立ち位置からガッツリ取り組んでみた結果として、「テーゼ」「アンチテーゼ」を明らかにするのが川喜田さんのやり方の一番の長所かと思う。

カードや付箋を並べて行って、でっかい紙の上に全体像が見えた、やったー!ではあるけど、そっから「統合」に向かうためには「また別のアプローチ」が必要に思えてならない。

さっきのサナギBefore Afterな話で思い出したけど、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』に、主人公が鳥のタマゴを描く話が出てくる。

で、タマゴから鳥が出てきて、そりゃ「アプラサクス」と言うんだと友達に教えてもらうという、ブッとんだお話。幼少期のイノセントな雰囲気から、なんかエライ遠いところに来たな、と思ったんだよね。

それで言うと、サナギもアプラサクスのタマゴも、コンビニ弁当をあっためて貰うような手軽な話ではなかった。ヘッセさんの小説でも、タマゴからスタートして、何度も塗り替えてるうちに、だんだん鳥が出てくるようになったし。

ジンテーゼ(統合)もパン工房的に「寝かせる」必要があるのか?と思ったりするけど、「なんもしないでただ待つ」というのは、幾らなんでも効率が悪すぎる。

小林製薬から発売されないまでも、こうやればジンテーゼの道が拓ける!的なアプローチがないか、目下模索中。

『ゲームで考える人口知能』にも書いてあったけど、「わかんないことは頭の片隅に置いておく」のが大事というのは自分も痛感してるので、以上をメモってだけおいた。

こういうのって、ちゃんと調べてるとそのうち必ずアルキメデスさんがお風呂から飛び出たようなタイミングが来るんだけど、それが「いつ来るか」は誰にも分からないんだなぁと、みつをさん的にシメてみました( ´ ▽ ` )ノ

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by ulyssesjoycean | 2018-03-28 12:00 | ピコピコ武者修行 | Comments(0)

「仲良きことは美しきことかな」とはどういうことかな、心理学

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(とよ田作品でもホロっと来る名エピソード満載の『友達100人できるかな』。連載時は苦い思いもされた作品の由だけど、ご自身でKindle化、その回路で新しい読者も増えてるみたい。最新作『金剛寺さんは面倒くさい』もめでたく重版になったそう。とよ田さんの作品は「ベストセラー」ではないかもしれないけど、一つ一つが「ロングセラー」な気がしてならない。)

人工のアレについて読んでいたら、最先端の話題になると、むしろキモは超超古典的なことになるのね。「わかる」とは何か、とかとか。オー、ソクラテス!な雰囲気。

最先端を突き詰めると、結局いちばんベーシックなところを考えざるを得ない、というのがなかなか面白い。「わかる」とか「見える」とか、「歩けそう」なんていうのも、ちゃんとやると相当タイヘンなことのよう。

で、自分で最近関心を持ってるものすごく単純なことは、「なかよし」とは何であるか、ということ。

先日、明治時代の外交を長く担った牧野伸顕さんの『回顧録』(中公文庫)を読了したんだけど、あれだけ唯一無二のエピソード満載なのに、「どんな問題も一人と一人が交流することから始まる」と繰り返し述べておられた。

重複する話題がほとんどないだけに、これは相当大事なことなんだなーと、その念の入りように感じ入った次第。

一見大がかりなようでも、突き詰めればどっかの国のナントカさんと、どっかの国のカントカさんの交流に行き着くのだから、常にそれを考えなくてはいけない、云々。

これをパリ講和会議に参加した人が言ってると思うと、なかなか大事なことを含んでいるなと思うんだな。パリ講和会議の裏側では、そういう個人個人の交流で場が保たれていた面がほとんどだったのに、傍若無人な◯◯さんのおかげで会議が紛糾した、とかとか。

それでつい、「交流ってなんだろう」と思うし、もっとざっくばらんに「仲が良い」とはどういうことなのか、とも考えてしまう。

何で読んだか忘れたのが悲しいけど、「ある人の影響」は、「友達の友達の友達」まで有効だそうな。なんだか嘉門達夫さんの歌を思い出すけど、認知心理学の結果からすると、そうらしい。

Aさんの「楽しい」「ゲンナリ」は、Aさんの友達のBさん、Bさんの友達のCさん、Cさんの友達のDさんにまで影響を及ぼすというんだから、ニンゲーンとナカヨーシの関係はなかなかに深いものがある。

私淑してやまぬDavid Ogilvyという、正確な名前の発音がいまだに分からないエライおじさんは、そうした心理を直感的に見抜いて”Get rid of sad dogs who spread gloom”なんてカッコいい警句を吐いている。

それぐらい、交流は大事なものとしてガッチリ根付いてるみたいだけど、「仲が良い」とか良くないとか、これもまた定義がタイヘン難しい。

そもそもAさんの言う「なかよし」とBさんの言う「なかよし」が同じことなのかどうか。こんなに連呼してると、いきおい『りぼん』とか『ちゃお』が出てきそうになるけど(^∇^)。

定義なんてそんなヤボな、というのが、アレな知能をケンキューすると、言うもヤボなことにマトモに取り組まなくちゃいけないのが面白い。

ある意味、最先端のことをやってる人は、そういう「ものすごく基本的なこと」を相手にすることになるから飽きがこないのでは、とも思ったりする。

フツーなら「そんな当たり前のこと」と言って気にもしないのを、正面切って取り組まないと一歩も進めない、みたいな。

ここまで書いてきて思ったけど、糸井重里さんが『ほぼ日』立ち上げ時にちょいちょい言及してた、山岸俊男さんの『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)も、そういう文脈で読み直してみるかな。

あとは冒頭にも触れた、とよ田みのるさんの傑作『友達100人できるかな』もあらためて再読しようかと思う。ちょうどいま、新刊の発売に合わせてセールになってるみたいだし(^∇^)


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by ulyssesjoycean | 2018-03-22 12:00 | Comments(0)

「どっちも大事」より「どっちかだけ」にしたい? 「使うひと経験」と「意味のイノベ」から考える

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(「使うひと経験」の考え方も部分的に取り入れてきたけど、一度きちんとやってみる必要あるな!ということで、川喜田二郎さんをテキストにガッツリ向き合う。やってみた結果、ベルガンティさんの「意味のイノベ」についても同時に考えさせられた。ロベルト・ベルガンティ『突破するデザイン』は日経BP社から2,160円にて発売中)


「試作ing」など、部分的に影響を受けてきた「使うひと経験」研究。


大筋には賛成なのに、何か腑に落ちないなんでだろう?というのを、ちょっと前に書いたなー。


「使うひと経験」は全体に関わるから、「全部やってみる」のが一番の近道?


「使うひと経験」は全体に関わるものだから、それを言う人が「全体に関わって」ないと、各分野から抵抗があるのも自然な成り行き。


自分も紐ingをやってはるけど、結局「それで何を作ったの?」というところまで行かないと、「部外者」のまんまであろう。


大工仕事の研究をぶきっちょなりに続けてたとしても、「家を建てたことがない」以上、大工さんたちから軽くあしらわれたとしても文句は言えない、そんな感じ。大工さん視点から見れば、それはそうなるだろう。


「使うひと経験」にはそういう面で「引っかかり」があったのは確かだけど、大事なことを言ってることに変わりはない。せっかくだから本家の川喜田二郎さんに取り組んでみよう!


で、実際に何段階かそのやり方を実践してみたんだけど、色々考えさせられたな。


川喜田さん自身、学問の進展を「書斎科学」「実験科学」「野外科学」と3つに分けて説明。で、「野外活動」は一番新しい分野だけに、新しい方法論が必要ですよ、と。


でも、「書斎科学」「実験科学」が「不必要」とは「言ってない」。むしろ、この3つがガッチリ組み合わさるのが重要なのだ、とおっしゃっている。


それぞれの科学が活きるポイントが違うんだから、段階に応じて使い分けないと「仕事を完成させる」ことはできない、云々。


それで思ったんだけど、たぶん「ぜんぶ大事」というのは、人情的には受け入れにくいんじゃないかな。「どっちかにして!」と言いたくなる人がほとんどなのかも。


提唱者の川喜田さんは「ぜんぶ大事」と言ってるんだけど、周りはそう受け取ってくれなかったのかも知れない。文章に苦闘の様が見て取れるのは、その辺が背景じゃないだろうか。


「使うひと経験」も研究が進化発展していくにつれ、その真反対のベクトルの「意味のイノベ」が出てきたりしてる。


「意味のイノベ」を提唱してるのはベルガンティ先生だけれども、この人も別に「使うひと経験」を否定はしていない。


ただ、両方とも「得意分野(担当するところ)」が違うよ、と何度も何度も繰り返すあたり、川喜田さんと同じ悩みがあるのかなー。


先日、伊集院光さんのラジオに北山修さんが来られたけれども、ちょうどそんな話があったんだよね。


「Either or」(どちらか)ではなく、「Both」(どっちも)でいいじゃない、なんて。おお!と思ったんだな。


「北山修」という名前はどこかで見覚えがあるなーと思ったら、タカヤマ本のどこかで言及されてたはず。高橋康也さんの『ノンセンス大全』の愛読者として、佐藤良明さんと共に挙げられてたような。


*アイザー・オア、の話も、タカヤマ本のどこかで触れていたからこそ、オオッ!と思ったんだろう


本来的に大事なことは「どっちも」なはずなんだけど、なぜか人は「どっちか」に「決めたがる」と聞いて、それはなぜなのかなーと考え始める。


結局、1960年代の川喜田二郎さんも、2017年に本を出したベルガンティさんも、「どっちも大事」と言ってるんだから。ところが、周囲では「どっちかだけが大事」と言いたくなるんじゃないかな。


そうすると、「どっちも」はニンゲーンの人情的に受け入れにくい仕組みになってる?  だって提唱者は「どっちも」と言ってるのに、「どっちか」の方がすごい数なんだから(^∇^)


行動エコノーをやった時も、「選択しやすい設計をしよう」とはあったけど、「人はなぜ『どっちか』に決めたがるのか」は書いてなかったな。


最近のテーマである「理系・文系」にしても、「どっちもやってる」人はごく少数。自分のように「文系」メインで、「行きがかり上」、「理系」にも手を出すとか。


そうやって見ていくと、ありとあらゆるものが「どっちか」構図。デジタル・アナログ、保守と革新、きのこの山VSたけのこの里などなど。


きのこの山とたけのこの里であれば、「どっちも食べる」のは比較的カンタンだけれども(^∇^)、「どっちか」になりがちなことは高コストだからなぁ。


川喜田さんの手法をミッチリ実践した結果思ったんだけど、「新しい手法を自分の中に取り入れる」のは、一番高コストかもしれない。


ドイツ語やピコピコでも感じたけど、新しい手法を取り入れようとする時は、消耗の度合いがハンパない。自転車だって一番タイヘンなのは「乗れるようになるまで」だし。


で、身につけるまでがタイヘンなことって、一度身につけてしまうと愛着も強まるから、「これだけ!」になりやすいのかも。その上また「真逆の発想」と言われてもなぁ、的な。


こうしたことも、川喜田さんの原テキストにあたるからこその発見ではあるので、やっぱりオリジナルに向き合おう、と思ったのでした( ´ ▽ ` )ノ


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by ulyssesjoycean | 2018-03-19 12:00 | ピコピコ武者修行 | Comments(0)

結局これも「メタ認知」がらみかい! 三宅陽一郎/山本貴光『ゲームで考える人工知能』

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(エ〜アイエ〜♪と書くと、なんかワールドミュージックみたいに聞こえてくる流行りの「アレ」。面倒な言い回しを考えるのも面倒なので、このブログでは「アレ」で通そう(^∇^)。「アレ」のエキスパートの三宅陽一郎さんと山本貴光さんの共著『ゲームで考えるアレ』、ではなくて、『ゲームで考える人工知能』はちくまプリマー新書から税抜き950円にて発売中)

最近の流行り言葉で「アレ」を耳にしない日はないけれど、流行りの宿命らしく、「アレ」について本当によく知っている人もいない雰囲気。

そんなときに、「アレ」のエキスパートたる三宅陽一郎さんと、ゲーム作家の山本貴光さんが『ゲームで考える人工知能』を共著で出版。

一応はピコピコに取り組んでる因果もあるし、どれどれと思って読み始めると、またしても「メタ認知」かーい!という気分に。

「アレ」にニンゲーンの仕事が取られちゃう的な話はよく聞くけれども、自分で調べた範囲でも「うーん、うまい話はないなぁ」という当たり前なことを実感。

Snakeみたいな名前のをピコピコに入れて見たり、Qの次でSの前の文字も、「せっかくだから」とピコピコに入れて動かしたり。

そういう「いかにもピコピコ!」なものが目立つ中、三宅さんと山本さんの共著では、「ゲームに出てくる敵キャラクター」を対象にしてる。それが「おおっ?」という感じ。

結局、遊ぶ人はニンゲーンだから、そこはピコピコで作る必要なし。ところがニンゲーンがいざ遊ぶときに、敵キャラクターの設定次第で面白さが激変。

ところが敵キャラクターは、その都度ニンゲーンが動かすわけにいかないから、「遊ぶ人が面白くなるように戦う敵キャラクター」を前もって作らなくてはいけない。

で、「遊ぶ人のことを」「前もって考えて」おくわけだから、これはまさに「メタ認知」。みうらじゅんテイストの言い換えを思いつく前に、ありとあらゆる分野にメタ認知さんが登場するので大変困っています( ´ ▽ ` )ノ

でも実際、「メタ認知」が必要とされない分野はほぼないなー。「メタ認知」があるか/ないかで、それこそさっきの「敵キャラクターの設定で面白さ激変」と同じことが起きる様子。

『ゲームで考える〜』では「ゴブリン」という、RPGにお馴染みの「小鬼」が敵キャラクターの代表として出てくるけど、残念、この世に「ゴブリンの経験ある人」はいないからなぁ。

「オレァ、むかし総理大臣だったんだよ」というタイプの方は、水元公園付近で発見されやすいそうだけれども、RPGのゴブリンはそういうわけにいかないという。

で、「いないもの(ゴブリン)」を「想像して」、さらに「実際に遊ぶ人」を想像しながら、「いないもの(ゴブリン)の振る舞いを考える」ーーこれはもうまさに「メタ認知」の集合体!

行動エコノーミクスをやってシミジミしちゃったのは、「自分はラーメンが好きだ。『だから』みんなラーメンが好きなはずだ」というのがニンゲーンの自然な発想なんだって。

そういうときに「自分はラーメンが好きだ。『でも』みんながみんなラーメンが好きだとは限らない」と考えるのが第一歩らしい。さらに「ラーメンが好きじゃない人は、『どうして』ラーメン好きじゃないのかな?」と、順を追って考えていく。

ラーメンがもともと好きじゃない人であれば「自分は◯◯だからラーメンは好きじゃない」と言えるかもしれない。でもラーメンが好きな人は、「メタ認知」の力を借りないと、「ラーメンが好きじゃない人」を「そもそも想像できない」という。

じゃ、想像したらいいんでしょ、と言っても、これが言うほどカンタンではなかったりして。だって想像には終わりがないんだもの。「想像」と「実際」がかけ離れてたら、それは想像の仕方が間違ってた、ということになる。

でも想像は「カンタンに確かめられない」というので困るんだな。それで、「現状で確かなこと」を部分的に当てはめたり、手がかりを探したり、「自分の想像したこと」と「実際」をちょっとずつ確かめていく。これが相当メンドイことのよう。

なので、「メタ認知」があんまないッス!という場合、「一発逆転サヨナラ満塁ホームラン」形式というか、「この世には『ラーメンの好きな人』か、『ラーメンの嫌いな人』、どっちかだけにする!」と強引に線引き。

もしくは「ラーメンはもうやめた!」と「なかったこと」にして、「これからはギョーザにする!」とかとか。

今回の『ゲームで考える〜』にも「わからないことを頭に置いておく」という視点が出てくるんだけれども、それは「メタ認知」がない場合、タイヘン難しい作業。

で、「アレ」をピコピコで実現する場合、その「メタ認知」が二重になってる印象。まず「自分ではない、遊ぶ人」を想像して「敵キャラクター」を設定し、その行動原理を「ピコピコにわかる形で翻訳する」必要がある。

で、その「ピコピコにわかる形で翻訳する」際に、数学の考え方がものすごく活きてくるという。

「数学なんてなんの役に立つの?」と感じる人も多いと思います。実際にはこんな風に活用します。ものすごく役に立ちます。

(三宅陽一郎/山本貴光、『高校生のためのゲームで考える人工知能』、ちくまプリマー新書、pp. 39-40、2018)

というくだりを読んで、思わず吹き出してしまったんだな。きっと、著者の三宅さんは数学がメチャメチャ好きなので、自分の大好きなものが「役に立たない」と言われるのがよほど悔しかったんだろう(^∇^) とっても人間らしい。

*もっと言うと、「先にゲームの動かし方」を見せてから、「それに必要な数学の考え方」を学んだ方がグッと来る人も多くなるのかな

これだけ広まったのに、ピコピコが何となく煙たがられるのも、最近の洗濯機よろしく「何層構造!」になってるからかも。

ここまで書いてきてくたびれたけど、要は厳密に決められた、一見メタ認知なんて必要なさそうな流行りの「アレ」にも、バリバリ「メタ認知」が必要なんだなー、ということがわかったのでした。

で、「わからないことを頭に置いておく」のが「なぜ」タイヘンなのかのヒントも書かれてた気がした。たたそれを書いてくと終わらなくなるので、この新書を読み終わったタイミングで改めて考えよっと(^∇^)
 

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by ulyssesjoycean | 2018-03-17 12:00 | ピコピコ武者修行 | Comments(0)

「間違ってる」と言われ続けて50年 「今の学校教育」は寅さんばり?

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(「学問といえばラテン語!」から、各地語に移り変わりつつあった17世紀。コメニウスさんは絵と文字を併記して教育の普及に当たった云々。その前の時代のエラスムス先生は現地語なんかてんから相手にせず、ラテン語だけで執筆してたんだから、100年くらいでガクモンの趨勢もえらく変わるもんだなぁ。『世界図絵』は平凡社ライブラリーから税込1,512円で発売中)


「理系・文系」両方の考え方を知っておこうと馴染みなかった分野をやってると、1つだけ「共通点がある」ことに気がついた。


それは「今の学校教育は間違っている!」という『北斗の拳』ばりの力強い主張。


同情する義理も別にないんだけど、理系・文系の両分野はもちろん、1960年代から2018年まで、「間違ってる」と言われ続けて50年(!)。半世紀も言われてるんだと思うと、「今の学校教育」さんも大変だなと思う。


「間違ってる」の反意語は「正しい」だと思うけど、「今の学校教育」が「正しい」時代ってあったのかな?と。


18世紀末のヘーゲルさんも大半の教え手はヤル気ねーと文章に残してるし、学生の方のヤル気ねーも、ヤン・コメニウスの『世界図絵』にちゃんと出てきたりする。


コメニウスさんの本が17世紀中頃だから、「今の学校教育は間違っている」も、年季の入り方がちがう(^∇^)


「正しい教育」方面はちょっと分からないけど、ヤル気ねーの反対の教え手に当たった記憶はソコソコある。


ソコソコというか、いま即座にパッと名前が出てくる方が10人はいるから、その意味での学恩は多大にあったんだろう。


それで思うんだけど、そういうヤル気とガッツを備えた教え手に対して感謝はするけど、それは「キョーイク」全体に感謝してると言えるのかなー?  


「定義が共有されてない」モンダイの1つかと思うけど、「教育」それ自体はどうやって定義するんだろう。類義語だけでも「指導」「教授」「養成」などが次々思い浮かぶ。


それでいてやってよかった的なプラスの思い出は「具体的な個人」に由来するのだから、「今の学校教育は間違っている!」モンダイも、個人と全体のゴチャゴチャが原因になってそう。


でも1人学習は「教育」とは言わないんだろうな。「独学」という専用の言葉もあるけど、自分で自分をキョーイクしてますって、何かヘン。


ガッツある教え手に恵まれたけれども、比率で言えば「独学」が90パー以上なんだろうなぁ。


なぎら健壱さんなんか、「強いて言うなら、オレがライバル」とテキトーに答えてるものな(^∇^)。いいなぁ、ああいういい加減な感じ。


なぎら健壱さんで連想したけど、楽器の演奏は「教育」になるんだろうか。なぎら健壱さんがギターを弾けるようになった姿を見ても「音楽教育」というのとはなんか違う気がする。


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by ulyssesjoycean | 2018-03-15 19:44 | Comments(0)

川喜田二郎さんのKJ法と学魔御大の「構造はテーブルする」

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(「構造はテーブルする」の一文が巻頭を飾る、高山宏御大の『終末のオルガノン』。川喜田二郎さんのKJ法をやっていて、この感じは何かに似ている、というところから思い出した。川喜田さんの新書から、高山御大のハードカバーに至る連想の落差がヒドイ(^∇^))

木下是雄さんの『理科系の作文技術』でも紹介されていた、川喜田二郎さんの「KJ法」。

これまでの「使うひと経験」への回路から触れてはいたけど、本家本元の作法に触れてみようと遅まきながら入門。

KJ法に一生懸命取り組んでみたところ、作業中の心の動きに見覚えがある。なんだろう?と思ったら、高山宏御大のコラージュ資料を、自分で応用した時の感覚だった。

『超人高山宏のつくりかた』(NTT出版)でも紹介されてたけど、A3のコラージュ資料。本をえっちらおっちら現場に運んでいたけど、「しまった! このやり方があったのか!」と。

以来、自分の書いた絵などコラージュして、A3資料にまとめる習慣ができ、イベント参加時に持っていく負担がえらく軽くなりましたとさ(物理的にも(^o^))。

自分の書いた絵をコピーして、原稿用紙やら何やらをA3の白紙に載せていくんだけど、やっていくうちに「おさまりがいい」配置が見つかる。

切り抜いたイラストから何から、あっちに置いて、こっちに戻してということをやるのだけど、今回KJ法を本格的にやってみたら、「ああ、コラージュ作った時のあの感覚だ」と久々に思い出したんだな。

川喜田二郎さんも「データをして語らしめる」という言い方をされてたけど、ザーッと並べたカード類が自然と寄り集まっていくのであって、「これはこういうテーマだから、こういう分け方にしよう」と最初に決めてはイカン由。

あくまでデータ類に語らせる、というスタンスで作業していくと、あー、これはコラージュ作った時の「おさまりのいい」配置を見つけるのと似てるなーと。

川喜田さんの『発想法』では「野外科学」として、気宇壮大な話が述べられてたけど、その後「デザイン思考」「HDI」として「使うひと経験」にまとめられてくわけだから、あながち無理な想像ではなかった。

*英語ではAffinity Diagram と言うそう

変な話だけど、この川喜田二郎さんのKJ法と、その後のデザイン思考と、親近性のあるタカヤマコラージュを、それこそKJ法で整理したらどうなるのかな?と。

何をやるにも歴史の発想をしちゃうから、川喜田さんのKJ法がどんな経緯を経てAffinity Diagramとしてポストイット主体にまとめられてくのかが気になるんだよね。

だって川喜田さんが研究所まで設立して後進の育成とシステム構築に尽力したわけだから、「使うひと経験」への橋渡しをした人や団体がどっかにいるわけでしょ。

プロダクトデザインを学ぶとしょっちゅう名前が出てくるIDEOとか、どっかで川喜田さんと接点あったりするのなー。

川喜田さん自身、アチラのブレインストーミングの手法を取り入れ、手を加えて方法論に練り上げてったわけだから。

ただ今回、KJ法をやってみて思ったけど、これ、データ(カード)の用意が一番タイヘンだな(^∇^)。そういえば、タカヤマコラージュ応用編をやる時にも、「素材を集めて用意する」のが一番タイヘンだったのを久々に思い出した( ´ ▽ ` )ノ

あの頃はまだ自分で全部の絵を描くのはできなかったから、コラージュの手法を使ってたけど、いまは「絵から描いたほうが早い」ということになって、手書きのグラフィックノートが主流になっちゃったな。

なんで最近コラージュしてないんだろう?と思ってら、そうか、全部自分で絵を描いてるからだな、とハタと思い当たる。絵を描くのが日常になったから、そのことをスパーンと忘れてしまっていた。

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by ulyssesjoycean | 2018-03-12 21:42 | Comments(0)

コミュニーケーションが噛み合う確率は「1.56%」? テキトーMatrix

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(数学の恩師[私淑=直接でなく本から学んだ]の小島寛之さんは、数学の良問を探すうちに、経済学者になってしまったそう。で、ベイズ統計関連の書籍も複数執筆してらっしゃる。『完全独習 ベイズ統計学入門』はダイアモンド社から税込1,944円にて発売中)

「大半のモンダイは、コミュニカシオンに原因がある」と、アチラの友人に言われたのが2年前くらいか。出会い頭にこう言うんだから、相当「コミュニカシオン」で苦労したんだろうなと、その心情が察せられたな。

で、最近しきりにこの発言が思い出されるのは、「理系・文系」ケンキューを始めたからだろう。

「理系・文系」の反目はどの辺に理由があるのかな?というので、「理系のための〜」と名がつく書目をザザッと確認してたら、色々考えさせられた。

というのも、先日表紙を挙げた『理科系の作文技術』、つまるところ「読者を想像する」のが大事だよ、と。「この文章を誰が読むのか」を設定することが、「作文技術」である、云々。

その通りだと思うんだけど、行動エコノーミクスを通過すると、この「読者(自分以外の人)を想像する」というのはメチャ大変な難事業。

というのも、行動エコノーミクス+認知心理学+使うひと経験のケンキュー結果からすると、ニンゲンは「自分しか基準がない」そうな。

どういうことかというと、例えばAさんが「ラーメン好き」だとする。そうするとAさんは「自分はラーメンが好きだ。『だから』みんなもラーメンが好きなはずだ」と思っちゃうらしい。

それ、「だから」では繋がらなくない⁈と思いがちだけど、考える人が「ラーメン好き」な時点で、「ラーメン嫌い」な人の気持ちは想像のしようがない。

そうすると勢い、「だからみんなも同じはずだ」と考えちゃうそう。

それプラス、「現時点Bias」が効いてくる。ジロー系でお腹いっぱいの時に「明日、ラーメン食べますか?」と尋ねられても、「いや、『いまお腹いっぱいだから』、明日はラーメン食べないよ」と答えてしまうそう。

で、当然「明日」になればお腹が空くので、またジローさんの門を叩くと。言ってたことと違うじゃん!と思うけど、「その時はお腹いっぱいだったから」、明日どうすると聞かれても「お腹いっぱい」の自分しか想像できない由。

お腹いっぱいの時に「空腹」は想像できないし、空腹の時に「お腹いっぱい」は想像できないという。ニンゲン的には、「推測の材料は、今現在の気分のみ」だそうな。

こういうのを行動エコノーミクスでみっちりフォローした結果、「ミもフタもない」という気分になったけれども(^∇^)、以上を踏まえると「コミュニカシオン」をうまく行かせるのは、相当タイヘンだぞ、と。

「理系・文系」に以上の考え方を当てはめてみると、「理系」が得意な人は「理系」が苦手な人を想像できず、さらには「現時点の自分の状態」を元に想像がスタートする。

自分が数学まなび直しをした時に問題集を解き始めて一番引っかかったのは「〜〜は覚えておくと計算がラクだよ」というモンゴン。

「ラク」を基準にするなら、「計算しない」のが一番「ラクになる」んじゃないのかな、と思ってしまった( ´ ▽ ` )ノ  

でもその参考書を作った人は、「自分は『ラクになる』という言い方が好きだ。『だから』みんなも『ラクになる』と言われた方がいいはずだ」になる

行動エコノーミクスをやって一時期心底しょんぼーりしてたのはこの辺が理由だなー(^∇^)。今は話を数学にしちゃったけど、「文系」「語学」に置き換えれば、まんま同じことを自分も言ってるんだろうし。

しかし! 曲がりなりにも数学を学び直した以上、「コミュニカシオン」がうまくいく割合を冷静に考えてみよう!となった。

最近は「メタ認知」もやってるから、それも要素に入れて、組み合わせ表を作ってみよう!  そして分布を調べてみよっ!!

「1.自分基準」「2.現時点Bias」「3.メタ認知」を、噛み合う方向なら「+」、噛み合わない方向なら「-」と(とりあえず)設定して、Aさん・Bさんの2人で組み合わせ表にしてみる。
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(ヒドイ図(^o^)  なんかむしろ顔文字が並んでるみたいになっちゃった)

で、結果、
////
+, + (両方とも噛み合う) は、9/36 = 25%
+, - (片方が噛み合わない)は、18/36 = 50%
-, - (両方とも噛み合わない)は、9/36 = 25%
////
これ、単純な分布だけで言っても、「噛み合う」のは25%、何らかの地点で「噛み合わない」のは75%ってことになるような。

あるいはこれを、「サイコロを3回振って、3回連続で『6』が出る」確率みたいにやってくと、サイコロなら

////
1/6 × 1/6 ×1/6 = 1/216 ≒ 0.46%
////

だから、

「AさんとBさん」で、「1.自分基準」「2.現時点Bias」「3.メタ認知」が「3つとも噛み合う(+, +)」になる可能性は

////
3/12 × 3/12 ×3/12 = 27/1,728 ≒ 1.56%
////

になるような。

で、この反対に「AさんとBさん」で、「1.自分基準」「2.現時点Bias」「3.メタ認知」が「噛み合わない(+, -)(-, -)」になる可能性は

////
9/12 × 9/12 × 9/12 = 729/1,728 ≒ 42.18%
////

ーーと、ここまでやってきて、自分で「お腹いっぱい」状態になったな(^∇^)

知らないよ、この組み合わせ表はあくまで便宜的に、しかも「数学まなび中」のニンゲンが「試しにやってみよ」感覚で作ったものだから。

*数学や統計をホントーにまじめに取り組んでる人は、「そもそもの設定が!」とか怒らないように( ´ ▽ ` )ノ

もっと言えば、これを「ベイズ統計」とかで、「Aさんが『1.』の時に『-』だったら」を、微分積分的にグラフ化したい面もあるけど、そんな能力は自分にない(^∇^)

でもこんなパッと作っただけの表でも、「噛み合う」と「噛み合わない」の差は凄いな、と「目に見える」んだから、やってみてよかったなとは思う。

自分の計算もチャートも「頭の中のモヤモヤを整理するために」作っただけなので、こういうのをちゃんと研究している人がいたら、ぜひ話を聞きに行きたいなー。

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by ulyssesjoycean | 2018-03-11 09:54 | Comments(0)

「使うひと経験」は全体に関わるから、「全部やってみる」のが一番の近道?

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(むかしから評判の木下是雄『理科系の作文技術』。ウィンストン・チャーチルの引用[毒舌とも言う]から始まるので、これはただ事でない。実際、大変オモシロイ。税込756円にて現在も発売中。中公新書は名著が山のようにあるなー)

「使うひと経験」という新しい分野から色んなことを学んでるけど、一方でシンラツーな批評もあるし、また「使うひと経験」の人が「提案が受け入れられないYo!」と嘆いたりする。

「使うひと経験」は「使うひと経験」自体を良くすることが眼目だから、その分野の人じゃなくても、その大本には賛成しかない。

かといって無条件にワーイと受け入れられてるかというと、そうでもないんだな。新しいものは何でも悪く言われがちだけど、変な話、「使うひと経験」の中の人から真摯な批判が出たりする。

ウドンを捏ねたことがない人が「最近のウドンはけしからん」と言っても仕方ないけど、ウドンを捏ねてる人が「このウドンづくりは如何なものか」となれば、ただのイチャモンとは言い切れない。

で、つらつら書いてる自分はどうなのかというと、大筋には賛成ながら、何か賛同しかねる印象を持つのも事実。しかもこの「何か」が何なのかわかんないという居心地の悪さ。

試作ingとか、モロにこの分野のおかげでやり始めたけど、諸手を上げて大賛成!にならないのはなんでだろうーー

自分でも常々フシギに思ってたんだけど、やっとそのヒントっぽいものが見つかる。

なんでも、使うひと経験界隈で「提案が受け入れられないYo!」が2種類あって、ひとつは「今それを言う⁈」という「タイミングの問題」と、「資格の問題」だそうな。

「資格」と言っても、何も野菜ソムリエとかコクイチとかではなくて、デザインならデザイン、紐ingなら紐ing、お金管理から売りに行く人まで、「そのドレでもない立場」から「全体の改善策」を言われてもなぁ、ということらしい。

「使うひと経験」は「全体にまたがる概念」だから、変な話、使ってる時だけを考えても仕方ない。「使う前にどうだったか」「使った後にどうだったか」も視野に入ってる。

で、分野自体が全体にまたがってるからこそ、それぞれの行程のエキスパートから「ちょっと待った!」が入りやすいんじゃないかな。

それで思うのは、理想的な「使うひと経験エキスパート」は、必要があればデザイナーさんの所に行ってアドベ系のソフトを使い、紐ingの部門で机を並べてガチャガチャやって、お金管理についてエライ人と悩んだあと、ものを売りに行く人とその苦労を共にするーー

途中から、宮沢賢治の何かみたいだなと思ったけど(^∇^)、実際「ぜんぶやるひと」こそ理想的な「使うひと経験エキスパート」なんじゃないかな。だって「分野自体が全体に関わってる」んだもの。

その道の人と同じでないまでも、それぞれの行程を「自分でもやってみた経験」がないと、なかなかその分野の人の了解は得られないだろうなー。

面白いな、と思うのは、自分の力量ではアドベを満足に使えないので、色鉛筆やら何やらでデザイン描いて、それをデザイナーさんのところに持っていくと、「これはこうやるんだよ」と教えて貰えたりする。

そういうことが幾つか重なって、ふーんと思ったんだな。やっぱり、その分野の人の協力を取り付けるためには、自分でも手を動かさなきゃダメなのか。

ダメというか、「そっちの方が話が早い」と、今更ながら気がついた( ´ ▽ ` )ノ  それで言うと、紐ingは着手するのが一番遅くなってしまったナー。まあ、致し方なし。

でもこれ、「各分野の協力を得る」には「その分野を実際にやってみる」のが一番の近道だとすると、なんで「自分の専門以外は『やりたくない』」ってなるんだろう。

だって、別にものすごい損をするわけではないもの。アドベだって、アドベ創造的雲とか、無料枠があるから「試しに使ってみる」ことはできる。

何もお金管理を知るためにシャチョサンになる必要はないだろうけど、自分主催でイベント開いてみて、うわー、人が来ない!とかになれば、気分的にはまずそれに近い。

コスト、ということで言えば、無料からスタートできるものはいくらもあるし。それが分かっていながら、かく言う自分も長いこと紐ingには着手しなかった。

「使うひと経験」がキッツイ指摘を受けるのも、この辺と関わりがありそうなんだけど、自分が好きで「始めたこと」より、「なんとなくやらないこと」の方が、意識するの難しいしな。

こんなこと考えてると、果てはノイローちゃん(©︎伊集院光)なだけだからやめたほういいと思うけど(^∇^)。ただ「なぜなのかな?  その方が話は早いのに」と思ってしまったので、自分へのメモとして残しておきます。

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by ulyssesjoycean | 2018-03-09 21:29 | ピコピコ武者修行 | Comments(0)