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今なら読めるぞ! John Updike "Rabbit, Run"

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(高山宏・巽孝之『マニエリスム談議』にも「アメリカ流、現代のマニエリスト」として名前が挙がっていたJohn Updike。この文脈にはビックリしたけど、たしかに凝りに凝った文体という点でヘンリー・ジェイムズと並ぶというのは、ナルホドと納得した次第。Penguin Booksはじめ、色んなバージョンがあります)

「うわっ、なつかしい!」と思わず手に取ってしまったJohn Updike。アメリカを代表する作家で、『Rabbit』シリーズが特に有名。

有名ということでは、Updikeさんは「凝りすぎる英文の代名詞」というくらい、ちょい厄介な相手。なんでも有名大学の創作クラス出身で、その後は『New Yorker』とか、あの手のシャレオツな雑誌でバリバリ作品を発表。

むかーし、英語で本を読み始めたころに手に取った記憶あるけど、その当時の語学力ではついていけなかったのと、あとはアメリカ~ンな価値観が鼻について中座してしまった。

ところが最近、どういう風の吹き回しか英語でそこそこの分量を書く必要があるので、そのための「準備体操」をしたいと思っていた。長いものを書くとなると、助走も必要みたいなんだな。

準備体操でフルマラソンを走る人がいないように、適当な分量と内容のものが欲しいと思っていた時に思い出したのがUpdike。むかーし手に取ったきりで止めてしまった記憶があったから、「今だったらどうなのか」という点で再チャレンジ。『マニエリスム談議』で取り上げられてたのも背中を押した格好。

そしたらこれが案外読めるので、「おおーっ!」なんて(^o^)丿 語学力がついたのが嬉しいと共に、現代小説だから準備運動にもピッタリ。英語で本を読み始めたころを思い出すのも、初心に帰る形で悪くない。

初めてJohn Updikeさんの作品にまともに向き合ってみると、しっかり「現代小説」だったんだな、これ、と気づく。独白でポンポンポンと主人公の思考をつないでいったり、十数ページ前の単語がココで活きてくるんだ!なんて。柳瀬尚紀さんが頻繁に言及してたのもそのせいかな。

まだ読み始めてちょっとだけど、この小説のキーワードは「crack」みたい。これだけ凝りに凝った文章を作る人が、30~40ページでやたら「crack」に出くわすので、「これが大事ですよ」とわざわざ教えてくれてるようなもの。

ところがこの「crack」、めちゃめちゃ意味が広い。主人公が奥さん投げかける皮肉なユーモアも「crack」と言われるし、擬音でもあれば人物の形容詞でもあるという。ピコピコの世界で悪さするのもcrackと言われるんじゃなかったか(綴りは知らないけれども)。

なんにしても自分の好きな現代小説の雰囲気も楽しめるので、しばらくはUpdikeさんを準備体操本として愛用させてもらおうっと。

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by ulyssesjoycean | 2018-04-28 12:00 | Comments(0)

もしかして「隠れタカヤマ学派」? 井上研一さんの人工アレ関連本

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(先日のゲーム本に続き、なんだか人工アレづいている昨今。流行りにいっちょ乗っかったれ的なガッハッハもなくはない分野だけに「キチンと向き合っている」人はものすごく目立つ。井上研一さんの『ワトソンで体感する人工知能』はリックテレコムから税込1,944円にて発売中)

流行り物が一般に敬遠されるのは、真剣にやってるごく少数な人は目立ちにくくて、わっしょいわっしょい!なガッハッハ感に「厭ダナー」(©︎夏目漱石)を覚えるせいじゃないだろうか。

先日やっと読了した『ゲームから考える〜』は、著者の三宅さんが「数学が好きすぎる」雰囲気あるし、山本さんは「実際にゲームを作って、プランナーもやった」という経験に裏打ちされた知識。

で、お二人とも「本好き」というのにグッとくるんだな。そんな人いるんだー、みたいな。

*余談ながらつい先日ハッと気づいたんだけど、自分の中に「技術系・自然科学系の専門家に本好きはいない」という「先入観」あると気づいた。実例もなしに「勝手に思い込んでいた」自分に気づいて、たいへん申し訳ない気持ちに

で、お二人の著作は「ゲーム」から見たものだったけど、いわゆる人工アレで連想しやすい「ワトソン君」にも、ちゃーんと向き合ってる人がいて感激した次第。

この井上研一さんは、かなりちゃんとしたスタンスだぞ、と姿勢をただして向き合ったら、「もしかしてこの人、タカヤマ学派?」と思うくだりが。

タカヤマ学派にも濃淡が色々あって、タカヤマ学を全面展開してます!の筆頭が棚橋弘季さんだとすると、前述の山本貴光さんは「自然科学」の教養がバックボーン。

自分の場合は「経済学」の側面から恩恵をこうむってるので、「タカヤマ学」のエッセンスを展開させるにあたっては色んなスタンスがある。

でも一方で、そうした「タカヤマ読者ならではのカン」でピーン!と来る「共通点」もあり、それを今回、井上研一さんで感じた次第。だって「『分かる』と『分ける』はもともと同じもので」なんて書いてるんだもの。

その一点で判断するのは時期尚早だけど、まず流行りの人工アレの本を書いてる人で、更には紐ingの解説してる人で「分ける=分かる」論なんて展開してる人はまずいない。

つまりこの人の教養は「ピコピコだけじゃないよ」と、その点で明らかになるわけで、こんな風にちゃんと向き合ってる人がいるんだと思うと感激する。

あれだな、タカヤマ学の良いところは、「専門を越境する」姿勢が、読者に芽生えることかもしれないな。ピコピコや自然科学、経済学もそうだけど、専門的になりがちなジャンルほど、別なジャンルの知識が「強度」を与えるような。

自分も元々は言葉の世界ばっかだったけど、スタフォードを経由して美術が面白くなったり、経済学から数学に行って、そっからピコピコに行けたわけだし。

たぶん、「間にはさまるもの」が幾つかないと、「別のジャンル」に行きづらいんじゃないかな。自分の場合「経済学」「数学」「ピコピコ」という順番だったから続いてるんであって、最初の「言葉ばっかり」からでは「ピコピコ」に辿り着くのはムリだと思うもの。

そんな次第で、流行りの人工アレだけれども、ちゃーんと向き合ってる上に「できないことはできない」とハッキリ言う書き手がイルンダーって嬉しくなったのでタカヤマ学に引きつけて書いて見ました(^∇^)

*井上研一さんがタカヤマ本の読者かどうかは定かでないので、早とちりな可能性も大です( ´ ▽ ` )ノ


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by ulyssesjoycean | 2018-04-25 18:00 | ピコピコ武者修行 | Comments(0)

19世紀のフランス史はイベントが多すぎだよ! 自分で「年表」と「地図」を作る?

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(タカヤマ本でちょいちょい紹介されるドゥニ・オリエさん。『フランス文学事典』の編著もされてる由。由どころか、ずいぶん前に現物を見たのだけど、当時はフランス文学にそこまでの関心なかったのと、あとは単純にフランス語を真面目にやる前だったからか、チラ見した段階でお腹いっぱいだったな。ボリュームプラスその迫力でいまだに覚えてるのだから、スゴイ本なのは間違いない)

最近はフランス文学をちょこちょこ追っかけて読んでるんだけど、回想録やら社会時評とか、単純に歴史的にエピソードが集まってきて、アレアレ?と思うことが。

小説は19世紀フランスで頂点に達し、みたいなことがよく言われるけど、19世紀のフランス文学はペース早くない?という印象。

こっちはフランス文学はまずヌーヴォーロマンから入って、あとあとフランスのマンガ作品(BD)や、自分でも絵を描くようになった関係で絵画にも興味持ったけど、「正統的なフランス史」がアタマにまるでない。

それでも色々の関心からパズルのピースが集まってくると、超大御所!と扱いを受けてる人と、期待の新星!の登場がせいぜい20年とか、それくらいのスパン。

例えばヴィクトル・ユゴーさんなんか、押しも押されぬ巨匠と扱われてるけど、あれ? この新人と時代が被ってるの?なんてことがちょいちょいある。

バルザックとスタンダールが同時代人だったんだと後で知ったけど、フローベールさんの手紙をなんかの機会に読んでたら、バルザックには好感を持っただろうけど、金銭の話ばかりで美について一行も書いてないのでガッカリした云々。

それがなんか、現代日本から芥川龍之介の話をするような距離感で書いてあったので、ハハァ、バルザックさんはずいぶん前の人だったんだと思い込んだら、全然違うとか。

もっと単純なことで言えば、1789年のフランス革命ほどではないものの、コミューンレベルの闘いは頻発してて、当たり前だけど政権が始終交代する。

交代するのはいいとしても、それが共和制と王党派で、どっちがどっちの立場なのか混乱してくるんだな。昔は◯◯を信奉してたけど、××があって考え方が変わったとか。

ユゴーさんなんかはその点がまだわかりやすいけど、政権の立場にある人が、ンン? 王様なの? それとも議会を開いたの? クーデターはどっちがどっちに起こしたの?なんて。ハテナマークの連続。

これが150年スパンであるなら、ああなってこうなった、それでこの人が出てきた、みたいに追いつけるんだけど、ことフランスに限って言うと、1800年から1850年までの間にそんな情報がギューっと詰まってる。

イギリスならピューリタン革命から200年がかりのような話を、フランスでは50年に圧縮されるのではたまったものでない。

前に映画関係の研究会にお邪魔した際、「自分用の映画年表」というのを見せてもらってビックリしたことあったけど、フランスだけでそういうのを作ると案外面白いかもしれない。

「ありもの」を「おぼえる」のではつまらないけど、「年表を自分で作る」のは楽しそうな作業。松岡正剛さんの『情報の年表』を下敷きにやってみようと画策したりしなかったり(^∇^)

年表には着手してないけど、19世紀の作品はやたら地名が共通して出てきたりするから、仕方がないので『地球の歩き方』でパリの地図だけドーンと拡大コピーして、そこに作品中の場所を蛍光ペンで書き込んだりしてる。

何してるのかなーとは思うけど(^∇^)、なんでも「面白がる」方が楽しいので、そこのところは所ジョージさんよろしく「なんでも面白がる」が大事な気がしてならない。

そういうマップとかタイムライン(年表)があった上で、オリエさんの文学事典とか読むと、また印象違うんだろうなぁ。巨大すぎて手に負えなかったからなぁ、あれ。

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by ulyssesjoycean | 2018-04-23 18:00 | Comments(0)

「この隙間、歩けそう」の判断も人工Intelligenceさん的には大仕事! 山本貴光・三宅陽一郎『ゲームで考える人工知能』

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ようやく読み終わった山本貴光・三宅陽一郎『高校生のための ゲームで考える人工知能』(ちくまプリマー新書)。やっぱり知らない分野の本は新書といえどもジックリ取り組むものだなー。

読了して思ったのは、書名に「高校生のための」とついてるくらいだから、「将来ゲーム業界で働きたい」、もっと言うと「ゲームクリエイター志望」の読者にグッと来る内容かと思う。

というのも、いろんな観点が「ゲーム制作」という視点から取り上げられるので、「プレイヤーを楽しませる」という部分が大きなモチベーションになってる。

将来ゲーム業界を目指す人であれば、「ゲームでプレイヤーを楽しませる」ことに何の異論もないだろうけど、こっちはカードゲームとかボードゲームもやってるから「非電源ゲームじゃいけないのかな?」というギモンが頭をもたげた次第。

つまりはそう思うくらい、狙った効果を人工ナントカさんにやってもらうには、実にきめ細やかな「下ごしらえ」がいるんだな。今ゲームを楽しんでる人であれば、池上ナニカばりに「そうだったのか!」のオンパレードだと思う。

むかーしのゲームファン視点で言うと、本の中であからさまには触れられてないけど、人工アレが初めて搭載された画期的ゲームソフト! 『ドラクエIV』を思い出す。

ゲーム雑誌を開けばそう書いてあったから、当時はソウナンダーと思ってプレーしてたんだけど、やはり初挑戦の作品には色々な悩みも生じるらしく、僧侶系のキャラクター「クリフト」が「イマジャナイ」というタイミングで回復魔法を連発( ´ ▽ ` )ノ

その「種明かし」がこの『ゲームから考える人工知能』に書いてあって、そうかー、それでクリフトはあんな感じだったんだなー、作った人は大変だったなーとシミジミする。

もっとハッキリ、「ハハーン、これは◯◯のことだな」と察しが付くものもあり、刑事コロンボ感覚で「マジシャンのトリック大公開」な感じが面白かった。

一方で「人工アレ」という観点からすると、大切なことは「人間が人工アレをどう思うか」じゃなくて、「人工アレが人間をどう思うか」が大切みたい。

この本を読んでから道を歩いていて思ったんだけど、ビルと看板の隙間も、自分には「通れる」=「道」として意識できるけど、これがアレさんには超ムズカシイことの様子。

アレさんに動作してもらうためには「ここは道ですよ」「ここは池ですよ」というのをマップ上に設定して、それをアレさんに数値として教えてあげなくてはいけない。

なんだなー、人工アレって大したことないなーとガッカリする人もいるかもしれないけど、ひるがえって、「なんで自分には『ここは歩ける』と思えるのだろう?」というギモンが生じる。

ちょっと前にWheelchairのことを調べて分かったんだけど、「歩くならOK」な道でも「車輪」ではメチャ大変ということを痛感。

旅行好きな方が大きなスーツケースをガラガラ下げてる場面に出くわしたことあるけど、「目の不自由な人向けのタイル」で、そのスーツケースがよろめいたのを見て色々考えさせられた。

ある人にとっては「補助」するものが、「重い+車輪」のあるものだと「出っ張り」にもなり、ふつうに歩いてる時には「まず意識しない」ーー

で、こういうのをものすごく限定された範囲で実践〜導入していくのが人工アレなんだ、ということを実感。

「ゲームから考える」というのも、そういう「分野を思い切り限定することで、少しは分かりやすくしよう」という心遣いだったんだな。

人工アレはビジネスとかの面で言われることが多いけど、ビジネスの種類なんてそれこそ数えきれないものがある。その全部に「適用可能」な人工アレなんてのは、とってもじゃないけど現実的でない。

ただ一つ人工アレをやると面白いと思うのは、「自分が普段やってることが、当たり前でない」と気がつく面白さだろう。

尊敬する佐野史郎さんが、俳優とか役者の面白さは何か、という質問に対して「自分の身体がどう動いてるかよくわかる」と答えてらしたのを思い出す。

フツーだったら「違う人格になりきれる」とか、「演劇はギリシャ時代から続く古いもので」なんて答えかなと思うんだけど、「自分の身体」の「動き」という視点にはまずビックリ。

実際、役者として舞台に立つと、「手が邪魔だ」と感じるそうな。「手持ち無沙汰」なんて良いことばがあるけど、舞台に立つと、「手をどうしておくのがいいかわからなくなる」そうな。ナルホド!

人工アレも、きっとそういうものすごく地味なところに大きな発見と面白さがあるジャンルなんだろう。今回、はじめて三宅陽一郎さんの文業に触れたから、今後は三宅さんの方を追っかけることで人工アレについても考えて見たい(^∇^)


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by ulyssesjoycean | 2018-04-22 12:00 | ピコピコ武者修行 | Comments(0)

ヴェーバーさんは「価値観」について述べてはくれなかったけど、それなりに面白かったです「社会科学」(^∇^)

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(まずタイトルが長いよ!と嘆息したマックス・ヴェーバーさんの社会科学本。『プロテスタンティズムと〜』以外では初めてまともに向き合ったヴェーバー本になったなー。『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』は岩波文庫から税込1,015円にて発売中)

「価値観」とはなんぞや?というところからスタートしたヴェーバーさん。ところがイザ現物にあたってみると、「価値観で判断する領域と、社会科学が学問として扱う領域は違うよ」というのが主眼になっていた。

当初の予定とアテが外れたけれども、なるほどと納得する面も多かった。「農業の利害」という例なんか面白かったなー。

「農業の利害」と一言で済むような言葉でも、「農地の所有者」「農地で働く人」「農地を新しく所有したい人」「小分けの農地をまとめたい人」「祖先から受け継いだ土地を守りたい人」などなど、いくらでも関係者が出てくる。

でも「利害」と言った場合、さっきの関係者全員分の「利害」があって、さらに全員が主張する「利害」がぜんぶ別だ、ということもありうるぞと。

大雑把に言えば、さっきの関係者同士の関係性を明らかにしていくのが学問の役割で、個々人にとって「何を良しとするか」は「信仰」のモンダイだから、そこは科学として扱っちゃいけないよ、ということじゃないかな。

これをケインズばりにメンドクサイヴェーバーさんの文章から読み解くのは骨が折れたけれども(^∇^)、これはこれで「たしかにその通りだ」と思ったんだな。

で、ヴェーバーさん自身言ってるけど、研究した上に、それについて自分が「正しい」と思う方向へ「引っ張って行きたくなる」のが人情だと。そこに気づいてるのがエライなーと。

それで思うんだけど、「自分にとってこれが『良い』『悪い』」という「価値観」はどこからやってくるのかな。

解説とか緒言とか、おまけ部分を読んでったら、「その人の価値観」は、「外の世界から受け取る」ものではなくて、「その人自身が作ってく」ものだそうな。

それで思ったのは、「その人の価値観って、その人の『身体』に由来する」のかな?ということ。

価値観は世界観としてもいいけど、なにかの出来事に出会って、それを直感的に解釈するのは、身体の方なんじゃないかな。

さっき「骨が折れた」という表現使ったけど、自分が受け取った感覚を表現する言葉は、身体的な表現が多いでしょ。良い方で言えば「素晴らしい演奏を聴いて鳥肌が立った」とか、「背筋がゾクゾクッとする」とか。

悪い方でも「吐き気がする」とか「身の毛もよだつ」とか「胃が痛い」など、いくらでも例が出てくる。スッキリわかることを「腑に落ちる」なんて言うし。

前にヴェルフリンさんの建築本を読んだら、「重い石が高いところから落っこちても不思議に思わないのはなぜか。それは私たちの肉体が常に重力を感じているからだ」と書いてあったな。

要は、「疲れたら寝転がりたくなる」のは誰もが知っている。自分の身体を通して重力を知ってるから(立ってる→横になる)、高いところからものが落っこちるのも、ごく自然なことと捉える、云々。

一番感激したのは、「人間は自分の身体を通じて、他のすべての物体を理解する。巨大なゴシック建築に対して賛嘆の念を感じるのは、自分の身体の果てしない延長だと感じるためだ」ーー

まず、そういうことが書いてあって、なるほど!と思ったんだな。ギブソンの「アフォーダンス」理論も、「手でもつ」とか「指で押せそう」とか、そういう身体性を土台にしてるような。

そうすると価値観/世界観も、その人の身体に結びついてるんじゃない?と。食べ物の例で言えば、好き嫌い、美味しい美味しくないは、まさに身体の反応として直感的だけど。

ただこれ、「価値観の源泉は、その人の身体だ」と言っちゃうと、これ、「価値観の一致」なんてあるんかいな、と思っちゃう。

ヒュームさんが言うように、「実はこの世に同じものは一つもない」はずだから、同じ身体を持つ人もいないってことになる(当たり前だけども)。

そうすると価値観も同じものは1つもないってことになるから、むしろ日々コミュニカシオンが何とかなってる方が奇跡的に感じるんだけども。

ピーター・ドラなんとかさんも、「コミュニケーションは、体験の共有を前提にしている」と言ってたけど、それじゃ体験を共有してない人とはコミュニケーションしない方がいいの?なんて。

「価値観」についての資料がぜんぜんないなぁと思ってきたけど、「自分の価値観は自分の身体と同じくらい自然なものだから、ことあらためて意識しない」せいなのかなー。

一方で、体験も価値観も使う言語も違うのに、なぜか「仲良くなる」ことも日々「体験」しているけれども、じゃあアレなんなんだろう。

人工インテリジェンスを研究してると、そういうニンゲンの根本をもっかい考えなくてはいけないそうで、この辺り、その手のケンキューシャに聞いてみた方がいいのかな。

価値観の「ちがい」を調べてくとあんま楽しくなさそうだから、そういう違いを乗り越えて、というより、意識もせずに「仲良くなる」とはなんなのか、を調べた方が健康的な気がする(^∇^)

前々から「仲が良いってナンダ」とは思ってたから。だって年齢から体験から言語も違うのに、なんで?とは思う。ドラなんとかさんの話から言うと、共有してる体験はゼロっぽいんだけどなぁ、なんて。

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by ulyssesjoycean | 2018-04-19 12:00 | Comments(0)

ピコピコ入門、「表終わり」と「裏終わり」のどっち向き⁈

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(ピコピコ用語に出くわす度にOEDを引いてるのではやり切れないので、ついにその手の辞書を購入。数学をやったときにも思ったけど、こうした処理や演算に関わるものは英語で学んだ方が遥かに分かりやすい。Dictionary of Computer and Internet TermsはBarron社から税込1,719円で発売中。改定の頻度もハンパないので、その点だけ気をつけて)

このところピコピコばかりやっていて思うんだけど、入門の仕方が「2つある」気がしてならない。

よく「表終わり」「裏終わり」と言われるけど、あれ、向き不向きが相当あるなー。

「表終わり」は、ピコピコの「目に見える部分」。HTなんとか、滝ドドド書式、そしてイエズス会じゃないJSあたりがザックリ言うと「表終わり」。デザインとかも含むから、見た目全般という感じ。

一方の「裏終わり」は、ピコピコの目に見えない部分。網の世界は基本、「リクエスト」と「応答」で出来てるそうで、そうした信号のやり取りを制御したり、解析したり。

「表終わり」を「注文者側」、「裏終わり」を「受け渡し側」と言ったりもするけど、やることが全然違うのね。

このブログでも「理系・文系」バナシを取り上げてるけど、「理系」「文系」の内容が「どっちも同じくらい自然に出来る」人はマレ。

それと同じように、ピコピコの「表終わり」「裏終わり」も、「どっちも得意な人はマレ」みたい。少なくとも、やってるときの手応えにエライ差がある。

ここまで修行してきてわかったのは、自分の素養は「裏終わり」向きみたい。「裏終わり」の操作をしてはじめて、「楽しい!」という感覚がある。

「裏終わり」はキホン、命令文を直接打ち込んで操作するんだけど、「自分で動かしている」感がすごくある。命令文が間違ってれば「間違ってるよ」と教えてもらえるし、成功するとザーッと処理内容が漏らさず送られてくる。

「表終わり」をやった時は、つねに「なぜそうなるの?」というのがギモンとして残った。見た目を揃えるに当たって、ちゃんと記入したはずが思ったような効果が得られない、しかも「それがどこかわからない」などなど…

普通、ピコピコ学習は「表終わり」をやってから「裏終わり」という手順なんだけど、先に「どっちもやってみる」方が、自分の向き不向きが最初にわかって良いのでは。

というのも、「向いてない」方から先にチャレンジしちゃうと「楽しくない」期間が延々と続くわけだから、自分のように「やらざるを得ない」人を除いて、挫折しちゃう気がするなー。

技術はどれも繋がっているから、最終的にはどっちも分かるようになるんだけど、取っ掛かりレベルで「楽しい」「楽しくない」の差は大きいと思う。

「裏終わり」向きかは、「命令文を直接打ち込む」だけなので、判定がしやすいし(^∇^)  HTなんとか、滝ドドド、JSをやったけど、「命令文打ってファイルを消す」方が自分には明らかに楽しかった。

何より、「行動」と「結果」が網羅されてるのが嬉しかったかなー。Aをやってうまくいかない場合、「打ち間違いじゃない?」と表示されるから、よくみると「あ! ここ間違えてた!」とすぐにわかるし。

で、命令文を打っても通らない場合、「それはピコピコに新しく入れないと動かないよ」と言われるので、命令文を打って、「セット完了!」と言われる。で、最初の命令文を打ち込むと…通った!

しかも通った場合ば、ピコピコさんが実際にやってる操作がザーッと文字列で返ってくるので、「うまくいつたんだ!」というのが視覚的にもよく分かる。

こうしてみると、「表終わり」でヤキモキしてたのは、「なぜそうなるのか」という「途中経過が省かれてる」からだったかも。

途中経過が省かれてるので、実際にやったこととその結果しか表示されない。思うような結果が得られなかった場合、途中経過を「自分で推測する」必要がある。

きっと「前終わり」向きの人はそこを楽しめると思うので、単純に資質的な向き不向きだと思うけど、ピコピコに敬遠する気持ちが大きい人は、先に「命令文の直接打ち込み」を試すと良いのかもしれない。

自分でやってみた結果、「しまった! こっちを先にやれば良かった!」と思ったのが大きいから(^∇^)。何も「表終わり」からスタートしなくていいんだな、と。

それで言うと、自分は「中継点.js」をやってみたいんだけど、これ、先に「中継点.js」をやってから「イエズス会じゃないJS」に戻る方がいいのかも。

普通はJSから中継点.jsに行くそうだけど、やりたくないなぁと思いながらやっても身に付かないから、先に中継点をやった方が「分からないところ」がハッキリして良いかもしれない。

とにかく「受け渡し側」の方がやってみたいこと多いので、まずそっちから攻めてみるかなー。


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by ulyssesjoycean | 2018-04-17 12:30 | ピコピコ武者修行 | Comments(0)

「価値観」って「世界観」のこと? マックス・ヴェーバーさんから辿る「価値観」観

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(「価値観の違い」というのも毎日のように耳にするけど、「価値観」それ自体の研究はあまり活発でないようで、参考資料が少なくてビックリ。でもマックス・ヴェーバーさんがそのヒントっぽいことを言ってるらしいので、ボチボチ調べ中)


だいぶ前に冨山太佳夫さんの『文化と精読』を眺めてたら、valuesは「諸価値」ではない、「価値観」のことだと書いてあって、ナールホドと思わされた。


以来、経済と名のつく本に「諸価値」と出てくると、それを頭の中で「価値観」に変換するようになったけど、その方が内容が頭にスッとおさまる。


アチラの友人と初めて話した際、世のモンダイの大半はコミュニカシオンが原因だと言っていて、オーと思うことがあった。


それから数年を経てみると、コミュニカシオンがモンダイになっちゃうのは、その人の「価値観」にぶつかっちゃうからかな?と。


「◯◯を大事だと思う」「✖️✖️は大事だと思わない」という価値観がまるでないのも困るけれども、モンダイはその柔軟性。


柔軟性というか、「折り合いポイント」を見つけるまで長いよ!と。コミュニカシオンがモンダイになるのは、その辺じゃないんだろうか。


自分のことを考えても、「◯◯は大事だと思う」っていうのが「いつからあるのか」と聞かれても答えられないんだな。


卑近な例で「食べ物の好き嫌い」の話をすると、嫌いで食べられない食べ物を「最初に食べたのはいつか」と言われても、「いつだっけ?」となる。


先日ハードにヘコタレた気分の時、バーバラ・スタフォードを再読してエネルギーを貰ったけど、相変わらず「博物学(Natiral History)」の分野には関心が持てないなぁ、なんて。


ところが「なんで関心が持てないの?」と聞かれても、苦手な食べ物と同じで「理由」が答えられない。なんでって言われてもな、的な。


これは一度「価値観」について調べなくちゃと思ったのはいいけれど、ビックリするくらい参考資料がなくてまずそのことにビックリ。もっとサクサク見つかると思ってたから。


さっきのコミュニカシオンの話みたいなのはやたら見つかるんだけど、「なぜ価値観を持つようになるのか」という禅問答じみた視点のモノは全然みつからない。


何とかそれらしいものとして出会ったのが「価値判断(Value Judgment)」。マックス・ヴェーバーさんが初めて使ったものだとか。


その超小さい手がかりからマックス・ヴェーバーさんをたどってみると、ヴェーバーさん、「価値判断」とも言うけれど、「世界観」をより高い頻度で使ってる。


ヴェーバーさんはドイツ語圏の人だから、世界観は「Weltbilt」かな?  だとすると、これ、カント哲学にまで遡るの?


ヴェーバーさん曰く、そういう個人の価値観は信仰と同じものだから、科学の知ったことではないと、そういう議論をされてる。


間口が広くて、誰も反対の余地のない話題ほど、最初は全員一致で進むかと見えるのに、後になるとその「個人の信仰」が抜き差しならなくなって、結果、議論が大紛糾。


そこまではいいんだけど、ヴェーバーさんの書きぶりを見てると、あれ、自分の知りたいのは「価値観そのもの」についてだけど、ヴェーバーさん、そこは書く気ないのかな、と一抹の予感。


だって、「それは科学の扱う領域じゃないよ」ということで、「科学が扱う領域はどっからどこまでか」という話に進んでるんだもの。


最初の目論見だと、心理学に適当な本が2〜3冊あって、それを読めば「価値観はじめてものがたり」の輪郭つかめるだろうと思ったら、アテが外れまくり。


先日読了した『一流の狂気』(評論社)では、「基本的な性格形成は3歳で大枠が固まり、以降は老年期に至るまで殆ど変化しない」と書いてあったけど。


なもんで、価値観はてっきり心理学の領分かと思ったら、あれ、ヴェーバーさんが出てきちゃったぞ、なんて。


ヴェーバーさんは硬派すぎてツイテケネーな印象あったけど、こうして自分のアンテナからスタートすると、幾らか取っ付きやすくはなるかな( ´ ▽ ` )ノ


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by ulyssesjoycean | 2018-04-13 12:00 | Comments(0)

学魔=アントルプルナー?! 高山宏・巽孝之『マニエリスム談義』で意外な発見

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(久々の「一気読み」体験をした高山宏・巽孝之両氏の対談本『マニエリスム談義』。このところコムツカシイ内容に取り組むことが多かっただけに、久々に爽快に読みきった。「語り起こし」というところから、今までとちょっと違う印象も受けた次第。で、その印象をブログにせっせとしたためるという(^o^) 『マニエリスム談義』は彩流社から税抜き1,800円にて発売中)


名作の語り起こし『奇想天外英文学講義』(講談社選書メチエ)の姉妹編の位置づけ、と「あとがき」を読んで得心する『マニエリスム談義』。タカヤマ学のエッセンスがつまった一冊なんだけど、同時に、今回はじめてピーン!と来るものがあった。


常々、タカヤマ学派はなぜかアカデミー外に多い、しかもなぜかビジネスとかピコピコの世界に親和性高いと思ってたけど、今回の語り起こしを眺めてナットク。学魔御大の語り口がまんま「スティーブ・ジョブズ」だ!


歯に衣きせぬ物言い、相手を巻き込むプレゼンテーション、猛烈な闘争心、毀誉褒貶も激しいけれどダイハードなファンも多いーーこれってジョブズに代表される「アントルプルナー」(起業家)そのものじゃないか!と。


大妻女子大の会長含め、なぜかビジネスの世界と相性いいというのは、むしろ当然だったんだな、と非常に腑に落ちるものがあった。アメリカではジョブズとか、起業家のような立場になる人が本をドシドシ世に送ってるんだもの。


ビジネスというと「モノを売る」「新しいサービスを作る」と思いがちだけど、前に人に言われたな、事業というのは「価値観の提案」そのものなんだって。


「こういうのが面白いと思う!」「こう考えてみたらどうだろう!」という価値観が、人によってモノ(プロダクト)になったりコト(サービス)になったり。


それで言うと、タカヤマ御大は「マニエリスムで考えると面白くなる!」という「価値観」をフキューさせてると考えれば、これはまさにアントルプルナーシップ! 


タカヤマ御大のお相手を務めた巽孝之さんは、博識という以上に、非常に落ち着いたビジネスマンの雰囲気もあるけれど(それこそ「士業」のような)、ジョブズよろしく起業家的なアッツイ人には、こうした冷静沈着なお人柄が「コンビ」として最適なんだろう。


ビジネスの世界と親和性高いというので思い出すのは、ビジネスの世界は「明日(未来)」を相手にしてるからなぁ。それを考えたとき、「タカヤマ学」は非常に相性がいいんだと思う。


尊敬する鷲田清一さんは、「ビジネスに使う用語は”Pro”ばっかりだ」と指摘されてる。プロジェクト、プロダクト、プロモーション、何から何まで「前方に傾倒してる(Pro)」のがビジネスだと。


もちろん、明日なにが起こるかを分かってる人はこの世にいないので、大事なのはむしろ「未来に対するスタンスだ」ということになる。


そういう観点からタカヤマ学を眺めると、循環史観(今あることは前にもあったよ)、長大な射程(300年〜500年単位、少なくとも1世紀スパン)がベースになってるから、「前にあったこれが使えるじゃん!」というアプローチがしやすい。


ビジネス方面はナニ渕剛さんがヨーソローと言うように、カタカナ言葉ばっかりだけど、それって結局スパンがめちゃ短い。長くても1年、ヘタすると1日(明日)が時間の射程になってしまう。それはまた仕方ないことでもあるんだけど。


そういうやっさもっさしてる時に、200年とか300年の単位でヒントが貰えるというのは大変大きい。それでうまくいくーーとは行かないのが悲しいけれど(^∇^)、でも「スタンス」を決める点ではメチャ大きい。だってみーんな1年とか1日とかの話をしてるのに、タカヤマ学は短くても1世紀なんだもの。


読了して思ったのは、むしろ、こういう人が「大学に残っている」ということのほうがキセキだな、と感じる次第。だってフツーに考えたらジョブズとか、もしくは映画のプロデューサー的な人材が、「大学」にいるんだから。


「このやり方で研究はできない」とはよく言われるんだけど、「大学」とか「研究」って、いつから「今の制度」に落ち着いたのかな?ということが気になり始める。大学はヨーロッパのお坊さんの集まりだから、「神学」がすべての基本とは聞いてるんだけど。


前にチラッと聞いたのでは、大学に「文学」という科目が加えられる時も大論争になったらしい。それも20世紀のことだかで。


それまで「文学」というのはBelle Lettres、「古典」を対象にしてたから、やるものといえばギリシャ語とラテン語。そこに「英語」なんてものを使った「英文学」を正式の科目に加えるなんて、というのでケンブリッジで大論争になったとか。


先日、ピーター・ドラなんとかさんを読んでたら、「公共機関に成果や効率を求めるのは間違っている。株式会社の成果は『利益』であるが、公共機関の成果は『予算の獲得』である」なんて。


なるほどなぁ、と思ったんだけど、そうすると「予算の獲得」と「大学の研究方法」は一致してなきゃいけないだろうから、そのあたりから考え直す必要があるな、と。だってオックスフォードもケンブリッジも、日本の大学のシステムも、「はじめてものがたりー」について知らないことだらけ。


そっから解きほぐしていくと、なんでタカヤマ御大がアントルプルナーじゃなくて大学人として活動して来られたのかとか、ヒントがあるんじゃないかなー。


そういう○グタンばりに「はじめてものがたりー」を探求する姿勢こそ、タカヤマ学から教わったことなんだけれども。こっちもナットクしかねるピコピコや経済用語に出会うと、まずOEDを引く週間が身についているものなぁ。



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by ulyssesjoycean | 2018-04-12 22:00 | Comments(0)

チョムスキーさんの「生成文法」は、むしろ理論派の語学向き?

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(近年は張本ナニオさんばりに「喝!」を入れる方で有名なチョムスキーさん。むかーし言語学に本腰を入れたとき、全く共感できなかったこの人の「生成文法」という考え方。爾来幾星霜、というわけで、「理系・文系」ケンキューの一環であらためて関心を持つことに)

「理系・文系」とは何か、なんていう頼まれてもいないケンキューをせっせと進めるうちに、言語学者のノーム・チョムスキーさんの仕事を思い出す。

このところ、何かと言えば「語学」について考えさせられることが多いので、「語学人的じゃない語学のやり方」はないもんかなーと試行錯誤。

「理系・文系」ケンキューを進めていくうちに一つわかったのは、「自分に合ってない学習法に出会うと、人はそれを『間違っている』と捉える」傾向にあるようだ、ということ。

「仮定法過去完了」なんて「自然科学」には殆ど使われない、「だから」役に立たない、みたいな。

これ、幾らでもバリエーションが可能で、「仮定法過去完了」をXに、「自然科学」をYとvariableに設定すると、理系文系の分け隔てなく使える便利な構造。

Xに「微分積分」を、Yに「外国語の会話」を代入してやるとアラ不思議、文章の構造は一緒だけど、今度は文系サイドからの苦言になった!

XとYはそれこそ何でもいいと分かったので、そっから導き出されることは、「自分に合ってるものは『正しい』、自分に合ってないものは『間違ってる』」と捉えちゃうんだなー、ということ。

そうすると具体的な対策として「正しい」「間違ってる」を言っても始まらないんだな、と痛感する。むしろ「正しい」「間違ってる」というのは、「自分に合う」「自分に合わない」と変換した方がいいんだ、なんて。靴のサイズみたいなもんだな(´∀`)

そうすると、あとはどうやって「その人に合う」やり方を模索するか、ってことになる。それでチョムスキーさんが出てくるという。

自分が数学やらピコピコやらをやって最初につまづいたのは、「これ以上細かくできないところまで分割する」という発想。これに馴染むまで時間がかかったし、今も得意でないと思う。

語学人(*自称)的な観点からすると、大事なのは「トータルでの整合性」だと思ってたんじゃないかな。「全体像」「方向性」「80パーセント前後がハッキリしてればそれでよし」みたいな考え方。

今風に言うとトップダウンとかってやつ? 全体像から細部に降りてくるイメージ。

一方で数学とかピコピコやって困ったのは「細部からの積み上げ式」だということ。それまで「トータル」を重視してたニンゲンからすれば、「ディテール」から攻めよう、と言われるのがツライのなんの。

最近もピコピコで「自動化」とか「マイツール」と聞くので、導入しようかなと思うんだけど、この「自分が普段やってることを、ワザワザ細分化することがメンドイ」とどーしても思っちゃう。

これ、たぶん「何をすればいいかわからない」「五里霧中の状態だ」というところからスタートする場合、「細分化」はあんまイヤでない。それこそ推理小説の探偵感覚で、細かいところを積み上げて未解決に挑戦!みたいな。

ところが、さっきの「自動化」とか「マイツール」だと、「もう出来ていること」からスタートするので「メンドクサイ」と思っちゃうんじゃないかな。「もう出来ていることを、なぜ機械言語に書き直すのか」という。

程度の差はあれ、「同じ作業を繰り返す」ことに「メンドクサイ」という感じはあまりない。その時、「頭は使ってないからラクだ」という感覚すらある。

「実際に何かする」ことの方が「ラクチン」で、それを「理論化する」ことの方が「メンドクサイ」というのも、「理系・文系」モンダイの一つかと思うけど、どうだろう( ´ ▽ ` )ノ

これ、さっきの文章の順番を入れ替えるとこうなる:「理論化する」ことの方が「ラクチン」で、それを「実際に何かする」ことの方が「メンドクサイ」。おお、ちゃんと反対の視点になった!

語学に関してイヤダナーと思う人がこんだけ多いのも、さっきみたいな発想の「合う/合わない」があるのではと。片方はトータル重視、片方はディテール重視。

トータル重視な語学のやり方は山のようにあるので、「ディテール重視」な人がやりやすい語学ってないもんか、と。

チョムスキーさんの考え方は、人間には生成文法というものが生得的に備わっていて、発育成長により、母語に最適化するようスイッチングが行われる、とかとか。うろ覚えで大変申し訳ない。

でもこれ、まずドーンと理論があって、それをスイッチングすると考えると、外国語は例外ばっかりだ!という悩みの人にもアプローチしやすいような。

自然言語が向いてる人は、常に「実例」「実際例」からスタートしちゃうけど、チョムスキーさんのように、「まず理論」からスタートした方がやりやすい人もいるのでは。

それこそ、単語とか発音は一切なしで、まず最低限の理論から法則化する。subject + verb + object、さらにこれをS+V+Oなんて省略すると、アレ、どっかで見たような形。

でもこれ、ここで「実例」を出しちゃうから混乱するんじゃないだろうか。それこそ全部、SとかOとか、「並べ方」を全部やってから初めて実例、という方がいいような。理論が完結するまでは実例一切なし!

チョムスキーさんは、どーもそんなことをやろうとしていた、少なくとも、これと近い発想で言葉にチャレンジした気がするので、なんかしらのヒントになるんじゃないかなー。

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by ulyssesjoycean | 2018-04-09 18:00 | Comments(0)

昔はすべて「オーダーメイド」! それなら服をも自作できるのでは?

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(佐藤亜紀さんの小説に、ヨーロッパ貴族のご夫人が洋服を受け取った際、「お代はいつごろ頂戴できるでしょうか?」と尋ねられて憤死するというビックリエピソードがあった。ヨーロッパの変動期が舞台だったけど、「洋服の値段が払えないかもしれない」という質問は、以前はあり得なかったんだなーと記憶に残った)

大抵のものは「自作」できると気づいた昨今、「洋服も自分で作れないかな?」と考えることに。

というより、「売っている服だと合わない」「欲しいと思う服がない」など、これも現実的な制約から関心がスタートしてるので、その意味ではピコピコと全く一緒。

よくよく考えたら、「既製服」なんてものはなかったわけだし、言ってしまえば「オーダーメイド」だけが唯一のの選択肢だった。それも「自分で作るしかない」という。

森薫さんの『乙嫁語り』を読んでたら、持参品の縫い物一式を年単位の時間をかけて用意するということで、そりゃ「売ってないものは作るしかない」よなぁ、と。

プロのアスリートの体つきなんか見ていると、「服はどうされてるのだろう」と思ってしまう。売ってる服の「S, M, L」では、どー考えても体型にフィットしないだろう。

水泳選手なんか顕著だけど、上半身は筋骨隆々でウエストは細いから、体の部分部分でサイズがぜんぜん違う。

逆転の発想をすれば、「S, M, L」という「共通サイズ」を考えた人は実にスゴイ、ということなんだろう。身長体重骨格が同じ人なんてまずいないのに、とりあえず「S, M, L」で分けちゃったんだから。

それでコストダウンはできたから良かったけど、「体型に合わない」モンダイは解決されたわけではない。「それなら作ってみようか」と考えたのがそもそもの始まり。

オーダーメイドでなんかを仕立てるとなったら、ワーオというお値段になるけど、自分で作ったらその辺はどうにかならないものか。

あとは自分のシュミとして、なーんにも装飾がないのが良いから、そういう装飾を省いた衣服なら、ゴス!なやつより作りやすいのでは?という目論見も。

多分、作れないと思うんだけど(^∇^)。「やってみる」ことはムダでないし、むしろ「やってみない限り、服を作るコストは理解できない」とも思うから。

その辺をちゃんとフォローしたいなー。だってそうしないと、「買う服がない」「買っても体に合わない」「オーダーメイドはワーオ」がグルグルするだけだからなー。

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by ulyssesjoycean | 2018-04-06 18:00 | Comments(0)