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売る物の知識は必要ない⁈ Sales系のスゴイ人たちは「才能がすべて」なのかな?な話🤔「営業のスゴイ人ってどんな感じなんだろう?」という興味が前々からあって、たまーにその手の書籍に目を通す。 その中で知ったJeffrey Gitomerさんとか、あるいはPeter Thielさん(*だったと思う)の本に親しんで、やっぱり売ることってとっても大事なんだな、という当たり前体操。どんなものであっても、売って利益を出さないと活動自体を継続できないから😅 くだんのThielさんもご自身の経験から、どんなに優れたサービスでも販路が見つからないとどうにもならないと感慨(慨嘆)を込めて語っていたし。 で、Salespersonへのキョーミというところから、ご縁あって、立派な服を着てランウェイを歩くのと関係がありそうで全くない名前の本を読んだけれども、読んでビックリ、売り方についての話は山ほど出てくるのに、何を売るかの話については全くと言っていいほど言及がなかった🫢 さすがにここまで何も書いてない以上、意図的にそうしてるんだろうとは思うけど、一周まわって「営業のスゴイ人にとっては、何を売るかはモンダイにならないのかも?」と思い至る。 例えば自分の師匠とも言えるDavid Ogilvyおじさんは、とにかく商品やサービスについて徹底的に調べ、またそれを自分でも使った上で文章を書くようにと噛んで含めるように書いてあった。 Ogilvyさんと同じ仕事に携わる場合、とにかく「売るもの」が大事であって、それは調べたり使ったりしないとわからないよ、そしてその特徴を短い時間で的確に読み取ってもらう文章に仕上げるのはかなりの工夫がいるよ、と。 なるほど!と思って、以来Ogilvyおじさんのやり方を指針にしてきただけに、隣接分野のはずのSalespersonの側で、ぜんぜん商品の話が出てこないことにさすがに面食らったんだな。 でも思い返してみると、くだんのGitomerさんの本にも仕事の仕方は詳しく書いてあったけど、その人が何を売ってるかの話は出てこなかったもんな。GitomerさんのメインフィールドがReal Estateだということも、かなり後になってから知ったわけだし。 だからと言って「Salespersonに売るものの知識は必要ない!」のかというと、そうではないんだろう。むしろ、「売るものについて知識を深める」のは、その道のスゴイ人にとっては当たり前すぎて、ことあらためて説明する必要はないのかもしれない。実際、そう考えた方が納得がいく。 でもここまで書いてきて思うんだけど、売りもののことを調べる、相手のことをよく分かっておくのは大前提としても、やっぱり「スゴイ人にとって何を売るかは関係ないのかもな」と思えてくる。 というのも、Gitomerおじさんの話を聞いててナルホドと思ったんだけど、ニンゲーンがモノを買う時の流れを前後に渡って詳細に観察すると、商品以前に、その商品を扱う人に対して買うことを決めている、という話があった。 だから変な話、売る立場にあるあなたが出ていくよりも、別な人が出てきた方がはるかに影響力があるよ、例えばあなたのお子さん👦👧や愛犬🐶が商談の場に出てきた方がよっぽど成約に結びつくーー云々。 その時は笑って読んでたんだけど、これ、よくよく整理してみると、Salespersonはその人の資質次第で、後天的にその能力を獲得するのは困難なのでは?とも思えてくる。 前にMalcolm Gladwellさんの本を読んでたら、その中にそのものズバリ「セールスマン」という概念が紹介されていて、何かが浸透拡散するためには各段階でキーマンがおり、その役割を知らず知らずに務めている人がいるんだよ、と。 「セールスマン」もその一つで、とにかく交流の幅が広いのが特徴だそうな。例えば「◯◯について知ってる人いないかな」という時、「△△さんに聞いたら紹介してもらえるかもよ? あの人、顔が広いから」と言われるような△△さんが、Gladwellさんの文脈で言う「セールスマン」に当たるそうな。 で、著者のGladwellさんも取材を通じて「セールスマン」(ややこしいことに、その人の職業もSalesman)の人に出会ったわけだけど、話の中身や商品説明よりも、その人の声に対して注意が惹きつけられた、というのが印象的だったな。 つまり、話の中に出てくる商材についてはニュートラルであって、むしろ話してるその人の声に対して自分の感情が同調してくると、なんかそんな話が書いてあった気がする。 もっと掘り下げてほしいなとその時は思ったけど、今回、服を着てランウェイを歩く仕事とはなんの関係もない名前の本を読んで、これはそもそも「言葉にならない」領域なのかもしれない、という気がしてくる。 極論すると、「売る人が全て」であって、売るものは二の次三の次なのかもしれない。だって商品以前に、人に対して購入の意思を固めるわけでしょ。そうなると、いくら優れた商材であっても、売り手がSalesの資質に乏しければちっとも売れないことだってありそう。 変な話、スゴイSalespersonその人にも、何が決め手がよくわからないまま商談がまとまっていく側面があるのかもしれない。だからこそ、八方手を尽くしてなんとか理論化したり仕組みを作り上げようと努力してるのかもなー。 もちろん、そういうスゴイ人たちだってなんの失敗もなかったわけではなく、むしろ失敗やシクジリは数えきれない様子だけど、自分の本質に根差したことだから失敗にも耐えられるんじゃないかな。 ニンゲン、自分の本質に根差したことなら大変でも耐えられるから、営業職は生まれ持った資質で向き不向きが決まってしまうのかもなー。それはたぶん、作り手以上にキビシイ世界なのかもしれない。ぬーん🐷 #
by ulyssesjoycean
| 2024-08-11 12:00
| 駄文
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マクロコスモスとミクロコスモスの話があったが、現代のマクロコスモスは「IT」になるのかな阿部謹也さんの本を久々に読み返していたらーーというより、全著作を読んだつもりでいたけど、「あれ、これ読んだっけ?」という書籍が結構あるみたい。はたた🐷 で、そういう一冊の中にマクロコスモスとミクロコスモスの話が出てくる。大自然、つまり火や水、海や森や川などなど、「ニンゲーンの手に負えないもの」がマクロコスモスで、ニンゲーンの(かろうじて)制御できる範囲がミクロコスモスだと。 ヨーロッパ中世の人々にとっては、マクロコスモス(手に負えないもの)に接している人はフツーでない、異能の人として映ったらしい。また実際、そういう人たちは大自然に接する必要性から、共同体からちょっと外れたところに住んでいたそうな。川っぺりとか森の近くとか。 そうした背景から、その人たちの能力を頼りにする気持ちもあれば、フツーの人間にはできないことをやってるヤベーやつ(急にくだけた表現😅)という恐怖心もあったりして、そこから特定の職業を蔑む気持ちが生まれてきたんだって。 その話を読みながらフームと思ったんだけど、これ、現代ではピコピコがマクロコスモス(手に負えないもの)になるんじゃない? ヨーロッパ中世では川の水位を調整して水車を回す粉挽小屋の職人が、「なくてはならない仕事だが、何やってるかわからない人」という扱いを受けたように、現代ではピコピコに対して「なくてはならないモノだが、何やってるかわからないモノ」に映るんじゃないだろうか。 実際問題、現代でピコピコを全く噛ませないとすると、🚙車もいまや電子制御だから当然アウト。📞電話はもちろん🏦銀行も動かないからお金も扱えない。電気ガス水道といったライフラインもどこかでピコピコを使ってるからそれもナシということになるーー ピコピコを毛嫌いしてる人も実際そんなことは百も承知で、じゃあその嫌悪感は何に由来してるのかなーと深掘りしていくと、やっぱり恐怖心になるんじゃないだろうか。 こっちはもともとピコピコが得意なわけでは全然ないから、まずどーいうのを買うと良いのかというところから始まって、今では多少とも紐を書いて動かすところまで来たけれども、最初はトラブルの原因がなんだかわからなくて困ったもんなー。 困ったというよりは恐怖感と言った方が正しかったと思う。どういう仕組みかわからないからトラブルの原因を推測できないし、原因を推測できないからどう対処して良いかもわからない。正体不明の相手という感覚。 それだけに調べていって「そういう仕組みなんだ」とわかるようになるのは、イコール「恐怖心が減る」ことだった。今思うと、それも学習継続のモチベーションになった気がする。だってやるほどに怖くなくなるんだもの。目に見えてマイナスが減る!という。 そういう自分の心の動きを振り返ってみると、ヨーロッパ中世の人々がマクロコスモスに触れる仕事をしていた人たちに感じていた畏怖と気味の悪さというのも、なんとなく分かる気がするな。 いつも昔の本を読むと思うんだけど、中世では◯◯だったけど、現代では✖️✖️だ、っていう風にスパッと切り分けちゃうのはなんか違う気がするんだな。むしろ中世の◯◯っていうのは、形を変えて現代では△△として受け継がれてるよ、という方がしっくりくる。 だって3万年だか5万年前からニンゲーンという個体自体は変化してないんでしょ。むしろ3万年前とか5万年前に今のニンゲーンの型が定まって、そっからほとんど動いてないそうな。 であれば、中世と言っても500〜1000年前なんだから、変化と言っても誤差レベル。ほとんど現代人と変わらない。でもニンゲーンを取り巻くものが中世と現代では天と地ほどの差があるから、外部環境の方がニンゲーンの考え方を調節してるんじゃないだろうかーー 良い本を読んでると「そこには書いてないけど、こうじゃないのかな」っていう発想が生まれてくるのが面白い。阿部謹也さんはそういう意味で、その人のものの見方を変えるという人文学の目的をやり切った人だと思うから。 ただ今回、おやっと思ったんだけど、阿部謹也さんは中世の人々を扱ってるけど、商人の扱いは割にアッサリしてると気がついた。 蔑視の対象になった人々とか、あるいは当時の思想を担った司祭(兼学者)の話からすると、経済活動を行った人たちに対して同じ比重が割かれてるわけではないんだな。そりゃそうなんだけれども😅 ってことは、阿部謹也さんの視点を持って昔の商人を経済活動に駆り立てたものを追っていくと何か新しい発見があるかもしれないぞ、という予感がしたんだな。 というのも、阿部謹也さんは「人と人との関係」に注目した時に「人-モノ-人」という風に、間にモノが入ることで成り立つ関係があるよ、という話をしてる。 で、チラッとその中に「貨幣も呪術的な力を持っていた」という話が出てくるので、そこに興味を感じるんだな。キリスト教以前のBurialでは、あっちの世界で困らないように、衣服だけじゃなくて金銀財宝も一緒に埋めてたそうだから。 でもこれ、規模は違っても現代まで受け継がれてることを考えると、「貨幣に呪術的な力を感じる」というのは、案外大事なことなんじゃないだろうか。 またそう考えでもしないと、11〜12世紀に「別な国まで行って取引する」ことが割り切れないんだな。だって当時のヨーロッパは、村の外に出れば即マクロコスモス、何が起こるかわからないほど危険に満ちてたわけだから。 そう思うと、経済活動ってのも、数字では割り切れない何かが原動力になってるんじゃないかなぁって。ちょっと前に営業とは!みたいなバリバリのビジネス書を読んで、フシギな気分になってたこともあるし。 たまーにしか更新できなくなったけど、次に書くブログはそんな話になりそうだなー。営業とは!の本を読んだら、面白かったけど、それと同じくらいの??な部分もあったから。で、そのヒントが「貨幣の呪術的価値」にある気がしてならない。今はまだ気がするだけだけれども。 #
by ulyssesjoycean
| 2024-07-13 12:00
| 「文系」と「理系」どっちもガチに取り組ん
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ぶ厚い本が読み終わらないので、もっとぶ厚いLiddell & Scott Greek Lexiconを買ってみました😆ぶ厚い本ってなかなか読み終わらないなー(*当たり前体操)と思ったので、気分転換にもっとぶ厚い本をお迎えしてみた。 というわけで、ギリシャ語の辞典と言えばコレでしょという、Liddell & Scott Greek Lexiconがうちにやってきた。あらためて現物見ると、やっぱデカイなー😄 ピコピコと数学にマジメに取り組み始めたのがいつだったか覚えてないけど、タイミング的には同時期。で、数学やってるとギリシャ語の表記が多いこと多いこと。 *アチラのやたら数学ができる友人と話していて、「なんでギリシャ語をこんなに使うんだろ?」と尋ねたら、「アタマ良く見せたいんでしょ」とスゴイ返事が返ってきたのをいまだに覚えている😅 数学用語を調べるためにOEDを引いて、その度に「ギリシャ語」と出てくるのがやりきれなくなり、仕方がないからギリシャ語の綴りくらいは読めるようになろうというのが、ギリシャ語の事始め。 それがいまやリデルスコットの希英辞典をお迎えするところまできたかーと。でも辞書好きだからこれはもう仕方ない。良い辞書だと聞くと、やっぱ読みたくなるもんね。 特にヨーロッパの古典語をやると、「よくできた辞書」として名前を聞くのが、さっきのリデルスコット希英辞書で、ラテン語方面だとガフィヨの蘿仏辞典。 こっちはラテン語ばっかりだったから、手にするならガフィヨだろうと思ってたんだけど、あまりに前評判を聞いててハードルが上がってたせいか、ガフィヨの蘿仏の現物を拝んだ際、ザラっとした紙質と印刷も相まって「あれ、それほどでもないのでは」と不遜なことを感じ、以来それっきりになってしまった。 ラテン語の辞書も結局、オックスフォードと何処だかの羅英辞典2冊で済ましてるし、ギリシャ語は図書館で調べれば済むくらいの頻度だったから、まあいいやと思ってたんだけど、こうやってデカイ辞書を取り寄せる程度には、内心欲しかったなんだろうな😅 リデルスコットの現物を見たのは随分前だったけど、その時一番ビックリしたのが、これが「19世紀の産物」だということ。初版の年次を見ると、西暦の最初の2桁が18--なんだよね。 相手が古典語だから、別に新しい必要もないんだけど、さすがに19世紀の辞書を今も使っていると思うと、増補改訂されてるとはいえ、果てし無い気持ちにはなったなー。 ラテン語一辺倒でギリシャ語は別に、だったはずなのに、モーリス・バウラ"Early Greek Elegist"とか、ケンブリッジから出た最新のギリシャ語辞典2巻本があったり、ちょこちょこギリシャ語系の著作が増えてきた。 たぶん数学をやらないままだったらラテン語だけだったろうと思うんだけど、ピコピコと数学で論理思考に向きあい、因果なことに案外向いていたらしいから、それでギリシャ語も眺めるようになったんだろう。 実際、やたら数学のできる件の友人に「数学やり直したいんだけど、何かオススメある?」と尋ねたら、ユークリッドか、MITの応用数学の教科書を薦められたものな。 その時はユークリッドはいいよ😅と返事をしたんだけど、ロウブ古典叢書に入ってるEuclidが気になってはいるんだよなー。はたた🐮 #
by ulyssesjoycean
| 2024-06-14 12:00
| 「文系」と「理系」どっちもガチに取り組ん
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タカヤマ本を読んでないけど「この人はタカヤマ学派だ!」と感じる条件ってなんだろう🤔?「学習とは、一見共通したものがないようにみえる事象のあいだを関係づけることといってもいい。」 (R.C.シャンク、渕一博監訳、『考えるコンピュータ』、ダイヤモンド社、1985年) 最近いれこんでるロジャー・C・シャンクさんの本を読んでたら、バーバラ・スタフォード菩薩(もはや菩薩認定😆)や高山宏御大まんまの文章(↑)に出会う。 それで直感的に「この人もタカヤマ学派じゃないか!」と思ったという流れ。シャンクさんが高山宏御大の書籍を読んだ様子はないから(そりゃそうだ)、タカヤマ学派と呼ばわるのは的外れかもしれないけど(そりゃそうだ[2回目])。 ただここまでくると、高山宏さんの書籍を読んだかどうかというより、 ある知的傾向を持つ人に出会うと「タカヤマ学派だ」と感じる と言った方が正確な気がしてきた。 実際、タカヤマ学派だと感じる相手は、高山宏御大のメインフィールドである文学や文化史の外に見つかることが多いから。 *その方が新鮮な印象につながるので、結果、記憶に残りやすいということもあるんだけど なので、その人の取り組んでいる分野ではなくて、その人の「取り組み方」に「タカヤマ学派だ」と感じる特徴があると言った方がいいんだろう。 そうやって思い返すと、建築工学のヘンリ・ペトロスキさん、今回のピコピコ知能を扱うロジャー・C・シャンクさんなんかが、「タカヤマ本を読んだはずはないけどタカヤマ学派だと感じる」特徴を備えているように思う。 じゃあその特徴ってなにかなーと考えてみると、 (1) 特定の分野のプロフェッショナルである (2) 未知の分野にもオープンな好奇心を持っている (3) 「そうせずにはいられない」切実さがある 以上3つが、ひとまずの共通点ではないかなと思う。 くだんのシャンクさんなんか、黎明期の不自由なピコピコでバリバリと紐を書いてきた人だから、まずその時点でピコピコラーとして相当な実力者なことは疑いない。 でもそこから先に、ニンゲーンの言葉にも深い関心を持ち、さらにはシェイクスピアやディケンズなど、昔の文学も読んで知っているあたりがタダモノでない。 裏を返せば、一つのことをやってそれなりの実力に到達すれば、人としてはもう十分だということが言えそう。それだって決して簡単なことではないんだし。全く種類の違う楽器🎹🎸🥁を演奏できる人が少ないのと同じで。 ところがごく稀に、そこに止まってはいられないという人がいるんだな。シャンクさんも多分、ピコピコラーとしての実力は相当なものだけど、そこで限界に突き当たって別な分野への目が開かれた雰囲気がありありと感じられる。 また実際、そういう切実な背景あった上じゃないと、他の分野をちゃんと身につけるのはフツーにタイヘン。建築工学のペトロスキさんも文化史的な知識豊富な人だったけど、やっぱり「工学だけやっていても先に進めない」経験があったんだろうなー。 テツガク関連に関心を持ち始めた時、清水書院のセンチュリーブックスにはたいへんお世話になったけど、あの新書シリーズが良かったのは、書き手がみんなこういう切実な何かからスタートしてたという点。 大正時代に貧農に生まれ、どんな事情があるにしても、あの人はこの村を出ていけるんだということに限りない羨望を感じたーーという人がマルクスに取り組んだなどと言われると、読む側としてもその気合いにあてられるものがある。 で、事情はそれぞれに違うものの、センチュリーブックスの書き手にはこうした切実な何かを抱えてる人が多くて、それでセッセと読み進めていった面はあるなー。 でもいま思い返してみると、それだけ気合を入れて読んだセンチュリーブックスの書き手の中にも「タカヤマ学派だ」と感じることはなかったから、切実さだけでもまた違うんだろう。 やっぱり核になることをやるだけやって、「行き詰まった」経験が大事なのかも。小島寛之さんも、大好きな数学をやるだけやって数学者になるのを諦めた後、経済学を経由して数理哲学に来たみたいだから。 コアになる部分にガッチリ取り組んだ人もいる、色んな分野に好奇心ある人もいる、切実な背景からスタートした人もいる、でも「この3つを兼ね備えている人はなかなかいない」からこそ、ごく稀に見つかると「タカヤマ学派だ!」と嬉しく感じるんじゃないかなー。はたた🐷 #
by ulyssesjoycean
| 2024-05-05 12:00
| 「文系」と「理系」どっちもガチに取り組ん
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Roger C Schankを読んでたらなぜか18世紀の哲学者ディドロを思い出しました😁Roger C Schankさんのピコピコ知能論を読んでるんだけど、18世紀哲学の「元々目が不自由だった人が視力を得た場合、🌍世界をどう認識するのか」と全く同じなのでさすがにビックリ。 18世紀のヨーロッパの哲学は啓蒙主義とか言うけど、要はパッと目の前が明るくなって開けてくるという話。🇫🇷フランス語だとまんまlumière(光)って言うくらいだし。 で、そのことをこれ以上なく端的に表したのが、「それまで目が不自由だった人が、目が見えるようになった」ケース。 新約聖書に出てくるパウロさんの場合、旅の途中で雷に打たれるかして目が見えなくなったエピソードあったけど、その反対に目の不自由な人が視力を回復するという話も昔からあるにはあったらしい。 18世紀くらいになると、各地の好奇心旺盛な人たちが公開書簡で色んなやりとりをしてて、そこで「目が見えるようになった人がいた」という報告例が出てきたんじゃなかったかな。 当時のテツガクシャと言われる人たちがその話に飛びついたのは、「これまで目の不自由な状態で生活してきた人が視力を得た場合、🌍世界をどんな風に認識するのか」が重要なテーマだったかららしい。 冒頭のSchankさんの話に戻ると、ピコピコにニンゲンの言葉を教えようとすると、同じように「🌍世界をどんな風に認識するのか」を教える必要があるみたいなんだな。 例えばgiveという言葉を取り上げてみても、あげるモノがあり、あげる相手がいて、自分自身にモノをあげることはできないとか、ありとあらゆることを考慮しなくてはならなかったそう。 で、giveに限らずある種の行為には「所有権の移動」という性質があるとわかり、その性質をピコピコに伝えることで自然言語の扱いが改善されたーーなんていう話が出てくる。 ピコピコ知能をやる意義は、こういう「ニンゲンにとって当たり前すぎて気づかない、大事な概念の取り扱い」に気づくことのようなんだな。だからこそ「所有権の移動が背後にある!」と気づいた時の喜びは大きかっただろうと思う☺️ ニンゲンの知性ってこうなってるんだ!と知るためには、なーんにも前提知識のないピコピコを相手にしなければいけないというのは、なかなかに感慨深いものがある。 ただ惜しいことに、Schankさんは文学や文化史にも知識ある稀有のピコピコラーだけど、さすがに18世紀哲学の話までは知らなかったみたい(そりゃそうなんだけども😅)。 そんなことを言ってるこっちだって、さーて何に書いてあったかな、というのを思い出すのに久々にThe Blackwell Companion to The Enlightenmentを引っ張り出したくらい😅(Barbara Maria Staffordが寄稿してると知って購入してたやつ) それでDidrotの項目を見てみたら、あったあったありました、Lettre sur les aveuglesの項目が。 ディドロがなんか言ってたな、というのは覚えてたけど、よくよく考えたらディドロの書き物で目を通したものがまるでないことに気づく始末。 むしろ、『運命論者ジャックとその主人』だけは、ロレンス・スターンばりのナンセンス文学だと思ってフランス語の原書を読んだことはあったけど、当時はそれっきりだったな。その頃は哲学それ自体にさしてキョーミがなかったせいもある。 しかしこれでディドロの著作を眺めるようになると、いよいよもって何をやってるかわからなくなるな。シャンクさんの著作に触れたのも、その前にふたつみっちクッションがあった気がするんだけれども😄 はたた🐮 #
by ulyssesjoycean
| 2024-04-21 12:00
| 「文系」と「理系」どっちもガチに取り組ん
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